Ⅰ 目覚め
「……お父さん?」
不意に名前を呼ばれた気がして問い掛けるものの、夢の中のそれは現実を伴わずに消えた。
「お、起きたのか?おはよう」
窓際の椅子に腰掛けて本を読んでいたお兄ちゃんが、目覚めた私に気付いて静かに本を閉じる。
「ん…おはよう、お兄ちゃん」
「今日はいつもより少し早いな…もう一回寝るか?」
私は緩く首を横に振って「いい」とだけ答えると、のろのろとベッドから立ち上がってクローゼットへ向かう。
「もう朝メシ出来てるみたいだから、支度したら食ってこいよ」
「…分かった」
着替えが終わり、食堂へ降りようと部屋のドアノブに手を掛けた時、ふと私はお兄ちゃんに問い掛ける。
「…ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「さっきの夢って…」
すでに起きていたお兄ちゃんとは夢を共有している筈だ。お兄ちゃんは一瞬顔をしかめてから小さく溜息を吐いた。
「…さぁな、夢は夢だろ。ほら、さっさとメシ食ってこい」
とん、と軽く私の背中を押して部屋から追い出すと、ドアを閉める間際、もう一度念を押すようにお兄ちゃんは言った。
「あんなの意味なんてない、ただの夢だ。あんまり気にすんなよ」
ただの夢、か…。
ほとんど覚えていないけれど、何だか疲れる夢だったのは確かだ。
「はぁ……朝ごはん、何だろ」
気持ちを切り替えようと一人小さく呟いた言葉は、清々しい朝日が射し込む無人の廊下に虚しく吸い込まれた。
朝食を済ませて部屋に戻ると、てっきり読書中だと思っていたお兄ちゃんはまだ荷物を整理していた。
「あぁ、おかえり。美味かったか?」
「うん、美味しかったよ」
「そうか。おじさん、うちの嫁は料理上手だって自慢してたしな」
「そうだね」
「少し休んだら荷物チェックしろよ、昼前には出るつもりだから」
「分かった。でも、もうお兄ちゃんが大体やってくれたんでしょ?私がする事なんてほとんど無いと思うけど」
「こら甘えるな。ちゃんと自分で確認しろ」
「はぁい」
うん、いつも通りだ。
私が起きてごはんを食べてる間に、お兄ちゃんは部屋で荷物をまとめ終える。
今日はちょっと夢見が悪かっただけで、それだってうなされた訳でも無いんだから気にする事ない。そう自分を納得させると、私はスプリングを軋ませて仰向けにベッドへ倒れ込んだ。
「どうした?食い過ぎたか?」
くすくすと笑うお兄ちゃんに「違うもん」と否定して、そのままごろりと横向きになる。
「こら、寝るなよ」
「寝ませんー、食休みですー」
「食ってすぐ横になると牛になるぞ」
「あ、それ迷信らしいよ?お兄ちゃん知らないの?」
「まさか、冗談に決まってるだろ。ほら、消化に悪いから向きに気を付けて寝ろよ」
「あはは、お兄ちゃんてば細かいなぁ」
「…ったく、誰のせいだ」
「はいはい、私が悪いんですー、ごめんなさーい」
「微塵も誠意が感じられないな」
「もう、そんな怒んないでよ」
「はぁ…怒ってる訳じゃない、呆れてるだけだ」
「うん、知ってる。お兄ちゃん優しいもんねー」
私はにやにやしながら態勢を変えてお兄ちゃんを見つめる。
そうすると、お兄ちゃんは一層深い溜息を吐いて「降参だ」と言わんばかりに両手を上げた。
「私の勝ちー」
「勝ち負けは関係ないだろ」
「でもお兄ちゃん、私に口喧嘩で勝った事無いじゃん」
「そりゃ手加減してるからな」
「何それー、じゃあ次からは加減無しでいいよ」
「本当に良いのか?後で泣いても知らないぞ?」
「やだ、お兄ちゃんってば私を泣かすつもりなの?」
「お前が大人しく言う事を聞かなければ、それも仕方ないだろうな」
「うわぁ、大人気なーい」
「違うな、お前が子供なんだよ」
「何その理屈ー!」
「真実だろ」
にやり、と口角を上げて笑うお兄ちゃんに、思わず手元にあった枕を投げつける。
けれどそれは呆気無く受け止められて、倍速で私の顔面へと戻ってきた。
「ぶほっ」
「ぷっ…ははは!何だ、今の悲鳴」
お腹を抱えて笑うお兄ちゃんを睨む私は少しだけ涙目だ。
「ちょっとは加減してよ!あと、女の子の顔狙うなんて全く紳士的じゃないわよ!」
「先に顔狙ったのはお前だろ?」
「う…そりゃ、そうだけど…」
正論で指摘された私は、ごにょごにょと言葉を濁す。
「それから、紳士的に振る舞って欲しければ、もっと淑やかさを身に付けるんだな」
「むー……意地悪ー…」
枕に半分顔を埋めて睨んでみるけれど、お兄ちゃんはどこ吹く風だ。
「何とでも言え。ま、俺の勝ちだな」
こんなにあっさり負けてしまうなんて思っていなかったせいか、もう屈辱なんて通り越して尊敬すら覚えてくる。
勝ち誇った様に笑うお兄ちゃんが珍しいのもあったけど、何だか可笑しくなって、私まで笑ってしまった。
その後もう少しお兄ちゃんとお喋りしてから、予定通りお昼前には宿を出て次の街へ向かった。