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05

 空に半分の月が昇る刻限。

やはり今宵も聞こえてくる、ギリギリと小さく鈍い音が。

 雇い主とそのお抱え画家のトマスは、耳に詰め物をして馬車の中でぐっすりと寝込んでいる。

 そうはいかないのが、雇われた人足たち。

 獣や賊の襲撃を警戒する彼らは、そのかすかな音の中心を探し耳をすませる。

 だが、響いたと思えば止む不規則な音色に惑わされるばかりで、見つけることは出来なかった。

 この音が聞こえようと、ここ数日は何もなく過ごせている。

 周辺を一通り回ると、人足たちは頷き合い、最低限の見張りを残し、交代で仮眠をとることにした。

――そしてその最後の見張り番がうとうとしだした頃、活動を始めるものがいた。


「フニャ! フナー?」


 檻の中から、爛々たる双眸。

 その鳴き声は、誰かを呼ぶためのものではなく、誰も反応を返さないかどうかとの確認のため。

 少女の元から、お金と交換に旅だった猫――ネルは馬車の中、端に寄せられた檻の内側から、寝息を立てている商人と画家を観察する。

 二人が熟睡していることを確認したネルは、眼前の檻、その鉄格子に己の肉球を押し付けた。

 そして後ろ足を踏ん張り、両前足を限界まで伸ばした。

 もちろんそんなことで檻から出られるはずもない。

 小さい獣用の檻だが、格子は鉄製。

 上下に棒形の格子を嵌め込む簡単な作りだが、ネルが全力で押した程度で外れるものではない。

だからこれは全くの徒労。長い人生、猫生の中でも、奇跡は起こらないから奇跡というのだ。


――そしてゆっくりと一本の格子がずれ、支えがなくなり重さのまま、下にころんと抜けてしまった。

 えらく簡単に外れたそれは、誰の手にもとどかない高価な奇跡などではない。

 転がった格子の端をよく見れば、ガリガリと細く削れている。

 それは、自然に劣化したわけではなく、当然、ネルが人目を忍んで毎夜、齧り付いた努力の証だ。

 己の所行に満足したネルは、鼻を一つ得意気に鳴らした。

 外の人間には気づかれないよう内側から削り、格子に目が行かないよう、必死に慣れぬ媚も売った。

 その結晶がこれなのだ。

 誰かに見せて自慢をしたかったが、そこをぐっと堪えて、檻の中を見回す。

 皿に残っていた餌の最後の一粒を口に含み味わい、次に隅に閉まっていた木製のプレートを引っ張りだす。

 商人の手によって外されたそれは、ネルが奪い返し、また捨てられぬよう隠したものだ。

 別に大事なものではない。

 木材の切れ端に、下手くそな字が彫ってあるだけのものだ。

 だからここに残しておいても良いのだが、己が与えられたものだ。

 ネルは大してお気に入りでもないそれのくくり紐に頭を通し、首にかける。

 それは、ネルの初めての主人である少女が手に傷をつけながら作った不細工な名札。

――でも、白い猫が生涯貰った初めての名前という贈り物。

 ネルは少女を助けるために自分が売り払われたことを恨みには思っていない。

 あのうざったいくらいに構ってくる少女が、干し肉を与えればネルが何でも頼みごとを聞くと思っている母親が、酔っぱらい、ネルに酒を飲ませようとして叱られていた父親が、疑いたくなるほどに優しい人間だと知っているのだ。

 だからネルは、あの家には二度と帰れない。

 血塗れで川に流れていたネルは、少女に命を救われた。

 だからこれはとても正しい流れなのだ。

 少女の命と交換になったはずのネルがあそこに戻っては、必要のない軋轢を生む。

 別れの挨拶は、病床の少女の心を気遣って告げることは出来なかった。


「フニャー!」


 これは、少女との決別、そして新しい冒険の始まりを示す、猫の一つ鳴き。

 


――格子の間の隙間に、猫は思い切り飛び込む。


――そして顔が挟まった。


「フナッ! ――フミャ、フミャオ!」


 四足を必死にばたつかせて、頭を押し込んでいる猫は、顔の皮が引っ張られて、とても不細工だった。

 それでも、頭が格子を抜ければ、体はするりと抜けるもので。

 ネルは無様な姿を誰にも見られていないことを確認した。


「フニャー!」


 そして仕切りなおした、別れと始まりの合図。

 後方、馬車の出入り口。

 人が通り抜けるためのそれに、大分余裕があるはずの小さな猫は、それでも挟まらないように恐る恐る左右を確かめながら、ゆっくりと通り抜けて行った。

 そして小さな白い影は、森の木々の中に消えていく。

 それが小さな白銀の獣の物語の始まり。


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