04
静かで長い街道を行く馬車が一つ。
その幌の中で小さな檻と向かい合う男がいた。
格子の中の蒼い二つ目は、彫像のように動くことはない。
男の職業は手に持つ筆と木製のパレットで、画家と推測できる。
画家は揺れる馬車の中、器用にも筆を滑らせていった。
その後ろから、身なりの良い中年の男性が声をかけた。
「おお、トマス殿、これはなかなかに見事な。いやはや、これも贈れば、子供達もきっと喜んでくれることでしょう!」
男は床に落ちたここ数日に描かれた絵のうちの一つを手に取り、賞賛の言葉を浴びせる。
「静かに! 集中が途切れます。いいですか、人物画と違い、動物は描き手の都合を考慮してはくれないのですよ! ゆえに一瞬、一瞬に集中力を研ぎ澄ませ、その全てを表現する必要があるのです――ああ、すまないが、そう、その位置でお願いする」
雇い主である男への叱責は本来ならば許されないこと。
だが男は少し眉をひそめただけで、そういうものなのかと納得し、すごすごと馬車の脇に腰を下ろす。
恰幅の良い男は、帝国内で名の通った商人であった。
かと言って、誰もが思うような業突く張りで金にがめつい典型ではない。
商売敵に対する苛烈さはあるが、身内に対して、まして客には情を持って融通をきかせる面を持ち合わせている。
そのように情を持ち合わせる男だからこそ、この珍しい猫を譲ってもらった夫婦に対して罪悪感があった。
もちろん、取引は正当なもの。
夫婦の一人娘が患った病は命にかかわるもので、治す薬は大変高価であった。
お世辞にも裕福な村ではない。
家財をすべて売り払ったとしても到底買えるものではなかった。
そこにつけこんで、男はこの猫を譲り受けたのである。
まあ、お人好しな男のことだ。
たとえ、猫がいなかったとしても、何かしらの理由を付けて援助はしていたのかもしれない。
だが、理由もなく無償で施しをすることをよしとは出来ない。
それは商人の誇りとして最低限守らなねばならない。
だから、一度譲ってくれと頼み、断られている檻の中の猫はうってつけの理由だったのだ。
最も猫自体、数々の動物、騎獣、魔獣を見てきた男も見知らぬ希少な物。
断られた時に一抹惜しく思っていたのは否定出来ない。
事業拡大のための見聞の旅、帝国内にとどまらず、連合国にまで足を伸ばして、揺れる馬車の中で故郷の家族を思う。
この新しい家族に妻や子供達はどんな反応を示すのだろうか。
男はそれを楽しみに相好を崩していた。
旅の供である絵師のトマスは、興が乗ってきたのか、筆を踊らせていく。
気を散らさないよう、息を潜めていたのだが、つい大きな欠伸が漏れてしまった。
それにつられるように、トマスの口からも欠伸が出る。
「おや、トマス殿も寝不足ですかな? いやはや森に入ってから夜遅くに響く、あの不気味な音は何なのでしょうかね?」
トマスは男の言葉に相槌を返さず、描き続ける。
集中しているのならそれで良いかと、男は特に気分を害することもなく、ぼんやりと思考に耽る。
ここ数日続くその音は鉄を擦り合わせたような低い音。それは、獣の歯ぎしりの音にも聞こえた。
かすかな響きでも人を不安にさせ、前を行くもう一台の馬車に乗る護衛も兼ねた人足に、その度、あたりを警戒させている。
だがそのすべてが空振りに終わり、気がついた時には音も止んでいると不思議な夜が続いた。
「しかし、次の街まではまだまだ遠い。毎夜寝不足での旅を続けられるほど、わしの神経は図太くない。今夜から苦肉の策として水で湿らした布を耳に突っ込んで寝るとしましょう」
「ふむ、私の分もお願いできますかね?」
今度は無視されない。
きりの良い所まで終わったのか、トマスは筆を置き、腰を下ろした。
トマスの絵が描き上げられていくのをただ眺めているのも良いのだが、そろそろ話し相手になってもらいたい。
そのきっかけとして、ずっと気になっていることを尋ねる。
「――わしは絵のことは門外漢です。それでも、常にこちらの思惑通りにいかない獣を描くのは難しいというのは想像できます」
だからこそ気になった。
――彫像のように、遠吠えの姿勢を保ったままぴくりとも動かない猫が。
男の言いたいことがわかったのだろう、トマスは出来の悪い、無理解な生徒を持った師の顔で、溜息をつき首をふる。
「ふう、素人はこれだから。いいですか、あなたは不規則に動くモチーフを描くその難しさを理解していない。たとえ描くのが人だとしても、長時間、姿勢を保つことは難しいのです。それをまして、獣であるならば。――もし私が容易く描いているように見えるのであれば、それは私の技量が優れているせいでしょう。誤解させてしまって申し訳ない」
鼻を高くして、ちっとも申し訳なくなさそうにトマスは謝罪する。
確かに、初心者が苦労することを、経験者が涼しい顔でこなしている場面はよく見られる。
画家の言葉に、男はそういうものかとまたしても納得したのだが。
「ああ、すまない。休憩の時間だ。楽にしてくれたまえ」
「フニャア!」
明らかに意思の疎通をこなしている一人と一匹に、首を傾げずにはいられなかった。