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02


 激痛に意識が途切れそうになりながらも、猫の本能が躰を捻らせ、叩き付けられることなく着地する。

 恐る恐る己の躰を確認すれば、産毛がごっそり削り取られ、そこから真っ赤な血肉が顔を出していた。

 悲鳴を上げても意味はない。

 それは分かっているのだが、理不尽な状況に抗議するため、猫は鳴いた。


――返ってきたのは、朱い瞳の猪の無慈悲な追撃。

 平べったい鼻から、押し潰すように体当たりを仕掛けてくる。

 またも猫は空に浮かぶ。

 だが、今度はそのしなやかな四脚で自らも跳び、巨体の威力を殺していた。

 忌々しいと猪が大きな鼻を鳴らす。


「フギャ、フギャ、フニャア!」

 

 何の変哲もない平凡な猫としては猪に狙われる心当りがない。

 誰か他猫との勘違いではないか。

 もしや自分に猪鍋を食したことがあることが原因なのか。

 しかし、あんな臭みが強く不味い肉はそれ以来一度も口を付けていない。

 だから許してくれるべきだ。


 本人、本猫としてもかなり意味不明なことを叫んでおり、まして不味い生き物呼ばわりされた猪はどう思ったのか。


『不快ダ、もう、口を、開く、ナ!』


 赤紫の厚い体毛が整えられることなく伸びている巨体はそれだけで、他者に恐怖を与える。

 それに加え、低い重低音の唸り声は静かな森の、僅かな小鳥のさえずりさえも奪っていく。

 その二つを前にして猫が出来る事など命乞いのみ。

 両前足を天に掲げて、降参する。

 人間にはそれで通じるのかもしれないが、果たして猪にはどうなのか。

 四足の獣はバランスを崩し、後ろに倒れる。

 腹部を無防備に晒しているその姿勢は、犬などが降参を伝える物に偶然、酷似していた。


 ――だからといって、猪にそれが通じるかは別問題。


『駄目、ダ。ここニハ、ひとつ、しか、いられ、ナイ』


 猪は瞳を潤ませ命乞いをする猫を愉しそうに眺めている。


「フニギャ、フニィィ」


 観念したのか、先立つ不幸をお許し下さいと、一体誰に向けてなのかわからない祈りを唱える猫に、とどめをさすべく猪がゆっくりと牙を近づけた。

 猪はその情けない姿が嬉しくて仕方ないらしい。


――そしてそれが命取りになった。

 近づけた牙の横、大きな鼻の穴。

 寝転がった後ろ脚で、猫は地面を蹴り、その穴にそして目に土を放り込む。

 突然、奪われた視界。

 慌て、猪が猫に牙を突きさそうとするが、感触はなく、土を穿っただけ。

 それだけでは終わらない。

 猫は今のうちに逃げることをよしとせず、前に出る。

 暴れる盲目の猪の定まらない攻撃を容易く避けて、その黒い光沢の爪を鼻の穴に刺した。

 口元を緩ませて、そのまま思い切り外側に向かい引き裂く。

 猪の悲鳴、そして怨嗟の怒声が。


「フギャッ、フギャッ!」


 それが極上の音楽であるように猫は耳を澄ませていた。

――所詮、鍋の具材ごときが己に敵うものか。

 猫の高笑いが響いた。

 だが、それもすぐに止む。


――倒れ悶える猪の傍ら、大地から熱を持たぬ淡い紫炎が溢れてきたからだ。

 それは猪にねっとりと纏わりついていく。

 それだけならばただ珍しいですんだのだが、それを取り込んだ猪の躰が一回り大きく膨らんだのだ。

 笑ったままの口からは何も出てこず、動揺から顎が上がらない。

 くるりと踵を返し、すたこらと猫は走った。

 木が密集し、図体の大きい猪が通りづらい場所を選ぶ。


「――ニャガ、ニャガガ!」


 これならば、樹木の枝や根、草が邪魔をし、躰の小さな自分が追いつかれることはない。

 嫌な予感を振り払うよう、猫は速度を上げた。


――猫が去って数十秒の後、膨れ上がった巨体は幽鬼のごとく、ゆっくりと立ち上がった。



 普段の静寂を打ち壊し、森が騒いでいる。

 栗鼠が数匹駆け出し、その後ろを必死に狼が追いかけている。

――そして、なぜかそのまた後ろを鹿が走っていた。

 その隣や後ろ、そして前も似たような光景が広がっていた。

 肉食獣と草食獣の大行進。

 捕食者と非捕食者の関係は無視し、皆が同じ方向に逃げているのだ。

 それらが去った後に、一匹の猫が木を蹴りじたばたと飛び出してきた。

 ほんの少し前までの余裕は欠片もない。

 逃走においての地理的条件は、小柄な猫に有利だったのではないのか。

 本来ならばあの猪の躰は、森の障害に阻まれている。

――だが、鈍く爆発するような轟音がそれを否定した。

 一体何が起こったのか。

 それを理解している猫は振り返り確認することなしに駆け続ける。

 障害であったはずの樹木が半ばから折れ、粉砕される。

 一本、二本、三本と猪は恐るべき突進で草をかき分けるように最短の道を作りながら猫を追い詰めていった。

 さすがに生まれたばかりの猫と、直線のみでいえば爆発的な早さの猪では、逃げ切ることは出来なかった。

 追いつかれるたびに猫は跳ね飛ばされ、それでも己の命を守ろうと必死に何度も這い上がる。

 だがそれもここまで、弱り切った猫の前にあるのは深い谷。

 谷向こうまでは、猫の跳躍でどうにかなる距離ではない。


『タップリ、ト、苦しメ!』 


 猪のトドメの一撃は、やはりただの突進からの牙の突き上げ。

 しかし真っ直ぐなそれを横に躱す体力も、足場も猫には残っていなかった。

 躰から鮮血ほとばしる猫に、唯一残っていたのは、


「――フニヤァァアァ!」


 てめえ、必ず地獄を見せてやるからな、という今際の際の復讐の咆哮だけだった。

 谷底にある激流に、少し大きめの着水音が響いたが、すぐにその川の流れる音に紛れて消えてしまった。



 大型の獣が多く生息し、人が立ち入らぬ森から離れ、人々が利用する水場。

 その川が赤く染まっていた。

 不思議に思い、好奇心から上流を辿っていく。

 川岸にしがみついているそれは、わずかに蒼い燐光を放っている。

 少しの間、その光に見惚れていたのだが、すぐに事態を把握する。

 そしてあたたかく小さな手で、傷つき血を流して冷たくなったそれを胸に抱きしめた。

 己の服が血で汚れるのすら厭わずに少女は走りだす。




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