01
生い茂る木々。
人が立ち入るべきではない、生命力に溢れた樹木に覆われた深い森の最深奥。
そこをゆらゆらと漂うような淡い光の塊が飛んで行く。
目的地があるような、それでいて、ただ意味もなく風に流されているような。
揺らめきながら、時折、人の男の形を作ったように見えるのはただの偶然か。
そして唐突にそれは目標を見つける。
それの行く先に、厳かに光を放つ大樹があった。
枝葉の一つ一つが周りの木々とは比べ物にならないくらいに大きく太い。
人が見たならば、生命の豊かさよりも、ある種の醜悪さを見出すこともあるだろう。
その大樹の枝の先、一蕾の花がまさに今開くところであった。
羽虫が大火に誘き寄せられるよう、それは樹に、そして蕾に吸い寄せられていった。
花弁の色は透き通る白。
咲き誇る花は美しく、異様な大きさを無視できれば、それなりに人を感動させることが出来たのかもしれない。
だがそれは叶わない。
なぜなら、既に花は散ってしまったから。
驚くほどの早さで生命の循環をみせるそれは、既に大きな実を付けていた。
そしてその重さに耐え切れなくなったへたがとうとう千切れる。
それなりの高さから落下していく果実が地面に衝突した。
「フギャッ!」
果実の尻が潰れ、くぐもった悲鳴を上げる。
当然、果実に痛みを感じる脳みそが存在するはずがないので、声を上げたのはその中にいるものだ。
割れた果実の尻から、毛むくじゃらの二本足と、一本の長い尾が突き出ていた。
だが皮が堅いのか上半身を突っ込んだまま、果実ごとそこらを転げまわる。
鳴き声は、次第に憎しみを纏ったものに変わっていく。
己を閉じ込めているのは確かなのだが、母の腹代わりの果実にそこまで腹を立てなくてもよいのではないか。
半身は果実の中、視覚を制限されたそれは、己を束縛する殻を破壊するために勢い良く走りだし――そのまま近くの岩に突っ込んでいった。
重い激突音に、弾ける実と甘い香り。
――そして動かなくなったそれ。
静寂が戻った森。
どれ位の時が経ったのだろうか。
それは幸運なことに、誕生し矢の如く短い一生を終えるようなことはなかった。
砕け散った果実。
ようやく生きていく上で必要な外気を吸えたと、皮の隙間から出た黒色の鼻をすぴすぴ鳴らす。
前足を器用に操り、残りの果実を取り去っていった。
――姿を表したのは丸みを帯びた体躯。
銀に近い白、そして鋼の二色の縞模様で構成された毛並みは、果実の汁で光沢を放つ。
それが鼻に付くのか、赤子らしい大きく蒼い双眸は細められ、髭もぴんと張っていた。
立てられた耳、姿形としては生後数ヶ月の子猫に近い。
だが生まれたばかりという前提があれば、猫にしては少々大きすぎる。
身震いし、まだ残る果実の汁と臭いをぬぐい去ろうとしているのだが、一向になくならない。
低く唸り、不快を表現しているそれの耳がぴくんと反応する。
それは本当にかすかな水の流れる音。
近くに川でもあるのだろうか。
余程、果実の臭いが嫌だったのだろう。
それは飛ぶように森を駆けて行く。
歩くのも一苦労な高く生い茂った草を物ともせず、低く邪魔な木の枝をするりと抜けて。
そう長くかからず、小さな川を見つけた。
流れる水は支流の一つなのだろう。
先細っていき、ちょうどそこで貯まり、池になっていた。
深さも確かめず、それは池に飛び込む。
水飛沫を上げて以降、しばらくは何も浮かんでこなかった。
水面に気泡が徐々に現れて、それが大きくなって最後に藻掻くようにそれが浮かんできた。
溺れかけていたそれは、多少、動転しているようにも見える。
必死に池から這い出し、新鮮な空気を吸い込む。
そして濡れた身体を乾かすため、身震いをした後、池を覗きこんだ。
水面に写り込んだ愛らしい猫に似た顔と見つめ合う。
次に肉球がついている両前足で確かめるように己の顔を挟み込んで触る。
当然、四足の獣にその体勢が維持できるはずもなく、後ろに転がってしまった。
『――フギャァァァァ!』
どことなく可愛らしい叫声が森に響いた。
●
それ――その猫のような生き物は生まれて初めて、水鏡に己の姿を写し見る。
そして水の深さと己の体躯を比較し、これは溺れても仕方がないと納得した。
だが腑に落ちない。
――なぜ己は、この深さの池に入っても溺れないなどと勘違いしていたのだろう。
それになぜ先程、己の姿にあそこまで驚いていたのだろうか。
納得できる答えを探そうと、頭の中であれやこれやと試行錯誤する。
だが、具体的な回答に近づいていくと靄がかかったようにそれが遠ざかる感覚を覚えた。
「フギャ!」
己を励ますように一鳴き。
――自分は生まれたばかりなのだ。ならば判斷がつかない事があっても不思議ではない。
そう、毛並みや顔の作り、どれをとっても立派な猫らしい姿ではないか。
劣等感のようなもやもやを感じる必要などないと、猫は己を納得させる。
『なぜ、生まれたばかりで文字通り右も左も分からない彼が、己が生まれたばかりで、まして猫という生き物に近いなどと自覚しているのか』といった些細な疑問は特に抱かないようだった。
短慮なのは赤子だからなのか、それとも生来のそれの性質か。
意気揚々と鼻を鳴らし、池を背に足を踏み出したのであった。
――だけども、数歩進んで歩みが止まる。
猫はそこで初めて己のいる場所に気付いた。
人の手が入っていない鬱蒼とした大森林。
険しい森の中にいる先住人たちの姿を想像するが、あまり可愛らしい生き物はいないように思える。
遠く、でも危険とは無縁であるとはいえない、それ程の距離で獣の鳴き声が聞こえた。
顎に前足を当て、自分が生態系のどの辺りにいるかを考える。
厳しい弱肉強食の自然において、愛玩動物上等な自分はかなり下位にいるのでは。
なぜか生まれた時より持ちえている知識でそれを悟り、毛皮で暖かいはずの背筋が寒くなる。
――早く危険な森を出て、人がいる場所に行き保護してもらうしかない。
およそ野生動物が考えるには間違っている目標を立てて、再び走りだす。
やはり、歩みはすぐに止まる。
そもそも、どちらに行けば森から出られるのだろうか。
人工的な道は当然無く、獣道が存在するのかもしれないが、猫にはそれを見つけられない。
訊ねても、答えてくれる猫科の同族もいない。
いたとしてもこの猫の複雑な問に答えられるほどに賢くはないだろう。
救いの手、もしくは前足が差し伸べられることを期待してはいけなかった。
だけど不安な心持ちの猫が、それを望むのは決して悪いことではない。
二つの大木の間の草むら、葉が揺れる音がする。
恐れ半分、残りは希望。
草の中から現れたのは、猫が知る標準的なものより、倍以上ある猪だった。
猪は雑食。
本来であれば、一目散に逃げ出すべきなのだが、猪の朱い瞳に宿る知性を猫は感じ取った。
それは恐らく自分に極めて近いもの。
種族は違うが、話が通じると確信する。
もっとも四足の獣の意思疎通に言葉は必要ないのだが。
そして猫はこの現状から助けてもらうべく、猪に下に駆け出したのだった。
――そうして近寄ってきた猫を猪の異常に発達した牙が突き上げ、宙を舞う。
『お前ハ、こノ森に、必要、ナイ。血反吐を、吐キ、朽ちテイけ』
皮肉なことに、それは猫が望んだ都合の良いものとはかけ離れていたが、確かに知性ある生き物が放つ言葉であった。
大気を振動させることなく、猫の頭に直接語りかけてくる意思の塊。
この森で初めて猫を襲った危機は、野生の洗礼などという不特定多数に向けられた甘いものではなく、確かに猫に限定して向けられる悪意ある知性だった。