快勝/大勝/鎌倉合戦
「――三浦荒次郎義意、伊勢方大将、伊勢宗瑞を討ち取ったり!!」
声が響く。
その光景を、直に見た者は、呆然自失。
声のみを聞いた者は、立ち尽くし、己が耳を疑い。
そして声の届かなかった前線の伊勢兵たちも、後方の異変に足を止めた。
時が凍てつく。
それを再び動かしたのは、同様に荒次郎の声。
「この戦、我らの勝利だ! 勝鬨をあげよっ!!」
三浦衆の生き残りが、すかさず声をあげた。
その声に、押されるように。伊勢方が逃げ始める。
最初は、夢の中にあるようにゆっくりと。それが、しだいに悲鳴を伴う大潰走へと転じていった。
奇妙な光景だった。
五千近い大軍が、数百ほどの少勢を避けるようにして、我先に逃げていく。
あれほど精妙な動きを見せた伊勢兵たちは、伊勢宗瑞という礎を失い、烏合の衆と化した。
これを見て、荒次郎は即座に三浦衆を集合させた。
化粧坂の守備部隊、百を残し、集まったのは、荒次郎に従っていた突撃部隊の三百五十に、伏兵の丸太衆百六十。
化粧坂の戦いに参加した三浦衆九百のうち、三割ほどが重傷、ないし戦死し、脱落している。突撃部隊など、部隊の体を為していること自体、奇跡に等しい。
荒次郎自身は無傷だ。
だが、惣領として、三浦家が負った傷を笑い飛ばすことはできない。
単純に兵力の損耗だけではない。一族の家長格で不帰の人となった者も多いのだ。
急速な世代交代は、三浦家の経営に非常な支障をきたすことだろう。重臣たちの真っ青になった顔が、今から目に浮かぶ。
疲労も濃い。
八十五人力という怪力。休みを挟みながらとはいえ、何時間も戦闘をつづけているのだ。
しかも、各方面の戦況を受け取り、脳内で戦図を展開させながら。疲れるのも当然と言えた。
しかし、戦はまだ終わっていない。
伊勢宗瑞討ち取り。この事実を戦果として最大限に利用するためには、追撃は必須だ。
むざむざと兵を逃がせば、戦力はそのまま伊勢家の次代に温存される。
そうなれば、相模西部における伊勢家の影響力を削ることは難しくなる。
むろん、調略を行って政治的に敵勢力を削ることは可能だが、これほど大規模な軍を動員した以上、戦果の最大化はほとんど義務のようなものだ。
それに、北相模、津久井城には猪牙ノ助がいる。
津久井城に支障なく援軍を送るためにも、相模川以東は抑えておきたい。
加えて、大船方面で戦う鎌倉公方、足利義明への側面支援。
――そのためには。
荒次郎は即断し、満身創痍の三浦衆に向け、声を張り上げた。
「全軍前進! 深沢まで敵を追う!!」
◆
一方、大船方面。
今川家当主、今川氏親は、伊勢宗瑞討死を、風魔の報告で知った。
――御味方潰走。与力の今川諸将も、これに引きずられて東海道を潰走中。
それを聞いた氏親はしばし、呼吸を止め、それから、かろうじて絞り出すように言った。
「……うそだろ?」
鎌倉勢との戦いは、優勢だった。
数に劣るにも関わらず、今川軍は氏親指揮の下、ひたすら押して来る鎌倉軍を巧妙に受け流し、敵の背を柏尾川に向けさせた。
手を伸ばせば、勝利は見えていた。
いや、いまでも勝利は、今川氏親の目にしっかりと見えている。
だが、輝かしいものに思えていた勝利が、伊勢宗瑞の死を知ってしまった彼には、灰色に見える。
「いかがいたしましょう」
重臣の蒼い顔を見て、氏親は自分が今どんな顔をしているのかを知った。
――叔父御。逝っちまったかよ。
氏親は天を仰いだ。
伊勢宗瑞とともに君臨するはずだった関東の空は、哀しいほどに色を失ってしまっている。
今川氏親はなお、その場で佇んだまま、灰色の天を仰ぎ続け――ふいに、かっと目を見開いた。
「そうか。そうかよ。ここは……関東は、俺様の天じゃねえってことか」
今川氏親は伊勢宗瑞の甥であり、弟子であり、かの奸雄が手ずから理想の君主として育て上げた存在だ。
だから、伊勢宗瑞の望むままに、関東の王に収まるのが当然だと思っていた。
だが、伊勢宗瑞が居なくなった今となっては、それは違うとわかる。
関東の王から、いずれ天下の将軍に。そのような堅実さなど、今川氏親は望んではいない。
「この俺様に相応しいのは、俺様自身の野望は、まっすぐ天下ただひとつ。それ以外にねえ」
氏親は手を天に伸ばし、引き寄せて掴んだ。
瞳には生気がよみがえり、声の端から覇気がこぼれている。
逆境にあって、この英傑は、器量において伊勢宗瑞を――越えた。
「だがよ。この関東で何も奪わずに逃げ帰るわけにはいかねえ……似非公方! いや、叔父御を破った以上、本物扱いしてやる。関東の公方、足利義明よ! てめぇの天運と俺様の天運、どちらが強ぇか、試させてもらうぜっ!!」
言うや、今川氏親は馬を走らせ、前線でなお指揮を続ける鎌倉公方に向けて弓を引き絞り――射た。
風を切り飛ぶ矢は逸れず、曲がらず、まっすぐに鎌倉公方に吸い込まれた。
鎌倉公方の巨体が、馬上から落ちた。
「ちっ、肩かよ」
氏親は舌打ちした。
彼の眼は、矢が鎌倉公方の肩に命中した瞬間をとらえている。
「――だが、これでわかったぜ。鎌倉公方と俺様じゃあ、俺様の天運が上だ」
言い捨てて、今川氏親は撤退を命じた。
劣勢と総大将昏倒による混乱で、鎌倉方は追撃を決断できない。
だが、追手は他にいた。三浦荒次郎率いる三浦衆が、深沢を越える今川軍を待ちかねたように、後方から噛みついてきたのだ。
三浦軍に厳しく迫られ、一時はあわや、という場面があったものの、結局今川軍は逃げ切った。
鎌倉公方負傷の混乱ため、三浦荒次郎は鎌倉軍本隊の支援を受けられず、そのため境川を越えられなかったのだ。
この翌日、鎌倉勢は境川を渡る。
鎌倉公方討伐軍に加わっていた相模中部の領主たちは、我先に荒次郎のもとへと駆けつけた。
◆
江の島道でも、戦況が変わった。
伊勢軍分隊二千を率いる大道寺盛昌、多目六郎は、伊勢宗瑞の死を知り、顔色を変えた。
伊勢宗瑞にきわめて近い御由緒家当主であるふたりにとって、主君の死と、それが引き起こすであろう混乱は、恐怖に値した。
なによりも、今、どうすべきか。
将の混乱は、ゆっくりと、静かに、軍全体に広がっていく。
三浦水軍一千を指揮するエルフの少女、真里谷初音はそれを見逃さなかった。
「うー。おかしいな。船の件では冷静に兵を静めてた敵将が、あわててる」
「よく見えるものですな」
水軍を率いる出口茂忠が、同じように目を凝らしながら言った。
「前とは違う。指揮官まで混乱してる。敵側に、よっぽど深刻なことが起こってる……たぶん、勝ったんだ。主さまたちが!」
目を輝かせながら、エルフの少女は断言する。
それから、ほどなくして撤退を始めた伊勢軍に対し、即座に追撃を命じた。
「みんな! 追って追って追いまくれ! 主さまのために、敵を全員境川に叩き込んでやれっ!」
このときの、真里谷初音の追撃は凄まじく、殿を引き受けた大道寺一門、八郎兵衛率いる隊の生存者は、両手で数えられるほどだった。
さらに、境川渡河を終えた敵軍に対して、初音は渡河突撃を敢行。
そのまま敵を追って追って追いまくり、相模のほぼ中央を流れる相模川まで達したところで、小田原から姿を現した伊豆水軍の存在に気づいて、ようやく引き返した。
締まらないのは猪牙ノ助である。
死を覚悟して出たはいいが、わずか数日で伊勢、鎌倉の、南関東の覇権争いに決着がついてしまったのだ。
小手調べとばかり送ってきた甲斐国守護、武田信虎の小勢を追い払った以外は、本格的な防戦もしていない。
伊勢宗瑞討死の報に接して、あわてて帰国していく武田軍を見て、情けない顔になった猪牙ノ助に対し、丸太衆の若者が「ほら、言ったとおりでしょう?」とばかり笑顔を見せた。
◆
砥上の渡しで鎌倉軍は数日留まり、それから鎌倉に戻った。
逃げた伊勢軍のうち、今川軍を中核とした四千ほどが大庭城に留まり、城を守る構えを見せたため、それ以上攻めきれなかったのだ。
とはいえ、在地領主の支持を失った以上、大庭城は孤城に等しい。なにより、篭もっている今川軍とて、いつまでも相模に留まるわけにはいかない。
――大庭城は放棄される。でなくば、早晩落ちる。
荒次郎はそう見ている。
荒次郎と猪牙ノ助、初音の三人は、三月十五日昼、戦勝に沸く鎌倉の街で合流した。
今回の戦で、荒次郎と初音の武功は比類ない。鎌倉公方、足利義明始め、会う人すべてから手放しの賞賛を浴びて、初音はすっかり調子に乗ってしまった。
「見たか聞いたか大軍師初音さんの活躍! あっれー猪牙ノ助おじいちゃん? 人を今馬謖だのなんだの散々こきおろしておいて、おじいちゃんはなにか活躍しましたかー?」
上機嫌に耳を上下させるエルフの少女を華麗に無視して、猪牙ノ助は荒次郎と向きあい、禿頭をつるりと撫でた。
「いやはや。大言を吐いておいて面目ない」
「いや。猪牙ノ助さんは北相模を押さえてくれた。それで十分以上、役目を果たしてくれている。それに、調略に外交。猪牙ノ助さんが働いてもらうのは、これからだ」
「あれ? 私無視されてる? おーい、おーい。私も居るよ-。大軍師さんだよー」
荒次郎の言葉はもっともだ。
戦はひとまず終わった。今度はその成果を外交に活かす番だ。そうなれば、猪牙ノ助の出番である。
「それは、その通りであるか……しかし、荒次郎くん。ついに勝ったな」
「ああ。勝った。賭けに、と言っていい。きわどい戦いだった。戦略では完全に負けていた。だが、勝った」
この戦いと、それに続く相模中部の領主たちの相次ぐ離反により、伊勢方は戦線を相模川まで退げざるをえない。
だが現状、伊勢家は。伊勢家を継いだであろう伊勢氏綱は、不気味に沈黙している。
エルフの少女も沈黙して地面に“の”の字を書きはじめた。
「あとは、そう。北の情勢次第であるな」
猪牙ノ助の言葉に、荒次郎たちは北の空を見た。
関東大戦にて、鎌倉合戦と並び称されるもうひとつの大戦。川越合戦は、すでに始まっている。
◆用語説明
武田信虎……台詞なし。あれ?
あれ? 私無視されてる?……地の文すらこれを華麗にスルー。




