三方/三様/関東戦線
六月になった。
梅雨曇りの空の下を、猪牙ノ助は駆けまわっている。
三浦家の外交官として、また家の戦略を担う一翼として、六十を過ぎた老躯には、多くの責が負わされている。
国内の国人衆との折衝に、武蔵の扇谷上杉家、上総の真里谷家との交渉、荒次郎や初音とともに三浦家の政戦両略を討議し、合間を見つけては鎌倉街道の拡張工事や六浦新道路のプランをまとめる。
多忙の老人に、ひとつの難題が降ってわいた。
それは猪牙ノ助が江戸城の太田資康に面謁した折のこと。
「御屋形ぁ焦ってる」
荒次郎の義兄である壮年の偉丈夫は、眉をひそめながら言った。
御屋形、とは、太田資康、そして荒次郎の主である扇谷上杉家当主、関東管領上杉朝興のことだ。
「かかっ」
口元に意地の悪い皺を寄せ、猪牙ノ助は笑う。
資康の言わんとするところを、この老人は承知している。
「房総管領殿のご活躍に、ですかな?」
「まさに、そのことよ」
太田資康が破顔した。
荒次郎たちが伊勢宗瑞と死闘を演じている間に、他方面でも情勢は動いている。
なかでも、房総方面の動きは活発だ。
真里谷信保率いる房総管領軍は、安房、上総の主だった国人を糾合すると、下総に乗り込んだ。
下総南部を勢力下に置いているのは、関東八屋形の一角で、古河公方を支持している千葉昌胤だ。
真里谷信保は国境を越え、下総国小弓城を奪取すると、ここで鬼札を切った。
応仁の乱で当主の地位を追われ、武蔵に逃れていた千葉家本流筋の当主、千葉守胤を擁立したのだ。
信保は、房総管領および千葉守胤の名で下総南部に檄を飛ばし、魔術的な手際で千葉家を二分させる。そうして内紛状態に陥った下総を、千葉守胤の支援者面をしながら、悠々と浸食し始めたのだ。
房総管領軍は江戸湾にそって房州街道を北上し、本佐倉城の千葉昌胤を半包囲しながら武蔵との国境、国府台城までをもうかがう様相だ。
そのあいだ、扇谷上杉勢はといえば、山内上杉家とにらみ合いを続け、いまだ武蔵一国すら支配できていない。関東管領の地位につき、それにふさわしい自尊心を持つ上杉朝興が、焦らないはずがない。
「こちらにゃあ山内上杉、荒次郎殿にゃ伊勢と、不倶戴天の敵がいる。真里谷のひとり勝ちは御屋形も承知だったはずだが、こうも圧倒的な差を見せられちゃあな」
厳つい肩をすくめて見せる太田資康に、猪牙ノ助は笑顔を返した。
――まあ、お互い不倶戴天と言うわけでもないであろうがな。
どれほどお互い憎み合っていても、手を組むという状況は現出しうる。
それを理解している猪牙ノ助は、しかしあえて言明を避けた。現状、言っても詮無いことだ。
「やはり、高月城の大石定重が堕ちませぬか」
「おう。堅物で難物よ」
武蔵国高月城の大石氏は、武蔵守護代の家柄だ。
全盛時には武蔵半国を影響下に納める有力国人だったが、永正の乱、そして今回の動乱により、“関東国人”の代表例とも言える武蔵の中小国人衆は好き勝手に旗色を変え、大石氏の威勢は大分に落ちこんでいる。
旧古河公方(足利政氏)寄りで、その点扇谷上杉と共闘する素地はあるのだが、大石定重自身は山内上杉家から離れるつもりは毛頭ないようで、上杉朝興からの再三の誘いをにべもなく断っている。
「あれを懐柔するとすれば、山内上杉との決戦後だ。そりゃあ分かってる。現状大兵を動かす危険も承知よ。しかし御屋形は、どうにも待つのが苦手でな。ことに真里谷が好き勝手に暴れる様を見せれられちゃな」
「ふむ……吾輩どもに何をお望みですかな」
「道露殿よ、意地が悪いぞ。こっちは困ってるんだ。恩に着るし礼もするから早く土産をくれねぇか。江戸に来る前に、あんたぁ神奈川湊に立ち寄ったろ?」
「御承知でしたか」
「道露殿、武蔵に伊勢の忍を寄せ付けなかったのは太田だ。舐めて貰っちゃあ困る」
苦笑する猪牙ノ助に、太田資康は憮然と返した。
「神奈川湊じゃあ奥山を口説いたか」
「かかっ、すべて承知ですな」
切りこんできた資康に、猪牙ノ助は笑って肩をすくめた。
神奈川という川がある。
武蔵西部から江戸湾に向けて流れる川だ。
河口の神奈川湊に奥山氏を置き、山内上杉は古来、ここから産みだされる富を吸い上げていた。
しかし時勢とたび重なる大乱。なにより、伊勢宗瑞の相模侵略により、自身、滅亡の危機を迎えたことで、奥山氏の自家保全を強く意識し始めた。
そこへ、鎌倉公方即位である。しかも伊勢宗瑞のたびたびの攻撃にも、鎌倉はゆるぎない。
猪牙ノ助は鎌倉の万全を見せつけてから、奥山氏を口説いたのだ。
「奥山は転ぶか?」
「領土と神奈川湊における諸利権の安堵。これさえ保証すれば」
「造作もねぇよ。奥山が転べば大石をはじめ、神奈川上流で商いの恩恵を受けてる国人衆を揺さぶれる。大石が落ちれば、北相模に圧力をかけさせてやる。荒次郎殿の望みはそれだろう?」
打って響く応答に、猪牙ノ助は苦笑して頭を下げた。
旧主に父を暗殺され、その後も複雑極まる関東情勢を泳いできた太田資康は、豪放な性格ながら、この手の工作にも頭が回る。
「さすが、道寸公が婿に望まれた方ですな」
「その顔で言われるとこそべえよ。愚鈍だったのが義父の薫陶のおかげで、やっと人並みになれた程度だ」
照れを隠すように、太田資康が口の端をゆがめた。
髭こそ黒々と染めているものの、猪牙ノ助の容姿は三浦道寸と瓜二つだ。
「――しかし荒次郎殿は良くやってる」
気恥かしさを覚えたのか、彼は唐突に話題を変えた。
「嫁御もな、あの化け狐(真里谷信保)の妹だけあって曲者よ。あとは子さえあれば、言うことねえんだがな」
太田資康の言葉に、猪牙ノ助は心中、苦笑を浮かべた。
やることをやっていないのだ。子供が出来るはずがない。
三浦荒次郎と、元男なエルフの少女、真里谷初音。ふたりの関係が今後どのように変わっていくのか、猪牙ノ助はひそかに楽しみにしているのだが。
「かかっ。こればかりは授かりものゆえ」
とりあえず説明の手間を放棄して、猪牙ノ助はぞんざいに誤魔化した。
その後、上杉朝興の硬軟織り交ぜた執拗を極める調略に、大石定重はついに音をあげる。
関東の勢力図は、大きく変わりつつあった。
◆
さて、一方、相模国玉縄城。
本丸御殿の広間では、エルフの少女が教鞭を手に語っていた。
「と、言うわけで、私は敵の策略を見破り、予備戦力に見せかけて伏兵に備えたわけだっ!」
「わー、すごーい」
「奥方さま、軍師様みたいだー」
賞賛しているのは、一族の子供たちだ。
証人として玉縄城に送られて来た者もあれば、城詰の一族衆が手元に呼び寄せた者も混じっている。
真里谷初音はこれらを集めて、将来の政治、軍事の革変に向けた教育と意識改革を行っているのだ。
一族の子弟でも、もう少し成長した者たちは、荒次郎の小姓として実地で教育を施している。
「違うっ。みたいじゃない! 軍師様! 大軍師初音様と呼びなさいっ!」
「ぐんしさまー!」
「だいぐんしはつねさまー」
「……奥方さま?」
と、胃を押さえながら声をかけたのは、佐保田彦四郎。
重臣である父河内守の名代として、三浦家重臣たちの調整役をしながら、小姓たちのまとめ役まで任された男である。
「ちゃうねん」
彦四郎が向ける非難混じりの瞳に、初音が自己弁護する。
「ちゃんと数学も教えてる。補給や衛生管理の重要性も説いてるし、新たな軍制についても、その有用性について、しっかり講義してる……でも、こいつら聞きゃしないんだもん!」
「それで、ご自身の武勲を声高に説かれていたわけですか」
「さ、最初は荒次郎の活躍を話してたんだけど、あるじさまがあんまり賞賛されてるのが羨ましくなって……」
その結果がご覧のあり様である。
「このような時に言え、と道露殿から言伝があるのですが――」
「言わなくていい! どうせ“かかっ、ちょっとおだてられるとすぐ調子に乗りよってこの残念娘が”とかだろ!?」
「すごいですね。一言一句違いません」
「やっぱりだよ! あのじいさん自分がいないときでも的確に人の心を抉ってくるとかひどすぎる! もー!」
両拳を無駄に振りおろしながら、エルフの少女は憤懣やるかたない様子だ。
それを面白い出し物のごとく喜んで見ている一部の子供たちのほうが、よほど大人らしい。
「……で、そういえば胃の腑ジュニアはなんの用でここに?」
「私をその不吉な名で呼ぶのはやめてほしいのですが」
興奮の収まった初音が問うと、佐保田彦四郎は抗議してから答えた。
「御当主が小姓たちに丸太を持たせて、なにやら始めようとしておられます」
「荒次郎ーっ!! お前ナニやろうとしてんだ一般人に丸太持たすなって何度も何度も言ってるだろーっ!」
あわてて駆けていった初音の背中を見やりながら、若き苦労人は肩を落とした。
尊敬はしている。忠誠のささげがいのある主だとも思っている。
しかし、ふたりとも、どこか妙なところで常識から外れている。
つまりは。
「似た者夫婦、ということなのだろうか」
彦四郎はため息をつきながら、遊び始めた子供たちを叱って席につけた。
◆
夏が過ぎる。
房総では、真里谷信保が下総国国府台城を落とし、西関東では上杉朝興が武蔵国鉢形城の山内上杉とにらみ合いながら、武蔵での勢力を大幅に伸ばしている。
そして相模国でも、攻めよせる伊勢宗瑞の軍勢を、鎌倉公方軍は押し返し続ける。開戦から九月に至るまでの半年間、荒次郎はついに伊勢軍を鎌倉の内に攻め入らせなかった。
そして待望の九月、玉縄城。
本丸御殿では、出口冴が勝利の高笑いをあげていた。
◆用語説明
鎌倉街道の拡張工事や六浦新道路のプラン……まだ無理である。
エルフの娘が教鞭……いいとおもいます。
だいぐんしはつねさま……かっこいい。
なにやら始めようとして……丸太衆の野望は潰えないのである。
※お待たせしました。