3、『覚醒者』
入学式から二週間も経てば、クラスメートはいくつかのグループに分かれて過ごすようになっていた。坊主頭の野球部員らのグループや分厚いレンズの眼鏡をかけた男らのオタクグループなどだ。
僕は何故か、『緋女』を研究するインテリ集団に属してしまっていた。おそらく『緋女』の前の席だからそうなってしまったのだろう。休み時間になっては頻繁に千葉や山下に声をかけられた。『緋女』の左隣の席の佳奈もたまに巻き込まれている。
メンバーは僕と佳奈を含めて四人。橘さんの席の前に僕、左隣りに佳奈、後ろの席に千葉、その横で突っ立っているのが山下だ。いつも休み時間はこの構図である。
「なあ川崎氏、何か新しい情報はないのか」
黒縁眼鏡で背の高く細身の、この男が千葉卓郎である。たまたま、橘さんの後ろの席という一番監視しやすい席だったので、このグループのリーダー的存在になった。
新しい情報といえば猫好きなことや『覚醒者』から助けられたことがそれに当たる。しかし、むやみにそれを言うのは気が引けた。
「いや、特にないよ」
僕は「申し訳ない」というような表情を無理矢理つくって言った。
「ふう、川崎氏はもっと意欲的に活動に取り組むべきでありますな」
千葉は黒ぶち眼鏡の奥の細い目をさらに細くした。
「山下氏はどうでありますか」
千葉の隣の坊主頭が山下智弘である。中学時代に空手を習っていたらしく、肩幅が広く胸板が厚い。まさしく体育会系の男だ。
「昨日の昼休み、屋上で飯食ってたぜ」
「そ、それはどんな飯でありますか?」
「アンパンだ。セブンイレブンの」
そんなことを知ってどうするというんだろう、などと思っていると佳奈が口を挟む。
「そういえば、昨日の体育の体力テストのとき、橘さん、すごかったよ」
そこは昼食関係の話じゃないのか。まあどうでもよいが。
何が? と千葉が食いついた。
「足も速いし、握力も。スポーツ万能って感じ」
佳奈は自分のシャープペンを指先でくるくる時計周りに回しながら言った。シャープペンが指先から不意にこぼれ、床に落ちて渇いた音を立てた。
『緋女』はあの『覚醒者』と戦っているのだ。自然と体力がつくのだろう。
「それは、上田氏よりも上、でありますか?」
佳奈が小さく頷く。
「そうでありますか」
佳奈は中学時代、一年生にしてレギュラーを勝ち取ることができたほどの身体能力をもっているので、それを超えるとなると相当な能力だ。
千葉は相手の話を聞きながら自分の腕時計をちらりと見た。
「そろそろ帰ってくるころであります。山下氏は自席へ戻るであります」
山下は扉側最後列の自分の席へ戻った。
程なくして、橘さんが帰ってきた。
「川崎氏、尾行するであります」
三限終わりの休み時間、千葉はこんなことを言い出した。
現在、佳奈や山下はいない。橘さんの席を挟んで僕と千葉が自分の席に座っているだけだ。
「なんで僕が」
「川崎氏が職務怠慢過ぎるからであります」
なるほど、納得の理由だ。だが、簡単に引き下がるわけにはいかない。
「尾行なんて、リスクが高すぎる。殺されたらどうするんだ」
『緋女』の炎が人を焼かない可能性が高いことは理解していたが、それでも確定したわけではない。それに千葉らはそのことを知らないはずだ。
「大丈夫であります。橘氏を信じるであります」
なんだその理由は。
「そんな理由で――」「では放課後、頑張ってくれであります」
千葉の言葉が僕の言葉を遮った。
結局僕は、押し切られて尾行することになってしまった。
教室の清掃を終えて、橘さんの様子を千葉の席で携帯でメールをしている振りをしながらうかがっていると、トイレの清掃を終えた千葉が僕の肩を軽く叩いた。無言の圧力を感じる。
千葉は机の鞄を取って教室から出ていってしまった。やはり、一人で尾行しなければならないのか。
橘さんの左隣りの席の佳奈の鞄はもうない。清掃が終わればさっさとソフトボール部の練習に向かう。ついでに扉側最後列の山下の鞄もない。
教室の生徒が僕を含め、五、六人くらいになったところで橘さんが立ち上がって、鞄を持って教室を出た。
少し、間をあけて僕も出る。
廊下に人は殆どいない。二、三人が固まって談笑しているだけだ。
橘さんが突き当たりで左に曲がったのを確認して、距離を詰める。
壁の陰に身を隠し、その先の階段を覗き込む。橘さんは階段を下りている。僕は橘さんの視界に入らないよう慎重に、橘さんのペースに合わせて一段ずつ下りる。爪先から沈むように足を床につけ、足音を殺す。
上から橘さんが階段を下りきってその先の玄関に歩いていくのを確認してから、階段を下りていく。当然、足音は極力殺す。
一段残して玄関に視線をやる。ちょうど橘さんは靴を履きかえたところだ。
橘さんが玄関の扉を押し開くとほぼ同時に玄関に向かって歩き出す。
見失わないように橘さんに視線を投げながら下駄箱を開き靴を取り出し履きかえる。
外に出ると、橘さんはすでに五十メートルほどさきを歩いていた。
僕は脇に植えられた桜の木の幹に身を隠しながらあとを追う。幸い、足元の柔らかい土が足音を最小限に抑えてくれた。
橘さんが校門を出て右に曲がってから距離を詰める。
やっと学校を出られた。携帯の時計を見ると、教室を出てから三分も経っていないことに気づいた。これほどまでに時間の流れが長く感じられたのは初めてだ。
校門の端から顔だけを出して橘さんの様子を窺う。
少し顔を下に向けて俯きながら歩いている。おそらく、携帯電話の画面かなにかを見ながら歩いているのだろう。
僕は、校門の壁に同化でもするかのように肩をこすりつけながらあとをつけた。
右手にコンビニや酒屋、民家を見ながら橘さんは歩く。左手の太い国道を何台もの自動車が通り過ぎる。
赤信号で橘さんは立ち止まった。僕も五十メートルの距離を置いて立ち止まる。周りに数人の若い男女がいたので、それほど目立たなかったはずだ。
信号が変わり、青になるとまた、橘さんは歩きだした。
青や赤の屋根をした民家を右手に見ながら、十分ほど歩くと交差点に着いた。信号は赤だ。
橘さんは渡らずに右に曲がった。僕も見失わないように早足で追いかけ、右へ曲がった。
――いない。見失ってしまった。
僕は右にコンビニがあるのに気づいた。セブンイレブンだ。
中に入ったのかと思い、セブンイレブンの自動ドアをくぐった。 入ってから気がついた。コンビニの外で待っていた方が尾行がばれる可能性が低い。しかし、入ってしまった手前、すぐ外に出るというのはとりづらい行動だ。
とりあえず、入口左手の雑誌コーナーで週刊誌を立ち読みしながら橘さんがコンビニを出るのを待つことにした。
五ページほど読んだところで橘さんが出ていくのが確認できた。
僕は週刊誌を棚に戻し、急いであとを追ってコンビニを出た。
左右を見渡し、橘さんがどこへ向かったかを見る。しかしその必要はなかった。橘さんはコンビニのごみ箱に寄り掛かってこちらをただ見ていた。
「さっきから、あとつけてたよね」
「いや、僕も帰り道こっちだから」
僕は咄嗟に嘘をついた。この程度の嘘しか思い付かない僕のボキャブラリーの少なさを酷く恨んだ。
「嘘。こないだ見かけたとき、帰り道反対だった」
なんでそんなの知ってるんだ。
僕は黙るしかなかった。
それを見た橘さんはほんの僅かだけ口角を上げた。
「分かりやすい人。尾行とかそういうの、絶対向いてない」
僕は言われて、初めてカマをかけられたことに気がついた。
橘さんは僕の顔を見て、口元に左手を当て肩を揺らしながら笑い声を上げた。そんなにおかしな顔をしていたのだろうか。
「次はもっと上手くやって」
橘さんは、軽くブラブラと左手を振りながら立ち去るために歩を進める。
「ちょっと待って」
僕は思わず、橘さんの空いていた右手を掴んだ。橘さんは眉根を寄せ、口をへの字に結び「放せ」といわんばかりにこちらに不機嫌そうな顔を向けた。
「こないだ助けてもらったお礼をさせてほしい」
これが、今の僕に出来る精一杯のアクションだった。
僕らはコンビニを少し進んだところの茶色い外壁のカフェに入った。橘さんは「嫌だ」と言ったが、僕が奢ると言ったら渋々ついて来てくれた。
僕らは入口から見えない、店の隅っこの席に座った。他の客が好奇の目でこちらを見てくるのがあまりにも堪え難かったからだ。
僕はメニューに一通り目を通した。とりあえずエスプレッソか。
「決まった?」
僕と同じようにメニューに目を通す橘さんにきいた。
「待って」
橘さんは一言そう言うと、メニュー見ながら「うーん」と唸っていた。
僕はメニューを読み直したり、店の中を見渡したり、天井を見上げたりしながら退屈な時間を過ごした。
橘さんは十分ほど経ってから店員を呼ぶためのボタンを押した。
一分経たないうちに髪の短い若い男の店員がきた。アルバイトだろう。
男の店員は橘さんを見るなり幽霊でも見たような怯えた表情を浮かべたが、それでも職務を全うしようと注文を聞いてきた。
「エスプレッソとチーズケーキ」
橘さんはメニューの文字を指差しながら淡々と答えた。
「僕、エスプレッソで」
橘さんのあとに続いて僕も注文した。一瞬、同じ物を頼むな、みたいな冷たい視線を感じたが気にしない。
店員は僕らに注文の確認をとるとそそくさと立ち去ってしまった。
一分ほど、僕らの間に沈黙が流れた。女子高生の、あの芸能人がカッコイイ、みたいな話や食器同士がぶつかり合う金属音がよく聞こえた。
やがて、橘さんが口を開く。
「何か話、あったんじゃないの?」
なんだか橘さんには心の中が全て読まれているような気がした。ただ、正直何を話してよいものか見当がついていない。
「『覚醒者』について、詳しく知りたい」
一番無難であろう質問をした。
橘さんは少し考え込んでから、口を開く。
「わたしもあまり詳しくは知らない。ただ知ってる範囲でなら教えてあげる」
正直、「ウザい」とか言われて断られるかと思った。
小さな足音とともにさっきの若い店員が注文した品を持ってきた。
「お待たせしました」
若い店員がいまいちやる気の感じられない低い声で言うと持っていたソーサーに載ったカップとチーズケーキを丸い机に優しく置いた。
橘さんは右を向いたカップの取っ手を左手で180度向きを変え、それを左手で持ってカップの縁に口を付けた。
「熱っ」
橘さんの肩がビクンと震えた。カップの縁から口を離してソーサーに戻した。そして僕を一睨みした。
橘さんはふぅ、と小さく息を吐き、僕の目をじっと見つめ、小さな口を開く。
「『覚醒者』は、どうして生まれたと思う?」
橘さんの質問に僕は答えられない。僕は質問の答えを知らないし、予想もつかなかったからだ。せいぜい、ウイルスが突然変異したとかそのぐらいしか思いつかない。
橘さんは黙りこくる僕の目から視線を離さない。橘さんは一度結んだ口をまた、小さく開いて言う。
「わたしたち『緋女』から生まれた」
僕には意味が分からなかった。『緋女』から? あの『覚醒者』が?
「ど、どういうこと」
僕は震える口を開いた。橘さんはただ淡々と、冷静に答える。
「『緋女』の力をもとめた馬鹿が『緋女』の血を研究し改造した結果、『覚醒者』が生まれた。ということ」
橘さんは言い終えて、左手でカップを取って少し冷めたエスプレッソに口を付ける。
「ということは、『覚醒者』は『緋女』より後に生まれたってことだよね」
わざわざ確かめることではないと思いながらもそれをしてしまった。
橘さんはチーズケーキの先端の鋭角をフォークで親指大に切り取り、口に運ぶ。甘味を充分に味わった後で僕の目をじっと見据える。
「あなたの考えていることは少し違う」
ちょっと確かめるために聞き返しただけなのに僕が考えたことが分かるのか。
「『緋女』の炎は『覚醒者』を焼く炎とそれ以外を焼く炎の二種類ある。正確には同族と、それ以外だけど」
僕は、『緋女』の全てを焼く炎は『緋女』の意思で焼いたり焼かなかったり出来るのではと考えた。どうやら、そこまで使い勝手のよい炎ではないらしい。
「同族以外を焼く炎は、『緋女』の敵を焼くためにある。同族殺しの炎は、『緋女』の犯罪者とかを焼くためで、本来の目的は『覚醒者』を殺すためのものじゃない」
橘さんはさもなんでもないことかのように話した。しかし、僕にとってそれはなんでもないことではない。
「その気になれば、あなたも焼き殺せる」
そういうことだ。僕に限ったことではないが、常に『緋女』に殺される危険にさらされている。
「それを、わざわざ僕に教えるために、ついて来てくれたのか」
橘さんは何も答えない。ただ、湯気を顔に浴びながらエスプレッソを口に含む。僕はそれを勝手に無言の肯定と捉えることにした。
橘さんは何故僕にそんなことを話した?隠していた方が、万が一、僕やほかの一般の人を殺さなければならない状況になったとき何倍も動きやすい。それに、ますます『緋女』を怖がって誰も近寄らなくなる。僕だってもう関わりたいとは思わなくなった。千葉や山下だって同じように思うはずだ。
橘さんはいつの間にかチーズケーキを平らげていた。エスプレッソも、空になっていた。
「わたし、用事あるから」
橘さんは僕にそう告げると、立ち上がって足早に立ち去ってしまった。
僕は、冷めきったエスプレッソの液面をただ眺めていた。