2、『緋女』
一週間が経った。
あれから、浜田以外の生徒は一人も死んでいない。
しかし、クラスメイトは『緋女』――橘美姫――を避けるようになった。それは僕や佳奈も当然例外ではない。
橘さんは、休み時間になるといつも教室を出てどこかに行って、チャイムが鳴る一分くらい前に帰ってくる。三時間目を終えた今もどこかに行ってしまった。
「昨日、保健室で見かけたよ」
隣の席の佳奈が言った。保健室? どうして?
「知らないよ、そんなの。怪我でもしてるんじゃない?」
僕の質問は適当にあしらわれた。
でも、佳奈の言うことは一理ある。『緋女』だから、『覚醒者』との戦闘で怪我することもあるだろう。
「気になるなら本人に聞けば?」
佳奈は僕の後ろの空席――橘美姫の席――に視線を向けて言った。
「いや、そこまでして知りたいとは思わないよ」
下手に機嫌を損ねればあの世逝きだ。誰が自ら関わるか。
扉の開く音がした。『緋女』が紅い髪を揺らしながら、入ってきた。
入部届けの提出期限が明後日に迫っていたことを放課後帰る直前に思い出した。
うちの高校は、なんらかの部活動に必ず所属しなければならないというくだらない校則があるので、僕もどこかに所属しなければならない。
一番の候補はパソコン部。十数名の幽霊部員がいるらしい。まさに僕の求めていた、擬似帰宅部だ。次点が将棋部。まだよく知らないが、たいした部ではないだろう。
期限ギリギリに提出するのもどうかと思うので、今日のうちにさっさと提出してしまいたい。幸い、パソコン部も将棋部も今日が活動日らしいので、誰かしらいるだろう。
パソコン部の活動場所は、四階の一番西のPCルームだ。
早速向かった。十三段の階段を一段ずつ上る。踊り場のあと、また十三段。
二階。三階。四階まで上がった。
西に伸びる渡り廊下を歩く。四階にある音楽室やら美術室から生徒が談笑する声が聞こえる。
突き当たりを右に曲がるとようやく到着。教室からPCルームまでの道のりが遠いのが、パソコン部の一番の欠点だ。
僕はドアノブに手を掛けようとしたが、扉に貼ってある紙がそれを止めた。
パソコン部は廃部となりました。と書いてある。
は、廃部?
これはさすがに予想外だ。だが、まだ将棋部が残っている。
僕は引き返そうとしたとき、一つ不思議なことに気が付いた。
部屋の明かりが扉の磨りガラスからもれている。廃部になったのなら、放課後に使用されることはないのではないか。
僕は恐る恐る扉を引く。
広さは教室二部屋分くらい。入口右手にあるホワイトボードに対して垂直に長机が三列並べられてあり、その上にPCが置かれている。机一列にPC十台が二列、背を向けて対に並べられている。ホワイトボードの前には先生が使うマザーコンピュータがある。 マザーコンピュータの前に紅い髪の女子が座っている。『緋女』の橘美姫だ。
何をしているんだ?
『緋女』関係のデータを整理しているのだろう、と思った。しかし、それは違ったらしい。
にゃー、と猫のかわいらしい鳴き声が聞こえた。ディスプレイを見る橘さんが笑みを浮かべた。橘さんの笑顔は見たことがない。
猫の動画を見ているのだ、と思った。
橘さんがこっちを向いた。見ていたのがばれた。
橘さんの顔が朱に染まった。マウスを動かす。動画を停止したのだろう。
「な、な、なんでここに?」
それはこっちの台詞だ、とは言えなかった。
「入部届けを提出しに来たんだけど、廃部になってたの知らなかった」
僕は入部届けをひらひらさせながら言った。
橘さんは椅子から下りると、一目散にこちらに歩いてきた。
「秘密。今見たの、全部秘密にして」
橘さんは眉尻を吊り上げて言った。紅い瞳にはうっすら涙が溜まっている。そんなに恥ずかしいことだったのか。
「分かりました。誰にも言いません」
紅い瞳の迫力に圧されて敬語になってしまった。佳奈よりちょっと高い、150センチほどしかないのに『緋女』であることの圧力はすごい。
絶対だからね、と何度も念を押してきた。言う気はないし、別に猫好きがばれてもいいじゃないかと思う。
『緋女』の紅い髪を尻目に部屋を後にした。
入部届けに書いた部活動名に横線を引いて、下に新しく「将棋部」と書き足して将棋部顧問に提出した。顧問の話によると部員が三倍近くに膨れ上がったらしい。パソコン部員が流れこんできたのだろう。
時刻は17時すぎ。外は赤い空がだいぶ闇に侵食されていた。
僕は玄関で靴を履き替え校舎を後にした。
前庭は校門まで五十メートルほど。アスファルトで舗装された幅三メートルほどの地面。脇のむきだしの土には桜のような樹木が間隔を置いて植えられている。雑草はない。
校門を出たところに、黒い人影がうずくまっているのが見えた。うちの制服の女子。黒くみえたのは壁の影になっているからだと思った。否、違った。
本当に黒いのだ。肌が、爪が。紺の制服もこの時はどす黒い闇色に見えた。瞳だけは紅く、爛々と輝いている。ハー、ハー、と苦しそうな息遣い。両手で両肩を強く握りしめている。
「た、たすけ――」
息も絶え絶えの掠れた声。意識はまだ残っているが、それも時間の問題だろう。
紅い瞳がこちらを向いた。
背筋がひどくぞっとした。
――怖い。殺される。逃げろ。逃げろ。逃げなきゃだめだ。
足を動かそうとした。根を張ったように重くて動かない。
彼女の荒かった息遣いが聞こえなくなった。刺すような冷たい風が吹いた。全身が震えた。
彼女が立ち上がった。さきほどとは様子が違いすぎる。瞳は天を見据え、口は不気味に微笑んでおり、端から涎が流れる。
『覚醒』した。
もうだめだ。逃げられない。
カチカチカチ……。
耳元で何か鳴っている。僕の奥歯だ。手の平は汗でぐっしょり濡れている。足は震えてまともに立っていられない。
僕は膝から崩れ落ちた。アスファルトに手をついてうずくまる。
絶望感と恐怖が僕を支配した。涙が止まらない。
走馬灯が見えた気がした。生きた記憶が映像となって脳を駆け巡る。
僕は顔を上げた。
爛々とさせた瞳を僕に向ける『覚醒者』。
腹に激痛が走って、身体が宙に浮いた。腹を思い切り蹴られた。二、三回転げた。
「げほっ、がっ」
息が苦しい。まるで鉄パイプで殴られたような痛さだ。
『覚醒者』が爪を振り上げた。
――死んだ。と思った。
『覚醒者』が爪を振り下ろす間際、校舎の方から飛んできた紅蓮の光が『覚醒者』を吹き飛ばした。
ああ、そうだった。この学校には、彼女がいるんだった。
校舎に視線を向けると、確かに確認できた。紅い髪と瞳。こちらに向かって歩いてくる『緋女』の姿が。
『緋女』の放った炎弾を受けた『覚醒者』の肩は、爆発で服の袖がが引き裂け風に舞い、その中にあった腕は黒い皮膚一枚でかろうじて繋がっている状態だ。今にも取れてボトリと落ちてしまいそうである。
橘さんは僕を庇うために僕の前に立っている。
「警察に連絡して」
橘さんは『覚醒者』を見据えたまま言った。
僕は鞄から携帯を取り出し、ボタンを押す。手が震えて押し間違えそうになった。
携帯を耳に当てると警察の無機質な声が聞こえてきた。
僕が状況を説明すると、「分かりました。すぐに向かいます」と言って切られてしまった。
僕は携帯をポケットにしまった。
不意に爆音が轟いた。橘さんが二発、炎弾を『覚醒者』にぶつけたのだ。
『覚醒者』の右腕は取れて完全になくなってしまった。左腕は炎弾を受けたが焦げ跡がついただけだ。
舞い散る服の破片に紅蓮の炎は点っていない。物を焼くことはないからだ。
『覚醒者』は五メートルほどあいた距離を一気に詰めようと走った。だが、橘さんが飛ばした炎弾五発をもれなく受けて五体のほとんどを吹き飛ばされた。爆風が、あたりを吹きすさぶ。何故か、それはひんやりと冷たかった。おそらく、人に対して熱をもたないのだろう。
残ったのは頭と胴、右足の膝まで。脇腹も深くえぐれ、焼き焦げている。『覚醒者』はこれだけのダメージを受けてもなお生きている。生命力まで強化されるのだ。
僕は吐き気を堪えるので必死だった。
『覚醒者』は這いつくばりながら橘さんに向かっていく。
橘さんの容赦ない紅蓮の炎が『覚醒者』を覆い、柱となって天を衝く。
「 ーーッッ!」
断末魔が耳に痛い。
その断末魔を掻き消すようなサイレンが聞こえてきた。警察がやってきたのだ。 警察はパトカーを校門前に止め、『緋女』に駆け寄り事情を聞きに行く。僕のところにも一人、二十代の若いのが聞きに来た。
家に帰った僕は自室のベッドに横たわってで今日の出来事を反芻していた。
授業を受けた。放課後PCルームで橘さんに会った。帰り『覚醒者』に出会った。それを橘さんが焼き殺した。
冷静になって考えると、『緋女』の炎は物を焼けなかった。爆風は冷たかった。
つまり、『緋女』の炎は物を焼けない。爆風を熱く感じないということは人も焼けない可能性が高いということだ。
では、何故『緋女』を畏れることがある?
僕の希望的観測かもしれない。それでもそれに縋り付きたかった。
僕は深い安堵感とともに夢の世界に落ちた。