1、橘美姫
玄関の扉を開けると、背の低い女の子が立っていた。上田佳奈である。140センチに届かない身長とガラス玉のような大きな瞳からは、とてもじゃないが今日から高校生になったようには見えない。
どうやら呼び鈴を押そうとしていたらしく、右手人差し指はボタンの前にあった。
「いきなり開けるな! びっくりするじゃないか!」
そう言って佳奈は持っていた鞄を僕に叩きつけた。金具の部分がちょうど当たったので結構痛かった。
佳奈の家は僕の家の右隣り。晴れた朝の空みたいな青い外壁の家。小、中学校に行く前、いつもこうやって迎えに来てくれた。だがそれも中学までだと勝手に思っていた。
「急がないと遅刻しちゃうよ」
佳奈は僕の制服の袖をつまみ、二回、軽く引いた。
僕は佳奈に促されるがままに足を出す。
佳奈は僕の二、三歩前をリズミカルに歩く。一歩ごとに外に跳ねた短い茶髪が揺れた。
「カオルさ、部活、どこにするか決めた?」
佳奈は僕の方に顔を向けて言った。
「帰宅部」
なんて僕が言ったら、佳奈は少し驚いた顔をした。
「校則で、部活、必ずやらなきゃいけないの知ってるよね?」
いや、知らない。それ本当?
入学当日からいきなり大きな壁にぶちあたってしまった。しかし、擬似帰宅部はあると思うのであまり深く考えないことにした。
「佳奈は? やっぱりソフト部?」
佳奈は中学時代、バリバリのソフトボール少女だった。受験勉強でしばらく間があいたのに、褐色の肌をしている。おそらく、引退したあとも練習していたのだろう。
「うーん、やっぱりソフトかな。他にできることもないし」
佳奈は口元に手を当てて、白い歯をむきだしにして笑って言った。
部活か。どこに入るか早めに決めないと。
学校の校門には人垣が出来ていた。生徒だけではない。青い制服の警官や銃で武装した軍人までもがいる。何が起きた?
聞くまでもない。『覚醒者』だ。『覚醒者』が学校に現れたのだ。
校舎の窓ガラスが何枚か割られている。これも『覚醒者』の仕業だろう。
窓ガラスは一階と二階のみが割られていたので、『覚醒者』がいるのはおそらく二階だろう。
「きゃあっ」
不意の轟音に佳奈が悲鳴を上げた。二階の窓ガラスが弾け飛び、そこから紅蓮の炎が吹き上がっていた。
一分ほど経って、学校の正面玄関から、人影が現れた。先程の炎のような燃える紅蓮の長い髪。遠くからでも分かる、それと同じ色の大きな双眸。幼いながらも、かわいい部類に入る顔立ち。佳奈と同じ、紺のブレザーとスカート。
コツコツと、ローファーの音を立ててこちらに向かってくる。
彼女に警官と軍人が鋭く敬礼をした。
「お疲れ様です!」
彼女は警官と軍人の声を無視して、
「中のあれ、身元の確認して」
校舎を指さして言った。
「了解」と声を上げて二人は校舎に走って言った。
この赤髪が『緋女』であり、同じ高校の生徒であることは誰の目にも明確だった。
入学式を済ませた僕らは各々割り振られた教室にいた。
全8クラス編成で、腐れ縁の佳奈とは同じクラスだった。あの、『緋女』も同じクラス。同い年だったのか。
教室の扉がいきなり開いた。皆の視線がそちらに向いた。170センチほどの身長と、100キロはありそうなまるい体型の肥えた男だ。頭ははげかかっていて、肌は案外白い。
男は教壇に立ち、細い目で教室を舐めるように見渡した。
「俺が、担任の須藤恭三だ。とりあえず、一人ずつ自己紹介でもしてもらおうかな」
須藤先生が言った。
須藤先生は教室を見回し、「じゃあまずお前から」と窓際の最前列の坊主頭を指さした。
坊主頭は待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、声高らかに自分の名前を言った。
後ろの黒髪が続いて立ち上がる。そして名前を言っては次の人間が続く。
ときどき、ボケが入って失笑が生まれる。
僕は、噛むこともなくその使命を終わらせられた。下手にボケを入れる必要はない。
僕が自分の名前を言い終わって腰を下ろすと同時くらいに後ろの赤髪が立ち上がる。
「……橘美姫」
橘さんは淡々と自分の名前を述べ、腰を下ろし――
橘さんの胸ぐらを隣の席の男が掴んだ。
「てめぇ、人一人殺しておいて、よくそんな涼しい顔してられんな」
男が橘さんより30センチは高い身長から、突き刺さりそうな視線を浴びせる。
橘さんは口を開かない。ただ、男の目を見ているだけだ。
「お前が殺したのはな、俺の、一個上の、先輩だったんだ」
男の湿った声。
橘さんは固く結んだ口を僅かに開いた。
「……だから?」
須藤先生が止めに入るより早く、男の拳が橘さんの左頬を吹き飛ばした。橘さんの身体は男の手を離れ、反対側の隣の佳奈にぶつかった。
佳奈が「大丈夫?」と声をかけたが、橘さんは佳奈を一瞥しただけだった。
橘さんは口を切ったのか、血が出ていた。
男が橘さんの椅子と机を押しのけ、詰め寄る。そして、再び胸ぐらを掴んだ。男は拳を振り上げる。
不意に、誰かが振り上げた男の腕を掴んだ。驚いたことに僕だった。
「てめぇ、何してやがる」
僕が聞きたい。何故止めに入ってしまった?
男は鬼の形相をこちらに向ける。
そこで、「まあまあまあ」と言って須藤先生が間に割って入ってきてくれた。
男は僕を一瞥して席に戻った。
橘さんも口元の血を袖で拭って席につく。
須藤先生は「ではでは次は」と流れをなんとか戻してくれた。
後に、男の名前が浜田雅浩であることを知った。
今日は入学式とプリント等の配布だけ。それが終わるとみんな散り散りに帰っていった。
「カオル、帰ろー」
鞄を持って近付いてきた佳奈が僕の肩をポンポン叩きながら言った。
「あ、うん」
僕は曖昧な返事を返した。
佳奈の後ろに付いて教室を出るとき、何気なく後ろを見ると、浜田と橘さんが何か話しているのが見えた。
「カオル?」
少し離れた所で佳奈が怪訝そうな顔で振り向いた。僕の足が無意識のうちに止まっていたみたいだ。
「あ、ごめん」
僕は早足で駆け寄った。
後になって、すぐに帰るべきではなかったと後悔した。
次の日の朝、教室に入ると浜田の机に高さ20センチほどのガラスの花瓶が乗せられていた。赤い花が一輪、挿されている。花は詳しくないので何の花かは分からないが。
僕は一つの視線に気付いた。橘さんだ。
一瞬目が合うと、橘さんは読んでいた本に目を落としてしまった。
僕は駆け寄り、橘さんの肩を掴んで花を目配せしながら言った。
「橘さん、何か、知ってるんじゃないですか」
何か根拠があったわけではない。ただ、そんな気がしたのだ。
橘さんは僕を紅蓮の瞳で睨みつけ、肩の僕の手を掴んだ。小さな口が開く。
「痛い」
「あ、ごめん」
思わず強く掴んでしまってた。肩から手をすぐに離した。
橘さんはまた本に視線を戻した。
一呼吸して、
「『覚醒』したから燃やした」
橘さんの冷たい声が返ってきた。
横を見ると、佳奈が青白い顔をしていた。僕と同じことを考えたのだろう。
浜田を殴られた腹いせに殺したのではないか、という仮説。『緋女』の炎は人を焼くことができるのでは、という仮説。
自分の回りの空気が真冬の冷たい空気に変わってしまったような感覚に襲われた。
――怖い。
肺に溜まっていた嫌な空気を一気に吐き出す。一旦冷静なるんだ。『緋女』が人を殺せるって? そんな馬鹿なこと、あるわけない。
「普通の人も、『緋女』は、燃やせるの?」
佳奈の血の気のなくなった唇が微かに開いて音を漏らした。それを聞いてどうする?
『緋女』はただ佳奈を一瞥しただけで何も答えなかった。