月桂樹の徽章を掲げる騎士は、悪役令嬢の私を殿下から遠ざけます
メティア様から手紙が届いたのは、朝食のあとでした。
白い封筒には、アステリア侯爵家の星をかたどった封蝋が押されています。
私はそれを見ただけで、嫌な予感がしました。
友人からの手紙に対して、まず嫌な予感を抱くのは失礼です。失礼ですが、ここ最近の私は、王宮の魔道具に関する報せを穏やかな気持ちで受け取ることができなくなっております。
封を切ると、丁寧な文字が並んでいました。
『ネレイス様。
突然のお手紙をお許しください。
月桂樹の徽章について、気になる証言がございました。
近衛の詰所付近で、月桂樹の細工が施された古い徽章を見た者がいるそうです。
本件につきましては、王妃殿下へ正式に報告を上げております。
ただ、王太子宮側で情報の流れが不自然に遅れている気配がございます。
まだ断定はできません。
ですが、場所が場所ですので、念のためネレイス様にもお知らせいたします。
殿下のお近くにいらっしゃる際は、どうかお気をつけください。
私も、分かったことがあればすぐにお知らせします。
メティア・アステリア』
私は手紙を読み終え、しばらく黙りました。
月桂樹。勝利と栄誉を意味する、常緑の葉。
その名だけなら、明るく美しいものに聞こえます。
私は顔を上げ、窓の外を見ました。
よく晴れた朝でした。枝に止まっていた鳥が一羽、ふいに飛び立ちます。
高く、高く。
光の方へ向かうように見えたその鳥は、次の瞬間、風にあおられて姿勢を崩しました。
もちろん、すぐに羽ばたきを取り戻しました。
ただ、それだけのことです。
それだけのことなのに、私は手紙の端を指で押さえたまま、しばらくその空を見ていました。
私は手紙を畳みました。
メティア様は、ただ不安を煽る方ではありません。
断定できないものは断定しない。けれど、見過ごせないものは、見過ごせないままにしない。
そのメティア様が、気配、と書いている。
正式な道を通したはずの報告が、殿下のもとへ届いていないかもしれない。それは、手紙一通で済ませてよい話ではありませんでした。
殿下のお近くにいらっしゃる際は、お気をつけください。
私ではなく、殿下の近く。
つまり今回の魔道具は、私を見つけるのではなく、殿下の方へ向かっているのかもしれません。
それは、それで困ります。
その日の午後、私は王宮へ向かいました。
念のため母にも事情を話すと、母は静かにうなずきました。
「殿下には早めにお伝えなさい。ただし、あなた一人で確かめようとはしないこと」
「……はい」
「間がありましたね」
「気のせいですわ」
たいへん不本意です。
私は王宮宝物庫へ忍び込む予定などありません。そもそも宝物庫には、できることなら一生近づきたくありません。
ただ、魔道具の方がこちらへ近づいてくる場合があるだけです。
そこは、私の責任ではないと思いたいところです。
王宮に着くと、警備の数が以前より増えていました。
冥王の小箱の件以降、宝物庫だけでなく王太子宮の周囲にも近衛が増やされたと聞いております。
正しい判断です。ただし、正しい判断が穏やかな気持ちをもたらすとは限りません。
王太子宮へ続く高回廊に差しかかった時、訓練場の方から短い声が上がりました。
悲鳴ではありません。訓練中の掛け声とも違います。
私は足を止め、声のした方を見ました。
高回廊の外側に掲げられていた王家の金の紋章。その支え金具の一つが外れかけていました。飾りそのものは大きくありません。けれど、高い場所から落ちれば十分に危険です。
その下に、エリオット殿下がいらっしゃいました。
殿下ご自身が避けられない位置ではありません。
けれど、側にいた若い近衛が気づいていない。殿下はその近衛を下がらせようとして、一歩、紋章の影へ踏み込まれました。
その瞬間、燃えるように赤い髪色の女性騎士が動きました。
速い。
そう思う間もありませんでした。
彼女は回廊の欄干に片手をかけ、ほとんど飛ぶように身を乗り出しました。落ちかけた紋章飾りを剣の鞘で受け流し、そのまま壁側へ弾きます。
金属の飾りが石床に落ち、乾いた音を立てました。
近衛たちが殿下に駆け寄ります。
その中に、メティア様の婚約者のアルギス様の姿もありました。
けれど、最初に届いたのは、その女性騎士でした。
「殿下、お怪我は」
「ない」
殿下は短く答え、すぐに彼女を見ました。
「エオリア。腕は」
「問題ございません」
女性騎士は、乱れた息を整えながら礼をしました。
右手の指先が、一瞬だけ震えたように見えました。
「今の判断は早かった」
「近衛として当然のことをしたまでです」
「当然を、当然にできる者ばかりではない」
殿下の声には、確かな評価がありました。
周囲の近衛たちも、彼女を見る目を変えたようでした。
エオリア。その名前を、私は胸の内で繰り返しました。
彼女の襟元には、葉をかたどった小さな金の飾りが見えました。日差しを受けて、まぶしく光っています。
月桂樹かどうかは分かりません。ただの装飾かもしれません。
けれど、メティア様の手紙を読んだあとでは、ただの装飾として見過ごすことができませんでした。
私は声をかけるべきか迷いました。
けれど訓練場には近衛が多く、殿下の周囲も慌ただしいままです。魔道具の可能性がある話を、この場で口にするわけにはいきません。
そう判断して、私は王太子宮の入口へ向かいました。
王太子宮へ続く回廊の手前で、先ほどの女性騎士が私の前に進み出ました。
呼吸も姿勢も整っています。
近衛の制服を隙なく身につけ、礼の角度にも無駄がありません。
「ローヴェル公爵令嬢」
声はよく通り、落ち着いていました。
「王太子殿下付き近衛、エオリア・ヴァルナーと申します」
「先ほどは、お見事でした」
私がそう言うと、エオリア様は静かに頭を下げました。
「恐れ入ります」
謙虚な言葉でした。
けれど、その表情はどこか明るく見えました。
「殿下にお目通りを願いたいのですが」
「恐れ入ります。殿下はただいま、先ほどの件の確認と近衛配置の見直しに入られております。本日のご面会は難しいかと存じます」
「そうですか」
先ほどの騒ぎを見たあとでは、そう言われると強く押しにくいものがあります。
実際、近衛の配置確認は必要でしょう。
けれど。
「では、書状をお預けしてもよろしいでしょうか。殿下に直接お目通しいただきたい内容です」
エオリア様は穏やかに首を横へ振りました。
「恐れ入ります。殿下は現在、公務と警備確認の最中です。私的な書状のお取り次ぎは控えるよう命じられております」
「私的かどうかは、殿下にご判断いただきたいのですが」
「殿下のお手を煩わせる前にお止めするのも、近衛の務めでございます」
丁寧な声でした。丁寧でしたが、扉を閉める音に似ていました。
「内容をお尋ねしても?」
「申し訳ありません。殿下に直接お伝えするべきものです」
ここで手紙の中身を話す気にはなれませんでした。
王宮宝物庫から魔道具が外へ出ている今、信じられる方は、限られています。
「では、アルギス様を呼んでいただけますか」
エオリア様の目が、ほんのわずかに動きました。
「アルギス様、でございますか」
「はい。アルギス・レイヴァン様です」
「……ローヴェル公爵令嬢が、レイヴァン卿をお呼びに?」
「何か問題がございますか」
「いいえ。ただ、殿下にお会いできないとなると、すぐに別の殿方へお声をかけられるのだなと」
廊下の空気が、わずかに動きました。近くにいた近衛の視線がこちらへ向いたのが分かります。
なるほど。これは声量まで計算された言葉です。
「エオリア様」
「はい」
「近衛の方は、警備だけでなく、未婚女性の交友関係までお守りくださるのですね」
エオリア様の微笑みが、少しだけ固まりました。
「誤解を招くのではないかと案じただけでございます」
「では、ご安心ください。誤解を招くような言い方をなさらなければ、誤解は減ります」
今度は、近くにいた近衛の一人が視線を伏せました。たいへん妙な言い方でした。
私はアルギス様を別の殿方として呼んだわけではありません。メティア様の婚約者であり、今回の件で信頼できる近衛として名前を出しただけです。
ですが、それをここで説明するのもためらわれました。
メティア様とアルギス様の関係を、私の口から不用意に持ち出すべきではありません。
「必要があるからです」
「承知いたしました。確認いたします」
エオリア様は一礼しました。
「こちらでお待ちください」
エオリア様は近くにいた若い近衛へ短く指示を出しました。近衛はすぐに訓練場の方へ向かいます。
私は廊下脇へ下がりました。
先ほど殿下を守ったばかりの方です。
少なくとも近衛としての腕と判断は、確かなものなのでしょう。
けれど、それとこの方を信じることは、同じではありません。
しばらくして、アルギス様が姿を見せました。
近衛の制服を身につけ、いつも通り静かな表情です。ただ、私を見る目にはわずかな緊張がありました。
「ローヴェル公爵令嬢。私にご用と伺いました」
「ありがとうございます、アルギス様」
私は鞄から封筒を取り出しました。
「メティア様から手紙が届きました。殿下に直接お渡ししたかったのですが、今は難しいようです。あなたから、殿下にお渡しいただけますか」
アルギス様の表情が、わずかに引き締まりました。
メティア様の名を出した瞬間、彼はそれ以上を尋ねませんでした。
「承りました。必ずお渡しします」
「お願いいたします」
「内容は、この場では聞かない方がよろしいですね」
「はい」
短い言葉で済みました。
それだけで、ずいぶん助かりました。
信頼できる方というのは、聞くべきことと、今は聞かない方がよいことを分けてくださるものなのですね。
エオリア様は、離れた場所からこちらを見ていました。
「レイヴァン卿」
「何か」
「任務中では?」
「呼ばれた」
「ローヴェル公爵令嬢に、ですか」
「そう聞いている」
「ローヴェル公爵令嬢は、殿下にお会いできなかったため、あなたに書状を託されるそうです」
アルギス様は、エオリア様を見ました。
静かな目でした。
「代わりかどうかは、私が聞くことではありません」
「ですが、周囲に誤解を招くのでは」
「誤解を招くように話している者がいれば、そうでしょう」
エオリア様の微笑みが、ほんのわずかに固まりました。
私は扇で口元を隠しました。
アルギス様は、余計なことをおっしゃらない方です。
ですが、必要なことはかなり短く刺してくださるようです。
「それに、メティアからローヴェル公爵令嬢へ手紙が届いたのなら、私が呼ばれる理由はあります」
その一言で、周囲の空気が変わりました。
メティア様。
つまり、アステリア侯爵令嬢。
そして、アルギス様の婚約者。
ようやく近くの近衛たちの目に、別の理解が浮かびました。
「では、私は失礼いたします」
私は礼をしました。
「アルギス様。よろしくお願いいたします」
「お任せください」
その言葉を聞いて、私は王太子宮を後にしました。
殿下に会えなかったことは、気にかかります。けれど、手紙は信頼できる方に渡しました。今できることは、それ以上ありません。
そう思うことにしました。
思うことにしただけで、不安が消えたわけではありません。
ネレイスの姿が廊下の角に消えたあと、アルギスはすぐに王太子宮の奥へ向かおうとした。
「レイヴァン卿」
エオリアが呼び止めた。
「その書状を、どちらへ」
「殿下へお渡しする」
「殿下は現在、先ほどの事故の確認と近衛配置の見直し中です」
「急ぎだと聞いている」
「内容を確認されたのですか」
「確認すべき相手は私ではない」
アルギスは短く答えた。
エオリアは微笑んだ。
「では、なおさらです。内容の分からない書状を殿下へ直接お持ちするわけにはまいりません」
「ローヴェル公爵令嬢から、殿下へと預かった」
「そのローヴェル公爵令嬢は、内容を明かさないままお帰りになりました」
エオリアの声は落ち着いていた。
「殿下のお身体を守るだけが近衛の務めではありません。殿下の時間と判断を、不要な混乱から守ることも務めです」
「不要かどうかを、お前が決めるのか」
「少なくとも、殿下の直近の護衛配置を預かる者として、取り次ぎの順を整えることはできます」
アルギスは、エオリアを見た。
「お前が預かると言うのか」
「はい。殿下の確認が落ち着き次第、私からお渡しします」
「私が直接渡す」
「レイヴァン卿」
エオリアの声が、硬くなった。
「あなたも近衛なら、指揮系統を乱すことの意味はお分かりでしょう」
アルギスは一瞬黙った。
エオリアは王太子殿下付き近衛として、今日の配置確認に関わっている。先ほど殿下の危機に最初に駆けつけたこともあり、周囲の近衛たちの視線は彼女へ向いていた。
ここでアルギスが強く押せば、近衛同士の争いになる。
それは、ローヴェル公爵令嬢が望むことではない。
「……必ず、殿下へ渡せ」
「もちろんです」
エオリアは、手を差し出した。
アルギスはしばらくその手を見ていたが、やがて封筒を渡した。
「これは、アステリア侯爵令嬢からローヴェル公爵令嬢へ届いたものだ」
「承知しております」
「殿下へ渡らなかった場合、私はメティアへ報告する」
その言葉に、エオリアの微笑みがほんのわずかに固まった。
「ご自由に」
封筒は、エオリアの手に渡った。
アルギスは一礼し、訓練場の方へ戻っていった。
エオリアは封筒を見下ろした。
白い封筒には、アステリア侯爵家の星をかたどった封蝋が押されている。
「星の家の手紙、ですか」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。エオリアは封筒を懐へ入れた。殿下へ渡すために。少なくとも、表向きは。
その後、エリオットが訓練場側の扉から戻ってきた時、エオリアは何事もなかったように礼をした。
「殿下」
「エオリア。先ほどの固定具の件は」
「確認中です。古い留め金が緩んでいたようです。今後、訓練前の点検を増やすべきかと」
「そうだな」
エリオットは短くうなずきました。
「それから、ローヴェル公爵令嬢が先ほどお越しでした」
エオリアは、そこで初めて言うような顔をした。
懐にある封筒には触れなかった。
「ネレイスが?」
エリオットの視線が、すぐに廊下の先へ向く。
「なぜ取りつがなかった」
「先ほどの件の直後でしたので。殿下は確認中でいらっしゃいましたし、ローヴェル公爵令嬢には本日はお引き取りいただきました」
「用件は」
「詳しい内容はお話しになりませんでした。殿下に直接お伝えするべきものだと」
「では、なぜ私に知らせなかった」
「殿下のご負担を考えました」
エオリアの声は静かでした。
「ローヴェル公爵令嬢は、このところの魔道具騒ぎでご不安を抱いておられるご様子です。殿下にお会いしたいお気持ちは分かりますが、殿下は先ほど危うい場面もございました。今はまず、殿下の安全確認を優先すべきかと」
エリオットは黙っていた。
「それに」
エオリアは、目を伏せた。
「殿下にお会いできないと分かると、レイヴァン卿を呼んでほしいとおっしゃいました」
「アルギスを?」
エリオットの声が、低くなった。
「はい。至急お話ししたいことがあると。内容は、殿下にも私にも明かせないとのことでした」
「私にも?」
「殿下に直接お伝えするべきもの、とおっしゃっていました。ですが、殿下にお会いできないと分かると、レイヴァン卿へ」
言葉はそこで切られた。
「何か事情があったのかもしれません」
事情があったのかもしれない。
そう言うことで、かえって事情があるように聞こえる。
「ただ、ローヴェル公爵令嬢はこのところ、魔道具騒ぎでお心を乱されているご様子です。殿下にお会いできない不安から、他の方を頼られたのではないかと」
「エオリア」
エリオットは、静かに名を呼んだ。
「はい」
「ネレイスが、そう言ったのか」
エオリアは一瞬だけ黙った。
「……いいえ。ですが、そのようにお見受けしました」
「おまえが見たことと、ネレイスが言ったことを混ぜるな」
エリオットの声は低かった。
エオリアは深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
その礼は美しかった。先ほどエリオットを守った近衛として、申し分のない姿だった。
だからこそ、エリオットの目には迷いが残った。彼女は先ほど、確かにエリオットの前に立った。誰より早く駆けつけた。その事実がある。
そして、ネレイスがアルギスを呼んだこともまた、事実だった。
事実が二つ並ぶと、人はその間に意味を探してしまう。
たとえ、その意味を置いたのが誰であったとしても。
エオリアの懐には、白い封筒がある。
まだ、エリオットには渡っていなかった。
その日の夕方、エオリアは王太子宮の外回廊でエリオットを待っていた。
近衛としての待機。少なくとも、表向きは。
「エオリア」
エリオットが足を止めた。
「配置確認は終わったのか」
「はい。西翼の高回廊を中心に、古い金具の点検を進めております」
「分かった」
エリオットはうなずき、先へ進もうとした。
その時、エオリアが一歩踏み出した。
「殿下」
その声は、近衛としての報告よりもわずかに硬く聞こえた。
「申し上げたいことがございます」
「何だ」
エリオットは足を止めた。
エオリアは、まっすぐ殿下を見上げた。
「私は、誰より早く殿下の危険に気づけます」
「今日の働きは評価している」
「ありがとうございます」
エオリアは深く礼をした。
けれど、顔を上げた時、その目にはまだ言葉が残っていた。
「私は、殿下のおそばに立ちたいのです」
「近衛としてか」
「……近衛としても、です」
エオリアの声が、ほんの少し揺れた。その揺れは、戦場を恐れる者のものではなかった。もっと個人的で、もっと隠しにくいものだった。
「私は、殿下をお守りできます。危険の前に立てます。誰より早く駆けつけられます」
そこで彼女は、一度だけ目を伏せた。
「けれど、本当は」
夕日が、彼女の赤い髪を淡く染めた。
「お守りしたいだけでは、ありません」
エリオットは黙っていた。
エオリアは胸元の金の葉飾りに指を添えた。近衛の礼節としては、ほんのわずかに乱れた仕草だった。
「殿下が、私をご覧になった時」
その声は、先ほどより低く、柔らかかった。
「今日のように名を呼んでくださった時、私は……自分が、どこまでも行けるような気がいたしました」
「エオリア」
「私は、殿下のおそばにいたいのです」
彼女は顔を上げた。近衛の顔ではなかった。一人の女の顔だった。
「どうか、私をおそばに置いてください」
エオリアは、そこで一度唇を引き結んだ。
「ローヴェル公爵令嬢は、殿下に守られる方です」
エオリアの声は低くなった。
「あの方は、危険の前には立てません。剣も取れません。殿下の時間を奪い、殿下の心を煩わせるばかりです」
「エオリア」
「私は違います」
エオリアは、縋るように殿下を見た。
「私は、殿下の前に立てます」
沈黙が落ちた。
夕方の光が、回廊の床を長く照らした。
エリオットは、その光の中で静かに告げた。
「できない」
短い言葉。
エオリアの指先が、かすかに震えた。
「……なぜですか」
「私の隣は、功績で得る場所ではない」
エリオットの声は穏やかだった。
「私を守れるから、私の隣に立てるわけではない。私の前に立てるから、私の隣にいるわけでもない」
「ですが、私は」
「それから」
エリオットは、エオリアの言葉を遮った。
「ネレイスを下げて、自分の価値を示そうとする者を、私はそばに置かない」
「私は、殿下のために」
「本当に私のためなら、私が大切にしている者を貶める必要はない」
エリオットは、まっすぐエオリアを見た。
「ネレイスは、私に守られるために隣にいるのではない」
「では、何のために」
「それをお前に説明する必要はない」
静かな拒絶だった。
エオリアは何も言えなかった。ただ、胸元の金の葉飾りだけが、夕日を受けてまぶしく光っていた。
「エオリア。お前の働きは評価する。だが、今後、私情でネレイスを遠ざけることは許さない」
「……私情では」
「違うと言い切れるか」
「…………」
エリオットは一度息を吐いた。
「今日は下がれ」
「……はい」
エオリアは礼をした。その礼は美しく、乱れがなかった。けれど、伏せられた顔は白く、唇だけが固く結ばれたままだった。
エリオットが去ったあとも、エオリアはしばらくその場に立っていた。
夕日が、王家の金の紋章を赤く染めている。
エオリアは胸元の葉飾りに触れた。
「私は、届きます」
誰に聞かせるでもなく、エオリアはつぶやいた。
「一度、届いたのですから」
金の葉が、指先の下で淡く光った。
私はその日、殿下にお会いできないまま屋敷へ戻りました。
王太子殿下はお忙しい方です。私の都合だけでお時間をいただける立場ではありません。そう分かっております。分かっているのですが、胸の奥に小さな石が置かれたような重さがありました。
夕方、メティア様からもう一通、短い手紙が届きました。
『ネレイス様。
アルギスから、王宮でお会いしたと聞きました。
手紙をお預けくださったとのことですが、殿下へ届いた確認が取れておりません。
念のため、明日、私も王宮へ参ります。
どうか一人では動かれませんように。
メティア・アステリア』
私は手紙を読み終え、深く息を吐きました。やはり、届いていない。そう思いました。
同時に、アルギス様がすぐにメティア様へ伝えてくださったことに、少しだけ救われました。
手紙は消えていません。ただ、まだ殿下には届いていないだけです。それだけ、とは言いにくい状況ですが。
翌日、私はメティア様と王宮記録室で会いました。
アルギス様も同席してくださいました。彼はいつも通り寡黙でしたが、昨日より表情が硬く見えました。
「申し訳ありません」
開口一番、アルギス様は頭を下げました。
「私が直接お渡しすべきでした」
「アルギス様の責任ではありません」
私は答えました。
「近衛として無理を通せないのは分かります」
「それでも、結果として届いていません」
メティア様が、そっとアルギス様を見ました。
「アルギス。あなたは、すぐに私へ知らせてくれました」
「だが」
「それで、今こうして動けています」
メティア様の声はやわらかく、けれどはっきりしていました。
アルギス様は一度口を閉じ、それから小さくうなずきました。
「……分かった」
婚約者とは、こういうものなのでしょうか。
相手の失敗を責めるのではなく、必要なところで言葉を置く。たいへん勉強になります。
問題は、私と殿下があまりにも会えていないことです。
「エオリア・ヴァルナー様について、記録はありますか」
私が尋ねると、メティア様はすでに用意していた紙束を開きました。
「ヴァルナー男爵家の次女です。近衛採用試験では上位。特に反応速度と身体運用に優れていたようです。最近、王太子殿下付きの配置に入る機会が増えています」
メティア様はそこで一度、言葉を選びました。
「月桂樹の徽章についての証言も、彼女が王太子宮周辺へ移ってから出ています」
アルギス様が低く言いました。
「昨日、彼女の襟元に金の葉飾りがあった」
「私も見ました」
「近衛の装飾にも似た意匠はある。だが、あの飾りは古い」
「古い?」
私が問い返すと、アルギス様は淡々と答えました。
「現行の近衛装飾ではない」
たいへん重要なことを、ずいぶん静かに言う方です。
「では、彼女が持っている可能性は高いのですね」
「高いと思います」
メティア様がうなずきました。
「月桂樹の徽章は、本来、身につけた者の集中力と身体能力を一時的に高めるものと記録されています。近衛や伝令に使われた例もあります」
「だから、昨日あれほど速く動けた」
「可能性はあります」
メティア様は断定しませんでした。けれど、否定もしませんでした。
「ただ、記録に気になる一文がありました」
メティア様は古い写しを開きました。
「仰ぐ光を見失うべからず。近づく者は栄誉を得る。近づきすぎる者は、己の影へ落ちる」
「光、ですか」
「王家の紋章や王太子を指す比喩として使われることがあります」
エリオット殿下。太陽のような方、と言えば少々大げさでしょうか。
けれど、エオリア様の目に映る殿下は、きっとそういう光なのでしょう。
昨日、殿下に評価された時の彼女の表情を思い出します。
明るく、誇らしげで、そしてどこか苦しそうでした。
「彼女は、殿下に近づきたいのでしょうか」
私の言葉に、メティア様は視線を伏せました。
胸の奥に置かれた石が、もう一つ増えたような気がしました。
近衛として殿下を守れる方。誰より早く殿下の前に立てる方。殿下に評価された方。
私は、昨日、殿下へ会うことさえできませんでした。
比べるものではないと分かっています。分かっていますが、分かっているからといって、心が素直に整うわけではありません。
その日の夕方、王宮の渡り廊下で、私は殿下の姿を遠くに見ました。
ほんの一瞬です。殿下も私に気づかれたようでした。目が合いました。
けれど、殿下の側には文官と近衛がいて、こちらへ歩み寄れる状況ではありません。
その近衛の中に、エオリア様もいました。
彼女は殿下の半歩後ろに控えています。とても近い。近衛なのですから、近くにいて当然です。当然です。
それでも、胸の奥がざわつきました。
殿下がこちらへ一歩踏み出そうとなさった瞬間、文官が書類を差し出しました。エオリア様も何か短く告げます。
殿下は私を見たまま、わずかに眉を寄せました。
私は礼をしました。
今ここで近づけば、また殿下のお手を煩わせる婚約者になるのでしょう。そういう絵を、誰かに描かせるのは嫌でした。
殿下は何かを言いかけたように見えました。
けれど、距離がありました。声は届きません。
結局、その日は、それだけでした。
会えたとは言えません。けれど、見えなかったわけでもありません。
その中途半端さが、一番困ります。
エオリア様の動きは、その後ますます目立つようになりました。
殿下の前に誰より早く進む。殿下の横へ来る者を、さりげなく遮る。危険があれば、迷わず間に入る。近衛としては優秀なのでしょう。
ただし、近衛として優秀であることと、近衛として正しいことは同じではないのかもしれません。
私は何度か殿下へ面会を申し入れましたが、急な公務、配置確認、警備上の都合、会議中という理由で叶いませんでした。
それらすべてが嘘だったとは思いません。けれど、すべてが本当だったとも思えません。
その間に、王宮の中では小さな噂が流れ始めました。
ローヴェル公爵令嬢は、魔道具騒ぎのたびに殿下へ頼る。殿下に会えなければ、別の殿方を呼ぶ。王太子妃となる方が、不安のあまり周囲を振り回している。実に器用な噂です。
まったくの嘘ではありません。だから、ほどきにくい。
私は不安でした。殿下に頼ろうとしました。アルギス様を呼びました。
けれど、真実の糸が一本混じっているからといって、織り上がった布が正しいとは限りません。
それは、きっと次の魔道具の領分でしょう。
今は月桂樹です。
高く、高く、光へ近づこうとするものの話です。
事件が起きたのは、王宮西翼の高回廊でした。
王太子宮の外回廊で、金の紋章飾りの点検が行われていました。事故を受け、古い留め金をまとめて確認することになったのです。
殿下も短時間だけ立ち会われると聞き、私は王妃殿下の許可を得て同席することになりました。
やっと、同じ場に立てる。そう思ったことは、否定いたしません。
ただし、喜ぶには場所が悪すぎました。
高回廊。金の紋章。日差し。そして、月桂樹の徽章を持っているかもしれない近衛。
殿下は、少し離れた場所に立っておられました。
目が合います。
殿下も、私へ歩み寄ろうとなさいました。
けれど、その前にエオリア様が一歩出ました。
「殿下。足元の石材に緩みがございます。こちらへ」
彼女は殿下を安全な位置へ導くように、半歩前へ立ちました。自然な動きでした。近衛としてなら、褒められるべき動きなのでしょう。
それでも、私には分かりました。彼女は、殿下と私の間に立っている。偶然ではなく。
「エオリア」
殿下が彼女の名を呼びました。その声には、制止がありました。
けれど、その時。
高回廊の上で、金属の軋む音がしました。
先日と似た音です。
いいえ。
似すぎていました。
点検のために外されかけていた王家の金の紋章。その一部が、日差しを受けてまぶしく光りました。
落ちる。
そう思った瞬間、近衛たちが動きました。
アルギス様も動きました。
けれど、それより早くエオリア様が飛び出しました。
「殿下!」
彼女の声は、鋭く高く響きました。同じです。殿下の前へ。誰より早く。誰より近く。ただ、違ったのは、その距離です。今回は、届くはずのない高さでした。
エオリア様は欄干を蹴りました。
常人なら、そこで終わりです。
けれど、彼女の身体は不自然なほど高く浮きました。襟元の金色の葉が、まぶしく光ります。月桂樹の葉が、ほどけるように広がりました。
彼女の肩甲骨のあたりから、光の筋が羽のように広がっていました。けれどそれは翼ではありません。月桂樹の葉が重なった、まがいものの翼でした。
「私は、届きます」
エオリア様の声が聞こえました。
「誰より早く、殿下のもとへ」
それは近衛の言葉でしょうか。それとも、もっと別の願いでしょうか。
「私なら、お守りできます」
彼女は金の紋章へ手を伸ばしました。落下しそうに見えた飾りは、実際にはまだ留め具にかかっていました。危険はありました。けれど、今すぐ殿下へ落ちるほどではありません。
アルギス様が別の角度から支柱へ向かっていました。他の近衛も動いていました。対処はできたはずです。
けれど、エオリア様は飛びました。
一度届いたから。一度殿下に見ていただけたから。今度も届くと思ったのでしょう。
もっと高く。もっと近く。もっと、殿下の光の中へ。
「エオリア、戻れ!」
殿下の声が響きました。
その声に、彼女は笑ったように見えました。嬉しそうに。痛ましいほど、嬉しそうに。
「殿下」
彼女は手を伸ばしました。
「私は、大丈夫です」
その瞬間、まがいものの翼が燃えました。月桂樹の葉が、焦げた羽のように崩れます。
彼女の身体が傾きました。
落ちる。今度こそ。
「アルギス!」
殿下の声と同時に、アルギス様が走りました。近衛たちも布を広げます。
私は動けませんでした。走ったところで、届きません。剣も取れません。ただ、落ちる人を見ているだけです。
それが、ひどく悔しかった。
エオリア様の身体は広げられた布に落ち、それでも衝撃で布ごと石床へ沈みました。
鈍い音がしました。
まがいものの翼は、もうありません。
残っていたのは、焦げた月桂樹の葉飾りだけでした。
エオリア様は一命を取り留めました。
ですが、右腕と脚を痛め、視力にも異常が残ったそうです。
強い日差しを見ると、目が痛む。王家の金の紋章を見ると、視界が白く滲む。彼女はもう、騎士として立つことはできません。
殿下の隣にも、この王宮の中のどこにも、彼女の立てる場所はありませんでした。
取り外された月桂樹の徽章は、王宮宝物庫へ戻されました。
本来は、身につけた者の集中力と身体能力を一時的に高める魔道具。けれど、宝物庫の外へ出て、人の願いに触れたそれは、別のものを育てていたようです。
仰ぐ光へ近づきたい。誰より早く、誰より高く、誰より近く。
それは栄誉だったのかもしれません。忠誠だったのかもしれません。恋だったのかもしれません。
ただ、どれであったとしても、近づきすぎれば焼けるものはあります。
人には翼がありません。ましてや、太陽に向かって飛べる翼など。
後日、王妃殿下の前で、今回の件について報告が行われました。
エオリア様が私への手紙を握り止めたこと。殿下へ一部の事実だけを伝え、私の印象を悪く見せようとしたこと。近衛の間に、私が殿下やアルギス様を振り回しているという噂を流したこと。
すべて、調べればすぐに分かったそうです。
すぐに分かることを、どうしてなさったのでしょう。そう思いましたが、たぶん彼女は、その時にはすでに見えていなかったのです。
殿下に近づく道だけが。殿下に見ていただく瞬間だけが。彼女にとっての光になっていた。
王妃殿下はすでに報告を受けておられたらしく、王太子宮側で情報が止まっていたことを静かに確認なさいました。
王妃殿下の部屋を出たあと、私はようやく殿下と二人きりで話す時間をいただきました。
本当に、ようやくです。
回廊の窓からは、午後の光が差し込んでいました。
私はその光を見て、目を細めました。
殿下は、私の隣に立っておられました。
近すぎず、遠すぎず。その距離が、ひどく懐かしいものに感じられました。
「ネレイス」
「はい」
「手紙を受け取れず、すまなかった」
「殿下のせいではありません」
「それでも、私に届くべきものだった」
殿下の声は硬かった。ご自分を責めておられる声です。
私は首を横に振りました。
「私も、もう少し別の道を考えるべきでした」
「君はアルギスを呼んだ」
「はい」
「……最初に聞いた時、少しだけ面白くなかった」
私は瞬きしました。
殿下は、窓の外を見ておられました。
「アルギスがメティア嬢の婚約者だとは分かっている」
「はい」
「分かっていても、君が私に会えず、別の男の名を出したと聞いて、すぐに冷静ではいられなかった」
たいへん困りました。困りましたが、胸の奥が温かくなったことも否定できません。
「殿下」
「情けないな」
「いえ」
私は考えました。
「私も、エオリア様が殿下の近くに立っているのを見て、あまり穏やかではありませんでした」
殿下がこちらを見ました。
言ってしまいました。言ってしまったものは戻りません。
「それは」
「はい」
私は扇を握りました。
「おそらく、嫉妬というものだったのだと思います」
殿下は黙りました。それから、ほんのかすかに笑いました。
「そうか」
「笑うところではありません」
「すまない。だが、少し安心した」
「安心」
「私だけではなかった」
私は言葉に詰まりました。
こういう時、どのような顔をすればよいのでしょう。
古式礼法の授業では、たぶん習っていません。いえ、習っていたとしても、ガラティア侯爵夫人の教えなら今は役に立たない気がします。
殿下は、真面目な顔に戻りました。
「エオリアは、私を守ろうとした。最初は、確かにそうだったのだと思う」
「はい」
「だが、近くにいることと、隣に立つことは違う」
私は殿下を見ました。
「私の前に立つ者が、私の隣にいるとは限らない」
その言葉は、静かでした。けれど、深く届きました。
「エオリア様は、私を守られるだけの者だと思っていたようです」
「違う」
殿下はすぐに言いました。
「君は、私に守られるために隣にいるのではない」
胸の奥が、ふっと詰まりました。
「私も、君に守られている」
「私は剣を取れません」
「知っている」
「高いところから落ちる方を受け止めることもできません」
「それも知っている」
「では」
「君は、私が見落とすものを見る。私が怒りで進みすぎそうな時、止める。私が王太子として当然だと思いそうなことに、人としての疑問を置く」
殿下は、まっすぐ私を見ました。
「それは、私を守ることだ」
私は、すぐには返事ができませんでした。
窓の外で、光が揺れています。
太陽は遠い。近づきすぎれば焼ける。
けれど、遠くからその光を受けて、背筋を伸ばすことはできます。
「殿下」
「何だ」
「私は、飛べません」
「飛ばなくていい」
「落ちるのも困ります」
「それも困る」
「では、歩きます」
殿下は、少しだけ目を細めました。
「君らしいな」
「できるだけ見苦しくないように、ですけれど」
「それでいい」
殿下は、手を差し出されました。私は一度だけ迷い、それからその手に自分の手を重ねました。握られた手は、すぐには離れませんでした。
その日の夜も、私は自室の鏡の前に立ちました。
鏡には、いつも通りの私が映っています。
高く飛ぶものは美しい。けれど、飛ばなければ届かない場所ばかりではありません。
人には翼がありません。月桂樹の葉をいくら重ねても、翼にはならないのです。
ならば私は、今日も足元を見て歩こうと思います。
誰かの光へ飛び込むのではなく。
誰かの隣へ、きちんと自分の足で向かうために。
私は鏡の中の自分へ向かって、できるだけ見苦しくないように背筋を伸ばしました。
落ちないためではありません。
まっすぐ歩くために。




