第三十三話 古い美の魔法を解きましょう
パリス花王国の王宮は、嵐の前の静けさに包まれていた。
女王マダム・ロサが緊急招集した、『美の審判』と称する大舞踏会。
国中の貴族、有力者、そしてファッション界の重鎮たちが、王宮の『鏡の間』に集結していた。
彼らの装いは絢爛豪華そのもの。
極彩色の絹、重厚な刺繍、何層にも重ねられたレース。男性は孔雀のように飾り立て、女性は巨大なスカートの重みで歩くことさえままならない。
それこそが、この国における『富と権力の証明』だったからだ。
「見苦しいですわね……」
玉座に座る女王ロサは、ワイングラスを傾けながら呟いた。
彼女の視線の先には、窓の外に見える下町――帝国の既製服によって、青や赤に染まり始めた街並みが映る。
「あのような安っぽい原色が、我が国の美しい景観を汚している。……今宵、わたくしが『真の美』を再定義し、あの泥棒猫を社交界から追放してやる」
ロサの計画は単純だった。
アイリスをこの舞踏会に招待し、貴族たちの圧倒的な本物の美で包囲し、恥をかかせて孤立させる。
平民がいくら騒ごうと、流行を作るのはいつだって貴族だと、ロサは信じていた。
鐘が鳴ると、重厚な扉が開かれ、侍従の声が響き渡った。
「帝国皇帝ルーカス・ガルバディア陛下、並びにアイリス皇妃殿下、入場!」
会場のざわめきが止まる。
貴族たちは一斉に扇子で口元を隠し、嘲笑の準備をした。
どうせまた、あの下品な青色の安物を着てくるに違いない、と。
だが、現れた二人の姿を見た瞬間、会場の空気は凍りついた。
色がない。二人を包んでいるのは漆黒。
ルーカスは一切の装飾を削ぎ落とした軍礼服。
アイリスは肩と背中を大胆に露出した、滑らかな黒のイブニングドレス。金糸も、宝石も、レースもない。あるのは研ぎ澄まされた鋭いシルエットと、全ての光を吸い込むような深い黒だけだ。
「な、なんだ、あの服は……?」
「黒だと? 喪服か? 縁起でもない!」
貴族たちが動揺する。
この国において、黒は汚れや死を連想させる忌むべき色であり、華やかな夜会で身につけるなど言語道断だった。
だが、二人が赤絨毯を歩き出すと、その認識は揺らぎ始める。
ルーカスの黒い服は鍛え抜かれた肉体のラインを強調し、圧倒的な強さと威厳を放っている。
アイリスの黒いドレスは白い肌とのコントラストを極限まで高め、宝石以上にその存在を輝かせた。
その二人を見て、女王ロサが立ち上がる。
「なんと無礼な! わたくしの夜会に、そのような不吉な色で来るとは許せません!」
「不吉ですか? いいえ、これは『格式』というものですわ。貴国の服は色や装飾に頼りすぎています。本当に素材と仕立てが良いならば、余計な飾りなど不要です。『黒』一色あれば、人は最も美しくなれるのです」
「屁理屈を! それは、ただの色抜きではないか!」
「では、証明しましょうか。……アレクセイ」
アイリスが指を鳴らすと、影のように控えていたアレクセイが進み出た。
アレクセイもまた、アイリスの工場で特別に仕立てられた、黒のスーツを着用している。
彼は無表情のまま貴族たちの間を歩き始める、
孔雀のように着飾った貴族の男性たちと、シンプルを極めた黒スーツのアレクセイ。
その対比は残酷だった。レースやフリルで着膨れした貴族たちが、まるで道化師のように滑稽に見えてしまったのだ。
対して、アレクセイの姿は洗練された都会の夜、そのものだった。
「素敵だわ……」
ふと誰かが漏らした小さな声が、会場に響いた。
貴族の女性たちが頬を染め、アレクセイを見つめている。虚ろな瞳と、黒い服。その退廃的な美しさが、着飾ることに疲れた彼女たちの心臓を射抜いてしまった。
「な、なんだ、あの服は……! あんな地味な服が、なぜ……」
男性陣も認めざるを得なかった。
アレクセイの横に立つと、自分たちの服がひどく幼稚で、野暮に見えることに。
アイリスは動揺する会場に向けて告げる。
「これが帝国の提案する夜会の新基準、『フォーマル・ブラック』ですわ」
彼女はルーカスの腕に手を添える。
「この素材もまた『錬金繊維』。独自の光沢処理により、室内灯の下で最も美しく映える『深黒』を実現しました。そして何より――」
ルーカスがアイリスの腰を抱き寄せ、軽やかにステップを踏んだ。
音楽に合わせて踊り出す二人。
その動きは流れるようにスムーズだ。
「動きやすいのですわ。重い刺繍も、締め付けるコルセットもありません。陛下、着心地はいかがです?」
「最高だ。鎧より軽く、寝巻きよりも動きやすい。これなら踊りながらでも敵を斬れるな」
ルーカスが不穏なジョークを飛ばしながら、華麗なリフトを決める。その躍動感あふれるダンスを見せつけられ、重いドレスで息を切らす貴族たちは、羨望の眼差しを向けた。
「あの服なら……私も、もっと楽に踊れるのか?」
「私も、あの黒い服なら……もっと背が高く見えるかもしれないな」
会場の空気が変わった。
女王への忖度よりも、新しい美への渇望が上回り始めた。
ロサは唇を噛み締め、最後のカードを切る。
「だ、騙されてはいけません! あれは『形』だけの紛い物! 職人の魂がこもっていない! あのような量産品を身につければ、貴族としての品格が地に落ちます!」
「今度は品格ですか?」
アイリスは踊りを止め、女王を見据える。
「女王陛下、貴女は先ほど窓の外をご覧になりましたか?」
「な、何を……?」
アイリスは窓際のカーテンを大きく開け放った。
眼下に広がる城下町。そこは今、松明の明かりで照らされ、青や赤の服を着た民衆たちで埋め尽くされていた。
彼らは広場に集まり、音楽に合わせて踊っている。
笑顔、色彩、生命力。死んだように静まり返っていた灰色の街が、まるで宝石箱をひっくり返したように輝いていた。
「綺麗だ……」
貴族の一人が呟いた。
それは王宮の鏡の間よりも遥かに美しく、生きた光景だった。
「貴女が『安物』と切り捨てた服が街に彩りを与え、民衆に笑顔をもたらしました。民が豊かで美しくなること。それこそが、国家としての最高の『品格』ではありませんか? 自分の飾り立てることしか考えない女王に、美を語る資格はありませんわ」
アイリスの放った冷酷な言葉が、鋭い刃となってロサの胸を貫いた。
貴族たちが次々と女王から目を逸らす。
彼らは気づいてしまったのだ。女王の美学は、もはや『古い』のだと。
そこへ、アレクセイがふらりと女王の前に歩み寄る。
彼は立ち疲れたのか、無意識にポケットから手を出した。その手には広場で配られていた『錬金繊維のハンカチ(試供品)』が握られている。
「……あ、落とされましたよ」
アレクセイはロサが落とした扇子を拾い上げ、代わりにハンカチを渡した。
ただの親切心と社畜の習性である。
だが、そのハンカチの吸い込まれるような『黒』を見た瞬間、ロサの目から涙が溢れた。
「なんと美しい……」
ロサはハンカチを握りしめる。
絹よりも滑らかで闇夜のように深い黒。
ロサが追い求めていた究極の色が、そこにあった。
「完敗です……。わたくしの国には、このような色は作れません……」
女王ロサが力なく膝をつく。その瞬間、芸術の都を支配していた古い美の魔法が解けた。
黒い革命が成し遂げられた夜、パリス花王国は、帝国のファッション産業における最大の広告塔へと生まれ変わることになる。




