第三十一話 流行という名の感染症を
下町にある木賃宿の一室。
古びた窓から差し込む朝の光が、部屋の中央に立つ一人の男を照らし出していた。
アレクセイである。
昨日まで油と泥にまみれていたアレクセイは、湯浴みを済ませ、髭を剃り落とし、磨き抜かれた彫像のような美貌を取り戻していた。
だが、その瞳には光がない。過酷な労働と実験で摩耗しきった精神は、表情という人間らしささえ奪い去っていた。
「サイズは完璧ですわね」
アイリスは、アレクセイが身に纏った衣装の袖口を整えながら頷いた。
アレクセイが着ているのは、従来の服ではない。
皇国で産出した石油と、連邦の石炭を錬金術で結合させ、繊維状に引き伸ばした『錬金繊維』で織られたジャケットだ。
色は目の覚めるようなロイヤルブルー。
天然の染料では決して出せない、人工的な目を奪うほど鮮烈な色彩。そして絹よりも滑らかで、鋼のように強く、光を浴びてギラギラと輝く光沢。
「ボス、この服は妙にツルツルで冷たいですね」
「ええ、虫が吐いた糸でも、植物の繊維でもありませんもの。これは油と石炭を錬金して引き伸ばした『石』から生まれた糸ですの」
虫や植物は天候や病気に左右されるが、石や油から作るこの糸は、工場さえ動けば、常に均一な品質で生産できる。
それは職人の手仕事を奪う、工業の凶器とも言える代物だった。
「アイリス、女王との謁見時間が迫っている」
正装に身を包んだルーカスが袖口を整え、手袋をはめた。
「ええ、参りましょう。この国が誇る『美』とやらが、どれほどの価値なのか、鑑定させていただきますわ」
アイリスはアレクセイに帽子を目深に被らせ、従者のふりをさせた。
そのまま三人は無言で宿を出る。
花の香りのする通りを抜け、白亜の王宮へ向かった。
◇
パリス王宮、『鏡の間』。
壁一面に張り巡らされた鏡が、着飾った貴族たちの姿を映し出している。
その光景は華やかだが、どこか息苦しい。誰もが互いの服装を値踏みし、少しでも流行から外れた者を嘲笑しようと待ち構えているような、陰湿な空気が漂っている。
「帝国皇帝ルーカス・ガルバディア陛下、並びにアイリス妃殿下、入室!」
衛兵の声と共に、巨大な扉が開かれる。
アイリスとルーカスが足を踏み入れた瞬間、広間のざわめきが止まった。
そして、さざ波のような失笑が広がる。
「見ろ、あの色」
「暗い濃紺とは、まるで葬式だわ」
「帝国の田舎者は流行というものを知らないのかしら」
アイリスたちが着ているのは、機能性を重視した帝国の正装。素材は最高級だが、色はシックなダークトーン。「派手さこそが正義」とされるこの国では、それは貧しさの象徴に見えた。
ルーカスは眉一つ動かさず、堂々と赤絨毯を進む。その威圧感に、嘲笑していた貴族たちが思わず道を空ける。
玉座に座るのは、この国の支配者、女王マダム・ロサ。
年齢不詳の妖艶な美女。彼女が纏う深紅のドレスは、光の角度によって虹色に変化する幻の布『天空絹』で織られていた。
「ようこそ、遠路はるばる帝国の使いの方々」
ロサは扇子で口元を隠し、値踏みするような視線を投げかけた。
「随分と……『慎ましい』格好をされていますのね。わたくしの国では庭師でも、もう少し鮮やかな色を着ますのに」
露骨な侮辱。
だが、アイリスは優雅にカーテシーを行い、涼しい顔で答える。
「お褒めいただき光栄ですわ。帝国では『中身のない者ほど外見を飾り立てる』と言いますので、私たちは中身で勝負させていただいております」
ロサの眉がわずかに跳ね、会場の空気が凍りつく。
「……口の減らない娘ですこと。それで? 今日は何のご用かしら。まさか、その地味な服を売りに来たわけではありませんでしょう?」
「ええ、私が提案するのは、貴国の『天空絹』よりも美しく、丈夫で、そして……全ての国民が買える『魔法の糸』です」
アイリスが指を鳴らすと、背後に控えていた従者、アレクセイが進み出る。
アレクセイは帽子を取り、纏っていた地味なマントを脱ぎ捨てた瞬間、広間にどよめきが走った。
現れたのは、目の覚めるようなロイヤルブルーのジャケットを纏った、彫像のように美しい青年。
窓から差し込む陽光が服に反射し、鏡の間全体を青い光で染め上げた。
「なっ!? その服はなんなのですか……!?」
ロサが玉座から身を乗り出す。
見たこともない素材だ。絹のような光沢がありながら、もっと硬質で人工的な輝きを放っている。
「『錬金繊維』ですわ。石炭と油から合成された、切れない糸。染色も自由自在。泥にまみれても水で洗えば元通り。そして何より、この一着を作るコストは、貴女が着ているドレスの『一万分の一』です」
一万分の一。その数字に貴族たちが絶句した。
それは服の価値が崩壊することを意味する。
「……ふざけるな」
ロサの声が低く響いた。
「一万分の一だと? そのような安物が、美しいはずがない! 美とは希少価値の中にこそ宿るもの! 選ばれた者だけが纏い、民衆がそれを憧れて見上げる……その格差こそが、国の美なのです!」
「それは古い考えですわ、女王陛下」
アイリスは一歩も引かず、冷然と言い放った。
「真の美とは万人が共有できるものです。街中の娘たちが、花のように鮮やかな服を着て笑う。それこそが、国を豊かにする風景ではありませんか?」
「黙りなさい! 汚らわしい!」
ロサは激昂し、手元のワイングラスを床に叩きつけた。
赤い液体が飛び散り、アレクセイのジャケットにかかる。
だが、その液体は一滴も染み込まず、玉になって弾かれた。
撥水加工。その機能性すらも、女王の神経を逆撫でした。
「わたくしの国を、そのような『魂のない偽物』で埋め尽くすつもり!? 出て行きなさい! 二度とわたくしの前に、その下品な布を見せるな!」
衛兵たちが槍を構え、アイリスたちを取り囲む。
――交渉決裂。
だが、アイリスは静かに頭を下げた。その口元には、獲物を罠に嵌めた狩人のような笑みが浮かんでいた。
「承知いたしました。王宮が買わないというのなら、市場に問うまでです」
◇
宮殿を追い出された後、アイリスたちは再び装甲車に乗り込んだ。
ルーカスが呆れたように息を吐く。
「予想通りだな。彼女は『美』を支配の道具にしている。安価な美など、権威への冒涜でしかない」
「ええ、だからこそ勝機があります」
アイリスはトランクケースから大量のビラを取り出した。
そこには、『帝国ファッションショー開催! 来場者には服をプレゼント!』と書かれている。
「権力者が変化を拒絶した時、革命は下から起こります。アレクセイ」
アイリスは助手席で虚ろな目をしているアレクセイに声をかけた。
「貴方は明日、広場のステージに立ちなさい。そして、ただ歩くのです」
「歩くだけでいいのですか?」
「ええ、ただし瞬き一つしてはいけません。貴方は人間ではなく、『理想の虚像』になりきるのです」
アイリスは窓の外に広がる灰色の街並みを見つめた。
色を奪われ、美を禁じられた人々。
彼らの鬱屈した欲望に、火をつける準備は整った。
「さあ、始めましょうか。『流行』という名の感染症を、この街にばら撒くのです」




