第二十九話 高級食材ブランド・エルヘイムですわ
数千年の間、枯れることのない『常緑の楽園』と謳われた『聖樹の森』は、たった一夜にして、世界が変わっていた。
朝霧の中に浮かび上がるのは、葉を食い尽くされ、白骨のように立ち尽くす木々の残骸。
地面を覆っていた美しい苔や花々は消え失せ、茶色い地肌が剥き出しになっている。
女王ロゼアが召喚し、アイリスの忌避剤によって追い返されたイナゴの大群が、森の緑という緑を貪り尽くして飛び去った、その後の光景だった。
「あ……あぁ……」
緑の宮殿のテラスで、ロゼアは震える手で手すりを握りしめた。
握っていなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
視線の先には、呆然と立ち尽くす民の姿がある。
足元には、食い荒らされた野菜の残骸すら残っていない。
残ったものは、喉の奥まで乾かしていくような、絶望的な飢餓だけだった。
「……私が、森を殺したというのか……?」
自らのプライドを守るために放った禁じ手が、自らの首を絞め、民の命綱を断ち切ってしまった。
精霊の加護も、祈りも、物理的な数の暴力の前には無力だった。
そこへ、重々しい足音が響く。
宮殿の扉が押し開かれ、朝の光と共に三つの人影が現れた。
「ごきげんよう、女王陛下」
アイリスは扇子を開き、荒れ果てた森を見渡す。
「……随分と風通しが良くなりましたわね」
「き、貴様ら……! よくもぬけぬけと……!」
ロゼアが憎悪の眼差しを向けるが、ルーカスが一歩前に出ると、その圧倒的な覇気に押されて言葉を飲み込んだ。
今の彼女には、皇帝を睨み返すだけの気力も国力も残っていない。
「陛下、我々は『救済』に参りました」
アイリスが合図を送ると、アレクセイが背負っていた二つの籠を床に置いた。
一つは空。もう一つには、朝露に濡れて輝く真っ赤な『太陽トマト』が山盛りにされている。
「貴女の畑は全滅しました。倉庫の備蓄も、あと数日で尽きるでしょう。エルフの方々は、霞を食べて生きていけるのですか?」
ロゼアは唇を噛み締め、俯いた。
生きていけるわけがない。高尚な精神を持っていても、肉体は栄養を必要とする生物だ。
「わたくしを笑いに来たのか……?」
「いいえ、商談に来たのです」
アイリスは真っ赤なトマトを手に取り、ロゼアに差し出した。
「お食べなさい」
「なっ……」
「毒など入っていませんわ。これは貴女が穢れた土と蔑んだ荒野で、私が科学で育てた実りです」
ロゼアは屈辱に震えた。
だが、背後で控える側近たちの腹の虫が鳴る音が聞こえる。
民が飢えている。女王である自分が、痩せ我慢をしている場合ではない。
震える手でトマトを受け取り、恐る恐る口に運んだ。
「うっ……」
ロゼアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
美味しい。悔しいが、どうしようもなく美味しい。
その味が、数千年のプライドを完全に粉砕した。
「美味しいでしょう? 貴女は『自然の摂理』と言いました。ですが、本当の摂理とは『変化に適応すること』です。伝統にしがみつき、変化を拒んだ結果が、この風景です」
ロゼアはその場に崩れ落ち、トマトを握りしめたまま嗚咽を漏らす。
「負けだ……。わたくしの完敗だ……」
女王が敗北を認めた瞬間、アイリスは懐から一束の羊皮紙を取り出す。
それは降伏文書ではなく、『業務提携契約書』だった。
「では、今後の話をしましょう。貴国の農業は帝国の管理下に置かれます。肥料、種、そして農法。すべて帝国の規格に合わせていただきます」
「……我々に誇りを捨てて、その安っぽい野菜を作れと言うのか?」
「いいえ、役割分担ですわ。大衆向けの安価な野菜は、帝国の機械化農場が担います。ですが、世の中には『高くても物語のある野菜』を求める富裕層が一定数います」
アイリスは、ロゼアを見据える。
「エルフの皆様には、その『繊細な魔力制御』と『ブランドイメージ』を生かし、高級食材のみを生産していただきます。一個金貨10枚のメロン、銀貨50枚のイチゴ。それらを帝国の流通網で、世界中の王族に売り込みます」
ロゼアが顔を上げた。
「……高級品を作ってもよいのか?」
「ええ、ただし、それは『食料』ではありません。『嗜好品』としての生産です。民の腹を満たすのは私の仕事。貴女たちの仕事は金持ちの舌を喜ばせ、外貨を稼ぐことです」
それは、エルフのプライドを守りつつ、経済的に帝国の下請け構造に組み込むという、悪魔的かつ合理的な提案だった。
だが、今のロゼアには、それが救いの糸に見えた。
「……分かった。契約しよう」
ロゼアは震える手でペンを取り、羊皮紙にサインをした。
その瞬間、聖樹の森は独立国家としての実態を失い、巨大な帝国経済圏の一部、『高級食材ブランド・エルヘイム』として再出発することになった。
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次話から第三章に移ります。
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