第二十六話 野蛮人に言葉は通じません
西へと向かう街道を進むと、荒廃が進んでいく。
ひび割れた大地、枯れ果てた小麦畑、道端には痩せこけた子供たちが力なく座り込み、通り過ぎる車を虚ろな目で見送っている。
この地域一帯を襲った長引く干ばつは、村々から実りを奪い尽くしていた。
「……酷いな」
ルーカスが苦渋の表情で呟いた。
ルーカスは窓を開けようとしたが、隣に座るアイリスが静かに制した。
「いけません、陛下。今、彼らに手持ちの食料を分け与えても、それは一時の延命に過ぎません。根本的な原因を絶たねば、来年も同じことが起きますわ」
「分かっている。だが帝国の皇帝として、民が泥を啜る姿を見るのは忍びないのだ」
ルーカスは膝の上で拳を握りしめた。
その高潔な怒りと責任感。それこそが、アイリスが彼を伴侶に選んだ理由であり、同時に、彼女が誰よりも冷徹な『剣』とならねばならない理由でもあった。
「原因は、あの森ですわ」
アイリスの視線の先、地平線の彼方に、不自然なほど鮮やかな緑の壁が見える。
――聖樹の森『エルヘイム』。
世界樹の加護を受け、どのような干ばつの年でも枯れることのない、永遠の豊穣を約束されたエルフの聖域。
「彼らは水を独占し、実りを囲い込んでいます。行きましょう。あの閉ざされた楽園の扉をこじ開けに」
◇
森の入り口にある関所。
巨大な樹木がアーチのように道を塞ぎ、その上から緑の衣を纏ったエルフの衛兵たちが、忌々しげに弓を構える。
「止まれ、人間たちよ」
衛兵隊長が汚物を見るような冷ややかな視線で、車を見下ろす。
「この先は聖域エルヘイム。その鉄の獣から吐き出される煤煙は森への冒涜だ。ここから先は歩いて入れ」
「……だ、そうですわ」
「分かった」
ルーカスが重厚な扉を開け、威厳を持って降り立つ。
続いて、アイリス。
最後に運転席から、アレクセイがよろよろと這い出してきた。
「……うっぷ。空気が濃い……」
アレクセイは顔面蒼白で口元を押さえた。
ソフィアでの過酷な魔力実験で、『魔力過敏症』になってしまったアレクセイ。森に満ちる濃密で純粋なマナは、酸素濃度が高すぎる空気のように毒となっていた。
「しっかりなさい、アレクセイ。荷物持ちくらいはしてもらいますよ」
「は、はい、ボス……」
フラフラのアレクセイを引き連れ、森へと足を踏み入れた。
◇
森の奥にあるエルフの都は息を呑むほど美しい。
巨木をくり抜いて作られた住居、発光する苔の街灯、清らかな水路。
だが、アイリスたちが通された市場の光景は、外の世界との落差において、あまりに異様だった。
市場には溢れんばかりの食料が積まれている。
宝石のように磨かれた真っ赤なリンゴ、瑞々しく張り詰めたトマト、黄金色に輝く小麦。
どれも最高級品だ。
だが、その値札を見たルーカスが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「リンゴ一つが『金貨1枚』だと? 我が国の兵士の月給に相当するぞ」
アイリスが隣の屋台を見る。
「こちらの『聖樹トマト』もです。これでは、各国の王侯貴族の食卓にしか並びませんわね」
アイリスがトマトを手に取ろうとすると、店番のエルフが払いのける仕草をする。
「触らないでいただきたい。人間の汚れた手で触れれば商品の価値が下がります」
エルフの商人は鼻で笑って言った。
「我々の野菜は人間の作るような『泥と薬品にまみれた餌』とは違うのです。精霊様の加護と、我々の祈りだけで育てた『完全なる自然の恵み』。高貴なる我々の労働対価として、この価格は妥当でしょう」
その言葉には、強烈な選民思想が滲んでいた。
自分たちは特別だ。人間とは格が違う生物だ。だから、どれだけ搾取しても構わないと。
「なるほど。『信仰』と『ブランド』を付加価値にして、価格を吊り上げているわけですか」
アイリスは冷静に分析する。
市場の奥には売れ残り、傷んだ野菜が山積みにされ、廃棄されているのが見えた。
「外では子供が餓死しているというのに、ここでは売れ残りを捨てている。わざと出荷量を絞り、価格を維持するため、ですか」
アイリスの瞳の奥に静かな怒りの炎が灯る。
非効率、そして独占による不幸。
アイリスが最も嫌うものが、ここにある。
◇
世界樹の根元にある『緑の宮殿』。
謁見の間で待っていたのは、エルフ族を統べる女王ロゼア。
長い金髪に白い肌。その美しさは神々しいほどだが、眼差しには人間という種族そのものを見下す、絶対的な冷酷さが見える。
「帝国の皇帝陛下、わざわざこのような辺境まで、何の用です?」
ロゼアは玉座から立ち上がろうともせず、退屈そうに頬杖をついた。
外交儀礼を無視した無礼な態度。
だが、ルーカスは眉一つ動かさず、静かに告げる。
「単刀直入に言おう。食料を売ってほしいのだ。周辺の村々では、干ばつで多くの民が苦しんでいる。貴国には余るほどの備蓄があり、廃棄すらしていると聞いた」
「断ります」
ロゼアは即答した。
「我々の食料は森を敬う同胞のためにある。大地を汚し、木を切り倒す人間たちに施す慈悲はありません」
「民が死んでも構わないと言うのか? 隣人が飢えているのだぞ」
「それが『自然の摂理』ですわ。人間は増えすぎました。イナゴのように大地を食い荒らす害獣……。少し減ったほうが地球環境のためでしょう? 飢えは母なる大地が与えた罰なのです」
空気が凍りついた。
ルーカスの身体から、殺気にも似た覇気が立ち昇る。
皇帝として、自国の民を害獣呼ばわりされたことを決して許せなかった。
腰の剣に手が伸びる。
「……今、なんと言った?」
「事実を言ったまでです。ああ、どうしても欲しいとおっしゃるなら、売って差し上げてもよろしくてよ? ただし価格は市場の100倍。支払いは金ではなく『領土の割譲』でお願いしますわ」
食料を武器にした恫喝。
もはや交渉の余地はない。
ルーカスが剣を抜き放とうとした時、アイリスが静かに進み出た。
「陛下、剣をお納めください」
「アイリス、しかし……」
「野蛮人に言葉は通じません。商人には商人のやり方がありますわ」
アイリスはロゼアに向き直り、扇子を開いて優雅に微笑んだ。
その笑顔は、エルフの女王よりも遥かに冷たく、美しかった。
「女王陛下、貴女の『商売の手法』は理解しました。供給を絞り、飢餓を煽って値を吊り上げる。素晴らしい戦略ですわ。競合相手がいなければ、ですが」
「競合? ふん、人間ごときに我々の聖なる野菜より優れたものが作れるとでも? 土も水も死んだ外の世界で?」
「ええ、作れますわ。私が作るのは祈りも加護も必要としない『論理』と『化学』で育つ野菜です。貴女が誇るそのブランド価値が、いつまで保つか見ものですわね」
◇
宮殿を出たアイリスたちは、無言のまま車に戻った。
ルーカスの怒りは収まらないが、アイリスの顔にはすでに次なる計画の青写真が描かれている。
「陛下、アレクセイ、仕事を始めますわよ」
アイリスは森のすぐ隣に広がる荒涼とした岩場を指差した。
帝国の飛び地だが、草一本生えない不毛の荒野だ。
「あそこを『農場』にします」
「え? いくらなんでも無茶ですよ。あんな岩場で」とルーカスが呆れる。「水もない、土は酸性で死んでいる。何百年かけても森にはならないぞ」
「いいえ、エルフたちは『土』にこだわっていますが、植物に必要なのは栄養素と水だけです」
アイリスは懐から一枚の図面を取り出す。
それはドワーフの国で設計させた『肥料生成プラント』と、ソフィアで解析させた『土壌改良術式』の融合設計図。
「空気中の窒素を固定し、大地を強制的に肥沃化させる錬金術。そして遺伝子レベルで選別された『最強の種』。これらを組み合わせれば、あの森を枯らすほどの収穫を生み出せます。彼らは食料を武器にしました。ならば、私たちは『価格破壊』という名の爆撃を行います。この森の野菜が、ただの雑草に見えるほどの『美味』と『安さ』で、市場を焼き尽くして差し上げますわ」
聖樹の森の隣で大規模農業開発が始まろうとしていた。
祈り vs 化学。
信仰 vs 経済。
全面戦争の幕が上がる。




