第十三話 たった一日で終わらせます
その日、ヴァレシアン共和国の歴史は、インクの黒より濃い漆黒に塗り替えられた。
――中央証券取引所。
つい数分前まで「買い」の熱狂に包まれていたその場所は、今や断末魔のような悲鳴で満たされている。
「ぼ、暴落だ……! 海運株が止まらない!」
「『金錨海運』が、昨日の100分の1だと……」
「だ、誰か買ってくれ! 頼む、買ってくれぇぇぇ!」
掲示板の数字が滝のように書き換えられていく。
原因は明白だ。帝国の『大陸横断鉄道』の開通である。
『船より速く、安く、安全』。
その事実は、海運業の未来を全否定した。もはや共和国の船は金を産む資産ではなく、ただの維持費のかかる木屑と化した。
ゴルド特使は震える手で髪をかきむしっていた。
「ありえん……。お、俺の資産が、溶けていく……」
彼の周りには紙屑と化した株券が雪のように散らばっている。
そこへ灰色のスーツを着たアイリスの代理人が、静かに歩み寄る。
「ごきげんよう、ゴルド様。約束の期日が来ましたね」
代理人は鞄から分厚い株券の束を取り出す。
「一か月前に貴方からお借りした『海運株10万株』。現物をお返しします」
「あ、ああ……俺の株……」
ゴルドは縋るように株券を受け取ったが、その価値は、貸した時の100分の1以下になっていた。
代理人は淡々と計算結果を告げる。
「我々は一か月前、この株を市場で『1株・金貨100枚』で売りました。そして今日、市場で『1株・金貨1枚』で買い戻しました。差額の『金貨990万枚』は、すべて我々の利益となります。ご協力、感謝しますよ」
「き、貴様ぁぁぁッ!!」
ゴルドは絶叫した。自分の株を使って帝国が莫大な富を得た。そして手元に戻ってきたのは、ゴミ同然の紙切れ。
――だが、地獄はそこで終わらなかった。
「お、おい! チューリップはどうなってる!?」
誰かが叫んだ。
海運株で大損をした商人たちは、穴埋めの現金を求め、一斉に保有していた『虹色チューリップ』を売りに出したのだ。
供給過多、需要蒸発、その結果。
「チ、チューリップ価格……ゼロ! 買い手がいません!」
「なんだと!? この球根一つで家が買えたのだぞ!?」
「何を言ってんだ! そんなものは、ただの植物だぞ! 食えもしない球根に金を出す奴がいるか!」
バブルが弾けた。
夢から覚めた人々は、手元にあるのが『泥まみれの球根』であることに気づき、発狂する。
ギルドもまた、倉庫いっぱいに抱え込んだ球根の山を思い出し、膝から崩れ落ちた。
「借金だ……」
「株もチューリップも、全部借金して買ったというのに……」
「銀行への返済が明日払えない……」
「お、俺たちは破産だ……」
取引所の床に、かつて「海の王」と呼ばれた男たちが這いつくばる。
そこへ、取引所の扉が乱暴に開かれる。なだれ込んできたのは怒れる市民たちではない。帝国の紋章が入った制服を着た、法務執行官たちだった。
先頭の執行官が高らかに宣言する。
「静粛に! これより債務整理を開始する! 共和国の主要銀行および商会は支払い不能に陥った。よって、国際破産法に基づき、すべての資産を『最大債権者』に譲渡する!」
「さ、最大債権者だと……? 誰がそんな金を……」
ゴルドが顔を上げると、取引所の巨大スクリーン魔道具に優雅に紅茶を飲む、アイリスの姿が映し出された。
『ごきげんよう、共和国の皆様。いいえ、今は帝国の保護下に入った旧共和国領の皆様と呼ぶべきかしら?』
画面の向こうで、アイリスは微笑んだ。
その笑顔は美しく、そして慈悲の欠片もなかった。
『貴国が発行した国債、及び破綻した銀行の債権。すべて私が空売りの利益で買い取りました。つまり、この国はたった今、帝国のものとなりました』
「く、国を買っただと……!?」
『ええ、安かったですわ。チューリップの球根より、お安く手に入りました』
アイリスは手元の書類にサインをした。
『これより、共和国の港湾施設と造船所、そして商船団は、すべて帝国の鉄道会社の子会社として再編します。……ああ、ゴルド特使、貴方には特別なお仕事を用意してありますのよ』
「し、仕事だと? や、役員か? それとも顧問か……?」
ゴルドが僅かな希望を抱いた瞬間、アイリスは告げた。
『鉄道の「石炭くべ係」ですわ。蒸気機関車は石炭を大量に消費しますから、貴方のような脂の乗った方には、ぴったりの現場労働でしょう?』
画面が消える。
同時に、執行官たちがゴルドたちに手錠をかけた。
「連行しろ! 借金は体で返してもらうぞ!」
「は、離せ! これは一時的な調整なのだ! 海は……海は必ず戻るのだぁぁぁ! 俺が認めん限り、負けではない! これは一時の誤解だ、誤解なんだぁぁぁ!」
ゴルドの絶叫は、暴落した株券の山に吸い込まれて消えた。建物の外では、職を失い怒り狂った下層市民たちが暴動を起こしていた。
「俺たちの仕事を返せ!」
「俺たちは腹減ってんだよ!」
「あいつらが海を止めたせいだろうが!」
「上の連中だけ儲けて、ツケは全部こっちかよ!」
「ゴルドを引きずり出せぇっ!」
だが、帝国の鉄道警備隊が『パンとスープ』を配り始めると、その怒号は次第に小さくなっていく。
「美味え……」
「パンなんて、何日ぶりだよ……」
「子どもにも分けてやれ、ほら」
「て、帝国は本当に敵なのか?」
「腹を満たしてくれて、仕事までくれるなら、どこが敵だってんだ」
「仕事があるなら、どこの旗の下でも構わねえさ」
「共和国万歳」の声は消え、「帝国万歳」「鉄道万歳」の歓声が港町に響き渡る。
数百年の栄華を誇ったヴァレシアン共和国は、たった一日の株価暴落で終わりを迎えた。
剣も魔法も使わずに行われた、世界で最も静かで、最も残酷な征服劇だった。
◇
数か月後、帝国の鉄道建設現場。
「オーライ! オーライ!」
黒煤にまみれたゴルド元特使が、蒸気機関車の石炭庫へ必死にシャベルを動かしていた。
その横で、線路の砂利を黙々と突き固める男がいる。アレクセイだ。
「おい、新入りの5610番! 手が止まってるぞ! 夕飯のスープが欲しいなら働け!」
「は、はいっ! すみません、404番先輩!」
ゴルドは涙目になりながら、かつて自分が馬鹿にしていた『肉体労働』に従事していた。
プライドはとっくに捨てた。今は一日の終わりの硬いパンだけが生きがいとなっている。
その彼らの横を最新鋭の特急列車『アイリス号』が、けたたましい汽笛を鳴らして通過していく。
一等車の窓辺。
アイリスは流れる景色と汗を流して働くかつての敵を眺め、満足気にティーカップを置いた。
「美しい光景ですわ」
「彼らのことか? それとも景色か?」
向かいに座る皇帝ルーカスが苦笑いする。
「いいえ、『循環』がですわ。無能な権力者が排除され、適正な労働力として再配置される。経済が血流のように世界を巡る。この完璧な数式こそが、私にとっての絶景です」
アイリスは手帳を開く。
王国、教国、共和国。すべてのページが『決算完了』の押印で埋め尽くされている。
「さて、陛下。この区間の制圧は完了です。次はいよいよ……」
「まだやるのか?」
「ええ、北の果てにある『ノルディア連邦』。彼らが、まだ我が社の鉄道網への接続を拒否しているのです」
アイリスの瞳が、 未開拓市場を見つけて冷たく輝く。
「豊富なレアメタル資源を持ちながら、『鉄は大地を汚す』などという古い迷信で国を閉ざし、民を貧困に縛り付けている頑固な老人たち……。彼らに『文明の暖かさ』と『自由貿易のメリット』を教えて差し上げなくてはなりませんわ」
アイリスは手帳の『ノルディア連邦』のページに、赤ペンで大きく『開国(物理)』と書き込んだ。
「鎖国政策による市場の独占は、私の辞書にはありません。ふふ……北風と太陽、どちらが勝つか試してみましょうか」
列車は黒煙を上げ、雪の舞う北の方角へと進路を取る。
断罪から始まった悪役令嬢は、世界を丸ごと『黒字』にするまで止まりそうにない。
線路の続く限り、そして請求書が届く限り、アイリスの戦いは続く。
これにて第一章は終わり、次話から第二章に入ります。
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