12.偽りの名、確かな居場所 The Name and the Shelter
低い電子音が止み、青いライトが静かに消える。
空気の焦げた匂いだけが残り、室内の機械がゆっくりと冷めていく。
マルクは工具を置き、顎でノアに合図した。
「――完了だ」
ノアは深く息を吐いた。
首の後ろに微かな熱が残っている。
焼けるような痛みはないが、体の奥で何かがわずかにズレている様な気がした。多分気のせいなのだが。
マルクは作業台の端末を指で操作しながら、淡々と告げる。
「改竄にあたって記録を一部読ませてもらった。お前の要望通りにするために院での所属履歴を完全に消している」
ノアは小さく眉を寄せた。
「うん」
「しかし、戸籍上、お前には“親”がいない、孤児として登録されてる。だが、孤児でありながら院にいないってのは制度上おかしいことになる」
マルクは端末を閉じ、灰色の視線を向ける。
「そこで、仮の親を設定した。
ただし、仮と言っても架空だとバレたとき面倒だ。実在する人物を使う。それはこっちでストックしている“子”が欲しいやつがいる。お前は“親”が必要で、向こうは”子”が必要。そいつを戸籍情報に組み込んだ」
ノアは言葉を失った。
マルクの声は淡々としていたが、どこか非現実的すぎて息苦しかった。
「利害は一致してるってこと?…それで何か私には都合になることはない、?」
「そうだな。お互いに干渉するかどうかは、お前次第。向こうは“子”に任せると言ってる」
マルクは端末から一枚の薄いカードを取り出し、机の上に滑らせた。
カードの端に刻まれた名前は《SERA KANZAKI》。QRコードの記載。
「向こうの連絡先だ」
ノアはそれを受け取り、しばらく見つめた。
「……使うかはまだ分からないけど、もらっておく」
「それでいい」
マルクは小さく笑い、背を向けた。
「代金は確かに受け取った。また何か良い情報が手に入ったら来い」
ノアが席を立とうとしたとき、マルクがぽつりと続けた。「チップの書き換えで身体に異変が出ることはないが……お前、あちこち傷だらけだな。それに、回復薬の使い過ぎだ。そろそろ休め。身体が先に壊れるぞ」
ノアは思わず苦笑した。
「……言われてみれば、たしかに」
「だろ」
マルクの表情は読めなかったが、どこか優しげだった。ノアは軽く頭を下げ、静かな電子音を背にして《DF》を後にした。
*
深まった夜の風が肌を撫でた。
街のネオンが滲んで見える。
瓦楽街の灯りはいつもよりも遠く感じられた。
チップの部分に手を当てる。
何も変わっていないようで、何かが確かに変わっている。それでも、着実に生きるための段階を踏んでいるんだと分かる。
宿に戻る途中、ふと足を止めた。
旧都環層フィールドのおかげで思ったよりもクレドが潤っている。今の宿は安いが、鍵も甘く、防犯面が不安だ。
「……もう少し、ちゃんとしたとこにしよう」
瓦礫通りの角を曲がって光の強い大通りへ出る。
軒を連ねる安宿の中から、湯気の上がる看板を見つけた。
《温水完備・個室・55クレド/1泊》
少し高い。けれど、今夜くらいはいいかと思った。
ポータで支払いを済ませ、部屋の鍵を受け取る。
部屋に入ると、清潔なシーツと湯気の香りが迎えてくれた。湯を浴びて鏡を見る。
1番最初に襲われた、マルファビーストに付けられた小さな傷がようやく薄くなっていた。
ベッドに腰を下ろした瞬間、ポータが小さく震えた。
画面には新着メッセージ。
差出人は、メリア。
『旧都環層の件、改めてお礼を言いたくて。
少し話ができればと思います』
ノアは短く息を吐き、返事を打つ。
『宿の住所を送ります。しばらくはフィールドワークを休むので、いつでも空いています』
送信のあと、画面を伏せた。
部屋の灯りを落とすと、外のネオンが薄く天井を照らした。
静かだった。
誰にも追われない夜。
枕元に置いた透明なコアがわずかに脈を打った。
――ようやく、息ができる。




