11.闇の刻印 Mark in the Dark
オブシディアン・コアは思っていた以上に高く売れた。
討伐したアビスの残滓から取り出した漆黒の核石。
あの異形の中で光っていた黒は、店主の目を丸くさせるほどだった。
「……まさか、これを自力で?」
彼の声が震えていたのを、今でも思い出す。
レゾナイトも高品質のものが混じっていたらしい。
手の中に残った透明の欠片を差し出すと、店主は珍しく言葉を失い、
「こいつは……上に流せば相当な額になる」と呟いた。
初めてあんなに動揺しているところを見て、
ノアは思い出し笑いをした。
そして同時にその日、彼から一つの話を聞かされた。
「…おまえ、チップまだなんもやってねえよな?」
ノアは静かに頷いた。店主は煙草の灰を落としながら、誰にともなく呟く。
「この辺じゃな、**“闇のフォージャー”**ってのがいる。身分を消したい奴、過去を捨てたい奴、あるいは誰かに追われてる奴、そういう連中が絶対最後に辿り着くところだ」
ノアは聞き返した。
「……闇のフォージャー?」
店主は小さく頷く。
「普通の改ざん屋じゃない。正規でもねえし、大事なのは金じゃ動かねぇところだ。代価は“情報”だ」
「情報……?」
「そうだ。記録、研究データ、時には人の記憶すら欲しがるって噂もある。名前も顔も毎回変わって分からないらしい。が、腕は確かだ」
ノアの胸の奥が、静かに鳴った。
罪悪感と安堵が同時に膨らむような、不思議な感覚だった。
情報なら、持っていた。
あの紙束――孤児院の監視員が握っていた、裏取引の記録。私では手に負えないだろう重要な情報なのは確かだ。何かを動かす鍵になりそうな気がしていたが、今がまさにおあつらえ向きだ。
「会ってみる価値はあるんじゃねえか」
それを聞いた瞬間、ノアの胸の奥で小さな音がした。罪悪感と安堵が、同じ場所で混ざり合うような。
――もう、逃げられないのかもしれない。
けれど、それでも、生きるためには進むしかない。
*
夕暮れの瓦楽街。
市場を覆っていた喧噪が消え、残るのは機械の排気音と遠くのクレーンの唸りだけ。ノアはフードを深く被り、人気のない路地を歩いていた。
目的は一つ、IDチップをどうにかすること。
店主の言葉が、頭の奥で何度も反芻される。
「早いところ取っとけ」。
そう簡単に言われても、そんな場所、普通どこに行けばいいのか分からないでしょ…。
大通りを離れ、再び路地裏の奥へ。
昼間は絶対に開かない、古びた金属扉の前で立ち止まる。薄暗いランプに浮かぶのは、煤けた看板の一部で《DF》 の文字。教えてもらった目印はこれだ。
「……ここ、かな」
戸を押すと、金属が軋んだ。
中は狭く、機械の熱と金属粉の匂いが混じっている。古い端末や義手のパーツ、解析装置が所狭しと積まれていた。
その奥に、青いライトの下で黙々と作業をする影があった。
男は、ノアの足音に反応してようやっと顔を上げる。
浅黒い肌に無精髭、黒髪は短く整えられている。瞳は機械の光を反射して青く光った。半身は幾何学的なタトゥーで埋め尽くされている。年齢はおそらく30代後半。どこか人間くさく ない(・・)静けさがあった。
「チップか、データか」
第一声がそれだった。
まるでノアの目的を知っていたように。
ノアは一瞬ためらい、ポータを握りしめた。
「……IDの、書き換えができる人を探してる」
男は煙草の火を消し、立ち上がる。
背は高く、動きは無駄がない。
「名前は」
「……ノア」
「偽名でいい」
「じゃあ……アリア」
男は笑った。
「いい嘘だ。俺はマルク。――闇の鍛冶屋って呼ばれてる」
マルクの声は低く穏やかだったが、どこか鋭い。
「で、書き換えの代価はなんだ?聞いていると思うがクレドはいらねぇ。俺が欲しいのは記録、だ」
ノアは布袋の奥から、一枚の紙束を取り出した。
油染みと血の跡がついた、例のメモだ。
「孤児院の裏取引の記録と何か、研究のことも書いてある」
マルクが受け取り、光の下で目を細める。
「……へぇ。これ、見たことある符号だな。
“第5実験層”。……おまえ、これ、どこで拾った?」
ノアは答えない。
代わりに、首元のチップを軽く触った。
「それ以上は関わりたくない。記憶もこれも消したいだけ」
短い沈黙のあと、マルクが笑う。
「気に入った。座ろうか。少し話をしよう」
ノアは少し警戒しながらも、指示された丸椅子に腰を下ろした。金属のきしみ。壁際では機械が低く唸り続けている。
「IDチップの改ざんは簡単じゃない」
マルクは言いながら、机の上に小型スキャナを置いた。
「普通の偽造なら五分。だが、“院”のチップは特製だ。生体同期型――体の電位と連動してやがる」
「……抜けない、ってこと?」
「抜けはする。けど、間違えば“焼き切れる”」
マルクが指先を軽くひねる仕草をする。
「つまり、おまえの首ごと、な」
ノアの喉が鳴った。
それでも逃げなかった。
マルクの目はじっとこちらを見て、にやりと笑う。
「だが、無理とは言わねぇ。
――おまえが見せたその紙、本物なら、話は別だ」
青い光がノアの頬を照らす。
マルクの手元でスキャナの電源が入る音がした。
「取引成立だ。チップは抜かない。再構築を始めよう」
ノアは小さく息を飲んだ。
逃げるでもなく、頷くでもなく、ただまっすぐにマルクを見ていた。




