ガンダムにまつわる記憶~SEED、死者復活の功罪~
私は宇宙世紀シリーズもアナザーガンダムも、まぁ世間のOLや主婦の平均よりは多少見てるかな?という程度には見てきたが、何を思ってガンダムを見てきたかというと……
「戦争という極限状態の中、宇宙で儚く散華していく人間たちのドラマ」
を見たいからというのがやはり大きい。というのも、幼少期に何となく見ていたガンダムのイメージがそれだったからである。
宇宙という、生身で投げ出されればそれだけで生存が絶望的な環境の中――
モビルスーツという、これまた爆発すれば当たり前に中の人も光となって消える兵器を使って人間同士が戦う。それ以外のロボアニメで見てきたような奇跡など起こらず、正義も悪もなく、主人公側であっても死ぬ時は死ぬ。
ニュータイプだのソロモンだのアバオアクーだの、言ってることは全然分からないけどとにかくヤバイことをやっているというのは子供の私でも分かった。
Zになるとさらにワケが分からなくなって見たり見なかったりだったが、それでも何かとんでもなくヤバそうだというのはやっぱり伝わった(コミックボ〇ボンでたまたま見たZ漫画でのエマさんの死にざまが何故か印象的だったというのもある……そのコマしか覚えていないというレベルで。
同時に読んだ鬼太郎も街が破壊されたり仲間が壊滅したりとか相当怖い展開だったというのもあり、小さい頃見たZに関しては「ワケ分からんけど怖い」というイメージが植えつけられている)
それからだいぶ経過してから種(ガンダムSEEDシリーズ)にハマった。
当時から賛否両論が嵐のように巻き起こった作品であり、私自身もたびたびガチギレするような展開も非常に多かったが、それだけ良くも悪くも大きく感情を揺さぶられる作品でありキャラクターたちだったのは間違いない。
推しのサイ君が種運命で出番なしだったのが不満すぎてサイ君主人公の二次創作(200万文字超)を書いたレベルである。
また、これをきっかけに過去のガンダムを見るようになり、劇場版Zがちょうど公開されたのもあって初代やZを改めて最初から見直し、さらにVやユニコーンを見るようになった。
多分こういう形でガンダムにハマっていったファンも多いのだろうと考えると、やはりSEEDの影響は凄まじい。
しかしSEEDはガンダムを大きく盛り上げたが、同時に一線を超えてしまった点も多い罪作りな作品でもあった。
夕方の時間帯での××なシーンとか終盤における主人公交替とか色々あるが、個人的に一番やってはいけなかったと思っているのが「ムウ・ラ・フラガの復活」である。
SEEDの最終盤付近でアークエンジェルを庇い、ストライク共々爆死したフラガ。これは悲劇が重なったSEED終盤でも大変ショッキングな出来事だったが、続編となる種運命(ガンダムSEED Destiny)の終盤で彼はなんと復活。しかも「あの状況から何故生存できたのか」の説明がほぼなしで。
宇宙空間に漂う、破壊されたヘルメット(フラガのパーソナルマークつき)という描写があったにも関わらずである。
※ちなみに今でも自分は、フラガはクローンではないかと疑っている。勿論劇場版での彼も……
この復活劇は他にも様々な問題(ステラたち強化人間を利用していたようにしか見えない描写や、ステラ死亡の原因を作った件についてシンに弁明もなかったりetcetc)を孕んでいたが、やはり
「明らかな死亡描写があったにも関わらず、特に明確な理由なく生存していた」
という点が最大の問題だったように思う。
ちなみに後に出てきた媒体(スペシャルエディション版、リマスター版など)ではこのヘルメットが消失しているのがさらに酷い。
SEEDシリーズにはこれ以外にも不自然な生存描写(特にメインキャラ周り)が多かったが、フラガのコレについてはその極致と言えるだろう。
これが以降のガンダムシリーズにどういう影響をもたらしたかというと
「死亡描写あったけど生きてるかも知れない」
という疑念を視聴者に植えつけてしまったのが最悪だったと自分は思う。
これにより、「戦争という理不尽により、光と熱の華となって宇宙へ命が散っていく(メインだろうとサブだろうと容赦なく)」というガンダムシリーズならではの悲劇が持つ魅力が大きく減ってしまった。
メインキャラのMSが宇宙空間で爆発四散しても、「もしかしたら生きているのでは? だって種だったら(ry」という意見が当たり前に出てきてしまうのはかなり致命的。
前例があるというのはそれだけヤバイ……
さらに言えば、これ以降のガンダムシリーズで実際に、「絶対に死んだだろコレ」という描写があっても生きていた事例が出てきたのも問題。00のコーラサワーぐらいだったらストーリーの大勢にあまり関わってこずネタに昇華できる分まだマシだが、鉄血のガエリオとか作品に悪影響しか及ぼしてない。
ガンダムというシリーズを大きくけん引していたのは、戦争の理不尽さであり、それに伴い必然的に発生するキャラクターたちの悲惨な死であり、それによって大きく揺さぶられるドラマだと思っている。
SEEDはその点は大げさなくらい分かりやすく描かれ、そこで人気が出た作品でもあった。しかしフラガの復活によって自らその美点を覆してしまったし、さらにはガンダムシリーズの方向性自体がここから変わってしまったのではとさえ思える。
SEEDシリーズの後に登場した「ガンダム00」はSEEDの反省をいかしてか、ストーリーもキャラクターもかなり堅実なつくりをしており、続編や劇場版も作られ人気を博した。
しかしその後、親子三代にわたる大河ドラマをガンダムで描いた「ガンダムAGE」は人気的にも売上的にもイマイチだった。これも「ドラマ重視」から「バズり重視」ガンダムへと拍車をかけたのかも知れない。
(AGEの場合、殆どの展開が予想の範疇を超えることなくひたすら単調に物語が進み、時々予想を裏切ることはあっても悪い方向にしか裏切らないという欠点も大きかったが……それぞれの世代のヒロインの扱いとかジラードとか)
「鉄血のオルフェンズ」こと鉄血もそれまでと同様、2クール以上の長いストーリーを紡ぐガンダムだったが、前半(1期)はかなり好評だったし作りも非常に良かったと思う。悲惨な事件や仲間の死もあったがそれでも主人公たちが団結して立ち向かっていく前向きなストーリーだった(終盤の戦闘でこれは死んだ?と思ったキャラが1期最終話であっさり生きていたりなど、嫌な予兆はあったが)
しかし2期は前述の通りかなり賛否両論、というか否の方が多い顛末に。
「鉄華団の壊滅」という結末自体よりも、そこに至るまでの過程が強引すぎた為に批判が多くなったのだろうと自分は思っているが、これがきっかけで「悲劇により動くドラマ」よりも「ノンストレスストーリー」が重視されるようになってしまった……のかも知れない。ガンダムでノンストレスってどういうことだと自分は思ってしまうが。
そしてAGEや鉄血といった作品を経て、「長期にわたるドラマとキャラの成長や関係性重視」「悲劇により揺れ動く物語重視」ではなく、「毎回毎回どうやって視聴者を引き付けていくか」の、いわゆる「バズり重視」方式に変わってしまったのが「水星の魔女」。
水星に関しては全50話という長期の物語ではなく、その半分の26話で完結させなければならなかったというのも厳しかった。
倍の尺があれば4号も実質退場するのは6話ではなく1クール終了ぐらいだったかも知れないし、グエルの地球行きと帰還もじっくり描けたかも知れないし、シャディクの人となりや背景もきっちり描けたかも知れないし、デリングやペイルババァにもきっちり制裁が下るかも知れなかったし、何よりスレッタとエリクトとエアリアルの謎が駆け足ではなくちゃんと事細かに説明されるかも知れなかったし、紅茶飲んでただけでミオリネがぶっ叩かれることもなかったかも
……と思ってしまうが、水星で起こったアレコレをよくよく思い出すと、倍の尺があっても結局どれもこれも大して描かれず、株式会社ガンダムやら地球寮描写やら何やらで引きのばしに引きのばして終わる可能性の方が高く、ただでさえ長期にわたった4号推しの苦痛の期間が倍になるだけだったかも知れない(;´Д`)
毎週毎週「今度は何が起こるのか?」のドキドキはあったものの、物語が完結した後で自分の中に何が残ったかというと、「跡形も残ってねぇな……」というのが正直なところ。
そして現在のジークアクスである。
水星の半分となり、さらに短くなった尺。そしてまさに「バズり重視」な構成な上、キャラの感情が意味不明、描かれない関係性、頻出する謎ワード。
これを「宇宙世紀という舞台を使って」「ifの世界線で」やってしまったのが、今まさに賛否両論となっている感じもする。
「宇宙世紀の二次創作」という意見もちょいちょい見る気がするが、仮にジークアクスをハーメルンで掲載したらどれほど手厳しい評価がついたのか見たい気がするw
多分
・この作者シャリアブル好きすぎでしょw
・原作であっさり死んだモブ使って二次で無双するの地雷なんだけど
・三連星が二連星になった上オリキャラにぶっ殺されるのかよ
・オリ主人公がウザすぎる
・ララァが解釈違いすぎる
・バスクにサイコガンダムあれだけかよ
・ギレンあっさり殺し過ぎ
・宇宙世紀なら宇宙世紀と分かるようにタグつけろ
で、評価バー黄色ぐらいで終わりそうな。いやヘタしたら緑以下か。