名前ではない何か
空気が湿っていた。
それが雨のせいなのか、夜のせいなのかはわからなかった。地面はぬかるみ、足元からじんわりと冷たさが滲んでくる。
そこは線路沿いの崖の上だった。
申し訳程度の鉄柵。
その先には線路があり、
さらにもう一段下に森が沈んでいる。
昼間でも人は来ない。
夜になれば、なおさらだった。
そこに、先客がいた。
黒いパーカーを着た細い背中。
フードは被っていない。
肩まで落ちた髪が雨に濡れている。
それでも立ち尽くしていた。
何か言わなければいけない気がして、声を出した。
「……何してるの」
振り返った顔は、泣いているのか、
ただ雨に濡れているだけなのか判別がつかなかった。
けれど目が合った瞬間、
すべてを理解してしまった気がした。
ここへ来た理由。
どうして雨の中、ひとりで立っていたのか。
説明なんて、いらなかった。
「君こそ」
それだけ返され、ふたりは黙った。
やがて並んで座る。
地面の冷たさも、背中に当たる雨も、
もうどうでもよかった。
会話はゆっくり始まった。
年齢、学校、家のこと。
深く踏み込まないけれど、不自然に避けもしない。
まるで昔から知っているみたいに、自然に言葉が続いた。
「死んだら、どうなると思う?」
「何もなくなるんじゃない」
「……それでも、そっちの方がいいの?」
「少なくとも、今よりは」
嘘じゃないと、きっとすぐに伝わった。
それでもあの子は、ふっと笑って
「……わかるよ」
と小さく言った。
それから何度かそこへ通った。
約束はしなかったのに、
同じ時間に同じ場所に、なぜかいた。
話すことは少しずつ減り、沈黙が増えた。
けれどその沈黙は心地よかった。
どこかで互いに、
少しだけ生きることに慣れてしまっていた。
笑ったり、何かを食べたり、
買ってきた飲み物を半分こしたり。
そんな些細なことが、思っていたよりずっと温かかった。
ある夜の終わり、あの子が言った。
「今日じゃなくてもいいよね。……終わらせるの」
「うん」
そのとき、はじめて本気で生きたいと思った。
もう少しだけでいい。
もう少しだけ、この子と生きていたい。
そう思ってしまった。
「俺さ、もう、死にたくないかもしれない。
……いや、たぶん、生きたい」
あの子は目を見開き、それから泣きそうに笑った。
「そっか。……じゃあ、お別れだね」
「え?」
「だって私たち、そういうんじゃないもん。
……同じだったから一緒にいられたんだよ。
違う方向を向いちゃったら、ダメなんだよ」
「でも、君だって──」
「言わないで。それ以上、何も言わないで」
声は震えていた。
けれど背中はまっすぐだった。
何か言うべき言葉は喉の奥に張りついて動かなかった。
あの子は立ち上がる。
ぬかるんだ足元も気にせず歩き出す。
手も振らない。
振り返りもしない。
ただ静かに遠ざかっていった。
それが最後だった。
その後、何度あの場所へ行っても会うことはなかった。
名前も知らない。
何処の学校かも、家の住所も、何も知らない。
それでも、あの夜、あの湿った空気の中で、
確かに心が触れ合っていたことだけはわかっている。
ふたりは同じだった。
同じ重さの闇を抱え、同じ出口を見つめていた。
でも、少しでも光を求めてしまった僕は、
あの子と並んで歩く資格を、きっと失った。
それでよかったのかは今もわからない。
ただ、あの子が泣きそうに笑ったあの顔だけが、
今も消えずに残っている。




