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名前ではない何か

作者: P4rn0s
掲載日:2026/03/03

空気が湿っていた。

それが雨のせいなのか、夜のせいなのかはわからなかった。地面はぬかるみ、足元からじんわりと冷たさが滲んでくる。


そこは線路沿いの崖の上だった。

申し訳程度の鉄柵。

その先には線路があり、

さらにもう一段下に森が沈んでいる。


昼間でも人は来ない。

夜になれば、なおさらだった。


そこに、先客がいた。


黒いパーカーを着た細い背中。

フードは被っていない。

肩まで落ちた髪が雨に濡れている。

それでも立ち尽くしていた。


何か言わなければいけない気がして、声を出した。


「……何してるの」


振り返った顔は、泣いているのか、

ただ雨に濡れているだけなのか判別がつかなかった。

けれど目が合った瞬間、

すべてを理解してしまった気がした。


ここへ来た理由。

どうして雨の中、ひとりで立っていたのか。

説明なんて、いらなかった。


「君こそ」


それだけ返され、ふたりは黙った。

やがて並んで座る。

地面の冷たさも、背中に当たる雨も、

もうどうでもよかった。


会話はゆっくり始まった。

年齢、学校、家のこと。

深く踏み込まないけれど、不自然に避けもしない。

まるで昔から知っているみたいに、自然に言葉が続いた。


「死んだら、どうなると思う?」


「何もなくなるんじゃない」


「……それでも、そっちの方がいいの?」


「少なくとも、今よりは」


嘘じゃないと、きっとすぐに伝わった。

それでもあの子は、ふっと笑って


「……わかるよ」


と小さく言った。


それから何度かそこへ通った。

約束はしなかったのに、

同じ時間に同じ場所に、なぜかいた。


話すことは少しずつ減り、沈黙が増えた。

けれどその沈黙は心地よかった。

どこかで互いに、

少しだけ生きることに慣れてしまっていた。


笑ったり、何かを食べたり、

買ってきた飲み物を半分こしたり。

そんな些細なことが、思っていたよりずっと温かかった。


ある夜の終わり、あの子が言った。


「今日じゃなくてもいいよね。……終わらせるの」


「うん」


そのとき、はじめて本気で生きたいと思った。

もう少しだけでいい。

もう少しだけ、この子と生きていたい。

そう思ってしまった。


「俺さ、もう、死にたくないかもしれない。

……いや、たぶん、生きたい」


あの子は目を見開き、それから泣きそうに笑った。


「そっか。……じゃあ、お別れだね」


「え?」


「だって私たち、そういうんじゃないもん。

……同じだったから一緒にいられたんだよ。

違う方向を向いちゃったら、ダメなんだよ」


「でも、君だって──」


「言わないで。それ以上、何も言わないで」


声は震えていた。

けれど背中はまっすぐだった。

何か言うべき言葉は喉の奥に張りついて動かなかった。


あの子は立ち上がる。

ぬかるんだ足元も気にせず歩き出す。

手も振らない。

振り返りもしない。

ただ静かに遠ざかっていった。


それが最後だった。


その後、何度あの場所へ行っても会うことはなかった。

名前も知らない。

何処の学校かも、家の住所も、何も知らない。


それでも、あの夜、あの湿った空気の中で、

確かに心が触れ合っていたことだけはわかっている。


ふたりは同じだった。

同じ重さの闇を抱え、同じ出口を見つめていた。


でも、少しでも光を求めてしまった僕は、

あの子と並んで歩く資格を、きっと失った。


それでよかったのかは今もわからない。

ただ、あの子が泣きそうに笑ったあの顔だけが、

今も消えずに残っている。

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