第3話 ゴリラと作法と宝石箱
建ち並ぶ雑居ビル群の上を、少女を小脇に抱えた大漢女が跳びまわる。
地上から十メートルはあろうかという高さを、巨体に似合わぬ軽業で駆け抜けていく金ちゃんにしがみつきながら、少女は真っ青な顔で叫んだ。
「いったいどこ行くのよ……!? ぎゃあああああああああ……!!」
「うっさいわね!! 目立っちゃうじゃないのよ!?」
「街中にゴリラが出れば目立って当然……いやああああああああああ……!?」
ゴリラが気に障ったらしく、金ちゃんはビルに張り巡らされた電線を掴んでアクロバットを過激にした。
「まあ失礼!! 誰がゴリラよ!? ゴリラっていうのは……こういうのを言うのよ!!」
「ウホッウホッ!! ウホホホホホホ〜!!」
本物のゴリラよろしく雄叫びを上げながら電線を掴んで金ちゃんは真っ逆さまに飛び降りる。
その瞬間、少女の眼下にNEO歌舞伎町の艶やかな夜景が飛び込んできた。
極彩色に彩られた夜の街は、さながら乙女の宝石箱のような輝きを放っている。
綺麗……
思わず見とれた次の瞬間、凄まじい重力と、身体にかかる遠心力で少女は現実に引き戻された。
あまりの恐怖に叫ぶことも出来ず、息をするのも忘れて金ちゃんの身体にしがみついていると、振り子のように跳ね上げられた二人は一軒のビルの屋上に着地した。
「ほれ……着いたわよ」
少女を地面に落とすと、金ちゃんは首をゴキゴキ鳴らしながら、屋上の片隅に設けられた鳥居の方へと歩いていった。
鳥居の奥には小さな掘っ建て小屋が立てられている。
少女があたりを見渡すと、屋上への出入り口は何処にも見当たらなかった。
「なんで家まで連れて来ちゃったんでしょうねー」
掘っ立て小屋の扉を開けて金ちゃんがつぶやく。
少女がその場に立ち尽くしていると、家の中からひょっこりと顔を出して、嫌味っぽく金ちゃんは叫んだ。
「何ぼけっと突っ立ってんのよ!! さっさとおし!! 虫が入ったらどうすんのよ!?」
少女はしかめっ面のまま、金ちゃんの言葉に従い小屋の方へと歩いていった。
がらんとした部屋の壁際にはシンクと手洗い場、そして小さな二口コンロが設置されている。
南の壁には神棚があった。
御札の両脇にはお神酒と榊が供えられていて、真下には一本の掛け軸が垂れ下がっていたが、崩れた字のせいで少女には読むことができない。
チーン……
静寂におりんの清浄な音が響き渡って少女は部屋の隅にハッと振り返る。
そこには正座をして二つの遺影に手を合わせる金ちゃんの姿があった。
「あんた、お腹空いてない?」
静かに目を開き、金ちゃんは言った。
「別に……ていうかアンタじゃないし……」
「じゃあ何よ?」
「別に……教える意味ないし」
「なっにっそっれー!? あんたが呼び方にケチつけてきたんじゃないのよ!? この生意気ションベン娘!!」
「はあ!? なにそれ最低!!」
「漢に襲われてピーピーって漏らしてるところから名付けましたぁ」
そこにはムカつく変顔をしたオカマが立っていた。
少女も思わずムキになって言い返す。
「漏らしてねえし!!」
「じゃあ名前言いなさいよ!!」
そう言って金ちゃんはキッと少女を睨んだ。
少女は一瞬言葉に詰まってからふてくされたように小さな声で言う。
「さくら……」
金ちゃんは目を細めてふーん……と何度も頷くとシワシワの声色を作って言った。
「贅沢な名前だね……!! あんたの名前はさらだよ!!」
「はあ!? 皿!? 意味わかんない!?」
「あんたっていちいちうるさいわね? ただの洒落よ!! しゃーれ!! ご飯にするからさくらお皿の準備!!」
そう言って金ちゃんは台所に立つと、ハートの散りばめられたブリブリのエプロンを身に着け、慣れた手つきでお米を炊き始める。
土鍋を火に掛けると壺の中から取り出したぬか漬けを洗い、木のまな板に置いて振り返った。
「ちょっとぉ? また突っ立てる!! そこの戸棚にお皿が入ってるからさっさと用意しなさいよ!?」
さくらは渋々戸棚に向かい中からお皿を二枚とお椀を二つちゃぶ台へと運んだ。
文句を言われても癪なので、湯呑みと急須も出しておく。
金ちゃんはいつの間にか味噌汁まで作っており、腰に手を当てお玉で味見をすると、満足そうに頷いた。
エプロンと揃いのハートが散りばめられたミトンで土鍋を運びながら、金ちゃんはジト目でさくらを睨んで味噌汁の椀が無いことを指摘する。
思わずさくらは舌打ちしてから戸棚に向かい乱暴にお椀を机に置いた。
「て・い・ね・い・に!」
そう言って金ちゃんは着物の袖を片手で押さえ、流れるような所作でお椀に味噌汁を注いでいく。
しいたけと青菜だけの質素な味噌汁だったが、出汁の良い香りが広がり、思わずさくらの腹の虫が歓声を上げた。
ちらりと金ちゃんはさくらを一瞥すると、土鍋の蓋をそっと開く。
湯気の中から姿を現した炊きたての白米は銀色に輝き、甘い匂いに混じってお焦げの香ばしい香りが立ち上った。
「おかわりは自分でよそいなさいよ?」
そう言って金ちゃんはピカピカの白米が盛られたお椀をさくらに手渡した。
味噌汁と白米とお漬物……
それだけの食卓がどうしてこんなにも輝いているんだろう……?
さくらは戸惑いながらもお箸を手にしてお椀に手を伸ばす。
バシッ……!!
しゃもじがさくらの手の甲を叩いた。
「痛ったい!?」
「痛いじゃないわよ!! 食事の前は手を合わせて頂きますでしょうが!!」
「はあ!? なにそれ!? 子どもじゃないし!!」
そう言ってさくらが睨んだ視線の先には、流麗な所作で着物の裾を整えながら正座する金ちゃんがいた。
伸ばされた背筋とまっすぐに天を向く重ね合わされた指先。
頂きます……
ちいさく呟き頭を下げて、再び元の位置に戻るまでの一動作には、一部の隙も無駄もない。
その美しさに思わず言葉を失い、何も言い返すことができなくなったさくらは、仕方なく手を合わせてつぶやいた。
「いただきます……」
それを見届けた金ちゃんは豪快にご飯をかき込ん言う。
「うんま〜いっ!!」
その声に合わせて口から白米が飛び出した。
「ちょ……!! 汚い!!」
「いいからあんたも早く食べなさいよ!!」
シャキシャキとお漬物を噛み鳴らしながら言う金ちゃんに、さくらは顔を顰めながらもお味噌汁に口を付けた。
「おいしい……」
思わず口をついた言葉に、勝ち誇ったような顔でこちらを見つめる金ちゃんがムカつくが、さくらは白米を頬張り、お漬物にも手を伸ばす。
いつの間にか二人で土鍋のお米を食べ尽くすと、お茶を飲み終えた金ちゃんが再び姿勢を正して言った。
「ご馳走様でした」
今度はさくらも素直に手を合わせる。
「ごちそうさまでした……」
成り行きで二人並んで食器を洗っていると金ちゃんがおもむろに口を開いた。
「あんた、帰るとこあんの?」
「別に……適当にネカフェとかで過ごせばいいし」
「友達は?」
「……」
無言のさくらに金ちゃんは溜め息をついてから言った。
「あんな危ない橋渡ってたら、そのうちほんとに死ぬわよ? 正直、楽に死ねたら良いほうよ?」
「関係ないじゃん……」
「あるわよ! 一緒にご飯食べちゃったんだから!! 明日店のママに頼んで雑用の仕事もらってあげるから、あんたあの店で働きなさいよ!」
「はあ!? なんでそうなるのよ!!」
目を見開いて叫ぶさくらに金ちゃんは妖しい微笑を浮かべて答える。
「一宿一飯の恩って言ってね。あんたはあたしに借りがあるわけ! 店をめちゃくちゃにしたからママはカンカンよ? あんたを労働力として差し出せばママの怒りも収まるってわけ!」
「自分の都合じゃん!!」
「居候はお黙り!」
そう言って金ちゃんは部屋の隅に畳まれた布団を敷くと出口に手をかけて言った。
「あんた今日はそこで寝なさい。あたしは今から鍛錬だから」
出ていく金ちゃんの背中に向かってさくらは舌を突き出して中指を立てた。
しかし、しんと静まり返った小屋の中ではすることもないため、仕方なく布団に寝転がる。
絶対臭いよ……
そう思って横になった金ちゃんの布団からは、意外にもクチナシの良い香りがした。
外から聞こえる規則的な素振りの音を聞いている内に、さくらはいつしか眠りについていた。