呪われし人格
*** ???視点 ***
「ごめんなさい……お母さん……ごめんなさい……う、うう……」
森の奥で、小さな女の子が泣いていた。
とてもきれいなシルバーヘア。しかし、それとは対照的に、その身なりは赤黒く汚れていた。
そしてなぜか、汚れた“なにか”を抱きしめたまま、声を震わせていた。
「よお、小娘、なに泣いてやがる」
「うぐっ……えぐっ……」
少女の二、三倍はありそうなサイズの真っ黒な塊が、ぬっと現れる。
少女の耳には届いているが、嗚咽で言葉が返せない。
「おーい、聞こえてんだろ? 女。なにしてやがる」
黒い塊に促されるように、少女は顔を上げた。
「うぅ……あなた、だれ……妖精?」
「おいおい、こんな真っ黒な妖精がいるのか?」
涙で濡れた顔を再び伏せた。
黒い塊は、ため息をついて問いかける。
「なぁ、そのボロボロなのは……お前の母親か?」
少女はびくりと肩を震わせ、咽び泣きながら言葉を絞り出した。
「……うん……お母さん……森で、狼に襲われて……」
抱きしめていたのは、息絶えた母親だった。
血に塗れた体を、少女は必死に腕の中に抱えていた。
「なぁ、小娘——そいつ、蘇らせてやろうか?」
「えっ……できるの……?」
少女の顔に一瞬、光が宿る。
「ああ、できる。だが、代償がいる。体の一部を治すくらいなら、腕や目で済むが……蘇生となると、それなりにでかい代償がな」
黒い塊はにやりと笑った。
「どうする、小娘——やるか?」
少女は、ためらうことなく叫んだ。
「なんでもあげる!」
あまりに即答すぎて、黒い塊も面食らった。
「——っあぁ?」
「私のすべてをあげる! だから……お母さんを、蘇らせて!」
少し言葉を詰まらせた黒い塊だったが、すぐに口を開く。
「…………いいぜ、やってやる」
黒い塊はそっと手を伸ばし、少女の願いを叶えた。
得体の知れない蒸気が、母親の体から立ち上りながら——
*** クロ視点 ***
「ばあさんいつもの頼む」
「あら、来たのかいクロ坊」
大きめのバスケットを、パン屋のばあさんに手渡す。
『いつもの』とは、パン20個のことだ。正直、持つだけで死ねる。
「俺以外だと子供しかいねぇんだよ。ガキにお使い任せる気か?」
「おや、クロ坊もほとんど子供みたいなもんじゃないか」
「おおぉい! ばあさん、前から言ってるが見た目で判断するんじゃねぇ! このイルーシア王国随一の使い魔だぞ」
「はっはっは、そうだね、確かにあんたみたいなのは見たことがないね」
信じてねぇな、こりゃ。
俺の体は人間の頭ほどしかなく、全身真っ黒、翼も小さい。
可愛い見た目のせいで、『クロ』なんて名付けられる始末だ。
「孤児院の子たちによろしくね。パン、一個おまけしといたよ」
「俺は魔力しか食わねぇよ……」
パンの山を抱え、町外れの孤児院へ戻る。
この世界では、魔力はすべての生物に宿る。
人間が魔力を源とした“魔法”を使う者を魔法使いなんて言うらしい。
使い魔は、その魔力を対象からもらうことを条件に主従関係を結ぶ。
イルーシア王国は巨大都市で、城もデカい。
王直属の魔法使いたちは、強い魔力を持つから、使い魔を何体も従えてるとか。
——まぁ、俺みたいな戦闘能力ゼロの奴は、少しの魔力でも契約できるんだが。
「はぁ……なんで俺、こんなに弱くなったんだろうな」
「なに悩んでんの、さ!」
誰かの指が、頬をぷにっと突いてきた。
振り返ると、白いミディアムヘアの少女が、バスケットを抱えて立っていた。
「ニヴィアか……」
本名はニヴィア・アコードラ。
俺の主であり、孤児院兼教会のシスターをしている少女だ。
身長は160センチくらいで、10歳の頃に契約して、もう8年の付き合いになる。
「か弱くなったって、なに? ついにご主人様を守る気になったの? いやーそんなクロ見ちゃったら私惚れちゃうなぁー。 まぁもうちょっと頼れる身体になって欲しいけど」
「てめぇ……もし、でかくなってもお前だけは乗せてやらねぇ」
「大きくなれるかな~?」
まったく……。
「はやく帰ろうぜ、正直パンが重くてしんどい」
「……」
「……ニヴィア?」
ニヴィアから返事がない。
振り返ると、ニヴィアは裏路地を見て硬直している。
「おい、どした? 買い忘れなら早く言ってくれよ」
「——あの子」
視線の先には、うずくまる金髪の少女がいた。
服を着てはいるが、汚れていて、孤児のように見える。
だいたい10歳ほどの女の子だろうか。
(……孤児にしては、結構高貴な服を着てるな)
ニヴィアが少女に近づき、しゃがみ込む。
「君、迷子かな? お家わかる?」
少女は小さく首を振った。
「知らないわ……」
「そっか、じゃあ私の家にくる? 迷子の子、いつも預かってるんだ!」
ニヴィアは満面の笑みで手を差し出す。
「君、名前は?」
「——クリス。クリスよ」
「クリスちゃんね! 私はニヴィア。みんなからニヴィ姉ちゃんって呼ばれてるからそう呼んで!」
ニヴィアはいつもこんな感じに孤児を拾ってくる。
彼女の性格上、放っておけないんだろうが——そのせいでパンの数が増えているとは思ってないみたいだ。
「クロ! 新しい家族よ!」
「いや、迷子だろうが」
クリスは、目を輝かせて振り返るニヴィアの背をじっと見つめていた。
「……ニヴィ姉、この黒いのは何? ……猫?」
「おい俺をそこらの野良猫と一緒にするんじゃねぇぶっとばされてぇのか」
「これはクロ! 私のかわいい使い魔!」
「……明らかに弱そうだけど」
ニヴィアが誇らしげに紹介する。
「おい、初対面に対して弱そうとはいい度胸じゃねぇか」
配慮一切なしのクリス。
どんな生活したらこんな応答するんだ?
「そもそも使い魔は強さだけがすべてじゃ——おい何してやがる」
「ふがふんがっ! ふんふぇんふぇ(訳:おなかすいてたから食べてるの)」
俺が話そうとしたところ、クリスがバスケットに手を突っ込み、パンを頬張っていた。
「なに食ってんだよ! ——あ、こら2個目を取ろうとすんじゃねぇ!」
「いいじゃないケチね」
「あっははは、よっぽどお腹空いてたんだね」
クリスを叱責する俺を横目にニヴィアは笑っていた。
孤児院でも子供の面倒はよく見ていたし、慣れていたつもりなんだが……。
なんなんだこの流れ。
「さ、行こ? みんなお腹空かせて待ってるんじゃないかな」
「そうだな、帰るまでにみんなの分のパンがあればいいが」
「ちょっと今のどういう意味——」
クリスからなにか突っ込まれると思ったのだが、不自然にしゃべらなくなった。
——空気が変わった。
「——ん? クリスちゃん……?」
裏路地の奥から、二人組の衛兵が歩いてくる。
「おい、そこの者、ここらで金髪の少女を見かけなかったか?」
先頭の衛兵はニヴィアにそう問いかけた。
クリスが、俺たちにぴたっとしがみついた。
(……あいつら、保護者じゃないな)
しかしクリスは明らかに衛兵から隠れるようにニヴィアにしがみついている。微かに震えている。
「クリスちゃん、あれは家族の人かな?」
ニヴィアが優しくクリスに語りかける。
クリスは首を横に振った。
「おい、聞こえてな——」
「聞こえてますよー、それよりお兄さん達ここら辺では見ない顔ですね。どこかのお偉いさんですか?」
ここら辺でニヴィアを知らないものは居ない。
それはニヴィアにとっても同じで、近所の人ではないことがすぐに分かったのだろう。
「ただの衛兵だ。それよりその後ろにいる人。顔を見せてもらってもいいかな? 我々はただ人探しをしているだけなんだ」
「この子は私の妹です。最近人さらいがいると聞きますし、知らない人には近づけたくありません!」
「いや、その髪色、似ている……? やはり少しだけ顔を——」
衛兵が少しずつクリスに近づいていく。
「きゃー人さらいよー!!」
「なっ! なにをっ!」
ニヴィアが突然声を大にして叫んだ。
「クリスちゃん。掴まって、いくよ!!」
衛兵がうろたえた瞬間、ニヴィアはバスケットをその場に置き、クリスを抱えて大通りに向けて駆け出した。
「なっ、ま、まて止まれ!」
「クロ! 足止めよろしく!!」
当然の如く、足止めを任される俺。
まぁやれるだけやるか。
「——!?」
俺は走り出す衛兵の顔に飛びついた。
「まぁ、待てよ、衛兵さん?」
「な、なんだ!」
裏路地が狭いのもあり、後ろの衛兵まで巻き込んで大混乱だ。
「ぐっ、放せ!」
「あ、ちょ——」
あっけなく衛兵捕まってしまった。
「貴様……なぜ喋れる? 上位の使い魔か?!」
「上位だったらもっとモテただろうけどね……残念ながら下位個体さ」
喋れるだけの下位個体はめずらしいけど。
「衛兵に逆らう覚悟はあるんだろうな! 死ね!」
衛兵は槍を突き出した。
槍は見事に俺の体を貫通したが——。
「おいおいひでぇな。こんな小さい相手に槍なんて」
「——っ!!」
「——な!? ど、どうなってる!!」
「不死身の使い魔に会うのは初めてか? まぁそういう事だ」
正確には死ねない、というほうが正しいが——。
魔力が切れない限り、死ぬことはない。
スライムみたいな体のようで、刺されても平気だ。
「まあ、いくら不死身でも戦闘力はゼロだけどな——っと!」
衛兵たちが動揺している隙に、強引に体をねじって槍から抜け出す。
——逃げるチャンス!
「ここらで勘弁してやるよ!」
「——ま、待てっ!」
非力な俺には、これで十分だろう。
すぐに浮遊し、ニヴィアたちを追いかけた。
ちょうど市場が開かれていて、大通りは人混みでごった返していた。
「やっぱり今は人が多いな」
そんな市場のど真ん中を駆け抜けるニヴィアとクリスがいた。
「そこの女、動くな!」
「ちょ、私は人さらいじゃないってば!」
「ならば止まれ! なぜ止まらん!」
修道服を着たニヴィアが、ひたすら人混みをすり抜けながら逃げ続ける。
足は速くないが、慣れた動きで衛兵を引き離していた。
「ちょ、ニヴィ姉やばい落ちる落ちるー!!」
「ごめーんちょっと我慢してね」
ニヴィアに近づくと、今にもニヴィアから落ちそうなクリスが居た。
片手で抱えるニヴィアに対し、クリスは両手で掴まるほど焦っているのが伝わる。
「この光景、どう見ても人さらいに見えるのニヴィアのほうだな……。大丈夫か、クリス?」
「あっ、クロネコ! ちょっとニヴィ姉止めて! 落ちる!!」
「大丈夫大丈夫! しっかり掴んでるし!」
「片手でじゃないの! クロネコ何とか言って!?」
「何とか言えと言われても……。止まったらヤツに捕まっちまうじゃねぇか?」
振り返ると、衛兵がじわじわと距離を詰めてきていた。
「まて! そこの女、止まれ!」
「うげ、まだついてくるの? しつこいなぁ。クロ、もう一回……ってあれ? クロどこ?」
ここは上り坂の一本道。脇道なし。道端には、壁沿いに積まれた無数の樽。
「……いいこと思いついた」
俺は最下段の樽に体当たりした。
がたん。樽が崩れ、波のように坂を転がり落ちていく。
「逃がさ——はっ!?」「
衛兵は慌てて足を止めるが、もう遅い。
大量の樽が道を塞ぎ、完全に足止めされた。
「————っっクソガキがああああ!!」
吠える声が聞こえた。
これで俺たちを追うことはできない
「よっしゃー! ざまーみろ!」
後方を確認したニヴィアが、腕を上げて喜ぶ。
「やるじゃん、クロ!」
運が良かった。
……と思っていた、その時だった。
「ちょ、やばいニヴィ姉! 前見て! 前!」
「え? クリスちゃん? なに——わああああああ!!」
ドガン!
低い柵に足を引っかけたニヴィアは、そのままバランスを崩し——
段差を転げ落ちた。
「ばかあああああああああああああああ!!?」
「おいおい、まじかよ……」
俺は急いで空を飛び、段差の先を覗き込む。
……と、そこには。
「いったたた……」
「おい、大丈夫か?」
「死んだかと思ったわよ……」
ニヴィアは尻餅をつき、クリスは大の字に倒れていた。
幸い、段差はそこまで高くなく、怪我も軽傷で済んだようだ。
「なんで逃げ切ったのにこんな目に合うのよ……ニヴィ姉のバカぁ……」
「あ、ははは……ごめーん」
クリスの言う通りだ。散々な結果である。
というか……なんか忘れてる……?
「……ねぇ、もしかしてバスケット置いてきたまま?」
「……あ」
「……ほんっとにバカなの?」
クリスは終始呆れていた。
本当に散々である。
------
「たーだいまー!」
「おかえり……って、どうしたのその汚れ!?」
孤児院に戻ると真っ先に服装の汚れを心配された。
出迎えたのは、アマラさん。この孤児院の責任者だ。
齢50を超えてもなおシスターを続ける、慈悲深い人だ。
「あ、ははは……いろいろあってさ。それより迷子の子を保護したんだ。名前はクリスちゃん!」
「しっ……失礼します……」
先ほどまでの態度が嘘のように、クリスは丁寧にお辞儀した。
(……まあ、知らない大人にはこういう態度になるのか。わからなくもない)
「また迷子かい? ニヴィアは相変わらず、困った子を見つけるのが得意ね。クリスちゃん、こっちにおいで。まずは体を洗いましょう」
「わたしも洗うー!」
「クロ助もお疲れ様。その顔を見るに大変だったんだろう?」
皆で浴場へ向かうなか、アマラさんがこっそり俺に声をかけてくれた。
まったくだ。ただの買い物なのに、衛兵に追われるとは。
「クロ助も体を洗って、その汚れ落としておいで」
全身真っ黒な俺に「汚れ」が目立つのかは疑問だが、まあさっぱりはしたい。
もっとも、孤児院の風呂事情は「軽く水ですすぐ」程度。
正直、湯舟につかりたいが——贅沢は言えない。
「あっ、ニヴィ姉、クロ助おかえり!」
「おかえりー! 今日はちょっと帰りが遅かったね!」
洗面所に着くと、子どもたちが体を洗い終えたばかりらしく、わいわいと出迎えてくれた。
八歳前後の育ち盛りの子供たちだ。
八歳ともなれば、まあ当然のようにやんちゃ盛りである。例えば——
「ロック! どっちが先に部屋に着くか競争するぞ!!」
「いいぜ! よーい、ドン!!」
「ちょ、まて! 先に服を着ろ!!!」
「やーだねー!」
ああ、またかよ……
俺は2人分の服をすぐに持ち、ガキどもを追いかける。
「おい、まてクソガキども!! 裸で走り回るんじゃねぇ! 罰当たりどもが!!」
「マックス、クロ助に捕まんじゃねぇぞ! 捕まった方が負けだかんな!」
「おうよ!」
いつも元気があるのは結構なんだが……。
衛兵との鬼ごっこが終わったと思ったら、今度はガキどもとの鬼ごっこが始まってしまった。
「あっははは! またやってる!」
「こら! 服ぐらい着なさいよ。まったく……」
ニヴィアとアマラさんは、もはや諦めモードで苦笑していた。
正直、止めるの手伝ってほしいんだが……。
ここでは電気が使えないため、基本的にロウソクの明かりだけ。部屋以外はほとんど真っ暗だ。
響く足音を頼りに、俺は暗闇を飛びぬけていく。
「別れるぞ、マックス! クロ助の時間を稼ぐ!」
「ああ!」
「まて、てめぇら! どこ行った!?」
が、二手に分かれたのか、足音が分裂した。
最後に聞こえた声の方向を頼りに進行方向を変える。
「——ッバタン!!」
「——隠れたか……?」
扉が閉まる音とともに、気配が消えた。
おそらく、どこかに隠れたのだろう。
だが……ちょろすぎだぜ。
ここには子供用の部屋とシスターたちの私室しかない。
なら、当然子供部屋に逃げたに決まっている。
俺はドア前に立てかけてある『子供部屋』のプレートを確認し、その部屋へと飛び込んだ。
「こら、クソガキ! やっと見つ……け——」
そこいたのは、体を洗っていたクリスとニヴィアだった。
「——————っな! っな!? なに入ってきてんのよー!!??」
「わーお、ご主人様の体でも見に来たの、クロ?」
「な……んで、ここにクリスたちが……?」
動揺で持っていた服をその場に落としてしまう。
いや、シスターたちは自室で洗うこともある。
それくらいは理解しているが——ここは子供部屋だろ?
「へっへー! クロ助の奴、やっぱ騙されたぜ!」
隣の部屋からドタバタと走る音と、ロックの声が聞こえた。
……なるほど。ドア前に立てかけてあるプレートを入れ替えていたというわけか。
やってくれたなあのガキ……。
「く、クロネコ! あなた、使い魔のくせになにしてんのよ!?」
「いや、あの……誤解なんです……」
彼女たちの姿を見ないように、思わず手で目を覆った。
覆う直前、ニヴィアは何かを察したのか、どこか妖しい笑みを浮かべていた。
「ん~? どこが誤解なの? 今しっかりと見たよね?」
「ニ、ニヴィアは俺に性別がないことぐらい知ってるだろ! 別にお前らの体を見たってなんともないんだ!」
「——確かに? じゃあ顔隠す必要ないよね?」
「————え?」
え、冗談でしょ、この人?
ニヴィアがゆっくりと近寄ってくる。
予想外の反応で戸惑いつつ、すぐさま近くの服を取り顔を隠す。
「なに隠してんのさ! 私の体を見たってなんともなんでしょ~?」
ニヴィアは、服で顔を覆っている俺から、服を引っぺがそうとしてくる。
顔は見えないが、その声はやたら楽しそうだった。
「ちょ、おま、や、やめろ!!」
「ほら! ほんとはご主人様の体に興味があるんじゃないの? その服放しなよ~」
「は、放せ! マジで!」
結構本気で引っ張ってくる。
強すぎ……いや、俺の体が弱すぎるんだよな……。
必死に服を死守する俺。
ここで見てしまえば、あとで何を言われるかわからない。
特にクリスにだけは……。
そういえばクリスが静かな気がする。
そう思った時にはすでに手遅れだった。
「—— 出 て っ て !!」
クリスに桶を投げられ、直撃してしまった。
部屋から叩き出される形で、廊下に追い出された。
追い討ちとばかりに、桶を追加で3~4個投げられた。
……ひどい死体蹴りである。
その後、いたずらをしたクソガキはアマラさんにめっちゃ怒られた。
ついでに体を見た俺はクリスにめっちゃ怒られた。
……解せぬ。
------
あらかた孤児院の後始末を終える頃には、ちょうど皆が寝静まる時間になっていた。
自室、もといニヴィアの部屋まで行き、中に入る。
「おーい、入るぞー」
入ると寝巻に着替えたクリスとニヴィアがいた。
ふたりはロウソクの灯りの前で、なにやら手遊びをしてるようだ。
「——これが狐さん! ——でこっちが白鳥! すごいでしょ!」
「おー!」
ニヴィアの影絵に、クリスは目をキラキラさせながら見入っていた。
とても楽しそうな様子だ。
ニヴィアは子供たちとよく遊ぶためか、こういう遊びのネタは多いのだろう。
やがて、ふたりがこちらに気づく。
「あ、クロネコ……クロネコって、いつもニヴィ姉の部屋で寝るの?」
「使い魔に貸す空き部屋があるなら借りたいさ……それに、クリスだって空き部屋がないから、同じ部屋になったんだろ?」
クリス用の部屋がないのだから、使い魔に割り当てられる部屋なんて当然ない。
だから俺は主であるニヴィアと同じ部屋で寝起きしている。
子供たちは皆、共同の部屋で寝ている。シスター用の部屋があるだけ、まだマシというものだ。
「なぁクリス」
「ん、なに?」
思っていたことを確かめたくて、俺は声をかけた。
「——お前、迷子じゃなくて、家出だろ??」
「…………」
「え? 家出??」
やっぱりか。
今日一日の様子から、なんとなく感じてはいた。
まず最初の服装。少し上品な、子供に着せるには不相応なものだった。
衛兵に追われていた様子からしても、きっと身分のある家の子……おそらく、貴族のお嬢様だ。
「クリスちゃん、迷子じゃなくて家出だったの?!」
「ニヴィアは気づいてなかったのかよ……」
衛兵と会ったとき、勘づいてそうだったのに……。
ニヴィアのことだから、きっと『衛兵が怖かったんだな』くらいに思っていたのだろう。
「い、いやーまぁ家出も迷子みたいなものだから! 誤差だよ、誤差!」
「はいはい……で? なんか嫌なことでもあったのか?」
「…………別に。ただ……お友達が欲しかっただけよ……ずっと部屋に籠って勉強ばっかりしてたから、嫌になって。それで……外に出て、お友達を作ってみたいって思ったの」
……なるほどなぁ。
茶化せる内容でもない。俺は何を口にすべきか考えあぐねた。
そこへニヴィアが呟くように口を開いた。
「——家出かぁ……私も小さいころやったなぁ」
「……ニヴィ姉もしたことあるの?」
「うん……私のお母さんね、週に一度くらいしか会えなかったの。それが寂しくて……思わず家を飛び出しちゃった」
小さい頃——
「そしたら迷子になっちゃってねぇ。帰ったらこっぴどく怒られたんだ」
…………。
「そのせいなのかな……家出してから、お母さん来てくれなくなったの」
「——えっ?!」
「ずっと待ってるんだけどね。帰って来ないんだ」
「お母さん……行方不明なの?」
「ううん。きっと、忙しくて帰って来られないだけだと思うの……いつか迎えに来てくれるって信じてるから、私はここにいるの」
「そんな……」
「でも、寂しくなんかないよ? “家族”を一緒に待ってる子たちもいるし、アマラさんも優しくてね。『帰ってくるまでここのシスターをやってくれるなら部屋を貸してあげる』って言ってくれたんだ。もし、クリスちゃんのお母さんがクリスちゃんを探してるなら……おうちに帰って、安心させてあげないとね……」
ニヴィアは、クリスの頭を優しく撫でながらそう語った。
家族の不在。それがニヴィアにとって、決して他人事ではないのだろう。
本当に優しい子だ。
「だからクリスちゃん。お友達ができたら、ちゃんと帰ろ?」
「……!!」
「お友達ができるまでここにいなよ、きっと楽しいから!」
「——そうだな。ここなら退屈しないだろうし、しばらくいてもいいんじゃないか?」
どうせ家出したんだ。少し羽を伸ばすくらい、いいだろう。
俺たちの言葉に、クリスはぱっと顔を明るくさせた。
「——うん!! ねぇニヴィ姉、さっきの手遊びもっと教えて!」
「いいよ! 次はオオカミさんを見せてあげる!」
“お友達を作る”。
それがクリスの目標となった。
……いや、もうすでにその目標は達成されているのかもしれない。
彼女は、ニヴィアとの時間を……心から楽しんでいるようだった。
ふたりは、眠くなるまで影絵遊びを続け、やがて静かに寝息を立てはじめた。
その寝顔は誰が見ても満たされていた。
*** 小さい頃のニヴィア視点 ***
「お母さ~ん!」
お母さんが来た。
ほんとうに久しぶりだった。
お母さんは体が弱いのに、週に一度だけ会いに来てくれる。
だから、その日が待ち遠しくてたまらなかった。
「えへへ、お母さん、あそぼ~」
「ああ、あとでね……」
お母さんはいつも顔を布で覆っている。
“宗教上の理由”っていってた。
私もいつか覆う必要でもあるのかな。
「ああ、シスターさん。前も言ったがこの子にしようと思うよ。来週か……再来週あたりにでも」
お母さんはいつもシスターさんとなにか話してる。
「じゃあ、またね、ニヴィアちゃん」
「え、もう帰っちゃうの……? お母さん、遊ぼうよ……」
「ニヴィアちゃん、お母さんは忙しいみたいだから、我慢してね」
そんな……まだちょっとしか話してないのに……。
もう……帰っちゃうんだ……。
「……うん、お母さん、バイバイ……」
お母さんが行っちゃった……。
また、一週間後……?
早く、会いたい。
お母さんに会いたい。
……今、追いかけたら、まだ間に合うかもしれない。
窓からお母さんの背中を見る。
お母さんはいつも町はずれの孤児院まで来てくれる。
けど、帰るときは町の方じゃなくて、森の方に向かって帰る。
そっちにお母さんの家があるのかな?
——行くなら、今しかない。
私はこっそり孤児院を抜け出し、お母さんが帰った方向へ走った。
とにかく、必死で走った。
足が痛くなるまで、泣きそうになるまで、ただお母さんを追いかけた。
でも、お母さんは見えてこない。
どこに行っちゃったの……?
「お母さん……お母さん!」
お母さんがいた。
でも、まだ私に気づいていない。
お母さんの……元にいきたい。
「……グルル」
狼がいた。
お母さんの方をじっと見ている。
もしかして……狙われている!?
お母さん、気づいてない?
早く、なんとかしないと……!
——『ニヴィアちゃん、神聖魔法が使えるなんてすごいじゃない』
シスターさんが、神聖魔法を覚えたときに言ってくれた言葉が、ふいに浮かんだ。
——『神聖魔法ってのは誰かを助けるために使うんだよ!』
……助けなきゃ。
お母さんは……私が守るんだ!!
「————『霊装核』」
私は呪文を唱えて、神聖魔法を狼に向けて放った。
*** クロ視点 ***
窓から差し込む光で目が覚めた。
クリスはまだ寝ているが、ニヴィアはもう起きていた。
「……ニヴィア?」
「……」
ニヴィアはベッドに座ったまま、ぼんやりと前を見つめている。
「またか……」
寝起きだから、というだけではない。
ニヴィアは時々、こうしてぼーっとすることがある。
どこか遠くを見つめるような虚ろな目で、何分も何十分も。
きっと、またお母さんのことを考えていたのだろう。
心のどこかで、ずっと会いたいと思っているから。
俺はニヴィアの頭の上に乗って、見守っていた。
「……ごめんな。いつか、きっと良くなるから。俺が、見てるからな……」
…………。
「——ぅん……うん? あれ、クロ? いつからそこにいたの? てか、いつ起きたっけ……」
「よう。気づいたか。俺もニヴィアもさっき起きたばっかだぜ」
「——そっかぁ。じゃあ、身支度でもしよっか」
孤児院の朝は早い。
子供が起きる前に、自身の身支度、洗濯、食事の準備をする。
……世の中の主婦って本当にすごい。ほんと頭が上がりませんよ。
羽があるからか、いつも洗濯干しを頼まれている。
干す量がとにかく多くて、半分くらい終わった頃には子供たちが目を覚まし始める。
……決して俺の作業が遅いわけではない。
「ねぇ、おねえちゃん、名前、なんていうの?」
鬼ごっこをしていた女の子が、外から見ていたクリスに声をかけていた。
「えっ、あっ……クリスよ」
「そっか、クリスちゃん! 鬼ごっこしよ!」
「鬼ごっこ……追いかければいいの……?」
「うん! じゃあクリスちゃん鬼ね!」
そういった途端に、クリスから逃げるように走り出した。
「あっ、ちょっと! ……いいわ、私の実力見せてあげる!」
クリスは鬼ごっこを始めた。
遊ぶまでは戸惑っていたが、皆を捕まえるころには笑顔で埋まっていた。
「ほら、捕まえたわよ!」
「つ、捕まった~」
「さて、次は何して遊ぶ?」
「じゃあ今度はお手玉を……あ、ニヴィ姉ちゃんだ! 一緒に遊ぼう!」
追加の洗濯物を持ってきたニヴィアが、子供たちに見つかった。
「お、いいよ! 誰が一番お手玉出来るか勝負しよ!」
そう言って追加の洗濯物をその場に置いて、遊びに行ってしまった。
もしかして、ニヴィアはサボりの才能があるのかもしれない。
いっそドブに捨ててほしい才能だ。
「ちょ、ちょっと! お手玉6個同時なんて無理だよ~!」
「あっははは! ニヴィ姉落としたわよ~!」
——まぁ今日ぐらいはいいだろう。
「はぁ、はぁ……もう限界走れない……」
「あはは、こんなに走ったの初めてかも」
走り疲れて、ニヴィアが地面に倒れ込んでいる。
その隣では、クリスもぐったりしていた。
「おーいニヴィア。買い物に行くぐらいの足は残してるんだろうな?」
「あっ、クロ! 私の代わりに買い物行っといてくれない?」
「ざけんな。お前の分の洗濯もやってやったんだぞ。責任もって来い」
「えぇ~」
ふとクリスの方を見ると、彼女は神妙な面持ちでうつむいていた。
「パパ、心配してるかな……」
か細い声でつぶやいたようだった。
「クリス……? どうした?」
「——ううん、何でもない、みんなのとこ行ってくる!」
そういって遊んでいる子たちの方に駆け寄っていった。
「ほら、ニヴィア、そろそろ行くぞ」
「はーい……」
いつものようにバスケットを用意し、市場に向かう。
この孤児院は町はずれにあるが、距離がありすぎる気がする。
毎回の買い物も早めに行かないといけないし、面倒だ。
……まぁ、こんな場所に孤児院があるのにも、何か事情があるんだろう。
「クリスちゃん、けっこう楽しそうだね」
「ああ、そうだな……。でもまあ、数日もしないうちに親御さんのところへ返してやらないとな。これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは御免だぜ?」
「んー、そうだね……でも、できるだけ楽しんでから、その話はしてあげようかな」
子供の頃の時間は、大人になってからは思い出として長く残るものだ。
それは、きっと大切な宝物になる。
ニヴィアは、そんな思い出を少しでもクリスに作ってあげようとしているのかもしれない。
「……ん?」
少し歩いたところで、後ろから誰かが駆けてくる足音が聞こえた。
「ニヴィ姉っ!」
「え? ク、クリスちゃん? 何しに——」
「わたし、帰るわ!」
振り返るとクリスそこにいた。そして、唐突に帰ると発言している。
「え? ええっ……いいの? まだ一日しかいないのに……」
「いいのよ。友達はもうたくさんできたもの」
孤児院の方を振り返ると、アマラさんや子供たちが玄関で手を振っていた。
どうやら、もう別れの挨拶は済ませてあるらしい。
「——わかった。じゃあ行こっか」
「見送ってやるくらいはしてやるよ……また迷子になられても困るしな」
「ちょ、迷子じゃないし! 勘違いしないで頂戴!」
こうしてクリスの見送りが始まった。
買い物まで、ちゃんとできるかな……。
------
「あれれ……なんか衛兵、多くない?」
「こ、こっち! クロネコ、ニヴィ姉ついて来て」
「ここ町はずれだが……帰り道、ほんとに合ってんのか? 迷子になるぞ?」
俺たちは市場付近の通りを進んでいた。
が……こいつ、どこに向かってんだ?
昨日の市場から少し離れ、人通りはまばらだった。
「こっちで合ってるってば。いいからついて来て」
クリスは何か事情があるのか、衛兵を避けるように脇道を選んで歩いている。
一人で帰らせるわけにはいかないから、俺たちも同行しているが……正直、不安だ。
「なぁクリス。お前の家って、どこにあるんだ?」
「イルーシア城の近く。たぶん」
「……たぶんって。なぁ、もしかしてお前、苗字があったりするか?」
この世界では、多くの人が“名前”だけで呼ばれる。
たとえば「ニヴィア・アコードラ」のように、出身地を添えるのが一般的だ。
だが、貴族や王族など名のある者には“苗字”が与えられる。
特に王族であれば、その名に“王家の姓”がつくのが通例だ。
「あるわよ。イルーシアって名前が」
「……え?」
「はっ!?」
「クリスティーナ・フォン・イルーシア。これがフルネームよ」
「っはああぁぁ!?」
「お、王女さま!?」
クリスティーナ・フォン・イルーシア。
……まさか、本物の王女の名前……!?
「ちょ、ちょっとニヴィ姉、声が大きいよ!」
「ご、ごめん……クリスちゃん、王女さまだったのね……」
「ほんとに気づいてなかったのね……すこし移動しましょ。近くに衛兵でもいたらまずいし」
「まさか王女だとはな……そりゃ衛兵も必死で探すわけだ」
まさか、ただの迷子を送り届けるだけのつもりが……とんでもない事態になってきた。
これでケガでもさせたら、重罪になるんじゃないだろうか……?
「ほら、ちゃんと迷子を案内して——」
「もらった!!」
その瞬間だった。
クリスが大通りへと駆け出した途端、何者かに腕を引かれた。
「まさか行方不明の王女さまがこんなところにいるとはな……!」
「ちょっ、やばっ! さらわれた!?」
最悪だ。
明らかにガラの悪い男に、クリスが連れ去られた。
さっきの会話を聞かれていたに違いない。
「やばい、追うぞ!」
「待てぇ!!」
俺とニヴィアはすぐに走り出した
「——んんっ!!」
「クロ、まずいかも! ここら辺の地形はよくしらないよ!」
「俺もだ! しかもあいつ、さらい慣れてやがる……速え!」
死角に入るのがうまい。人さらいの常習犯だ。
「クロ、上から追って!」
「ああ、わかったっ!」
空中からなら最短で追える。
ニヴィアと挟み撃ちにする形が理想だ。
「そこの者、止まれ!!」
「止まれと言われて、止まるやつがいるかよ!」
「おい、こっちに人さらいがいるぞ!」
衛兵の声が聞こえる。どうやら、クリスの姿が見えたらしい。
「ニヴィア、東側から回り込め!俺はこのまま追う!」
「わかった!」
「ンンーっ!!」
クリスの声が、かすかに聞こえる。
だが、男との距離はどんどん開いていく。
まずい。衛兵がいても意味がない。
俺でも追いつけないとなれば……使うか?
いや、ダメだ。使ったところで助けられる保証はない。
それに、俺の身もただでは済まない。どうする……?
「おらっ、抵抗すんな! 痛い目に遭いたいのか?」
「いあいえにあうのはあんたのほうよ! (訳:痛い目に会うのはあんたのほうよ!)」
「——痛っ!? このガキ……っ!」
クリスが男の手を噛んだらしく、ついに声が出せるようになった。
「『焔閃の残り火』!」
彼女が放ったのは、炎の低級魔法。
だが、至近距離での一撃は十分な威力だった。
「————痛ってええぇ!!?」
クリスのやつ、魔法まで使えたのか……。
チャンスだ。距離はまだあるが、なんとか追いつける!
「『焔閃——」
「させねぇよ! このクソガキ……!」
再びクリスの口を塞ぎ、逃げようとする男。
俺は奴の前に飛び出し、進路を塞いだ。
「間に合った……こっから先は行かさねぇ」
「はぁ? なんだこのチビ?」
「おい、この国には失礼な奴しかいないのか? この国随一の使い魔だぞ?」
うそは言ってない。
不死身で、人の言葉を話す使い魔なんて、そうそういない。
少し虚勢を張って、牽制する。
「見せてやろうか?『焔閃——!」
「——っ!」
魔法を放つふりをしただけで、男は東の脇道へと逃げていった。
「……撃ってこない? はったりか?」
当然だ。そんな魔法使えない。
だが、進路を変えさせればそれでいい。
「まぁいい……こっから撒けばいい」
「ニヴィア、出るぞ!」
「『蒼球水弾』!」
男が脇道から飛び出したその瞬間、
回り込んでいたニヴィアの魔法が直撃した。
言葉を発する暇もなく、男は倒れこみ、そのまま動かなくなった。
すげぇな。洗濯用の魔法の延長とは思えないほどの威力だ。
「クリスちゃん! 大丈夫!? ケガしてない?」
「だ、大丈夫……それより、衛兵がくるわ。今のうちに行くわよ!」
どうやら大きなけがはないようだ。
衛兵が現れる前に、俺たちはその場を後にした。
------
二百年前——
イルーシア王国の周辺には、多くの魔族が存在していた。
魔族は不老の存在で、人間の血を主食とするため、古くから町の人々を襲い、王族からも恐れられていた。
そんな魔族に対抗する手段として現れたのが「魔法」だった。
魔族が出現し始めた頃、魔力を持つ人間が現れ、彼らが使う“魔法”は人々の注目を集めた。
魔法は国家によって管理され、魔力の扱いに優れた人々を集め、長きにわたる魔族との戦いが繰り広げられた。
そして六十年前、魔族との大規模な戦争において人類は勝利し、魔族を滅ぼす。
以降、この地は「魔法大国イルーシア」として繁栄を続けている……。
「ここまでが、このイルーシア王国の歴史だけど……ほんとに知らないの?」
「しらんな」
「初めて知ったよ! まさか羽の生えた魔族がいるだなんて」
「噓でしょ……六十年って結構最近よ? 誰でも話題にすると思うけど……」
俺たちは歴史を教えてくれる親とかもいなかったからしょうがない。
そんな話、町でも聞いたことがなかった。
「あわわ、足元が見えないから気を付けないと……」
俺たちは今、小さな洞窟を進んでいる。
……話は少し前にさかのぼる。
人さらいからクリスを救出後、俺たちは市場から北の町はずれまで来てしまった。
人通りも少なく、どこに向かっているのか見当もつかなかった。
「……クリス、本当にどこに向かってるんだ? このままだと森に入っちまうぞ」
「もう見えてるわよ」
「……は? ただの一本の木じゃねぇか。お前はツリーハウスにでも住んでるのか」
「クロ、きっと魔法で透明になってるんだよ!」
脳内がお花畑なのかと疑いたくなる考えだ。
「誰にも見つからないって意味ならほぼ正解よ」
……どうやらお花畑は2人いるようだ。なんだか疲れてきた。
だが、俺の疑念をよそに、クリスはあっさりと「答え」を見せてくれた。
「隠し扉ってやつかしら!」
木の根元の草むらをかき分け、クリスが上り蓋のついた昇降口を開けた。
「おお、地下室だ!」
「……ん? 通路が続いてるのか?」
蓋の先には階段があり、さらに奥へと通路が続いていた。
「そうよ。ここから城まで行けるわ。ほら、私が迷子にならないようについてきてよね!」
これが、家に帰るまでの“迷子案内”らしい。
俺たちは、暗い通路をゆっくりと進んでいく。
「この通路、知ってるのは私とパパ、あとは使用人だけなの。何かあった時のための秘密通路なんだって」
どの時代の王族も、緊急脱出用の通路は備えているものらしい。
まさか実際に通ることになるとは思わなかったけど……。
「私のパパね、いつも魔法の勉強をさせようとするの。魔法とか全然興味ないのに……」
「魔法大国の王なら、すごい魔法とか見せてくれるんじゃないか?」
「ううん。パパが魔法を使ってるとこなんて、見たことない」
魔法大国の王としてそれはいいのか……?
まぁ王もいろいろと忙しいのだろう。
「あ、でも一つだけすごい魔法を持ってたわ——“どんな願いも叶える魔法”よ」
「めっちゃすげぇ魔法じゃねぇか」
「すごーい! どんな願いも叶えてくれるの?」
「どんな願いもよ。私のパパ、いつも誕生日に叶えてくれるくれるの。去年は魔族に脅かされない平和な国を願ったわ」
「……友達が欲しいとは、お願いしなかったんだな」
「友達は勉強のじゃまって言ってたから却下されたわ」
「お、おう……」
「だからね、その魔法なら——ニヴィ姉とお母さんを会わせてあげられると思うの」
「……!!」
ニヴィアが、目を輝かせるのがわかった。
「でも大丈夫か? “友達は邪魔”って言うような親なんだろ? 叶えてくれるのか?」
「そこは大丈夫よ。願いを叶えてくれるのはパパじゃないもの」
「はぁ?」
こいつ、やっぱ脳内お花畑なのか?
「願いを叶えるのは“本”なの……“どんな願いも叶える本”だから。パパはそれをただ持ってるだけ」
なるほど……魔法の本か。
この世界では、魔力を持つ者だけが魔法を使えるが、魔力を込めた無機物、特に魔導書にも魔法を宿すことができる。
その魔法は使用者の魔力を使わずに発動するため効率的だが、回数制限や特定の言葉が必要など、制約があるものが多い。
「私、一ヶ月もすれば誕生日なの。だからニヴィ姉、お母さんに会ってみない?」
「……いいの? 一年に一度しか叶えてもらえないんでしょ?」
「大丈夫。ニヴィ姉はお母さんに何年も会えてないでしょ? これ以外に会う方法なんてないわ!」
「……ありがとう、クリスちゃん。なおさら、ちゃんとお家まで送り届けないとね」
ニヴィアの母——
ニヴィアとは長い付き合いだが、その人の声も顔も知らない。
ずっと昔か……。
……俺も、昔のことや家族のことは、あまり思い出せない。
うっすらと思い出すのは、自分とそっくりな黒い存在がいたはずだ。
俺はそいつを——なんて呼んでたんだっけ?
悪くない日々だった。だが、いつも何かに追われていたような気が……。
……いや、違うか? ダメだ。思い出せない。
でも……気づくと、目の前には、赤黒い“なにか”が広がって——
俺は……
人を——
「……クロ? どうしたの? ぼーっとして、大丈夫?」
「……すまん、考えごとしてた」
今は、クリスを優先しよう。
「なにぼーっとしてるのよ。クロネコ、これ持って」
「……ランタン?」
「クロネコが持つとちょうどいい高さね。そのまま持ってて」
「おい、俺を提灯代わりにしてんじゃねぇぞ」
「いいじゃない。ぼーっとしてるなら、それもってしっかり前見なさい」
……はぁ。しょうがないな。
しばらく進むと、階段が見えてきた。
「見えてきたわね。ハッチがあるから、開けるのを手伝ってちょうだい」
皆でハッチを開けると、そこは丁寧に手入れされた貴族の部屋があった。
「綺麗な部屋だな」
王室を見るのは初めてだが一目で普通の部屋ではないことがわかる。
「ニヴィ姉たちは、私が魔法の本を持って来るまで、ここで待ってて。部屋を出たら、さすがに使用人に見つかっちゃうわ」
「ここにいてもバレそうな気がするけど……大丈夫なのか? 今、お前は家出中で、大騒ぎになってるはずだろ。魔法の本どころじゃないと思うが」
「だからこそよ。こんな時に魔法の本なんか守ってる場合じゃないでしょ? ま、見つかったとしても、ちょっと時間がかかるくらいよ。たぶん、すぐ戻るから」
……不安しかない。
“どんな願いも叶える本”なら、厳重な警備があるだろうに。
「行ってらっしゃいクリスちゃん!待ってるね」
「うん!」
そう言い残し、クリスは部屋を出ていった。
まぁこの部屋には大きめのクローゼットもあるし、なにかあればそこに隠れるとしよう。
*** クリス視点 ***
魔法の本は、王城の中でも厳重に護衛された部屋に保管されている。
普段は誰も入れてもらえないけど、誕生日の日だけは例外で、私も入れてもらえるの。
護衛は立ったまま寝てるみたいだから、きっと大丈夫。
曲がり角を曲がったら、もうすぐそこ——
「パパ?」
「……クリスティーナ?」
パパがいた。どうしよう。
怒ってるかな……とりあえず謝らないと。
「パパ、ごめんなさ——」
「——無事でよかった」
パパが急に抱きしめてきた。
驚いた。だって、パパはいつも、こんな風に私に愛情を向けてくれる人じゃなかったから。
……そんなに、不安だったんだ。
「今までどこにいた? 心配したぞ」
「ごめんなさい、ちょっと外に遊びにいってたの」
「外に……?だから報告があったのか。どこかケガはないか?」
「だ、大丈夫よ」
「……まずは体でも洗おう。ついてきなさい」
ああ、どうしよう。これじゃ魔法の本の部屋に行けない。
「パパ、どうしてこんなところにいるの?」
この廊下は、魔法の本の部屋へとつながっている。
ということは……。
「魔法の本があるか、確認してただけさ。あれの管理者は、私だからね……そう、“魔法の本”だ」
パパが立ち止まり、何か思いつめたような顔で私に振り返った。
「————クリスティーナ、お前に話さなければならないことがある」
「……パパ?」
見たことがないほど真剣な顔。
今日のパパは、どこか様子がおかしい。
「……昔話だ。魔族には“王”がいた。そしてその王には、黒き“悪魔”が付き従い、全てを滅ぼす存在とされていた」
初めて聞く内容。そんな話、どの本にも書いてなかった。
やっぱり変だ。どうしちゃったの……?
「そして奴らは現れた……六十年前、魔族との決戦があったと話しただろう? あれは魔法の本の力で終結させたんだ……この町が滅びた後にな」
……え?
何を言ってるの?
「魔族は人間との闘いで滅びたって、そう教えてくれたんじゃ……」
「……そうだ。だが、本当は人間が滅ぼされたんだ」
「……パパ、嘘はやめてよ。魔族がまだいるって言うの? でも人間は大勢——」
「魔法の本の力で蘇らせたんだ。だから、イルーシアの民は——皆、あの大戦の記憶を知らない」
————『初めて知ったよ! まさか羽の生えた魔族がいるだなんて』
確か、ニヴィ姉はそう言ってた。
他の人も……誰も知らない。
じゃあ……本当なの?
「魔族はもういない。幼かった私が生き残り、魔法の本で“魔族の王”と“黒き悪魔”を消し去った。その後、城も町も修復し、国全体に結界を張った……だが、それも魔法の本があってこそ。今の世界は、全て“それ”の力で成り立っている」
「魔族は、まだ生きてる……?」
「ああ。何が起こるかは、誰にもわからない。だから……心配させないでくれ」
「……ごめんなさい、パパ」
「無事に帰ってきてくれてよかった、本当に……」
「……パパ。私、今年叶えてもらう“願い”を決めたわ」
「……願い、か。どんな夢を叶えたいんだい?」
「“魔族のいない世界”にする願いよ」
「……!!」
パパの目が大きく見開かれる。
「……ありがとう。クリスティーナ」
……でも、それは“来年”にするわ。
今年は、ニヴィ姉のために使いたいの。
今しか、彼女のお母さんに会わせてあげられないから。
「パパ、少し早いけど、願いを叶えていい? 魔族のいる世界なんて怖いわ」
願いを叶えるときは、魔法の本の部屋に入り、本に向かって“ひとりで語りかけること”——それが条件。
だからパパの前では言わないけど……来年なら、きっと許してくれるよね。
「……いいだろう、クリスティーナ。部屋の場所は、覚えてるね?」
「もちろんよ、パパ」
大丈夫、一年遅らせるだけだわ。きっと大丈夫。
------
魔法の本——それはどんな願いも叶える夢のような本。
部屋の中央に、魔法の本は静かに佇んでいた。
「ねぇ、魔法の本。叶えてほしい願いがあるの」
ページが自動でめくられ、空白のページで止まる。
「わたしのお友達、ニヴィアのお母さんに会わせてちょうだい」
本が輝き始める。
目が開けられないほどの光のあと——
『ニヴィア・アコードラの母、グレーシア・アコードラに会う』
と記された。
……けれど、誰も現れなかった。
「——誰もいない?」
おかしい。
願いは確かに発動したはず。
本にも記録されている。
一度戻って、パパに聞いてみよう。
*** クロ視点 ***
「おい、容疑者を見つけたぞ、連れていけ!」
「こいつ、口を割らないぞ……!」
「早くしろ、王女さまが見つかるかもしれん!」
「……なんだろう、騒がしいね?」
廊下がざわついている。
連行されている?
「待て、俺は人さらいなんかしてねぇ!! さらったのは別の女の方だ!!」
「この声……クリスをさらった、あの男の……!」
あの時の男か。
どうやらあの後、衛兵に捕まり、連行されたらしい。
「貴様には、ほかにも人さらいの容疑が複数かかっている。洗いざらいしゃべってもらうぞ。当然、金髪の少女についても」
……王女誘拐の容疑か。
まぁ、あの様子じゃ当然だろうな。ご愁傷さまだ。
「ねえ、クロ……あの人って、私たちのせいで捕まったのかな」
「…………まぁ、そうかもな」
「…………悪いことしちゃったね」
明らかに悪意をもってクリスをさらった男だ。
なのにニヴィアはすこし後ろめたさを感じているらしい。
「……ちょっと見てきていい?」
「……は? なにをだよ」
まさか……助けに行く気か?
「まて、ニヴィア! 今ここを出るのはまずい! ばれたら終わりだぞ?」
「大丈夫、ちょっと様子を見るだけだから!」
ダメだ、この子の「ちょっと」は絶対ちょっとじゃない。
……けど、止める間もなく動いてしまった。
「誰も……いない、かな」
幸い、廊下には誰もいないようだ。
曲がり角に身をひそめ、様子をうかがっている。
見れば、例の男は4〜5人の衛兵に囲まれて連行されていた。
「あれじゃ、助ける余地なんかないな。早く戻れ。クリスに『待ってて』って言われたんだろ」
「……でも、あの人、逃げる準備ができてるかも……なんとかして——」
「誰だ?」
「——っ!!」
バレた!
足音が……2人、こっちに向かってる!
「——ニヴィア、隠れろ」
「——クロ!?」
ここは俺が、かく乱するしかない!
「どけええ!!!」
「な、なんだこいつ!?」
「なにか飛んできたぞ!?」
やはり二人来ていた。床すれすれに飛行し、二人の足の合間を縫って行く。
「なんだ? あいつは……?」
例の男を目が合った。周りには3人、衛兵がいた。
先頭の衛兵に飛びついた。
「おい、正義のヒーローが来てやったぞ! 死にたくなかったらわかるよな?」
「なんでお前が来るんだよ! クソ!!」
「——っ!」
縛られてるはずなのに、男が応じて近くの衛兵を殴り飛ばす。
……でも、さすがに二人で5人相手は無理だ。
「待てぇっ!」
「お前たちは奴らを追え! 他にも共犯がいるかもしれん!」
……ニヴィア、バレてないといいが……。
「おい! あの一緒にいた女はどうした! てめぇだけかよ?」
「うるせぇ! ニヴィアは来ねぇ! 足止めしてやるからついてこい!」
俺は不死身。囮になるのが最適解だ。
4人ほどついてきてるのを確認。
ニヴィアが無事なら、それでいい……。
「おい!? なんで助けた? 死にたがりか!?」
そういやこいつは俺が不死身なのは知らないんだったか。
「俺だって助けたくてやったわけじゃねぇ、成り行きだ! ……それと俺は不死身だ! 死なねぇから囮になってやる。その間に逃げろ!」
「不死身……お前頭おかしいのか?」
「なんでこの世界のやつはどいつもこいつも失礼なやつばっかなん————」
「貴様ら、何者だ! そこでなにをしている!」
……あー、めんどくせえ……。前方からも2、3人が駆けてきた。
「前からも来やがった……!?」
……詰みか?
「おい、窓から逃げてもいいんだよな?」
「見てわかんねぇのか!? 鉄柵が——」
「俺は空き巣の常連だ。こんなの、通れるんだよ!」
パリンッ——
……割って通った!?
えぇ……そんなのアリ? あれも魔法の一種か?
俺も、逃げないと。
目の前の衛兵もすぐに追ってきた。
幸い、天井は高い。飛行で上を抜ける!
「貴様! 降りてこい!」
……焦ってるな。けどどう逃げる……?
窓も選択肢だったが、判断が遅れた。
——そのとき、曲がり角から見覚えある姿が現れた。
「ニヴィア!」
「クロ! バレちゃった! 大勢来てる!」
「……くそ。なんとか振り切るぞ!」
合流できた。
だが、もう後がない。
廊下の中ほどに、大きな扉があった。
そこに入るしかない。
扉の先には、豪華な大広間。
中にいたのは、威厳ある60代の男。そして、後ろから衛兵が叫んだ。
「————イルーシア王!!」
……王、だと?
クリスの父親ってことか……。
最悪のタイミング。クリスがいない今、俺たちはただの不法侵入者。
「————あれは……悪魔だと!?」
……なんだって?
王の視線は、俺に向けられている。
悪魔? 俺が?
いや、違う。
俺は——違う。
一瞬、凍りついたように黙り込んだあと——叫んだ。
「その悪魔を殺せ!! 今すぐ!!」
マジで言ってるのか。
俺が標的なら構わねぇ。
でも、ニヴィアまで巻き込むわけにはいかない。
「ニヴィア! こうなったら隠し通路から逃げろ! 俺が囮にな——」
「させぬわ、貴様!」
——ッ!?
背中に衝撃。
まさか……あの最初に襲ってきた衛兵か!?
……体が動かない。
「逃げろ、ニヴィ——」
「————っぃ」
——間に合わなかった。
振り返ると、ニヴィアが複数の衛兵に囲まれていた。
……そして、槍が。
「悪魔と一緒にいたということは……この女も、魔族の……!?」
ちがう。
ちがうちがうちがうちがう……!
「ニヴィアは魔族なんかじゃ——!」
「今すぐ殺せ!」
「——————ぁ」
血の匂い。
嫌な記憶がフラッシュバックする。
目の前が、ゆっくりと赤黒く染まっていくようだった。
動かなくなった彼女を見て、胃の奥がひっくり返る。
王の号令に従い、何本もの槍がニヴィアを貫いた。
ああ、まただ。
また、目の前で……大切な人を、失った。
そうだ、確か俺は——
*** 白羽視点 ***
「やぁ、起きたみたいだね?」
「……は?」
朝、目が覚めると、そこには黒い塊がいた。
2メートルを超える巨体で、部屋には不釣り合いなほど異様な存在。
不気味な笑みを浮かべ、俺を見下ろしていた。
「ん? ああ、なるほど、こっちの方か?」
……何言ってんだこいつ?
変な夢でも見てんのか?
「記憶障害みたいだね……? まぁいいか、初めまして、高校生になったばかりの白羽 影真くん。僕、悪魔!」
俺の名前を……知ってる? 悪魔……たしかに悪魔と言われたらそう見えるかもしれない。
黒い翼を背負い、青白い肌。まるで異世界から来たかのような異形の者だった。
「……呪いでもかける気か?」
「まさか。ただ、君に“取り憑いてる”のは事実。でも危害は加えないさ……まあ、取り憑かれてるという意味では呪いとも言えるけどね」
なんだこいつ。何がしたいんだ?
落ち着こう、とりあえず一階に降りよう。
台所のドアを開け、朝ごはんを作っている母がいた。
「おはよう、母さん」
「おはよう影真……どうしたの?」
————見えてない。
あの異形の存在が後ろにいるのに、まるで気づいていない。
「母さんすぐに政治デモに行くから、いつも通り適当に冷蔵庫の中身食べといて。できるわよね?」
「……うん、わかった」
俺にしか見えていないのか。
「君以外には見えないようにしてるよ。見えるようにも出来るけど」
本当に、こいつは何なんだ?
いったん学校に行こう。
登校中、周りに誰もいないことを確認して、口を開いた。
「……おい、悪魔。お前の目的はなんだ? “取り憑いてる”ってどういうことだ?」
「目的? 別に、君が望まなければ何も起こらないよ」
「……望んだら何かしてくれるのか?」
「まあね。なんでもってわけじゃないけど、できる限りはね」
「なぜ俺に取り憑いている?」
「それは、君が望んだからさ」
「……呼んだ覚えなんてないぞ?」
「言葉じゃなくても、心のどこかで望めば、僕は来れる。君が僕を呼んだ意味、いずれわかるようになるよ」
「……終わったみたいに言うなよ。何一つ答えになってない。そもそもお前——」
「何してるの?」
背後から声がした。
この声は隣の席の儚さんだ。
「変な人ね。空に向かって話しかけてるの?」
……マズい、見られていた。
「気を付けたほうがいいわよ、勘違いされちゃうから」
「あ、あぁ」
そのまま教室へ。
悪魔は後ろにぴったりついてきた。
教室に入ると、例の不良どもが俺の机に座っていた。
「でさ~……ん? なに、なんか用?」
「てか白羽、なんでこの席なの? ほんと意味わかんないんだけど。近寄んないでくれる?」
「わかるわ~構ってほしいの?」
無視しても無駄なのは、もうわかっている。
時にはすでに、いじめのターゲットは定まってしまったらしい。
「……」
先生は見て見ぬ振りをしてる。こんなのが先生かよ。
「ねぇ、席座ってくれない? そこ私の席よ?」
儚さんが不良どもに声をかけた。
俺だけじゃなくて隣の席も座っていたためだろう。
「……ああ」
不良たちは渋々退いた。
彼女のおかげで早く済んだ。
「少しは言い返さないとやられちゃうわよ?」
「……優しいねぇ、彼女」
悪魔は、ここでも話しかけてくる。
変なやつに思われるのはマズい。俺は黙った。
「テスト返すぞ!」
そうして返ってきたテストは、酷い出来だった。
放課後、案の定、例の不良どもに囲まれた。
「おい、テストどうだったよ?」
「……」
「答えろよ……ん?」
俺の手元から答案用紙が奪われる。
「あぁ、11点ね、惜しかったな」
ギリギリ聞こえる声で「ざまぁ」と言っているのがわかる。
ああ、最悪だ。これも悪魔の仕業か……?
「ちょっと、やめたらどう?」
そのとき、儚さんが口を開いた。
「……はぁ?」
「見てて気持ちが悪いわ」
「へぇ……あっそ。なぁちょっと付き合えよ」
「……え?」
不良たちの視線が変わった。
ターゲットが、儚さんに移った。
……やめてくれ。
「少しお話するだけだ。な?」
「……いいわよ」
そのまま連れて行かれてしまった。
——なんで動かなかったのだろう?
俺は、何もできなかった。
自責の念に押しつぶされながら、家に帰った。
すぐにベッドに倒れ込んだ。悪魔のことなんて、どうでもよくなる日だった。
その日、いつもより長い夢を見た。
学校で、不良たちに絡まれる夢。
夢の中でもこいつらの顔を見るとは……とうんざりした。
しかし、いつもとは違っていた。
やつらが俺を、恐れていた。
適当に不良の一人に手を伸ばしたそのとき——
真っ二つに裂け、絶命した。
夢だというのに、やけに生々しかった。だが不思議と、恐怖はなかった。
ただ、気分はすっきりした。
残りの二人も同じだ。後ずさる彼らを、ただ眺めていた。
面白くて、近づいてみた。
すると——また絶命。
ああ、これが夢なら……たまには悪くないかもしれない。
目覚めると、悪魔は、まだいた。
「やあ、いい夢でも見てたかい? ずいぶん熟睡だったじゃないか」
いつものように、うっすら笑っている。
……本当に、不気味なやつだ。
昨日の夢を思い返す。あれは本当に夢だったのか?
体がやけに重いのは、何か関係あるのか?
とにかく、学校へ向かう。
教室には、本を読んでる儚さんが座っていた。
「おはよう、白羽くん」
そして、俺の顔を見て、目を細める。
「——大丈夫? 痣があるわよ?」
「——え?」
痣? 頬に手をやると、かすかに痛みがあった。
「大丈夫? そんな酷いあざじゃなさそうだからいいけど」
「そうか……」
いつそんな怪我をした……?
心当たりが見つからない。
あとで鏡で確認しよう。
「ねぇ、知ってる?」
「……なにが?」
「この前のあいつら……行方不明なんだって」
不良どもが、姿を消したらしい。
「やばくない?」
「……まあ、気は楽かな」
「ふふ、そうね」
まるで、あの夢の続きのようだった。
「……ありがとう」
「……えっ?」
「授業はじまるよ。前向いて」
なんだ今の……ありがとう? なぜ?
もやもやしたまま、授業が始まった。
そしてホームルーム。
「知っての通り、××君から連絡がありません。なにか知ってる人がいたら先生の方へ連絡してください」
不良どもが来ないため、学校側が動き出したらしい。
なんでそんなに必死になるのか。
いいじゃないか別に、今日も見て見ぬ振りをすれば。
俺の時は助けてくれないのに、アイツらは助けるのか?
先生を睨んでいたら、目が合ってしまった。
「……あと白羽はこの後残るように」
「え? ……あ、はい」
「なにかしたの、白羽くん?」
なんだ? 先生に呼び出された。やはり睨んでいたのが悪かっただろうか?
皆が帰ったあと、先生と二人となった。
「白羽くん、××君たち、最近会わなかったかい? ほら白羽よく一緒にいるだろう?」
「……」
この大人は、何を言っているんだ?
いつも見てただろう? 一緒にいるだけで仲がいいわけじゃない。むしろ逆だ。
あんたは見て、聞こえたはずなのに。何もしなかったくせに。
「嫌な大人だな? 白羽くん。こういうやつに時間を割いてるのはもったいないと僕は思うよ?」
気に食わないやつだが、その意見には賛成だ。
「いや、しらないですね……」
「……そうか、なにか知ってたらまた教えてくれ」
俺はこういう大人が嫌いだ。
人間ってのはこういうやつばっかなのだろう。
心の中に、濁った感情だけを残して、その場を離れた。
その夜も、夢を見た。
今日は、先生だった。
俺に詰め寄り、何かを訴えていた。
でも、その目は……昨日の不良たちと同じだった。
……いや、これは全部夢だ。俺の世界なんだ。これは、俺の世界。
俺は、先生に近づいて——終わらせた。
目が覚めたとき悪魔と目が合った。
翌朝、目が覚めても体は重かった。
いつもよりも深く、濃い眠りだったように思える。
「おはよう……今日も、いい朝だろ?」
薄ら笑いのまま、悪魔は言った。
台所に行くと、母が血相を変えてテレビを見ていた。
「影真! 大変よ、あなたの学校で殺人事件があったみたい!」
「殺人事件……?」
「そう、しかもあなたの担任が死体で見つかったらしいの、さっき学校から連絡が来たわ」
「担任が……?」
「だから今日は臨時休校ってことになってるわよ。きっと不審者でも入り込んだんだわ。お母さん早速学校にクレームを入れにいく。昔から管理体制に問題があると思ってたのよ!!」
「…………」
なんだろう、違和感を感じる?
別にあいつがいなくなったところで嫌な気分になるわけじゃない。むしろうれしい気分だ。だが……。
——俺の夢で出てきたやつから消えて行ってる。
ふと、悪魔の方に目を向ける。
何かあるとするならこいつ。
「おい、悪魔。お前、なにをした?」
「別に僕はなんもやってないよ、僕は直接人を殺せないからね」
どういうことだ? 悪魔のくせにそんなことがあるのか?
話をすべく、どこか散歩に出かけた。
「おい、人を殺せないってどういうことだ?」
「言葉通りだよ。人というより生物が殺せない。例えば……」
悪魔が通りかかった人に近づき、その人を殴った。
だが、なんともなかった。なにも当たっていなかったかのように。
「言ったと思うけど、僕は君以外に見られないようにしてる。それはこちらから干渉ができないってことさ。だから“僕”が誰かを殺すことはありえないよ?」
確かに……これならこいつが何かしたことはないが……。
「お前、寝てた時、何かしたか?」
「別に君にはなにもしてないよ?」
……まだ確信にはいたれない。
やはりなにかないのか? こいつは悪魔なんだろう?
「——ねぇ、儚ちゃん。それ貸してよ~」
突然、誰かの声がした。
「ちょっと、やめて」
「いいじゃない別に、後で返すんだから」
そこには複数の女子が儚さんを囲んでいた。
本を取ろうとして争いになっている。
「大事な本なの! やめて!」
儚さんにとって大事な本なのか、いつも落ち着いてる様子がなくなっている。
「あれ? 面白い反応するじゃん。大丈夫たぶん返すから」
「ほら、暴れないでよ、ふふっ」
取られた本を取り返そうとしてるところに他の女子が割って入って遮っている。
「——っあ」
儚さんの体勢が崩れ、その場にこけてしまった。
「——っつ…………うう……」
儚さんが……泣いている。
俺は……ただ、それを見ていた。
何もできなかった。昨日と同じように。
ただ、心の奥がぐらりと揺れた。
そのまま、俺は家へと帰った。
また夢を見た。
今度は儚さんから本を奪った女子たちだった。
女子に近づくと、ゴミ捨て場で儚さんが持っていた本を燃やしているところだった。
その光景に、胸の奥から憎悪が湧き上がった。
どうしてこんなことができる?
人の気持ちを平気で踏みにじる、その精神が信じられなかった。
こんな奴ら——消してやりたい。
気がつけば、俺は女子たちに近づき、いつも間にか持っていた鉈で、数人を斬り殺していた。
夢の中での行動とはいえ、怒りは止まらなかった。
だが——
「待って、白羽くん」
その声に、動きが止まった。
儚さんだった。
夢の中で、彼女だけがはっきりとした声で語りかけてくる
「白羽くん、本当に……もうやめて」
彼女は俺を抱きしめるようにして止めようとした。
「私、あなたにありがとう、といったわ。彼らに何をされた後でも、白羽くんが何かしてくれたって思えたから。でも……こんなことしてたなんて、思わなかった」
俺は何も言えなかった。夢なのに、声が出なかった。
「私のことを思ってくれたなら、それで十分。もう、これ以上はダメ……」
だって儚さん、こいつらは君の本を燃やしたんだ。
きっと知らないのだろう?
俺は、儚さんを振り払った。
ごめん。
退いてくれ。
あいつらを、俺は——
「————っ」
異変が起きたのはその時だった。
生々しい血の匂いが鼻をついた。
目の前にいたのは——儚さんだった。
彼女が、俺の斬撃を受け止めるようにして——倒れていた。
なんでこんなことを?
夢の中とは思えないほど、現実的な感触だった。
彼女の呼吸が弱まり、目の光が消えていくのを感じた。
違う、違うんだ。
——俺はただ、理想の世界を作りたかっただけだ。
正義を語るふりをして踏みにじる大人。
他人を見下して笑うクズども。
そんな世界に疲れていた。
夢の中だけでも、正しさがあってほしかった。
忘れたかった。救われたかった。
でも……なんで、一番生きていてほしい彼女が……?
ああ。
こんな世界、こんな現実。
……いらない。
俺は、怒りと自己嫌悪を爆発させるように、体を動かした。
------
「おーい、起きろ? 大丈夫か、君?」
気がつけば、血の匂いが鼻をついていた。
……目を開けると、あちこちに死体が転がっていた。
それも人間の、赤黒くなった死体が。
「うっ……」
吐き気がこみあげ、思わずその場で吐いた。
手は、血で濡れていた。
「おいおい、このタイミングで変わったのかい? まぁ前よりは長くなってはいるけど」
悪魔の声がした。あいつの姿も血で染まっている。
以前より一回り大きくなっている気がする。
「ここ……学校か……?」
状況を飲み込めないまま、手にしていたものを見る。
鉈……俺が殺ったのか?
「お前……何をした」
「何って、僕は何もしてないよ。いつも通りさ」
いつも通り……?
違えだろ?
「俺に何をしたって聞いてるんだよ!!」
「別に……“君”には、何もしてない……もう一人の“君”は色々とお世話になったけど」
悪魔は、にやりと笑った。
どういう意味だ?
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「君、自覚ないのか? 二重人格だよ、君は」
「……は?」
理解が追いつかない。
何を……言ってる?
「思春期特有の自己防衛かな? 耐えきれなくなった君は、正当化するための別の“君”を生み出し……すべてを壊したのさ」
二重人格……ということはもう一人の俺がこの状況を……?
いや、ただの人間にこんなこと出来るわけがない。
————悪魔のせいか?
「——お前、『何もしてない』は嘘だな?」
「……っあ、やっぱわかるかい? でも僕自身はなにも下してないよ? あくまで“君”に力を貸しただけ……前もいったが僕は人を殺せない。悪魔のくせにね」
この目で悪魔が殺せないことは見た。
だが別の人格の俺が一人でここまでのことをしたとは思えない。
「だから、もう一人の君に手伝ってもらおうとね?」
もう一人の俺に力となるものを与え……殺させた?
「いや~、やっぱり“君”に取り憑いていてよかった」
なんで。
こんなことを?
「……まじでなにがしたいんだよ?」
「人間の終わった姿が見たいだけさ。君も思ったはずだ、こんな奴ら、いないほうがいいと。そう望んだから僕が生まれた」
クズが。こいつの思い通りになるものか。
「今ここで自殺してやろうか?」
俺が死ねば、人が死ぬことはない。
俺が消えれば……。
「悪魔はなんだって顕現することができる。命を与えることもできる。つまり、君は死ぬことすら“許されない”ってことさ」
…………。
「自論なんだけどね、悪魔と関わったやつは皆不幸になると思うんだ。実際に、君が関わった人は、皆不幸にも死んだ。僕が望んだ姿になったね。ふふふっ」
…………。
「……ん? まだ言いたいことでもあるかい?」
俺は持っていた鉈で自分の心臓を突き刺した。
「っな!!」
——痛い。痛い 痛い 痛い イタイ イタイ イタイ イタイ イ゛タ゛イ!!
「バカなのか、君は? 君が自殺しようと僕の力で生き返らせる。悪魔にできないことはない」
「はっ!はっ!?」
体から鉈のようなのもが抜かれ、流血が止まる。
痛みにもだえながら、俺ははっきりと——見た。
俺の心臓を治すときにこの悪魔から蒸気のようなのをでていたことを。
そしてその光とともにこいつの体も一回り小さくなったことも。
「——っぐ!?」
こんどは腕を鉈で切り裂く。
ああ、ああああああ あ あ あ あ あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!
「ばかな真似はよせ。君はもう元の生活には戻れない。悪魔に取り憑かれたんだ。あきらめろ」
今度は腕が直される。同時に悪魔もほんのすこし小さくなる。
「……元の生活には戻れない。そうかもな」
もう戻れないことぐらいわかってる。
これだけ人を殺したんだ。戻れるわけがない。
だが——
「————悪魔、お前の力には制限があるだろう?」
「……!」
いつもの薄ら笑いが消え、悪魔が言葉を詰まらせた。
俺は確信した。
主導権を握っているのは俺の方だと。
なら、こいつを利用してやる……!
「おい、なんでも出来るんだよな?」
「——あぁ?」
「だったら、“もう一人の俺”を消せ」
「なんで従う必要がある? だ、だれが君に——」
——ッグサ!
「っ!?」
すぐさま悪魔が修復する。
「君……」
悪魔は焦り、躊躇いながらも認めた。
「……わ、わかった。人格を分離すれば、可能かもしれない。新しい肉体を作る必要があるが」
人格を分離させる。
いい方法だ。
だが分けた後、もう一人の人格が俺を殺すかもしれない。
それはこの世界のどこにいてもそうだろう。
なら……。
「俺の人格は、この世界じゃないどこかに転移させろ」
「っ……君、それはルール違反だぞ……そういうのは——」
「お前はなんでもできるって言ったよな? どっちが選択肢を握られているか、わかってんだろうな?」
長い沈黙。
やがて、あきらめたように悪魔は口を開いた。
「…………わかったよ。やるさ。やればいいんだろ?」
悪魔の体から、大量の蒸気のようなものが放たれた。
「よかった……まだ力は残ってる」
目の前に、渦を巻くようなゲートが開いた。
「……俺はここに残って、残った人格と遊ばせてもらうよ……もう会わないことを祈る」
「こっちのセリフだ」
そして悪魔の体がぐんぐん小さくなっていった。
「——っぐ……やはりまずいか……。だが、やるだけやってやる!」
同時に俺の体が少しずつ消えていく。
人格を分けることによる影響か?
「……もう力が! ……クソ……クソ!!」
「おい、大丈夫か!? おい……? おい!!」
視界がぼやける。
視界の端から黒ずんでいく。
やがて悪魔が消えてなくなるところを見る前に俺の体は消えていった。
なぜ、俺がニヴィアに……あれほど執着していたのか。
儚が、ニヴィアに似ていたからだ。
だから——
彼女には、生きていてほしい。
幸せになってほしい。
救われてほしい。
それだけでいい。
この世界がどんなに苦しくても——
生きていてよかったと思える瞬間があるなら、それだけで……。
そう、初めて彼女と出会ったとき、思ったはずだ。
森の中で、死体を抱いて泣いていた彼女を見たあの瞬間——
*** 8年前のクロ視点 ***
この世界にきたら、私は黒い塊のような体になった。
きっと人格だけ来た代償か?
湖で自分の体を見た。
それは俺が最初見た悪魔と同じだった。
——そうか、俺は悪魔になっちまったのか。
彷徨っていると、どこからともなく声がした。
「ごめんなさい……お母さん……ごめんなさい……う、うう……」
儚さんによく似た少女がいた。赤黒くなった“なにか”を抱きながら泣いていた。
「よお、小娘、なに泣いてやがる」
「うぐっ……えぐっ……」
「おーい、聞こえてんだろ? 女。なにしてやがる」
「うぅ……あなた、だれ……妖精?」
妖精、ね……。
これだけ巨体なのに、怖がる様子はない。
「おいおい、こんな真っ黒な妖精がいるのか?」
「……」
「なぁ、そのボロボロなのは……お前の母親か?」
「……うん……お母さん……森で、狼に……」
母親? ……あまり似てないと思うのは俺の偏見だろうか?
でも母親か。助けてやりたい。
俺は悪魔になったのだろう。
ならば、できるかもしれない。
「なぁ、小娘——そいつ、蘇らせてやろうか?」
「えっ……できるの……?」
だが、あの悪魔が俺を蘇らせたことはあっても、他人を蘇らせたことはなかった。
なにか代償があるはず、きっと俺のように体を奪われるようなことが。
「ああ、できる。だが、代償がいる。体の一部を治すくらいなら、腕や目で済むが……蘇生となると、それなりにでかい代償がな。どうする、小娘——やるか?」
「なんでもあげる!」
「——あぁ?」
あまりに即答で、俺は言葉を失った。
君が消えてしまうかもしれないのに……。
「私のすべてをあげる! だから……お母さんを、蘇らせて!」
助けてあげようとする姿が、声が、顔が……。
あの時の彼女にとても似ている。
「…………いいぜ、やってやる」
もし、この子がそれで笑ってくれるなら。
例え他人でも、好きな人の笑顔が見られるなら。
やってやる。
「——うお!」
意志を込めた瞬間、体がどんどん減っていく。
流石に蘇生する力はないのか?
『よかった……まだ力は残ってる』
悪魔はああ言ってた。
力が足りない……。
頼む、この子の笑顔が見れる形で……この子のお母さんを——
そう願ったところで、力尽きた。
だが——
「——あ?」
体が縮んでいる?
消えるはずだった体が、バスケットボールほどの大きさにまで小さくなっていた。
下を見ると、儚さんに似た少女が倒れている。
近くには、母親らしき死体。
「失敗……したのか?」
そう呟いた瞬間、少女が立ち上がった。
赤く染まった瞳をした少女は——
「——っ!!」
凝固した血液で俺を攻撃した。
「——なにをする?」
「おぬし……あー、わるいの。悪魔か、久しいのう?」
……なんだ? さっきとしゃべり方がぜんぜん違う。
「悪魔? お前も悪魔をしってるのか?」
「…………お前も? やはりおぬし何者じゃ?」
敵意を向け、構えを取る。
「——待て、なぜわらわの体がこんなに小さくなっておる? どういう……」
やはり、あの子とは違う。これは——別の人格だ。
死体を見た彼女は、さらに表情を一変させた。
「おぬし、わらわになにをした? なぜ”わらわの体”があそこにある?」
——ああ、そうか。お母さんがこの子の体に、入ってしまったのか。
なんてことだ。こんな形で蘇らせたかったわけじゃないのに……。
「その女の子の体、見覚えないのか? お母さんなんだろう?」
「お母さんじゃと……? ああ、この小娘は人間の孤児じゃ。母親なんぞではない」
孤児だと……?
「……どういう意味だ?」
「この先の町には、魔族では入れぬ魔法結界がある。
その結界を人間を介して内側からバリアを解こうと、孤児院からこの小娘を拾ったのじゃ」
女の語りは淡々としていた。
「……帰り道で冥狼に襲われそうになった時、後方から神聖魔法を浴びせられ……そのまま力尽きた。この小娘のせいか。弱った体とはいえ、魔族が小娘にやられてしまうとは……。我ながら情けないものじゃ」
「魔族……?」
俺の口から、知らず声が漏れていた。
なんだ……情報が多すぎる。
この死体はこの子の母親じゃないのか?
混乱の中、女の口からさらなる衝撃が語られた。
「魔族を知らないのか? わらわはグレーシア。人類を滅ぼす魔族の女王じゃ」
——『悪魔と関わったやつは皆不幸になると思うんだ』
あの言葉が蘇る。
俺はまた人を不幸にするのか?
「また悪魔と会えるとは……。ちょうどいいの、人間の体になれたのじゃ。これで結界を越え、このまま人類を終わらせにいこうぞ」
ダメだ。
なんとかしないと。
また俺は。
人を……。
なにか、ないのか。
——別の人格。
そうだ。
この子の代償は、俺が大きく払っている。
きっと人格までは代償として払われていない。
なら。
まだ俺の体が残っているなら。
あの子を……
「……元の人格へ戻してくれ!」
俺の体が再び光りだす。
体の半分近くがなくなった。もう一度でも使えば、完全に消滅してしまうだろう。
——ッバサっと少女が倒れた。
しばらくすると少女が立ち上がり、こちらを向いた。
「……あなた、だーれ? 妖精さん?」
最初にあったあの子に戻った。
まるで初めて会ったかのような反応をされた。
「……おいおい、全身真っ黒な妖精がいるのか?」
「妖精じゃないの? じゃあ使い魔ね!私にも使い魔ができたんだ!」
————お母さん。
最初に泣いていた時のこの子を思いだした。
母だと思っている存在の本性を知っているからこそ、彼女を守れるのは——俺しかいない。
「ああ、そうだ」
この子のこの笑顔を見るためなら、笑顔にさせるためなら。
「俺は君を守ってあげる、最高の使い魔さ」
もっとがんばれると思った。
*** クロ視点 ***
——ああ、記憶を思い出した。
過去に、何があったのか。
「取り押さえろ! こいつは不死身だ、手足を拘束しろ!」
俺を押さえつけた衛兵は、俺の弱点を正確に突いてくる。
そう、不死身でも物理的に拘束はされる。
拘束されれば、成す術はない。
本当に自分の非力さを呪いたくなる。大切な人を守れないのだから。
「そいつを押さえろ! 悪魔を殺す本を持ってくる。それまで絶対に逃がすな!」
「はっ!」
悪魔を殺す本——魔法の本か。
……それで終わるなら、楽になれるのかもしれない。
ニヴィアの方を見る。
血が地面に広がり、息をしていない。
……もう、助からない。
だが——
ニヴィアの血が、溢れた場所から集まり始めた。
「な、なんだ!?」
「血が……? おい、気をつけ——」
血液が凝固し、周囲の衛兵たちを次々に貫いていく。
「た、助け——」
何が起きている?
「っ……!!」
王がこちらを見て、硬直している。
「く、クソ!!」
俺を抑えていた衛兵はなにも受けなかったのか、俺をつかんだまま距離をとっている。
「……ニヴィア?」
ニヴィアが、静かに顔を上げていく。
槍が刺さったまま、無言で立ち上がる。
彼女の顔を見たその瞬間、赤く染まった瞳に気づき——理解してしまった
「そうか、あいつか……」
解離性障害
それは本人にとって堪えられない状況が来た時、寝てる時、放心した時などのタイミングで、その時期の感情や記憶を切り離してしまう障害である。
解離性同一性障害は、解離性障害の中でも最も重度のもので、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものである。
いわゆる「二重人格」もこの解離性同一障害に含まれる。
その症状は人格が変わるだけにとどまらない。
一部の事例を取り上げると、人格が変わった時、あたかも肉体まで変わってしまうことがある。
その意味を考えれば、魔力の量も人格によって変化すると見れる。
……何かしらの引き金によって、
ニヴィアはグレーシアへと人格が移ってしまった。
グレーシアは突き刺された槍を、一本一本抜き状況を見ている。
「ふむ、これは好機じゃな……まさか、槍で突き刺した程度でわらわが死ぬと思ったのか?」
グレーシアの体に血が戻っていく。
魔族によるのかもしれないが、グレーシアは血液を凝固して、攻撃、または操って再生を行えるらしい。
まさに魔族の王にふさわしい力だ。
「赤い目に、あの血の力、やはり……!!!」
王が衛兵に構わず逃げだした。
おそらく最後の希望である魔法の本を取りにいったのだろうか。
——だがそれを見逃してくれるほどグレーシアは優しくない。
「のう? どこにいくつもりじゃ、人の王?」
「————っ!?!?」
グレーシアは人間ではありえない速度で王に近づいた。
「苦労したぞ? おぬしを殺すのにどれだけ手間取ったか……」
「ひ、ひぃ!! 誰か助け————」
王の首が、飛んだ。
グレーシアの腕がわずかに動いただけで、血飛沫とともに地に転がった。
一瞬の出来事であった。
衛兵はなにもできなかった。
「に、逃げろ! 勝てるわけが——」
バサッと。
「た、助け——」
また一人バサリと、衛兵を切り裂いていく。
その光景は。
俺が夢の中で人を殺した時のように……。
「グレーシア!!」
思わず、声が出てしまった。
あの記憶を思い出すから。
「……ああ、悪魔か」
すぐさまグレーシアが俺を視認し、俺を衛兵から取り上げた。
「や、やめ——」
俺を捕まえていた衛兵は、有無も言わず殺された。
「のう、悪魔。まさか“やめろ”というわけじゃないじゃろう?」
「……」
「わらわに取り憑いておるのだろう? 悪魔とは人を呪う存在だと聞いておるが……人間の味方でもしようとでも?」
「ああ、どんな悪魔も人間の敵ってわけじゃないんだよ」
「では——決別じゃな」
突如、俺をつかみ、地面に抑えつけられた。
「のう、悪魔というのはどうやったら死ぬんじゃ?」
「さあな、俺だって死んでみたい」
「悪いが悪魔が人間の味方をするとは思ってなくてのう。殺そうなんて考えたこともなかったんじゃ、さてどうするかの」
俺もこの状況を打開したいが……どうすれば?
「——————ニヴィ姉?」
その時、本を抱えたクリスがやってきた。
「クロネコ、今グレーシアっていったの? それは……
————ニヴィ姉のお母さんの名前でしょ……?」
なんでそのことを……?
魔法の本を使ったのか?
「ねぇ、なにが起きてるの? なんでこうなってるの? クロネコ? ニヴィ姉? 説明して!!」
周りには誰も生きていなかった。
クリスの父親も含めて。
今にも泣きだしてしまいそうな顔で訴えてくる。
「クリス——」
その刹那、グレーシアが一閃した。
——スパっとグレーシアがクリスの首を一瞬で切り裂いた。
「————」
ドサっとクリスの体が倒れた。
血が地面に広がっていく。
——なんで動かなかったのだろう?
あの時の言葉が脳裏をよぎる。
まただ。また同じ過ちを犯している……。
「おぬしを殺すのはあきらめよう。悪魔の殺し方なんぞしらぬ。おぬしなしで人類を滅ぼすぐらい造作もない」
グレーシアが外へゆっくりと向かい始めた。
「ついでにこれも終わらせておくかの」
グレーシアが魔法の本をびりびりに引き裂いた。
魔法の本が消えたことでわずかな希望も消えた。
俺は……どうすれば?
このまま、また見てるだけか?
彼女のためにやれることは……。
————この子の、笑顔を見たい。
その想いが胸に灯る。
彼女のために、一緒にいたんじゃないか。
俺にしかできないことが。
……やろう。
そのために。
今、ここにいるんじゃないか。
最後に、彼女を——
——————ニヴィアの人格へ戻してくれ!
グレーシアがバタッと倒れた。
俺の体から蒸気が溢れ、少しずつ体が消えていく。
しばらくすると顔が上がる。
しばらく周りを見渡し、口を開ける。
「ク……ロ……?」
それはニヴィアだった。だが、その表情は深刻そのものだった。
「クロ……これは……どういうこと? あれは……クリスちゃん?」
崩れる体をなんとか保ちながら、ニヴィアの元へ向かう。
「なんで……クロの体が消えていくの……? どうして……?」
なにを言えば……?
体が消え去る前に。
彼女に……。
言いたいこと。
「——ニヴィア、俺の分まで生きろよ?」
「何……いってるの?」
足元には、破れた魔法の本のページが落ちていた。
そのうちの一枚がわずかに光った気がしたが、気に留める余裕などなかった。
「なんで……? 待って……! その体、消えてるの?」
悪いな、ニヴィア。
もう体がもたない……。
「答えてよ! 待って、ダメだよ……! 嘘だって言ってよ!!」
ニヴィアが俺の顔に触れてくれる。
大丈夫、消えた後も、ずっと見てる。
だから——
「ニヴィアと一緒にいれて、楽しかった……!」
視界がぼやける。
端から黒く染まり、ニヴィアの顔も見えなくなっていく。
彼女が泣き叫ぶ声が、遠ざかるように響いた。
……ああ、やっぱりどこか、儚さんに似てるな————
------
世界にはいつも、一匹の悪魔がいた。
それは同一の存在ではないが、常に同じ見た目をしている。
悪魔と関わったやつは皆不幸になる。
それが悪魔と呼ばれるようになった由来である。
そしてそれは、悪魔自身も例外ではない。
突如黒い塊が現れた。
とある、イルーシアという滅びた城の大広間。
その塊は小さくつぶやいた。
「————クロ?」