Scandal boy
「板取~起きてるかー!?」
俺は同じサークルの友人である板取毅を起こすために下宿へ来て、玄関先で2階へと昇る階段を目の前にして名前を呼んだ…2階にある板取の下宿部屋の入り口のドアは閉じたままで、返事がない。もう1回呼ぼうとしたが、下宿の真横を新幹線が走っており、数分に1回の割合でそこそこ大きめの走行音を立てて爆走してゆく。そんな時に呼んでも効果がない。通過したのを確認して、奴の名前をもう1回叫ぼうとして…ふと足元を見た。
複数ある奴の薄汚れたシューズに混じって、人目を引くかのように女物の綺麗目なスニーカーがちょこんと置かれていた。
「……」
それを見ている俺の顔は、多分他人から見たら苦虫をかみつぶして無理やり咀嚼させられているかのよう、と言うに違いない。俺自身ですら、そう思ってしまう位口元が嫌な意味で歪んでるのが判る。
入るべきか入らざるべきか…しかし、板取が昨日「朝8時に起こしてくれ」と俺に頼んだからには、起こさねばならぬ。ちらっと高校の友人に貰った逆回転腕時計を見る。指定時刻にまであと2分。
「…しゃーねーな」
新幹線どころか蚊の羽音にも消されそうな小声でつぶやくと、俺はバイク用のシューズを脱いで玄関の小上がりから直につながっている階段を上り始めた。2階に上がって部屋は正面と右側にあるが、板取の部屋は右側。
とりあえず、ノックして入るぞー、とドアの前で宣言して俺はドアノブを捻った。
そこから見えるフローリングの床の上の景色は、相変わらずのバタバタぶり。あちこちに大学の授業で使う哲学書やその教科書、副読本、ノート類などが好き勝手な方向に置いてあり、時折落ちている洗濯物やバイク雑誌、缶ビールやすでに中身がないモノ、ツマミ、大小及び重量が様々なバイクのパーツ類やジャンク、その他おおよそ考えられる学生の部屋に転がってるものがこげ茶色の床を背景にして散らばっている。エントロピーの実習教材としては最適ではなかろうか。そしてそのまま部屋の向こう側へと視線を向けると、ベッドの上には掛け布団と毛布をかぶっているが、そのふくらみから人が二人分。
「…まったく」
彼女がいない俺に見せつけたいのか、と言いたいのを我慢して、落ちているモノをよけるようにベッドへと近づくと気持ちよさそうに寝ている奴の顔をぺしぺしと叩く。
「起きろ板取。起こしに来たぞ」
しかし奴はうーん、とうなって寝返りをうつと再び健やかに眠り始めた。こいつ彼女と何時までヤってたんだ?多少腹の虫の居所が悪化した俺は布団を引っぺがして
「起きんかい!」
…と言ったのはいいが、まあある程度は予想はついていたが、俺の視界に入って来たのは素っ裸で寝ている二人の姿だった。その間には使用済みのゴムがいくつか。奴の方はいいが…じゃない、野郎の裸は見たくねー…とはいえ奴の彼女の方を見るってのもそれはそれで何かやばいような気がする。ので、俺は彼女の方には布団をかぶせて奴からは取り去った。4月の頭、あったかくなってきたとはいえまだ朝方は10度前後で微妙に寒い。
俺が奴の顔をはたくよりも確実に気温は仕事をしてくれてる様で、寒さが体に沁みたのか、うーんとうなり声を微かに響かせて奴の目が少しづつ開いていった。
「んあ…あれ?円山なんでいる?」
「おはようフェルプス君、ところで今日の指令だが…」
「…俺の部屋にはオープンリールなんてねーぞ…」
「起きてるんならさっさと起きろ。起こしに来いと言ったのはおめーだろ」
「へーへ…」
板取はそう言うと起き出して素っ裸でベッドの端に腰かける。そして俺の視線に気づいたか、眠そうな顔をしつつ、
「すまん、今から由貴起こすから外で待ってて」
「りょーかい。あんまり遅くなるなよ。新歓の準備間に合わんくなるら」
俺は板取とその彼女に背を向けて部屋を出ながら釘を刺した。
部屋を出ると階段を下りて、小上がりで自分のバイク用シューズを履くと、外へ出た。下宿の1階は小さな鉄工所になっており、まだ始まっていないせいか、引き戸の数枚の扉は閉まったままになっている。その前には、奴のバイク…スズキ・バンディット400が黒光りするタンクを輝かせて主が動かしてくれるのを今か今かと待っているかのようだった。そしてさらにその前には、俺のバイク、カワサキZX-4のワークスカラー版がまだエンジン部からはっきりとあったかいと感じるほどの熱気を、カウリングの隙間から放っている。
俺はバイクのシートに腰かけるように寄りかかると、胸元のポケットから黒地に金の文字が印刷してある煙草と100円ライターを取り出した。1本くわえて火を点ける。息を吸い込んで吐き出すと、紫がかった煙草の煙が、晴れてはいるがやや寒い4月の三河地方の空へと消えていった。
…俺の背後で新幹線が上下合わせて10本ほど通ったあと、11本目が通過する直前で、板取が彼女の田神由貴と一緒に玄関から顔を出した。彼女の方が俺を見つけると、やや恥ずかしそうに、
「あ、円山先輩、おはようございます~」
俺は彼女にさりげなく挨拶を返すと、まだ半分残ってる煙草を足元に捨てて足で揉み消す。そしてバイクのフックに掛けてあったヘルメットを取ると眼鏡を外す。視界が一瞬で輪郭があやふやになり、にじんだ像が視界の全面を覆う。
「円山~、新歓って何時からだっけ?」
「10時。準備は9時から」
板取が今更のように時間を訊いてきたが、俺はほぼ気にしない感じで気軽に答えた。右手で頭の上に乗せているヘルメットを押し込んできちっと被り、眼鏡を顔とパッドの隙間に押し込むように付け、顎ベルトをちゃんと掛ける。
バイクにまたがってキーを差し込み、右手の親指でセルモーターのスイッチを押す。足元のバイクが目を覚まし、やや甲高い排気音を民家に囲まれた狭い道路を満たすように響かせる。俺の後ろでは、板取が自分のバイクに火を入れて眠りを覚ます。すでに奴も彼女もメットを被っており、もうすぐ出発できる体制になっていた。
「それじゃ先出るぞ~」
俺は板取にそう言うと奴の返事を待たずにアクセルをゆっくり回してそろりと加速し始める。
大学の敷地内に入り、俺達が所属する漫画研究同好会の部室がある第二サークル棟と呼ばれる建物の横へとバイクを止める。フルフェイスのヘルメットを脱ぎつつ建物入り口から階段を上がって4階まで。階段を上がって左右に広がる廊下を左に折れると、廊下の左右に何部屋かのサークル室がある。普通はその前の廊下にはあんまり物を置いてはいないのだが、漫画研究同好会部室の前の廊下には、明らかに通行の邪魔になりそうなくらいに大量のモノが置いてある。それの大半は…バイクのパーツ類だ。
ウインカーやヘッドライトなどの灯火類はおろか、フロントサスやスイングアームのユニット丸ごと、チェーン、ブレーキディスクやそのライン、"brembo"と赤く書かれた4ポッドブレーキキャリパー、下手するとエンジンや補器類を取り除いたフレームが置かれることもしばしば。原付のエンジンが置かれることもよくある話で、中にはアルミフレームいじるからと隣町の農家から借りてきたと噂されるアルミ溶接可能な溶接機まで置いてあることもあった。
漫研部室入口の両側には、その様なバイクパーツの山が2つあり、その他にも何処からか持ってきたスチールロッカーにはキャブレターやハーネス類などの細かなパーツが無造作に押し込められている。
漫画研究同好会というと、普通は家の中に閉じこもって漫画見たり描いたり、アニメ見たり感想とかを話し合ったりする…というイメージを持つ人が多いが、ウチの大学のは部員の半分以上が何らかの形で二輪車を所持している。大学が車での通学を禁止しているせいもあり、漫研部員も男女問わず小さいのは原付スクーターから大きいのは750ccのスポーツバイク、ツルシ(買ったまま)だろうが車検が通るギリギリの改造まで施したのだろうがなんでもござれ。そんな漫研に付いた俗称は『第二モーターサイクル研』。
入学したての俺が漫研に入ろうとした時にその山を見てびっくりしたのを今でも鮮明に覚えている。一瞬、違う部室に来たのかと思ったほどだった。まあ、俺自身バイクには興味があったし、高校の時には中学の時の友人がすでにバイクに乗っていたから時折乗らせてもらっていたりもしたのでそれはそれでうれしかったが、高校までの時とはまるで違う景色には圧倒された。
パーツの山を避けるようにして部室にたどり着くと俺は部室のドアノブを回した。奥行きに細長い、見様によっては刑務所の独房を幅1.5倍、奥行きを倍ぐらいにしたような部室には丁度2年生らが中心になって新歓の準備を始めたばかりだった。タイミング的には丁度。俺は挨拶もそこかしこに準備を始めた。部室中央にある長机の脚を畳み、肩に担いで約200m離れた新歓ブースの指定場所へ。指定場所には先に向かっていた別の2年生が俺を見つけるとここでーす!と声をかけてくれた。
肩に担いだ長机を下ろして脚を出す。天面を上にして所定の場所へと据え付ける。長机は2台必要だが、もう一つは板取がすぐ後ろから似たような恰好で担いでやってきた。
「椅子はどーする?」
「今、由貴らが持ってきてる」
板取が俺の問いに答えながら同じように机を下ろして脚を出すと、ひょいっと軽々と持ち上げて俺が据え付けた長机の隣に並べる。俺たちの左右でも、正面でも、似たような設営の光景が見られる。その間の、車が1台は余裕で通れるアスファルト舗装の大学内の通路を、在学生に混じって真新しいスーツを着た新入生らしき人らが小脇に大学での心構えや授業のとり方などの資料を抱えてどことなくそわそわして歩いてゆく。
「おーい、円山ぁ」
「はい!」
俺達が出している新歓のブースの右手の方…その向こうにはいい加減古くなった感じの学生会館が見えるが、その方向から同じサークルの先輩である通称「宮様」こと4年生の宮島克己が俺を呼んでいた。思わず必要がないにもかかわらず元気よく答えてしまう。
「タテカン持ってきて!部室の中に置いてあるから!」
「了解しました~」
新歓なんだからタテカン…立て看板は必要。そういや昨日まで2年生中心で描いてたなぁ…って俺が長机持ち出した後にもまだ2年生がいたはずだが。俺は訝しんだが、宮様の後に母親に離れない様についてきているカルガモのように2年生連中が、頒布する予定の漫研が作った本いくつかと、漫画を描く道具や筆記用具、入部希望の名前を書く書類などを持ってぞろぞろと新歓ブースへと姿を見せた。確かに部室にいた2年生全員がこっちへ来た勘定になるな。
俺は第二サークル棟の方向へと歩き始めた。ここまで来てまた部室に戻るのは少しめんどくさいが、看板がないとどうも新歓ブースに花がない。しかも先輩の言いつけだ。
新歓ブースから第二サークル棟は、右手方向正面に見える学生会館の奥の第一サークル棟の、更に奥。ここからだと学生会館と第一サークル棟の陰に隠れて目視出来ない。俺は学生会館横にあるグラウンドとの間の1.5車線道路を通って第二サークル棟まで歩く。その間、アニメのOPとCMと、下手するとAパートの頭がキッチリ流れる位の時間がかかった。4階まで上がって部室まで。
部屋の中央部には本来なら長机があるのだがさっき新歓で使うために持ち出されている。ぱっと見た目には…中にあると先輩が言われてた立て看はない。
「…あれ?」
そういやさっき机出す時にはそんなのは見てなかった気が…もしかして、と思い死角になっているドアの後ろを見ると、そこにはイラストが描いてある表側を壁にして置いてあったタテカンがあった。これだ、と独り言をつぶやいてあちこちにぶつけない様に看板をもち上げてそれを担いで部室を出る。バイクパーツの山をよけ、階段まで10歩ほどの短い廊下部分を歩いていると、向こう側から階段を上がってきたらしい1人の女の子が何かを探しているかのようにあちこちをやや挙動不審のような格好で見ている光景に出会った。
身の丈150センチちょっと。ショートカットで何処となくどころかボーイッシュな雰囲気そのまま。やや細めのメタルフレームのボストン型メガネを掛けて、つけている服はスーツっぽいきちっとしたものだった。
新入生だな…と思っているうちにその子と俺の視線が、交錯した。
スルーするつもりだった…ハズが、何の気まぐれか俺は予定外に声をかけた。
「…何処かお探し?」
かけてしまった。
「あ…い、いや。べ、別に…」
話しかけられたその子は、俺の姿を見ると一瞬ビクッと驚いたようで、思いっきり焦ってるように見えて今更なんでもないかのようにどもりながら拒絶してもと来た階段を降り始める。やや駆け足で降りていったその子は俺が踊り場にたどり着く内に視界から見えなくなった。
「…何なんだ…?」
階段には、その子が少し駆け足で下へと下りて行く靴音が反響を伴うも次第に小さくなって周囲のノイズに紛れ込むように消えていった。
「…漫研の新人…ってわけじゃ無いか」
そう言うのを好きそうな雰囲気じゃなかった気がする。とはいっても板取の彼女はどこから見ても漫画やアニメに興味ありそうには見えないくらいに美人さんなので、人は見かけには寄らない可能性はあるが…。
タテカンを担いで新歓の場所へとたどり着くと、看板以外はすでに準備万端。勧誘用のチラシや展示用の漫画原稿やイラストボード、漫画を描く道具、年3回発行の部内誌と学祭時に出版する同人誌などが机の上に並べられ、いつでも新入生来てください、といった体をなしていた。さて看板を置こうかと予定の場所を見れば、いつの間にか板取のバンディット400と宮様のヤマハTDR250が置かれていた。バイク置いていいなんて聞いてねーぞ。
「看板持ってきました~ってバイク置いていいんです?」
「いーんじゃね?隣までの場所少し空いてるから。円山も並べるか?」
宮様、許可取ったんじゃないんですか…許可あるのか判らないけど。
「…今日はやめときます」
自分のバイクが置いてある第二サークル棟まで三度戻るのはちょっと勘弁。苦笑いの苦み成分を極端に抑えた薄味の苦笑いを俺は浮かべて看板を設置した。
10時辺りは新入生よりは在学生の通行が多かった桜並木の通りは、時間の経過と比例して真新しいスーツを着込んだ彼らが、さながらこれからご飯をどうしようかと少し悩むかのように並んでいるサークルのブースを物色し始める。漫研のブースも一瞥して歩きを続ける人もいれば、何か興味ありげな視線を送る人もいる。元から興味がある人は…こちらから勧誘しなくても勝手に椅子に座ってくれる。俺と板取の3年生組はブースの椅子に座りながら、2年生が新入生に説明する光景を横から眺めていた。4年生の宮様は部室に用があるみたいでサークル棟の方へ戻っていったようだ。
バイクはある程度視線を誘導する効果は果たしているようで、特に男子辺りは明らかに目をキラキラさせて眺めて、横にいる友人と会話がはかどっていることもある。そしてそのままブースにやってくる人もいる。
「まるで誘蛾灯だな」
聞こえたら新入生には悪く聞こえそうな呟きは、草が風になびく音よりも小さいのでまずは聞こえそうにはない。
俺は何気なしにふと空を見上げた。空の何処からか呼ばれたわけではないが、人生には何度か無意味に空を眺めたくなることも、ある。
ポスターカラーで塗ったような、春にしては鮮やかな青空が広がり、その空を幾分か遮るように視界の両側から迫るピンク。寒くもなく、かといって生暖かいほどではないくらいに気持ちが引き締まる軽やかな風が桜並木の通路を吹き抜けると、桜吹雪とはいかないまでも、趣のある散り方で桜の花びらが、はらり、はらりと地面に向かって舞い踊りながら下りて行く。
…自分が生まれ育った福井県の北ノ庄市は、まだ桜が咲くには微妙に早いだろうな…俺はふとそう思いながら、緩やかな風にすらなびいて下りて行く花びらをじっと見つめていた。
「…やっぱ太平洋岸は違うなぁ…」
春という言葉を表現するのにはこれ以上はないほどの、気持ちのいい日だった。
…ここは愛知県。その東端の、静岡県と県境を接する三河吉田市…にある、俺が在学している愛知文化大学は、多分他の大学も同じような事を行っているハズの新入生歓迎のための様々なサークル勧誘イベントが開催されていた。新入生に半ばなれなれしく語りかけて勧誘しようとするのはまだいい方で、中には周囲を取り囲んで拉致まがいの事をして無理やり入部させようとする体育会系サークル、軽音楽部みたいにその場で生演奏している所や、ダンスサークルは通路の真ん中で踊ってたり、プロレス同好会に至っては通路の一部を潰してリングを設営してそこで試合やってたりしている。馬術部は場所的には大学敷地の端っこの方という、位置的には不利だが馬を展示していて人目をかなり引いていたり、演劇部みたいに新入生勧誘のための劇を上演していたりなど、そのサークルの特色を持ち出して一人でも多くの新入生を確保しようと、あの手この手で勧誘活動を行っていた。
その中では、俺がいる漫画研究同好会は…地味だ。運動部みたいな半ば強引じみた勧誘は文科系サークルなので?あんまり合わない上にやりたがる人もいないし、音楽みたいに周囲にアピールするようなものでもない。とはいえ…なのか、だから…なのか、自分で漫研の新歓ブースに自発的に来てくれる人は大体その後サークルに入っている。
数年前、とある事件でウチらのような趣味の人間が肩身の狭い思いをしたにもかかわらず、それを捨てなかった人らがいてくれることでもありがたい。まあ、自分が好きになった趣味はそう言うことがあっても容易には捨てがたいものだが。
今現在も2人の女性新入生がうちのブースに来て説明を受けている。応対しているのは2年生の女の子2人。うち片方は板取の彼女、田神由貴だ。顔の作りからその立ち振舞まで、なんで漫研に来たのかよくわからないくらいの美人さんで、昨年新入生としてやってきた彼女を巡ってサークルの男どもの争奪戦がOBも含めて繰り広げられたが、いつの間にか板取の隣に落ち着いていた。
板取も、美形ではないがどことなく少し古めの男らしい感じのやつで、そこに彼女が惹かれたんじゃないかなぁ、とは俺の勝手な思い込み。
「え、バイクですかぁ?うちのサークルの人乗ってるのが多いですから、ねー先輩」
田神が新入生と話してて出し抜けに俺と板取に話振ってきた。突然のことで俺も板取も瞬時に対応が出来なかったが、これまたほぼ同じタイミングで、
「「そうそう」」
声もまた見事にハモった。いや男とハモってもあんまり嬉しくはないが…。
「女の子でもバイク乗りたい?うち来たら色々と教えてあげるよ〜ツーリングとかよくしてるし」
板取は確かに顔つきとかは古めの男らしいところはあるが、若干軽めなのが玉に瑕なのか長所なのか…。
バイクの話ならと、板取が身を乗り出して話に加わろうとする。俺の眼の前に乗り出してきたから俺はパイプ椅子を下げて一旦ブースから出ようとする。話の邪魔しちゃ悪いからなぁ。それに田神の隣になるからヤツとしても位置的に悪くはないはず。
状況が状況なので一旦漫研のブースから離れて、俺はこのいい天気で、桜の下で、ただじっとしてるのはもったいないと思った。なので、大学の近くにある酒屋さんへ行くことにした。酒飲んでりゃ花見酒とシャレ込めるし。
「ちょっと酒屋さんへ酒買いに行ってくる」
俺がそう言うと板取が新入生の事の話を途中で打ち切ってまで俺の方を向いてきた。
「酒屋?日本酒買ってくる?」
「そのつもり。ついでにビールも」
「銘柄は?」
「そこの門を出てちょっと行った所の酒屋だから、確かあそこ『美少年』置いてあったはず」
「一升瓶買ってきて。一緒にのもーぜ」
「おうよ!」
奴も飲みたかったらしい。板取の破顔した顔を背中で受けつつ、俺は大学の副門から国道沿いにある酒屋さんを目指して歩き始めた。あちこちで勧誘のために無軌道に動き回る人込みをさらりとかわしつつ、副門にたどり着くとそこから人込みとは無縁になる。
副門の目の前には、踏切。JR三河吉田駅のそばの、さながらビルの裏口の、ひと気がないような場所にある新吉田駅からヘロヘロと隣町の田原町へ伸びる単線の名鉄阿曇線が大学の付属品のように敷地の真横を通っている。踏切の真横にはその名も『大学前駅』という駅まであり、徒歩10秒で大学敷地内に入れる好立地。
その踏切を渡ると真ん前を国道259号線が左右に広がる。上下4車線と幅広な道のはずだが、夕方はよく渋滞になっているちょっと残念な国道。通称『地獄線』。三河吉田と阿曇半島先端にある伊良虞岬を結ぶ2級国道で、バイクに乗ってる俺にとっては生活道路だ。
その国道を挟んで左手向こう側に緑の巨大な防波堤の様に広がる、防風林のような鬱蒼とした森の向こうは愛知県立第四高校。一旦は藩校の名称だった由緒正しい『愛知県立時習館高校』という名前が復活しかけたが、九州かどこかに同じ名前の高校があるからとかワケが判らない理由で無個性なナンバースクールの名称が継続されているそうで…そっちの方がいくらでもある名前にしか思えないんだが…。愛知県下でもトップクラスの学力を誇る進学校で、中学時代の俺がいくら勉強を頑張ってもそこには入れないくらい偏差値が高い。福井県だと、北ノ庄市内にある古志高校とか札島高校辺りか。
国道沿いの歩道をアニメのOPとCMとAパート頭がたっぷり掛かる程歩いて、ひなびた鉄筋作りの、間口が1間ほどの酒屋さんにたどり着く。店内で日本酒の『美少年』純米酒1升瓶と缶ビール数本、おつまみをいくつか選んでお金を払い、再び大学の方へ。副門から再び雑踏にまみれながら漫研の新歓ブースにたどり着く。
「板取、買ってきたぞ〜」
俺は酒類が入った結構重いビニール袋を奴に見えるように高く掲げる。奴の顔が、酒飲みの表情に変化していった。
…おかしい、世界がぐるぐる回っている。普段なら素直に聞こえる世界の音たちも、何処か歪んで聞こえては勝手に耳から去ってゆく。誰かに何かを言われても、それが頭に定着しない。馬耳東風、という言葉をリアルに体験すると多分こうなるんだろうな…。あ、いま時間は何時なんだろうか…?で、なんで俺はサークル棟の階段を登っているんだろうか…。頭では考えていないが、体が勝手に足を動かし、目を動かして目的地をアルコール漬けになった頭から検索する。
サークル棟4階にたどり着き、足が勝手に左右に別れる廊下を左へと歩みだす。
「…?」
昼間なので廊下の蛍光灯が消されて、正面に見える廊下の端の窓から溢れる光だけが自分の視界を明るくしている。その光の中で、人影のような何かが逆光で黒に塗りつぶされた様に佇んでいた。俺はそこへ行かないといけない、と思ったのか、まるでその人影のような何かに引き寄せられるかのように前後左右に微妙にふらつきながら足を動かす。人影らしい何かの方は、近づく俺に気づいて少し動いたように見えたが、アルコール補正が掛かっている自分の視界では動いてないようにしか見えなかった。
「あ、あの…」
人影らしい何かから聞こえる声は女性の声…のように俺には聞こえた。
「…新入生?」
こんな時期に部室に入らず入り口で迷ってるのは新入生に違いない、と酒の力で思考が単純化されている俺の頭は勝手にそういうことを口走った。明らかに酔客な声を上げた俺のを聞いて彼女は後退りしている…酔ってる俺にはそんな細かいことはわからないが、次の「漫研の?」という言葉を発しようとした瞬間…。
「!?」
「!!」
…何が起きたのか、酔っている俺自身にはよくわからなかった。感知できたのは、視界が傾いているのと、体が勝手に動いているのか妙な加速度が掛かっていること。視界が傾いているのは酔ってるからなのか、それとも何かの理由で歩けなくなってしまったせいなのか…。何か咄嗟に目の前のモノに抱きついた気がしたけど。
…目の前がしばらく黒で塗りつぶされた。
しばらくしてまず触覚が活動をし始めたが…それにしても俺の体の下はまるでやや硬めのクッションの上にいるような夢見心地で気持ちいい。ずっとこうしていたい。特に顔の辺りは柔らかい何か丸いクッションで挟まれてるように感じる。俺のぼやけた感覚が、ずっとこのままでいろと指令を出している。
しかし、俺の下のクッションが何やらもぞもぞと動き始めた。このクッション、なんか仕掛けでもしてあるのかなぁ…?
やがて、そのクッションから何やら声が聞こえてくる。くぐもった声が次第にその音声レベルが大きくなり始め、感覚が麻痺した俺の耳に音が届き始める…が、夢の中で誰かが喚いてるんだろうと勝手に解釈した俺は無視することにした。
と、今度は俺の下のクッションがモゾモゾどころか強めのバネが仕掛けられてるかのように暴れ始めた。このクッション、いい感じなのにこんなに暴れてるのってどうにかならんかと思った俺は下のそれを抱きしめ、更に強くハグした。それにしてもこのクッション、どことなく女の子の匂いがする…石鹸の香りが心地良い。
と今度は俺の背中を激しくクッションが叩き始めた。いろんな仕掛けがあるんだなぁ、と変なところで感心していると、俺の耳に聞き覚えのある野郎の声が聞こえてきた。
「…円山、お前廊下で何やってんだ…」
明らかに引いてる声…しかしあいつ俺の夢の中にまで侵入してきやがった。誰に許可を得て入って来たんだよ。
「…うるしゃい…このクッションおめーには渡さ…ン…」
余りの気持ちよさに俺の言葉、呂律が回ってないなぁ…。
「クッションじゃねーぞ新入生の女の子襲ってる様にしか見えんぞ」
「…襲って、る…!?」
俺の中のアルコール漬けになっている神経細胞の何割かがじわじわと正気を取り戻した。俺は丸い2つのクッションから顔を緩やかに上げて周りを見ようとしたが、どうやら眼鏡が何故だか遊びに行ってしまったらしく、視界全体がぼやけた世界になっている。その正面下の方には、近いせいかややはっきりした人の顔がみえる…ショートカットで見方によっては端正な顔立ちの男の子に見えるが、そこから発せられる声は女性のものだった。
「…誰?」
「さっきからどけっつってるだろ!」
俺がやや間の抜けた感じで問いかけたのが逆鱗に触れたのか、強烈なフックが俺の顔を襲った。酔いが完全に覚めるくらいの衝撃が、俺の頭を揺さぶる。
「…あれ?」
再び俺の世界から光が消えた。ぐらりと揺れる感覚だけが、意識できた全てだった…。
「…えーと」
俺の感覚が、再び活性化し始めた。周囲のざわつきが眠っている俺の意識を呼び起こし、早く起きろとせっつかせる。そのざわつきは、見えない手となって俺の閉じている瞼をゆっくりとめくるようにこじ開ける。
「お、起きたか。よく寝てたな」
瞼が開いている途中で視界にまず見えてきたのは、目を覚まそうとしている俺を横目で見ている板取のややにやけた顔だった。その横にいる奴の彼女の田神もニコニコとした笑みを浮かべて俺を見ている。まるで何かを企んでいるかのように。部室の中の景色がハッキリ見れるということは…俺は自分の顔に手をやると、何処かへほっつき歩いていった眼鏡がちゃんと顔の定位置に戻っていた。誰かが戻してくれたんだろう。
「…何で俺寝てる?っつーか新歓は?」
「とっくに終わってる。お前、酒飲んでフラフラになって部室行くと言って歩いてったぞ」
…はい?そんな記憶ないんですが…?
「心配になってしばらく後に追いかけたらお前、新入生の女の子に抱きついてアオカンしようとしてたぞ」
「円山先輩ダメですよ廊下で襲っちゃ…」
板取が顔は真面目だが目が完全に笑ってる状態で俺にその時の状況を話すと、その彼女の田神もせめてホテルへ連れ込んでからしなさいと言ってるかのようにややエロい流し目で俺を見てる。
俺、全然記憶ない。というか、女の子…襲った?アオカン?
「で、その新入生の女の子に殴られて意識失って、丁度2年生も何人か上がって来たからお前担いで長椅子に寝かせた。難儀したぞお前身長あるけど体重もソコソコあるし」
そう言われれば左のこめかみ辺りに痛みがある…あれ夢かと思ったけど現実だった…のか?
「…その女の子、は?」
「漫研に入ってくれたよ。あんなことあったからダメかと思ったけど、元々入りたかったそうだから」
…酒で前後不覚になっているうちにそんな悪事やらかしたのか、俺…。しばらくは酒はやめよう。
部室の中には10人ほど、後輩もいれば4年生以上の先輩も午後のひとときを過ごしている。新学期が始まるというので普段あまり出てこない人もいる。漫研の中では絵がプロ級に上手く、将来はイラストレーターで食べていけると言われている志木先輩もいるし、サークルのマスコットお姉さま的な立場の真喜志先輩も来られててにぎやかに盛り上がっている。そして彼らは俺の顔を見るたびに何やらニヤニヤした顔を向けてくる。そりゃあそうだろうなぁ、新入生の女の子にのしかかって破廉恥なことしてたんだからそう見られるわなぁ、と笑われるのは仕方ない。
俺はせめて顔洗うか、と思い腰を上げてまだアルコールに浸っている体と心に活を入れるべく部室を出た。
扉を出てすぐのところのパーツの山からはみ出した黒い塊が見える。昨日にはなかったはずだから、昨日の深夜から今日の朝にかけて先輩の誰かが置いていったらしい小ぶりな原付バイクのエンジンの置き位置が、どうやら俺が新入生に倒れ掛かって覆いかぶさっていた場所に近い。原因はこれかと思うと腹が立ったが、蹴飛ばしても俺の足が痛むだけなので止めた。
サークル棟のトイレ兼手洗い場は階段の脇にある。そこまでの短い廊下を歩いている時に俺とすれ違ったり俺を見た奴らみんなが時には吹き出しそうな笑いをこらえて見ている。何だそんなに噂広がってるのかと思って階段脇の手洗い場に入る。俺の横姿が並んでいる鏡に写っているのだが、その視界の端の方でなにかすごい違和感を感じた。ふと横目で俺の顔を見ると…顔中に何やら黒いインクみたいなので色々とキャラが描かれている…。
「…あ"!」
しまった!
志木先輩、ボーイッシュな顔つきの女性の先輩なんだが…隙を見せると紙だろうが顔だろうがキャンバスになるような物があるといつも持ち歩いている筆ペンで喜んで描き込むクセというか悪癖が…コンパのときにあの先輩がいるとみんな布団を頭からかぶって落書き防止するくらいに色んな意味で恐れられた先輩。
これか、みんな俺を見て笑ってたのは!
俺は多少腹が立ったので顔を洗うという目的を三河湾に放り投げて部室に戻ってドアをいくらか乱暴にぶち開けた。
「志木先輩、ヒドイっす!」
「はっはー今頃気付いたか!いやキミの顔は大きいから描きやすかった~」
女性にしてはやや低めな声の持ち主の志木先輩はまたケタケタと笑ってやがる…。つられて部室の中の漫研部員が同調して笑い出しやがった。
「いやあ円山君ものの見事に寝てたので多少荒く描いても起きる気配すらなかったぞー」
「ホント何しても起きなかったなぁ」
「先輩死んでるのかと思いましたよ」
「あの新入生のパンチってそんなに効いたんですか?」
あちこちから様々なタイミングで俺の方に質問やら言葉やら感想などが浴びせられた。一度に答えられるわけもないので、仕方なく三河湾へ放り投げた本来の目的を拾って苦虫をかみつぶした顔をして部室の扉をそっと閉じた。
顔に描かれたイラストは筆ペンなので洗面台に備え付けの石鹼であらかた落とせた。前後不覚な感じだった意識は粗方戻っては来ているが、バイクには乗れない。
…そういやまだ買ってない漫画出てたなぁ、と俺は思い出すと、顔についた水滴を手で払い除けながら部室へ戻りつつ眼鏡をかける。
部室のドアを開けると、何人かは俺の方を向いたが、大体は今各人がやってることに集中していた。
「…ちょっと駅前まで行ってきます」
「バイク乗るなよ〜」
板取が声をかけてきた。そりゃあ当然だろ。飲酒運転で折角取った免許手放したくない。
「安心しろ電車だ」
俺はそう言って再び部室を出た。
副門そばの大学前駅のホームで電車がやってくるのを待っていると、これから飲みに行くらしい運動会系のサークルの人らとか説明会やサークルを回り終わった新入生などがそれなりの人数で屯していた。その中には、数組のカップルもいる。どのカップルも、仲睦まじく…というよりはお前らいい加減にしろやと言いたくなるくらいにイチャついてやがる。
生まれてこの方彼女という存在がいない俺にとってはそう言うのはうらやましいとは思うが、さりとて今まで告白した所で全部アウトだったことを考えると、感情に任せて行動に移しても結果が見えている分だけ自己嫌悪感しか残らない。それなら…
「まあ、関係ない話だ」
電車に乗り込み、モーターがうなる音が響く車内で俺はドアのそばに立ってガラスの向こうに広がるトンネルの暗闇とガラスに映る車内をただぼーっと見ながら小さく呟いた。やがてガラスの向こう側の景色が、駅のホームの看板のにぎやかさと、JRを跨ぐ高架から見える三河吉田市の街並みと、JR線と接続している操車場の様な線路の広場とを見せてくれる。
ビルの陰にひっそりと、申し訳なく存在しているような名鉄阿曇線の終点新吉田駅に電車が着くと、ドアが開いて俺を含む乗客が一斉にホームへとなだれ込む。改札を抜けてとうの昔に減価償却が済んでるかのような駅舎を出ると、目の前の駅前広場の背景代わりに昭和40年代に建てられた様なレトロ感があるビル群が目に入る。多種多様な広告がビルの屋上を着飾り、その右側にはパチンコ屋の屋根にそびえたつ看板代わりのスペースシャトルが存在感を周囲に拡散している。
市電の終着電停と接続している横断歩道を歩き、古めのビル群の真下を通り、広小路通りと呼ばれる三河吉田市で一番賑わっている通りへと入る。すると目に入ってくるのは、この三河地区で最大級の本屋さんである詳文館書店の本店が見えてきた。駅前へ来た目的はここで本を買うため。
「さて、と…」
本屋に入ると、自分の興味もあってあちこちのジャンルの所を寄ってはそこで面白そうなのを手に取ってパラパラと本をめくる。モータースポーツやバイクや車関係、軍事関係、写真関係、小説とかを回って漫画の単行本売り場へと足を進める。目的の本を探しているとふと視界の端っこで本棚の高い所の本を取ろうと背伸びして手を伸ばしているスーツ姿の女子を見かけた。
「脚立あったと思ったが…」
高い所の本を取るために所々に脚立が置いてあるはずだが、どうやら本人はそれに気づかないか、周りになさげなのか。まあ、本人が何とかするだろうと思って再び本来の目的を思い出し、視線を目の前の本棚に戻すも、何かが引っかかる。
「…ひょっとして?」
もう一度そのスーツ女子を俺は見た。
例の子だ。
「……」
やめておこう。そっとしておいてやろう。ああいうことがあったし。
俺は無関心を装う…が、彼女はまだ執拗に手の届かない場所の本を取ろうと奮戦している…。
…気になってきた。何やってんだ、と言いたくなってきた。
「…しゃーない」
軽くため息をついてから、俺は彼女の方に向かって歩き出す。本を取ることに集中してる彼女は近づいてくる俺に気づいてない。
「これか?」
俺が彼女の取ろうとした本を手を伸ばして取り出し、彼女に渡す。突然すぐそばに来た身長185cmの俺に彼女は一瞬驚き、次の瞬間には上半身をのけぞらせて逃げようとし、その次の瞬間には嫌悪感を隠そうともしない表情を約30cmほど下から俺に向けて来る。
視線という名の、槍の穂先を。眼鏡のレンズ越しに。
俺は怒るというよりそんな気力もないままに半ば呆れながら、
「…いやそこまで嫌うことはないら?」
「あ、あ…ありがとう…ございますっ」
彼女は俺に明らかに怯え切ってる姿勢のまま、それだけ言うと脱兎のごとくレジへ向けて小走りで遠ざかって行き、やがて本棚に隠れるように姿を消した。そんな彼女を見ながら、俺は彼女のスーツの背中にあの時の取り切れてない漫研前の廊下の埃がうっすらとついていたのを見ていた。
「…難儀な事になったなぁ…」
俺は何気なくため息をつくと、彼女が取ろうとしていた本の辺りを眺めた。普通の少女漫画の、普通の恋愛系の漫画がその辺りには並んでいた。漫研だから、というわけではないが掲載雑誌とか作者かタイトル見ればおおよそ話の見当はつくくらいは情報を仕入れている。
「…興味はありそうか、な?」
全く無関心ではないんだな、と妙に安堵感を俺はいつの間にか表情に浮かべていた。そして本来の目的を思い出してそこからやや離れた本棚に中にあるはずの本を探し始めた。
しかし、ふと考え事をし始めてその手が止まる。
「…いや、いくら彼女いたらいいなぁ、ってあの子はない、な」
ああいうことをやらかしたら、万が一俺が彼女を好きになっても彼女の方から嫌がるだろう。それくらいは判る。今までの事もあるし。
俺は再び、目的の本を探し始めた。
戦利品を持って再び電車で大学前駅へ。俺が通ってる大学は学生自治会の力が強くて夜間のロックアウト(学校閉鎖)がない。24時間365日学校は開いている。すでに周りは夜の帳が降り、学校内はあちこちにある水銀灯が周囲を青白く照らし出して雰囲気を盛り上げている。昼間の喧騒は白昼夢のようにその姿を隠し去って、静けさと何処からか聞こえてくる街の音が学校内を支配していた。そんな学校内を歩いてサークル棟へ。
ロックアウトがないためか、漫研は24時間365日誰かいる。この時も他のサークルは灯が落ちて夜と同じ色を扉の擦りガラスから廊下を行く者に表示していたが、漫研の扉からは、部屋の中の明るさとに中で賑わっている笑い声が聞こえてくる。
俺は部室のドアを開けると、そこには板取とその彼女の田神、彼女と同学年の2年生男子3人が長机を囲んで即席の飲み会を始めていた。学校そばのコンビニで買いこんできたお菓子類とビールが、机の上に缶と袋の森を作っており、中には俺が昼間に買ってきて飲みきれなかった日本酒の一升瓶が鎮座していた。
「おーお帰り」
程よく酔いが回り始めた板取が缶ビール片手に俺を出迎えた。
「昼間飲んでまた飲んで…板取お前体大丈夫か?」
「大丈夫です先輩。飲みます?」
板取に代わって彼女の田神がこれまたアルコールと仲良くなっているようで、頬をやや赤らめて俺に答えを返す。彼女の手にも缶ビールが握られていた。
「うーん…どうすっかなぁ」
昼間にはしばらく酒飲まないと言った舌の根も乾かないうちにアルコールの魔力に取り付かれつつあった。意志が弱いぞ俺。でも、もう新入生はいないし…いっか。
「それじゃ貰おうか」
買ってきた本を机に置いて、俺は後輩から缶ビールを貰ってリップルを開ける。ぷしっ、と美味そうな音が響き、炭酸のはじける音とふわっと苦そうなホップの香りが鼻から俺の食欲に火を点ける。口をつけようとして、俺は俺を見つめている5人の視線を受けているのを感じて缶ビールを持つ手が止まった。
「おら円山、飲む前に乾杯すっぞ」
「ああ、悪い」
なら開ける前に言えよ~飲むところだったじゃねーか。
「それじゃ新歓で新入生が一杯入ってくれることを願って…かんぱーい!」
「「「「「かんぱーい!」」」」」
ようやくビールが飲める。美味い。喉がまたアルコール漬けになってるのを喜んでる~。
「ぷはっ!」
一息つく。ビールの感触をゆっくりと味わいながら感覚を反芻していると板取が椅子ごと俺の横に移動してきた。酔ってるせいか、奴の目は妙にエロい。
「で、どうだったあの新入生の感触は」
「どうだったって…酒入ってたのにマトモな感触なんて感じるヒマないら」
「お前あの状態で胸触ってなかったのか?」
「判らん」
…話が変な方向になりかけている。逸らそう。徹底的に。俺的にはなかったことにしたい。
「なんだつまらん」
「お前なぁ…田神さんや、何か彼氏に言ってやりん」
話をいきなり振られた田神は、酔ってとろんとした目を俺に向けると、
「円山先輩、あの子昼間のあの反応から見て多分男性経験ないですよ。今度こそ押し倒して彼女ゲットしてくださいな」
「田神さん?大丈夫?酔っとらん?」
「だいじょーぶです!」
アカン、安全弁になるかと思ったら俺に劣情に任せて彼女をゲットしろとサムズアップしてきやがった。なおさら煽ってやがる。一旦話を切ろう…俺はそう思って缶ビールをあおろうとして…肝心なことを訊いてなかったような気がする。缶を持つ手が止まった。
「…そういやさ、彼女の名前、何て言うんだっけ?俺聞いてなかった」
「えーとですね…」
田神が今日新歓ブースや部室に直接来た新入生の名前を記した名簿を探してしばらくその視線を周囲へと向けた。どうやら見つけたようで、長机の端っこの方、酒やつまみの森に追い出されてコンクリートの床に落ちそうになっている名簿を手に取り、名前に目を通す。やがて、とある場所で視線が止まると、彼女は名簿に目を固定しながら俺に答えを返してきた。
「笠井亜紀。静岡の浜津市から来てますね」
「ふうん…」
俺はそう呟くように生返事をすると、缶ビールをあおった。
…彼女が手に取った少女漫画じゃないけど、何処にでもありそうな、普通の名前だなぁ。
俺、円山雅は、俺の名前はどうなんだ、というセルフツッコミをさりげなくしながら、他人の名前に勝手に評価を付けていた。