7.唄陽
大人になるって、どういうことだろう。
わたしがそんな疑問を覚えたのは、小学生6年生の終わりの方の春だった。
なんでその時かって言うと、お姉ちゃんが、家を出て行ったからだ。大学というのに行くため、しかも高校で付き合った恋人と一緒に住むために!
生意気で、不良で、家での生態はダメダメで、でも私が飛び付けば柔らかく受け止めてくれて、繋いだ手はずっと離さないでいてくれたお姉ちゃん。
『どこに行くの?』
『分からない。でも、すごく景色の良いところ』
『何しに行くの?』
『んー。それは子供に言っても分からないかなあ』
『子供って何。お姉ちゃんはもう子供じゃないの?』
『そうやって質問を重ねるのが子供。わたしはもう人生の答えを見つけてしまったから、立派な大人なんだ。なんつって』
『なにをー』
生意気な。ムカついたから、わたしはお姉ちゃんみたいな大人にはならないと決めた。
お姉ちゃんみたいにならないなら、具体的にどこをどうしていこう。
まず髪色。これは簡単だ。お姉ちゃんみたいに金髪に染めなければいい。何もしなくてもクリア。
授業にちゃんと出る。これも簡単。だってわたしは一度だって学校も授業もサボったことがないのだから。余裕だ。
後は、お姉ちゃんは単純。単純とは、単で純のやつ。つまり何とも混じり気が無い。じゃあ単純の逆ってなんだ?言葉は"複雑"って単語が思い浮かんだけど、複雑な人間ってどんなやつ?色んな自分が乾いた絵具みたいに混ざらず虹色にキラキラしてる感じ?いや、乾いてたらキラキラしなくてズーン、て感じか。それは何か嫌だな。うーん、難しいから保留だ。
少しの間うーむうーむとユラユラする。結局お姉ちゃんと言えば不良で、その逆を行くなら良い子ちゃんになるのが手っ取り早い気がする。だからわたしは良い子ちゃんな大人になろう。なんか矛盾ってやつを感じた。
「大人、かあ」
陽の沈む公園で、お姉ちゃんの余裕ある笑顔を思い出しながら呟く。
「中学になったら、もう公園では遊ばなくなるよね。それって大人?」
ばね仕掛けのパンダに話しかける。塗装が剥げて白黒はっきりしなくなったパンダは何も答えてはくれない。小さい時からずっと一緒に遊んでたのに、薄情なやつだ。
「やっぱり、自分で答えを見つけるしかないのかな」
パンダの背中に寝そべり夕方と夜の混ざったベリーソースみたいな色の空を見上げる。お尻しか乗っからない小さな背中の上で、角みたいな取手に手じゃなく足を引っかけてうまくバランスを取っているのだ。大人に見られたら危ないと叱られるのは間違いない。良い子ちゃんになると決めた傍から悪い子ちゃんだなーって笑いたくなる。
多分、誰も答えを教えてはくれない。お姉ちゃんも自分で見つけ出したから、あんなに誇らしげだったんだと思う。だったらさ、やってやろうさ、わたしなりに。この色のはっきりしない空とパンダに誓って。……ん?なんだあれ。
「ぎゃっつ!」
そろそろ頭に血が上りそうだからと身体を起こそうとしたその時、おでこを撃ち抜く何かに襲われた。カツン、頭の骨が全部震える大ダメージを負い、耳の先までビリビリする。すぐにおでこを撫でてみたけど、血とかは別に出てなくて、安心した。
何もない空からの攻撃、その正体を探ろうと目を凝らしても、薄っすらと星が輝き始めているだけで、怪しいものは一つも無い。怪しくないのはおかしい。事件解決の唯一の糸口は、地上に転がっているはずだ。パンダの背中から飛び降り、地面の上の弾丸を探す。これでただの虫とかだったらどうしよう。虫ならどこからともなく飛んでくるし、一番あり得る気がした。でもそれだとつまらん。
30秒くらい探していると、パンダから少し離れた位置に親指くらいの大きさの白い石ころみたいなのを見つけた。他に怪しげなものもの無いのでそれを拾って観察してみる。
「んー?種かな?」
パッ見ではチョコとかに入ってるアーモンドに近い形をしていた。でも、こんなに白いアーモンドってあるのかな?というか日本でアーモンドなんて育てられてなさそうだし。空から急に降ってきたのも謎。未知に満ち足りたこの種っぽい何かは、とても興味深いものだった。特別感を出す為に、一先ず『星の種』と名付けておこう。
もしかしたらこれは、空よりももっと深いところ、宇宙からやってきたのかもしれない。宇宙なんて誰も知らない未知だらけのはずだ。そこにはきっと、お姉ちゃんも、他の大人も知らない答えに溢れている。なんなら宇宙人に聞けば大人の何たるかを教えてくれるかもしれない。無限大に広がる未知に、見えなかった道が無限大に広がっていった。
――時は流れて――。
中学生になったわたしは、大躍進を遂げていた。勉強はいつも学年で一番だし、身体を動かすのも得意な方になった。喋り方から敬語を努めて、雰囲気も周りより大人っぽくなったと思う。
誰から見ても立派な良い子になったと自分でも思う。でも、何かが足りなかった。全然大人になれた気がしない。
これで駄目なら大人って本当に何なんだと小6の時と同じ疑問に立ち返る。気付けばもう中3の夏休みで、お姉ちゃんが大人になったと豪語する高校生活がすぐそこに迫っていた。
焦りはある。けど、夏は好きだ。必ず何かが起こるから。何故かというと、お盆休みにお姉ちゃんが帰ってくるからだ!
「お姉ちゃん、おかえり!」
「おー」
家に帰ってきたお姉ちゃんに、わたしは飛び付いた。お姉ちゃんはあんまり表情を動かさずに、ただ柔らかく頭を撫でてくれた。
「反抗期はどうしたの」
「んなもんないよ」
「なんだーつまらん」
反抗期が長かったお姉ちゃんは不服そうだ。
わたしは小学生の時が一番反抗的だったと思う。あの時は甘えるのが下手で、甘えてあげてると偉そうにお姉ちゃんと触れ合っていた。そんなツンツンしている内に何処かの馬の骨にお姉ちゃんを奪われてしまったので、今は反省して甘えられる時は素直に甘えることにしている。
「わたしね、中間テストで学年一位だったんだよ」
「マジ?すっげーホントにうちの子か?」
お姉ちゃんは目を丸くして驚く。お父さんとお母さんはもうわたしの成績にも慣れてしまって、こんな気持ち良い反応は返してくれない。お祝いも夕食のメニューをわたしに決めさせてくれる程度だ。
「回らないお寿司を食べたいって言ったら連れていってくれたけど、回るのとの味の違いが分からなかった。そんでお母さんに『子供だねぇ』って笑われた」
「そりゃかわいそうに。慰めにお姉ちゃんがお菓子を買ってあげよう。もちろん回らないやつ」
「回るお菓子って何?」
「んなもんないよ」
真似されたのでこっちも『なんだーつまらん』してやろうかと思ったけど、ちょっと面白かったので勘弁しておいた。
ケラケラ笑うお姉ちゃんと一緒に笑い、一緒に外に出る。お菓子と言っても近くのケーキ屋さんやカフェはお盆でやってないから、コンビニでケーキと飲み物を買って家で一緒に食べようってなったんだけど……。
罠だった。ケーキを食べながら散々のろけ話を聞かされた。
「でね、あいつが寝てる所にソッと近づいて……」
「前にも同じような話聞いたよ~もう」
「あれ、そうだっけ」
「同じことの繰り返しって、マンネリって言うんだよね?飽きたらいつでも家に帰ってきて良いよ」
「分かってないなあ。繰り返しの中に違いを見つけることで愛を確認できるのだよ。ま、聞いてる側は退屈かもだけどね」
満足そうなお姉ちゃんは、家に戻る気は今のところ無さそうだ。わたしたち家族と離れる道を選んで、それでも迷いなく幸せになれる。それはちょっと、すごく悔しい。お姉ちゃんには少しくらい、家族と暮らしてた方が良かったな、って思って欲しい。
「唄陽にも、良い人ができるといいね」
お姉ちゃんは鈴を鳴らすようにわたしの輪郭を撫でた。
「良い人……」
顎と心を同時に撫でられたみたいにくすぐったい。
良い人、それはつまり、お姉ちゃんにとっての"あいつ"みたいな人。あいつのことは実際のところよく知らない。だから、たくさんいる友達の中でイメージしても、この人だと嵌まる人は居ない。それが、お姉ちゃんにあってわたしに無いもの。そこに"大人"があるのかもしれない。どうすれば見つかるんだろう。疑いなく信じて、迷いなく幸せになれる相手なんて。とりあえず、すぐには見つからないとだけは予感した。
「高校になったら探してみる」
「良いね。ま、唄陽はかわいいから、探さなくても選り取り見取りかもねぇ」
頬っぺたをやたら強くつっつかれて、若干ウザい。でも、お姉ちゃんにかわいいって言われると、すごく自信が沸いてくる。きっと、この人生の先で素敵な出会いが待っていると信じられるような、心の隅に花瓶を添えるような暖かい色が灯った。
――そして、さらに時は進み――。
わたしは高校生になった。
中学の時とは明らかに変わったような、気のせいなような校門前の少し重みのある空気を掻き分けながら、さて、と背の高い校舎を一瞥する。
この高校は地元の中学よりかなり偏差値が高くて、知り合いもいない。良い子ちゃん路線はあまりうまく行かなかったので、この丁度いい機会を利用して普通に戻してみようかと思案する。
でも、やっぱり止めた。どうせ大人になるには"良い人"が見つからないといけないから、その出会いまで素の自分は隠しておきたくなったのだ。その方が劇的な感じがして面白そうで、つまり、ノリってやつだ。
期待と鞄を引っ提げて、まずは入学式の為に体育館へ向かう。体育館に関しては中学校と変わっているように見えない。とはいえ、入学式用に内装は華やかに整えられているので初々しい気分を損なうことはない。
まだまばらにしか埋まっていない新入生用の椅子の中から自分に割り当てられたものを見つけ出し、座った。周りの席にはまだ誰も来ていなくてお話もできないので、行儀良く座って待つしかない。
退屈を感じる最中ふと前の方の席を見ると、とても目を引くものを見つけた。入学早々になんて勇気のある、いや、生来のものかもしれないけど、とにかく目立つ金髪。わたしとは別のクラスのその女の子は、周囲を威嚇するように足を組みその上に肘をついて座っていた。後ろからでは表情は見えないけど、全体的に近寄りがたい雰囲気を放っていた。
偏差値が高くてもいるんだなー不良って。わたしはお姉ちゃんで不良に慣れてるけど、他の子はそうでもないだろう。友達作りに苦労しそうだけど、そもそも友達を作るつもりが無いのかもしれない。
高校生ともなれば皆これまでに色々な経験をしてきて人間性も多様になるものだ、って、そんな話をお母さんがドヤ顔で言っていた。あの子は多様の内の一人なのかもしれない。お母さんの発言は往々にして適当極まるのでそもそもが信用できないけど。
そんな風に金髪少女を眺めていると、後ろの方で大きな声が上がった。
「お、なかなかの箱じゃん!」
「雪ちゃん、声大きいよぉ……」
「いやー、せっかくだし言ってみたかったんだよねー。いずれここでライブするかもしれないし!」
入学したてだというのに物怖じせず注目を集める短髪の少女と、その注目に身を縮こまらせながらもその子の後を引っ付いて離れない身長高めの少女。それだけでキャラが濃そうだと思えて、お母さんへの信用が少し上がった。
二人はわたしたちのクラスの席の方へ歩いてきて、背の高い子が後ろの方の席に座る。雪ちゃんと呼ばれた短髪少女は、わたしの後ろの席に座ろうとする。
「あの、あなたはこの席じゃありませんか?」
「あれ?そうなの?よっ、せっと!」
わたしがわたしの隣の席を手で叩いて示すと、その子は豪快に背もたれを飛び越えて着席を決めた。危ないなーと思いつつ、小さな拍手を送っておく。
「おー、お見事です」
「いやー、実はあんまり分かってなくてさ、教えてくれてありがとう!でもなんでわたしの席がここだって分かったの?わたしのこと知らないよね?」
「さっき雪ちゃんって呼ばれてましたよね?クラス名簿で見た名前だったので」
「え、同級生の名前全部覚えてるの!?頭良い学校に入るとそこからなのか!」
出遅れてるー!と頭を抱える雪が何か面白い。このまま凄い奴だと思われておくのも悪くないけど、入学初日から同級生を騙すものではないと思い直す。おかしな勘違いは早めに訂正しておこう。
「まさか。出席番号が隣で、苗字が一緒だったので記憶に残っていただけです。ほら、これです」
わたしは種明かし、と入学のしおりを開いて、新入生の名簿を雪に見せた。
「なるほど、んー?出席番号順に座ってて、隣の席で、ってことは唄陽ちゃんか!うわ、本当に苗字一緒じゃん!」
「まあ、ありふれた苗字ですからねー」
「そうなんだよなー。あ、そうだ、ややこしくならないように今の内にあだ名決めとこうぜ!」
「ほー、良いですけど」
初対面でいきなりあだ名かー、これが高校生のスピード感なのかな。この子が特別なだけな気もするけど。今までにない勢いを新鮮に思いながら、承諾する。
「そんじゃ、唄陽、うたひ、うーん、うた、普通だな、うーたん、は子供っぽすぎるし……」
「わたしは『ゆっきー』と呼びましょうか」
「捻り無いなー。『スノーホワイト』とか読んでくれてもいいんだぜぃ?」
「元より三倍くらい長くなるなんて独創的なあだ名ですねー」
「だろぉ?あ、決めた。今日から君は『たっぴー』だ!」
下二文字から取った随分と変わったあだ名を付けられた。でも、グッピーみたいでかわいいから悪くないと思う。ゆっきーと並ぶとお笑いコンビみたいなのが気になるけど。ゆっきー&たっぴー、なんてね。
それからはゆっきーと話して時間を潰した。
ゆっきーと一緒に来てた子は愛茶と言って、小学校からの幼馴染なのだとか。箱とかライブとか言ってたのは、高校では二人でアイドルをやるつもりだかららしい。ゆっきーはともかく愛茶は人前で何かするタイプには見えなかったけど、ちゃんと話し合って決めたのかな?ま、仲はすごく良いみたいだし、わたしが口出しすることでもないか。
大半が愛茶の話になったゆっきーに、どことなくのろけ話をするお姉ちゃんを重ねながら、わたしはまたふと前の方の席を見る。金髪の子はさっきと足を組む方を入れ替えていた。どうも足を組むのに慣れてないみたいだ。なら組まなければいいのに。一体何を考えてそこまでして威圧感を振り撒いているのか、気になる気になる。
そんなこんなで無事入学を果たし、そこから始まった高校生活は、どうにも中学の延長線上にある気がした。勉強が三段階くらい難しくなったくらいで、それも着いていけないなんてことは全くない。わたしを取り巻いている空気に変化は少なかった。
良い人、一緒に大人になる相手はまだ見つからない。最初に仲良くなったゆっきーと愛茶は間違いなく善良な人間ではあるけど、わたしの求める"良い人"ではなかった。なんというか、わたしも彼女たちも、ザラつきが無さすぎる。
良い人というのは必ずしも社会的な善人ではない。お姉ちゃんと"あいつ"は、お互いにザラついていて、それがぶつかって削り合い、丸みを帯びて今の関係に収まったらしい。
良い子ちゃんはやっぱり駄目なのかなー、って思いつつ、頭の中に入学式の時に見た金髪を思い浮かべる。あれくらい尖っていれば、この変化の乏しい高校生活に感じるものも何かが変わるのかな。
わたしもワルになれば、等々と考えている内に、わたしは職員室から屋上への鍵をコッソリ持ち出していた。してしまったのだ。もし先生にバレたら怒られるでは済まないかもしれない。それでもわたしはそこに行かないと気が済まなかった。
味わった事の無い悪いドキドキを感じながら踏み込んだそこには、立ち入り禁止なのが勿体無い位広い世界が広がっていた。溜まった土埃は長い間誰もここへ来ていない事を教えてくれて、わたしはまた悪い事を思い付いた。
小学生の終わりに手に入れた星の種。色々と試してみたけど全く芽が出る気配がない白い未知。この高い大地でなら、宇宙のエネルギーをたくさん吸収できて、もしかしたら、って。
ついでに宇宙からもよく見えるので、こんなところに畑があるのを宇宙人が見たら、なんだなんだとひょっこり姿を現すかもしれない。
想像するとワクワクしかなかった。
それから一年。
わたしはコツコツと資材を運び込み、屋上に自分の庭を造りあげた。
残念ながら星の種は発芽しなかったし、宇宙人も顔を出さなかった。それでも、秘密の庭園造りは楽しくて、つい当初の予定よりも大がかりなものが完成してしまった。
屋上の鍵はわたしがずっと持っている。職員室の鍵置き場には別の鍵に屋上と書かれたキーホルダーを付けて置いてあるけど、未だにそのままなので誰も屋上には入ってないと思う。
最初の頃はバレたらどうしようっていうドキドキがすごかったけど、今はもうそれにも慣れて平然と屋上を私物化している。
そして二日前。
わたしは落ちてくる金色を受け止めた。腕を犠牲にしながら、こんなところで出会えるなんてワルになった甲斐があるな、と嬉しく思った。心は踊り、自然と秘密の庭へと招待していた。
そして、今。
「だから」
色んな想いを込めた"だから"を、秘密を打ち明けた相手に解き放ち。
「一緒に大人になろう、捩菜ちゃん」
真昼の夏に照らされた金色が、そこだけ夕焼けみたいに赤く染まった。