3.解放
「捩菜さん、一緒に帰りましょう!」
帰りのホームルームも終わり帰宅するのみとなった放課後、真隣からそんな声が飛んできた。見なくても誰か分かるその声の主にハッと目を向けると、慎ましやかにカバンを提げてニッコリ微笑みを投げかけてくる唄陽の姿があった。
今日の昼休みに友達だと言われ、あたしも一先ずそれを受け入れた。それは事実なんだけど……。
「あぁ、いぃ、うん……」
口は反射的に肯定しそうになり、ふと周囲のことを思う。相手は優等生でクラスの人気者、片やあたしは不良で誰も誰とも話しているのを見たことが無い孤独女。隔たったものがいきなり綺麗に混ざることなどあり得ず、他のクラスメイトが何事かと注目を向けているのが分かった。それが反射的な否定を生みかけ、結局か細い肯定が再燃する有様となった。
一対一なら得意の睨みで跳ねのけられるけど、クラス中の視線を相手取るのは至難の業だった。だが、おかしな反応をしてしまったがために、このままではこれまで不良に見せてきたあたしのイメージに不審感を抱かれかねない。
恥じて背中が縮こまりそうで、目線が唄陽に助けを乞う様に斜め上を指す。こいつはよく頭が回るみたいだし、目で訴えかければあたしを窮地から救ってくれるはずだ。というか発端は急に誘ってきたこいつにあるし、救え。
「あれ、立たないと帰れませんよ?あ、なるほど」
だが、こんな時に限って空気を全く介していないようで、能天気を発揮している。しまいに差し伸べられた手は、救いどころか火に油を注ぐようで。何があったかというと、唄陽の手があたしの両脇に差し込まれて、そのまま持ち上げるようにグイッと。
「ほぉら、行きますよーっと!」
「うひぃっ!!??」
同級生に立たせてもらうとか、恥ずかしくて死にそうだった。脇がくすぐったくて、膝から下は力が入らなくてガクガクしていた。立ち上がった瞬間よろめいて、身体は唄陽の方へと。階段の時とは違い、唄陽の本体へそのまま抱き着く。
「おぉっ!?甘えん坊さんですね!」
「ふぃいむいぃぃぃ…………」
無理 無理 むり 近くて 体温と匂い じゃなくて!人の見ている前でだだだ抱き合ってぇ……、不可抗力、でもおかしな誤解をされてしまう!
「どうふっ!!」
「おあーっと!?」
本能が警告を放ち、肩を突き飛ばした。が、吹き飛んだのはあたしの方だった。足腰が抜けているのだから当然だ。驚いている唄陽の顔が離れていくのをスローモーションで捉えながら、反動のままにあたしの身体は後方の自分の席へ、ガラガラシャンと派手に崩れ落ちた。
「うげぇ……」
腰に衝撃が走ったけど、痛みは薄かった。それよりも熱くて、意識がフワフワしていた。
「だ、大丈夫ですか!?いえ、すぐに保健室に行きましょう!」
「たっぴー、手貸すよ!」
「わ、私も!」
周りで影が動き回り、身体がどこかへ運ばれていく。
ざわめく教室から離れ、気付けば保健室のベッドの上に横たえられていた。
隣の椅子には心配そうな顔を浮かべた唄陽が座っていて、目が合うと「具合はどうですか」「大丈夫」という簡素なやり取りが行われた。他人事なのは、自分の怪我よりも文句をつけるのが先だと思っていたからだ。
「なんであんなことしたんだよ……」
「あんなこと……?えと、どれのことでしょう?」
それくらい言わなくても分かれよ、恨み言を言いたくなる。こいつのしたことをあたしの口から説明しないといけないなんて、酷い辱しめだ。
「……急に誘ってきたこと」
「??友達を下校に誘うのは当然のことですよ?」
「後、あんな子供みたいに、だ、抱き上げたり」
「甘えたそうな目をしていたのでそういうことかと」
まるで分かっていない、きょとんとした顔だった。あたしのどこに甘えたそうな要素があったのか問い詰めたい。
でもそれよりも、と身体をゆっくり起こす。背中に走る痛みがあったけどそれよりも話さなければいけないことがある。
「あのなあ、今まで関わりの一切無かったあたしたちが急にベタベタしだしたら、変だろ」
「変、ですか?」
「大体あたしのガラじゃないし」
抱き付いたり、驚いて膝震わせたり。あれ、その辺はあたしの方に問題がある気がするけども。
「ふむ。それは不良なりのメンツって奴ですか?」
「まあな。あたしは高校でずっとこの調子でやってきたし、今更女々しい部分を見せたら気持ち悪いに決まってる」
「つまり、これまでの自分のイメージを崩したら周りに酷いことを言われそうで怖い、と」
「ああそれで合ってるよ。あたしは今の立ち位置で満足してるし、それを崩されて泣きを見るのはごめんなんだ」
「なるほどなるほど。悪い方向へ転がると思っている辺りに捩菜さんの性格が表れてますね」
「はぁ?別に間違ったことは言ってないだろ。お前だってあたしと絡んでたらせっかくの優等生の立場が崩れて嫌な目に遭うかもしれないんだぞ?」
「……」
理解させるために、唄陽の立場で説明してやった。すると黙りこくったのを見て、あたしは勝利を確信する。人は誰だって、安定したものを崩されるのは嫌なはずだから。唄陽みたいにカースト上位に君臨する人間なら猶更だ。
「ふぅ、仕方ないですね」
唄陽は溜息と共に目を閉じた。それは観念したかのようで。しかし。
「分かったみたいだな。これからは気安く人前で話しかけたりは」
「なら、試してみようか。人が、他人の変化に何を思うのかをね」
「え」
唄陽が目を開いた瞬間、雰囲気が一転した。口調が変わり、別人のようになる。それは豹変、といえるほど恐ろしいものではなく、むしろ表情は普段よりも柔らかくて、幼い。
「ふふっ、よし、調子はこんな感じだよね。どうかな?捩菜ちゃん」
「ちゃんって、いやいや、お前……。その喋り方、急にどうしたんだよ?」
「どうしたって、これがわたし。いや、もっとぐわー!って感じか」
「ちょ、!?なんっあ」
理解が追い付く間も無く。あたしはぐわー、された。唄陽に覆い被さられていた。顔が近くて。逃げ場がなくて。あぁもう全部近くて。こっちがぐわーだ。
「家族以外の前でこうなるのは久々でさ。あ、こうっていうのは、自然体ってこと」
「自然体って、嘘だ」
あたしを言い負かすために普段と異なる自分を演じているとしか思えない。じゃなきゃ、こんなに、こんなに。
「嘘でも何でも、捩菜ちゃんの優等生な同級生は、実はすっごい子供みたいな中身だったの。それで、わたしのこと嫌いになった?どう?どう?」
「はーっ、はーっ……」
息が燃えながら荒くなる。互いの息が循環し、返ってくる気体も冷める気配がない。興奮、高揚。嫌いになんてなれるはずのない、かわいい顔。こんな唄陽も、これはこれで良い。完璧な誘導尋問を受けている。胃の隅くらいでそれを認識しながらも、あたしは小刻みに首を横に振るうしかなかった。
「そっか。それは良かった。わたしも、同級生にこんな姿を見せるのは小学生以来だし、子供っぽすぎるかと心配したけど。でも、これで分かったでしょ?多少キャラが変わっても、それが悪く捉えられるとは限らないってこと」
「そ、それは、でも、どんな唄陽にも、根幹に優しさがあるからで」
「捩菜ちゃんも優しいでしょ。わたしには分かるよ。ていうか、うん、もう我慢できないかも」
あれよあれよと丸め込まれそうな流れの最中、唄陽の身体がふと沈んだ。胸に、あたしの胸に、顔を、押し付けて沈ませて、ぇ。
「なにゃにょっ!?」
「わたし、実は甘えるのが好きだから……。最近溜まってたし」
胸にもぞもぞと声が響き、とても、落ち着かなくなる。同級生の、美少女に、甘えられる。ベッドの上なのも合わさって、もういよいよ、といった具合だ。
「捩菜ちゃんは、弟か妹居る?」
「い、今聞くことかよ!?」
「今必要な情報だから。いいから教えて」
「うぃ、一応妹が一人いるけどっ」
「そかそかじゃあさ、わたしのこと妹だと思って甘やかしてよ」
「はぁっ!?妹だと思ってって、なん、なんなんだよっ!もーうぅぅ!!」
気が動転し、酸素を欠いて訳が分からなくなったあたしは、求める声に当てられてヤケクソ状態に陥った。
そうする以外の現状の打開策が見つからなかった。
顔中から何かが噴き出しそうになりながら、胸の中の甘えん坊を抱き締めた。
「んっ」と喜びと催促を含んだ吐息に胸元を湿らされる。
頭を撫で、艶やかな黒髪の流れに指を這わせ、首筋に触れた瞬間のピクンとした揺れにあたしの方が大きく揺れ、下った先の背中をポンポンポン、ポンポンポンポン!
あぁ、って思って、ああぁぁぁあぁぁぁぁっ、ってなった。その重みと温もりと手触りに、確かに満たされていくものがあったのだ。
「な、なあ。もういいだろ?」
「まーだだよ」
「うぅぅ……」
昼間の頼りある姿はどこへいったのか。段々、唄陽の身体が小さく見えてきた。元々こいつは背があたしよりも小さかったはずだ。
本当の妹とだってこんなことはしない。身体が密着するように重なり合い、ギュウってされるのに呼応してあたしの腕にも力が籠る。唄陽の顔をあたしの鼓動が叩いている、あり得ないくらい高鳴っているのが絶対にバレている。それについてノーコメントなのが、言葉ではない言語を空気中に醸し、浴びるような酔いが回る。
――それがあたしの許容量を超えたところで、終了。
「おお終わり!もう無理!」
「ふぅ…………。とても良かったです。ありがとう優しいお姉ちゃん」
ご満悦に上げられた顔は火照っていた。暑さのせいだ。それ以上深く考えるとこっちがボンっとなりそうなので、そうなのだ。
気付けば全身に汗が滲んでいて、骨が抜けたみたいにクタクタだった。何でコケた当初より満身創痍になっているのだろう。
そもそも何の話をしていたんだっけ。そうだ、あたしが変に見られる云々だ。それから唄陽が変になって、流されていた。
今更最初の話に戻す雰囲気でもない。時計の針も5時を回り、早く下校しろと急かしていた。あたしは唄陽の肩を借りて、何とか下校を果たした。
刺激的すぎる一日だった。ベッドで横になれば少しは落ち着くかと思ったけど、ベッドはベッドで思い出すものがあるから八方塞がりだ。結構広がってきている腰の痛みだけが心に渦巻く感情を薄める頼みの綱と言っていいのだろうか。
「姉よ。ご飯炊けたよ」
「おー、よくできたなー。それじゃ、後はレトルトのカレーをお湯で温めて、火傷に気を付けろよ」
「甘く見るでない、それくらいできら」
痛みもあって自分で動くのが辛いので、妹に指示を出して家事を行っている。風呂掃除は、転ぶと怖いので昨日のお湯を温め直すだけで良いか。家まで送ってくれた唄陽が手伝おうかと言ってくれたのを断ったけど、お言葉に甘えておけばよかったかもしれない。
それにしても、今日は本当に何だったんだと、もはや他人事のように思う。唄陽の優しさに包まれて、唄陽の天然に転げて、唄陽に甘えられて。
明日クラスメイトにどんな目を向けられるかと思うと、食道がキュルキュルと窄まって己の愚行を訴えかけてくる。
でも、無かったことになんてできない。クラスメイトの目が白くなっても、それを代償に得られたものはかけがえが無い。例え今日一日が全て夢だったとしても、良い部分だけを切り取って枕の下に入れておきたいと望んだ。明日からも、同じ夢が見れるなら。今日収穫したいくつもの微笑みが、これからもずっと見れたら良い。嵐のような1日を終えたあたしの心に残ったのがそんな気持ちだなんて、受け入れるのにまた一悶絶必要だった。