夜明け
蒼い五月の空に綿を千切ったような雲が薄く棚引いている。並木に花なく緑を茂らせ、その身を薫風に揺らす。道を挟んだ向こうに茶色い木造の茶屋がぽつねんと建っている。その脇に植えられた一本の桜の木が紅緋の野点傘に黒い影を落としている。風が吹くに従ってさわさわと揺れれば、陽もまたちらちらと揺れる。傘の下、北川双瀬は緋毛氈の敷かれた床几に腰をかけ、並木の向こうでせせらぐ川をぼんやりと眺めていた。観光地ならばいざ知らず、市街地から離れた鄙びた茶屋にただ一人、齢二十の青年がいるばかり。颯と吹いた青嵐は甘やかな香りを孕み、その内に双瀬は不思議な縁を思い起こしていた。
*
三月に高校を卒業してすぐ、双瀬は生まれ育った実家を出て大学近くのアパートに越した。わずか数駅ばかりの距離も精神的には数千里、彼は「自立」の二字を記した旗を立てようとしたのである。学資はともかく、生活費は己で工面しようと臍を固めながら、荷をほどいたり、生活用品をそろえたり、威勢よく新生活に乗り出した。
それから一週間ほどして、双瀬は改めて街を逍遥しながら都合のよさそうな働き口を探すことにした。
このころになると随分暖かくなり、往来を行く人々は身を軽くして高らかに靴を鳴らしている。双瀬は目に着いた店に入っては、買う気もなしに商品棚に目を遣りながらアルバイトの募集の有無を調べた。書店、衣料品店、飲食店と的を絞らず見てまわった。人手不足の所為か募集をかけている店はいくつかあった。しかしどうにも踏ん切りがつかないまま店を出ること数回、当初の決心は次第に萎み、一つ見送っては嫌な汗をかき、また一つ見送っては踏み出す足が重くなる。いつの間にかやらない理由ばかりを考える自分に失望し、次第に歩くのも億劫になり、近くにあった小さな公園のベンチに腰かけた。すでに陽はその傾きを大きくし、夕暮れの空は独りある彼の身に寂寥を生ぜしめた。塗装の剥げた滑り台、錆びついたブランコ、人の姿のない、存在する意味さえ希薄な公園でぽつねんと背を丸くした。
新居に越して以来碌々人と話すこともなかった。慣れないひとり暮らしに苦労しながら独りで食べ、独りで寝て、朝起きても人の声を聞かなかった。双瀬は寂しさに任せて溜息をついた。空いた肺を満たそうと新しい空気を吸うと同時に金の問題が頭にのぼった。高校生時分には校則を破って密かにアルバイトをしているクラスメイトが数人いた。双瀬は彼らを不埒者と断じて決して自ら近づこうとはしなかった。それが今になって彼らの行動力を羨ましく思った。
こうして力なく項垂れている双瀬のもとに近づいてくるスーツ姿の男があった。双瀬は、地面に伸びる影が徐々に迫ってくるのに気づいて顔を上げた。驚くことに、その影の主は父であった。
「奇遇だね」
「父さん。どうしてここに」
父は座面の汚れを払って双瀬の隣に座った。
「仕事が早く終わったんで菓子でも買って帰ろうと思ってね。ここらへんにうまい店があるらしいから。それで歩いてたら偶然双瀬を見つけて。……それよりどうした、浮かない顔して」
落とした目は虚空ばかりを映している。
「自分が情けなくて。アルバイトを探してて、でもなかなか決められなくて。一人でもうまくやれると思ってたんだ。なのにどうしてこうなんだろう」
双瀬は震えそうなのを抑えながら言葉を絞り出した。
「情けないかぁ……。いいんじゃないか。それだって双瀬の正直な想いなんだから。だけど覚えていてほしい。俺は立派だと思う。俺の大学生の頃なんかあれだぞ、ずっと実家にいてのうのうと過ごしてたんだから。それに比べればひとり暮らしをして、自分でどうにかしようとしてるんだから」
父は一度言葉を切った。どこかで鴉が鳴いている。
しばし間があって、それから再び口を開いた。
「失敗が怖いか?」
双瀬は静かに頷いた。
「失敗を恐れずに挑戦しろ、なんてよく聞くけどな、あんなのは無責任だ。怖いのは失敗それ自体じゃない。失敗したときの周りの目が怖いんだ。周りの反応が怖いんだ。そうだろ」
もう一度頷いた。
「だけど俺はあえて言う。お前の親として言うんだ。失敗を恐れるな。俺が、俺たちがいる間に一杯挑戦して一杯失敗しろ。俺たちなら支えてやれる。いつでも味方でいてやれる。それが親としての務めだ」
「だから安心しろ」その言葉には、子に対する親の慈愛が籠っていた。
「ただ、犯罪だけはやめろよ」
「分かってるよ。蛇足」
二人して笑った。
それから互いの新しい生活についてあれこれ話した。
茜色の空はいつしか紫がかり、家路を急ぐ足音が往来を行き交っている。
「そろそろ行かないと店が混んでくるかな。それに遅くなると母さんに悪い」と父は言って立ち上がった。
「ちょっとすっきりした。ありがとう」
「それはよかった。気が向いたら帰ってきなさい。母さんも待ってるから」
父は片手をあげて往来へと向かって歩いていく。その姿が見えなくなるまで双瀬は見つめていた。長い影が植え込みに消えてしまってから一息つき、公園を出た。
家への帰り道、双瀬はスーパーに立ち寄った。夕飯前のせいか、人の出入りが盛んである。子連れや両手に買い物袋を提げた客が忙しなく動いている。人波に紛れて店内に入ろうとした時、ふとガラス窓を見て立ち止まった。そこにはアルバイト募集の紙が貼られていた。長いこと貼ってあるのか、紙はよれ、四隅のテープは少し黄色に変色している。
「大変そうだ」と胸中で呟いた双瀬の顔に憂いは見られなかった。
数日過ぎた四月一日。春暖に包まれて見事に花開いた桜の、淡く桃色なのを横目に、双瀬は朝からスーパーへと向かった。大学の入学式までの三日のうちにできるだけ仕事を覚えてしまおうと己を奮興させて、朝から勤しんだ。
「何をあんなに不安がってたんだ。いざやってみたら案外できるもんだ」そう思ったのは三日目のアルバイトを終えて湯船に浸かっている時であった。長く立ちっぱなしでいたために重くなったふくらはぎを擦っていると、溜まった疲れが溶け出るように気泡が面へと浮かぶ。湯船の壁に深く凭れて、水滴に濡れた天井に手をかざす。すると、右手の甲側、中指の第二関節辺りにできた小さな切り傷が、濡れて赤くなっていた。
「こんなのいつできたんだろう。……あぁ、段ボールで切れたのか」小さく呟いた声が浴室に反響した。
「早いうちに手袋でも買ってこよう。血が付くと困るから」言いながら、次には別のことを考えていた。
この日、十八時にレジの引継ぎを終えてバックヤードへ向かうところで若い男性社員と一緒になった。外はだいぶ暗くなり、没する日の残光が遠く地平近くを僅かに赤く照らしている。駐車場の電灯も煌々と灯って、持ち主の帰りを待つ車を闇の中に浮かび上がらせている。その駐車場の奥まったところ、店から離れ、電灯の明かりからも外れた暗がりに荷物が散らばっているのを双瀬は朧気ながら見て取った。
「お客様がお困りの時には積極的に手伝うように」という店長の言葉が脳裏をよぎった。
「駐車場でお客様がお困りのようなので、少し様子を見てきます」双瀬が言うと、男性社員は、
「そう、一人で対応できそうにないなら呼んで」と、時間通りにいかないのが気に食わないのか少し不機嫌そうな顔をしてバックヤードへ歩いて行った。男性社員の態度と店長の言葉、この二つの間に生じた捻じれのために、奮起した双瀬は水を差された思いがしたのであった。
湯から上がって数分としない内に床に潜り込んだ。数分としない内に寝息が漏れた。
翌日は、前日の晴れ空とは打って変わって灰色の雲が垂れこめていた。雨催いの静けさが薄い壁を抜け、光の差さない薄暗い部屋を満たしている。
双瀬は枕から頭を持ち上げようとして、その重さに驚き、うんざりした。一度浮かせた頭を再び枕に落として、温い布団の中で寝返りを打った。俄かに右のこめかみあたりに鈍痛を覚えた。数回寝返りを打っても一向に収まらない。だからといって寝ているわけにもいかず、仕方なく起き上がった。これから入学式に出席しなければならないのだから。
電車の揺れに任せて目を閉じているうちに大学に着いた。会場である第一体育館の前にはスーツ姿の男女が黒い点を作っている。まだ開場の時間になっていないらしい。双瀬は人混みの中に見知った顔があればと辺りを見回した。何も考えずに一人でいられるほど今の彼の体調は芳しくなかった。体を預けても支えてくれる人を探していたのである。しかし、そういう人がこの場にいるかどうか以前に、これまでに深交を築いた人間がどれほどいるのか、彼は考えたくもなかった。
定刻になって体育館の扉が開かれた。無秩序な集団は次第に黒い列を形成しながら建物に吸い込まれていく。双瀬も列に交じって建物の中へと進んだ。整然と並べられた椅子の間を縫って、自分の属する専攻の場所に落ち着いた。同じ専攻の席は数十が埋まっている。人の足音がし、息遣いも感じられるのに、会場は異様な静けさに包まれている。厳かな空気が双瀬の頭をきりきりと締め付ける。
「大丈夫? 顔色悪いけど」
ごく近くで男子学生の小さな声がした。あまりの気さくな調子に、自分以外にも体調の悪い人がいるんだなと思いながら双瀬が声の方を向くと、隣の学生と目が合った。双瀬はそれでやっと自分に対してなのだと気が付いた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「そう、ならいいんだけど。何かあったら言ってな」春風の如き爽やかさでそう言った。
こうしたやり取りとは裏腹に何事もなく式は終わった。会場を出た新入生たちの中には、その場に留まって歓談する者もいれば、学部棟へと歩いていく者もある。事前の入学案内で、双瀬の専攻は入学式の後、教室に集まることになっていたため、彼はぞろぞろと学部棟へ向かう一団の後ろに付いて歩き出した。その時、
「や、お疲れ」と後ろから肩を叩く者があった。振り向くと、そこにいたのは件の男子学生である。改めて相対すると、整った甘さのある顔立ちに暗めの茶色髪、初対面でも砕けた物言いはどこか軽佻な印象を与えた。しかし親切なのは紛れもない事実であるらしかった。
「さっきはありがとう。おかげで少し気が楽になった」敬語を使おうとして、何となくやめてしまった。そういう雰囲気があった。
「大したことじゃないよ。熱でも?」
「たぶん。ひとり暮らしを始めて疲れたのかも」
「それは困るね。――じゃ、今日は休みなよ。言っておくから」
初対面の人間に対してでもこの男はこういうことを言う。
「でも悪いよ。それに初日なんだから、自己紹介とか……」
「気にすることもないさ、大学のクラスなんて。少しの付き合いなんだから」
幼稚園から始まって今日に至るまで双瀬は休んだことがなかったのだが、この男のおおらかさに触れて意地を通すこともないように感ぜられた。
「じゃあ今日は休むよ。だからお願い」
「おう、任せな。――あぁそうだ、名前。古谷達樹」
「北川双瀬」
「よろしく」
「うん、よろしく」
二人は並んで歩いて、学部棟へ向かう道と校門への道との分岐点まで来て、
「気を付けて帰んなね」
「うん、本当にありがとう」
互いに手を挙げて別れた。
気の抜けた双瀬は電車に乗るや否や深く目を瞑った。
奇怪な夢から覚めて、次に双瀬の目に映ったのは覚えのない駅であった。降りる駅を通り過ぎて気が付けば終点まで来ていたらしい。同じ車両には四、五人がいるばかり。電車はこの駅で折り返すものとみえて発車までの時間を持て余しているようである。それならばと、もう一度目を瞑ろうとした時、
「あの、大丈夫ですか」と耳元で女性の柔らかな声がした。声の方へ顔を向けると中腰になって視点を下げた年若な女性と目が合った。肩甲骨まで伸びたしなやかな黒髪が肩の前に垂れ下がっている。薄く化粧を施した顔の、眉の間に小さな皺を寄せている。双瀬は判然としない頭ながらいつか見た顔のように思った。
「苦しそうにしていたものですから」
自覚のない双瀬は返答に困って曖昧な返事をした。
女性は心配そうな、しかしどこか明るい顔で続けた。
「この近くにお茶屋があるんですが、よかったら休んでいかれませんか」
「いえ、そんな。折り返すようですから、これで帰ります」
女性は少し不思議そうな顔をした。
「このまま乗っていては、また眠ってしまいませんか?」
女性の言う通り、この電車が折り返して再び動き始めたら、次に目を開けた時には終点の駅の看板を見ることになるに違いなかった。しかし双瀬は何とも応じない。
「さぁ」
女性は手を差し出した。たおやかな手は元の白さを残しながら薄紅に色づいている。彼の心臓は知らず跳ねた。
「さぁ」ともう一度、いらっしゃいと続くかのような優しい声音で言う。
双瀬はそっと手を取って立ち上がった。触れ合ったところから温く、蕩けて、一つになる感覚に溺れかけた。その柔らかな感触に包まれた時、彼の体温は僅かに上がった。
女性に連れられて、清らかに流れる川を横目に緩やかな上り坂を行く。川に沿って桜並木が遠く彼方に続いている。人気はなく、建物も見当たらない。ただ静かな時間がゆっくりと流れていく。数分して、豊かな緑の中にぽつねんと一件、木造の茶屋が建っていた。紅緋の野点傘に緋毛氈を敷いた床几が目を引く上に、傘の上に枝を広げる桜は川沿いの桃色とは違って白いのが風雅である。
双瀬は女性の後ろについて茶屋に入った。左手の方に膨らんだ空間には壁に沿って台があり、その上に茶器や茶葉、菓子などが整然と並べられている。右手には勘定台、その奥は調理場になっていて夫婦と思しき年寄りが菓子作りか何か作業をしている。店の奥まったところには一段上がった畳敷きの飲食場がある。今のところ客はいないが、寂れている様子はなく、煎じた茶葉や種々の餡の香りが漂っている。
女性は双瀬を店奥の飲食場へ案内して、関係者用の部屋に入っていった。どうやら彼女はこの茶屋の従業員であるらしい。ひとり残された双瀬は上着を脱いでネクタイを外して壁に背を預けた。それから今日一日の出来事を思い返した。古谷達樹といい、あの女性といい、どうしてこうも親切にしてくれるのだろうか。自分は何かいつの間にか重大な決断をしてしまったのだろうか。自分の知らないうちに自分の人生が勝手に進んでいく感覚に双瀬は恐ろしささえ感じた。そうして深刻そうな顔をしていると、先の若い女性を伴って、背の低い老女がやってきた。
「話は芦花から聞きましたよ。うちでよければどうぞお休みになって。私は手が離せませんでお構いできませんが、お茶とお菓子でも召し上がってくださいな」
鳶色の茶衣着に白い前掛けをした老女は湯気の立ち昇る煎茶と、薄く切った苺が中に並べられた透き通る桜色の寒天を座卓に並べ、お辞儀をして引っ込んだ。
「食べられそうですか? 少しでも食べたほうが楽になりますよ」
芦花というらしい女性は傍らに立ったまま促すように言う。双瀬は、前日の昼に食べてから今まで何も口にしていなかったことに思い至ると、俄かに空腹を覚えた。控えめに手を合わせて寒天を一口食べた。適度に甘い寒天と苺のほのかな酸味が重怠い体に染み入る。温かい煎茶は渋みが少なく寒天の甘さを引き立てる。双瀬は申し訳なく思いながらも時間をかけて食した。ゆっくりしているうちに茶屋に入って二時間近くが経ち、時計は十三時を知らせている。初めのうちは何かと面倒を見ていた芦花も、のちには萌葱の茶衣着に着替えて忙しく動き回っていた。これ以上邪魔をするわけにもいかず、双瀬は食器を持って行って勘定台の奥に声をかけた。奥から芦花が出てきた。
「お世話になりました」
「もういいんですか」
「ええ、もう。ご迷惑をおかけしました。代金は――」と鞄の中から財布を出そうとして、
「お代は結構ですよ。困ったときはお互い様ですから」
「そうはいきません。お世話になったうえにお茶とお菓子もいただいて」
「いいんですよ、本当に」
問答を聞いて老女が奥から出てきて後を継いだ。
「ここは病院じゃないんですから、体調のすぐれないお方のお世話をしたってお金なんて取れませんよ」優しい口調でありながら強い意志を孕んでいた。
双瀬は我を折って、
「分かりました。色々とありがとうございました」と頭を下げた。
「お大事に」「はい、お大事に」
老女は台の奥へと戻り、芦花と双瀬は店先に出た。朝から空を覆っていた灰色の雲は所々に裂け目が出来て、幾筋もの細い光が降り注いでいる。双瀬は芦花に一礼して顔を上げると、光の柱の中に柔和な笑みが浮かんでいる。なんと幻想的なことか。彼の頭にはただの一語も浮かばない。この瞬間を永遠に残せればと切に願った。しかしながらいつまでも留まるわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで駅へと歩きだした。その背に温かさを感じながら。
翌朝、目を覚ますと体調はすっかり良くなっていた。これも芦花さんとおばさんのおかげだ、と感謝しつつ、双瀬は布団の上で体を伸ばし陽の漏れるカーテンを開けた。すると清々しい朝の光は芦花との別れの光景を明瞭に思い出させた。
「やっぱりお金を払いに行こうかしらん」
双瀬は顔を洗って、籠に溜まった洗濯物を洗濯機に放り込んだ。昨日着ていたシャツから甘い香りがふわりと舞った。
大学に着くと先に来ていた達樹が「おはよう」と近づいてきた。双瀬は戸惑って、何とも言えない表情を浮かべた。昨日声をかけてきたのは体調を案じてのことだと踏んでいただけに、翌日の今日、こうしてまた関わってこようとは露も考えていなかった。嬉しさ半分、驚き半分で「おはよう」と返した。
「もういいの?」
「すっかり」
「それはよかった」
「昨日はありがとう」
「礼なら昨日聞いた。それよりこれ――」
達樹は隣の空いている席に座って鞄の中から大学ノート程の大きさの封筒を取り出した。
「昨日の配布物。単位のこととか書いてあるからしっかり読んでおけだって。あっ、あと、これには書いてないんだけど必修の科目の教室が変更になって――」
達樹は昨日聞いたらしいことを懇切丁寧に説明した。双瀬と一緒になって広げている紙には補足事項が几帳面な字で事細かに書かれている。漏れなく伝えようとする彼の姿勢に、双瀬は見た目から受ける軽佻な印象とは程遠い一面を垣間見た気がした。
「ありがとう、助かった。でも、どうして」どうしてこうも優しくしてくれるのか、という疑念が双瀬の口を突いて出た。と同時に余計なことを行ったという後悔が波のように押し寄せた。しかし達樹はいたって簡単に、
「だって友達だろ。俺はそう思ってるけど」と言って笑った。
「それもそっか」
双瀬は照れ笑いをしながらそう言った。
六日から初週の講義が始まった。講義とはいうものの初回はガイダンスで、講義内容、講義計画、評価方法の説明をするくらいで一時間と経たない内に終わるのがほとんどであった。双瀬は、高校の卒業祝いとして両親に買ってもらった万年筆で、初学年らしくルーズリーフの片隅に重要そうな事項を書き付けた。白い紙に筆先を落として滲むインクで流麗に線を書くほどに、彼の心は浮き立った。筆を持つ手を動かしたくて一言一句聞き逃さんと注意して聞いていると講義時間は終わってしまった。
初年次に履修できる科目は限られており、必要な単位と照らし合わせると必然的に達樹と同じ教室に居合わせることが多かった。教室で会えば隣に座って講義を聴いた。
二人で履修について話したのは登録期間の終わる四日前のことであった。
「履修科目はもう決まった?」何の気なしに双瀬は尋ねた。
「いいや、どうしたもんか。双は?」
「同じく」
「だよな。必修はいいにしても選択がね」
「興味がある科目があればいいんだけど、必修以外となると。達は? 何か興味ないの」
「興味かぁ……。俺、教職課程で取れるのがあれば取ろうかなって思ってんだよね」
「教職? 教員志望?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。何かあったときの為に資格の一つくらいあった方がいいっておふくろが言うもんでさ。まあ、資格とったとしても、いざ失業したって時に教職に就くかって言われると……どうだか」
「その時になってみないと分からないけど、なった後じゃ手遅れだからね」
双瀬は平静を装って相槌を打っていたが、内心焦っていた。僅かでも将来について考えている達樹との差が眼前にありありと映し出された。隣にいると思っていた友が、初めから遥か先を歩いていたように感ぜられた。
双瀬はどうにかして履修登録を済ませた。あれこれと考えて、結局興味の惹かれる科目は見つからず、何とはなしに決めてしまった。将来こうなろうという計画を持たない彼には逆算してどういう知識が必要か、考える余地はない。したがって教職課程だとか司書課程だとか、真剣に考えることもなかった。ではなぜ進学したのかといわれると彼自身も明瞭な答は持ち合わせていなかった。
いくら無目的であろうとも時計の針は変わらず進む。本格的に講義が始まって教壇に立つ教員の弁舌にも熱が入り始めた。他方で双瀬は散漫とし、万年筆を手で弄ぶばかりでルーズリーフは白さを保っている。突如として現れた不安はあまりにも空漠としていて手のつけようがない。そのうち忘れかけていた芦花の端整な顔が、柔らかな声が不意に頭をもたげる。空いた日数の分だけ不明瞭になるどころか、むしろ美化されて額に収められている。
双瀬は会いたい、と思った。もう一度見たい、と思った。
しかし思いばかりで、会ってどうする了見もなかった。ただ漠とした不安からの逃避に過ぎなかった。
一方で、茶代については忘れたことはなく、早く払ってしまいたいというのが衷情であった。双瀬にとり、あの時の代金は借財と一般であった。もう一度茶屋へ行って払ってしまえば済む話ではあるが、それではもはや茶屋へ行く口実がなくなる。縁が切れる。
放っておくと日に何時間でも、こうした思考を重ねて雑駁な頭を作り上げた。次第に生活に侵食し、家事、講義、アルバイトの別なく呆けるようになった。
双瀬がそれに気づいたのは達樹に指摘された五月初旬であった。
「最近ぼうっとしてるな。ちょっと頬が痩せた? あと隈」
そう言われた日、講義が終わって家の扉を開けると家の中は悲惨なものだった。脱ぎ散らかした服、いつの間にか飲んだらしい栄養ドリンクの空き缶や菓子の袋が其処らに転がっていて、空き巣に入られた後のよう。部屋の隅に埃が溜まっていて、すえた臭いが充満している。双瀬は汚れた部屋を掻き分けて進み、勢いよく窓を開けた。生暖かい空気がじんわりと流れ入る。衣服を洗濯機に突っ込んで洗濯をしている間にごみを捨て、散らかった空き缶を流しに放って洗った。
洗濯物を干して一段落ついたところで勝手に働き始める頭を拳で殴った。
「動いてないとだめだ」と呟いてパソコンを立ち上げ、勢いに任せて配達員の募集に応募した。勢いのままその日の内に自転車を買いに出かけた。これほど活動的なことは生来稀であった。
宅配の仕事はすぐに決まった。スーパーのアルバイトは夜、宅配は講義のない時間帯と決めて忙しく立ち動いた。空いていた時間に風を切って自転車を走らせる快感に心躍らせた。それが単なる慰めだと知りながら。
いよいよ五月も終わろうかという或る日、大学の最寄りの駅から出て澄んだ蒼い空の下を長閑な薫風に吹かれながら、双瀬は学部棟へと向かっていた。そこへ足早に迫る足音を聞いた。
「おはよう」達樹である。
「おはよう」
「おっ、好調なようで。でさぁ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「珍しい。何?」
「今度の土曜に合コンがあってさ、人を探してんだ。どう?」
意外な話だった。合コンなるものがあることは知っていたが、それが自らの身の上に降ってくるとは露ほども思っていなかったのである。
「合コンって、まだ酒飲めないよ、十九だし」
「それはそうなんだけど、まぁ、楽しく交流しようって話」
「そうなんだ。でも達って彼女いないの? いそうだけど」
双瀬は答えに渋って質問を重ねた。
「いないよ。それ、なんだかんだよく言われんだけど、言われるだけなんだよなぁ」
「なんかごめん」
「いやいいよ。それでどうなの。双は? フリー?」
「まあね」
双瀬は頬を僅かに赤くした。達樹はその微細な変化を見逃さなかった。
「でも想い人はいると」
「え? いやあ、ねぇ」
「なんだその反応」達樹は吹き出した。
「いろいろあってさ――」
双瀬は、入学式の日に達樹と別れたあとの出来事をかいつまんで話した。達樹はうんうん唸って聴いている。話し終わる頃には大教室の隅の席に座っていた。前の講義が早く終わったらしく教壇近くは人だかり、後ろはがらんとしていた。
「なるほど。そりゃ難儀だ。心に巣食うものが何のか、確かめるために会いたい。でもその芦花さん? からすればただ助けただけの相手にその、なんだ……」
「はっきり言っていいよ」
達樹は一つ咳をした。
「付きまとわれるのは困るだろう、と双は思ってるわけだ。」
双瀬は神妙に頷いた。
少し間をおいてから達樹はごく簡潔に言った。
「行けば?」
「簡単に言ってくれるね」
「簡単だとも。客としていけばいいじゃん」
双瀬は瞬時口を開けて虚空を見つめた。盲目的な思考が纏綿して単純な答えを見落としていた。
「別に変なことしたわけじゃないんだから。だから、行ってきな。合コンなんていいから」
達樹のこういうさっぱりとしたところを双瀬は好ましく思った。
話は終わったものだろうと気を抜いたところに、
「芦花って俺の姉さんと同じ名前なんだよなぁ。意外といるのかな」とさりげなく言う。
「お姉さんいるんだ」
「六つ上で、何とかって会社に就職して……今どうしてんだか」
「知らないの?」
「一年以上連絡ないからさ、誰も分からん」
言葉の最後こそ軽く言い捨てるような調子だが、その顔は憂いを帯びていた。
鐘が鳴って話はそれぎりになった。
翌日は木曜日、双瀬は一、二限に講義を入れておらず、この時間を使って茶屋へ行こうと決心して床に就いた。が、一時間がたっても二時間がたっても眠れない。決めた折から明日行こう、いや明日でなくてもと揺れに揺れた。茶屋に入って何か注文して借りを返して――と想像するうちに行きたくなくなる。それが薄らいでくると明日行こうと決めてしまう。結句、眠りに落ちたのは三時ごろのことであった。
その木曜日、双瀬は眠い目を冷水で覚ましていつも以上に入念に髭を剃った。そうしている間にもやはり今日行こうかどうかと頭を悩ましている。普段より高い温度で湯を沸かし、コーヒーを淹れる。普段よりしっかりパンを焼く。動作の一々についてわざとらしく時間をかけて出かけるか否かの判断を遅らせた。落ち着かなく掃除をし始め、床板の継ぎ目に手を付け出したところで時刻は十時を回った。双瀬は腹を決めてリネンのシャツに袖を通し、ジーンズを引っ張り上げて、強迫されているが如くにしつこく鏡を見、ようやく家を出た。
どんよりとした空模様に、生ぬるい空気の、湿りて重くなりたるが、梅雨入り間近であると伝えている。双瀬は大学とは逆方向の電車に乗って四つ向こうの終点の駅で降りた。人は少なく、アナウンスの音が余計に大きく響く。南口を出てだらだら坂をゆっくり上る。川は変わらず穏やかに流れるも、並木の桜は緑の葉を茂らせて桃色の佳景は一時の夢であったよう。右手に広がる雑木林の、蒸れて濃い匂いが人気のないアスファルトの道に漂い出している。少しして、緩やかに曲がる道に雑木林の枝葉が張り出して、その向こうに紅緋の野点傘がちらちらと見え始めた。双瀬は引き返しそうになる足に力を込めて前方に運んだ。
小ぢんまりとした茶屋の前まで来て双瀬は入り口わきの立て看板に目を向けた。木製の看板に黒字で「茶織」とだけある。今更ながら店の名前を知らなかったのだと気づいて、順当に「ちゃおり」と読んだ。それから格子戸をあけて暖簾をくぐった。音を聞いて勘定台の奥から老女が顔を出した。
「おや、いらっしゃい。体調はいかが」
「おかげさまでよくなりました」
「それはひと安心」と老女は言って、
「二か月前のことですから、そりゃあ良くもなりますよ」と笑う。
二か月という言葉が双瀬の胸を刺す。
「ええ、まあ」彼は歯切れ悪く応じて、
「今日は客としてですから」と言い訳がましく言った。
「それじゃ何にしましょうか」
「ええと、みたらし団子三串と、この前と同じ煎茶で」
「はいよ。中でも外でも好きなところでお待ちになって」
双瀬は代金を支払って外の床几に腰を掛けた。ここ数日、大学に、スーパーに、宅配に、動いてばかりで、こうして穏やかな時間の流れに身を任せるのは久しぶりであった。ゆっくりと流れる時間に浸って彼は目を瞑った。
「動揺から注文だけしたけれど、これからどうしようか」
こう考えているうちにうとうとしだした。そこへ戸の開く音がして、中から盆を持った芦花が出てきた。
「お久しぶりです」
芦花は食器を床几に置いた。
「ご迷惑でしたか。また来てしまって」
考える間もなく口を突いて出た言葉であった。
「そんなこと。待ち遠しく思っていました」
予想もしていない返答に思わず芦花の顔を見た。柔和な笑みを浮かべている。しかし、世辞を信じるほど愚かなこともあるまいと慎重になって、何とも言わず団子を口にした。甘辛いたれの絡んだ団子は適度に歯ごたえがあり、若干の焦げが食を進ませる。頼んだ三串の団子を平らげ、湯呑を乾すのにそう時間はかからなかった。舌鼓を打って、「あの時も確かにうまいと思って食っていたのだ。それなのに」と自らを非難した。
芦花が食器を下げようと少し前に屈んだところで、
「やっぱり以前の代金を払わせてください」と鞄の中で財布を探った。
芦花は困った顔をする。
「強情ですね。どうしてそこまで」
「病院でもないのにって以前おかみさんが言ってました。でもお茶屋でお茶をご馳走になって、それでそのままっていうのは不徳義じゃないですか」
「不徳義だなんて大げさに言うことでもないのだけれど――分かりました。この後お時間ありますか?」
「ええ」
双瀬は三限の講義のことなど構うことなく二つ返事で頷いた。
「では少し待っていてください」
盆を持って去る芦花の、髪を結い上げて露わになった白く艶めかしい首筋を見送った。甘い残り香は菓子によるものばかりではなかった。
二、三分して表に出てきた芦花は白い前掛けを外していた。
「お待たせしました。今から買い出しに行くので付き合ってください。それで貸し借りなしです。いかがですか」
「分かりました」少しばかり不服だと思うのを隠して了承した。
横並びで駅へと向かって坂を下る。芦花に別段急ぐ様子は見られない。双瀬の歩調はしぜん芦花と等しくなる。
「さっきはごめんなさい。強情だなんて言ってしまって」芦花は静かにしゃべり始めた。
「強情なのは私の方。恩を返したくて無理に茶屋まで連れて行ってしまったんですから。覚えていませんか、北川さん」
不意に名を呼ばれて双瀬は肩を跳ねさせた。困惑は顔に表れて芦花へと伝わった。
「スーパーで荷物をひっくり返した私を助けてくれましたよね。優しいお方」
言われて確かに思い出した。働き始めたころに見た、暗い駐車場に散らばった荷物を一人で拾い集めている女性の姿。その姿はひとり暮らしを始めて間もない双瀬の心に淋しく響いたのであった。のみならずせり上がる恐怖にも似た感情に突き動かされたのである。
「優しさじゃないんです。あの時は初めてのアルバイトで戸惑っていて。何でもかんでも機械に任せて、人だって決められたことを決められた手順でやって、それだけでいいのかなって。困っている誰かに手を差し伸べることができるのなら、それは生きた人間なんだと。あなたが助かったと言ってくれるのなら僕はまだ生きた人間でいられるんだと思うんです。――すみません、よく分からないですよね」どうしようもなく言葉が溢れて、秩序を与える間もなく零れ落ちた。
双瀬の述懐に芦花は首を横に振り、花の咲くように笑った。
「それがあなたなのでしょう。大事な想いなのでしょう」
双瀬が立ち止まったものだから、芦花が一歩先に行く形で共に立ち止まった。
顔を上げた拍子に、虚空に二人の視線が絡まった。川のせせらぎも木々の騒めきも遥か遠く、一瞬が永遠に刻み付けられたよう。耐えられなくなった双瀬は顔を赤くして、
「双瀬です――北川双瀬」と逸らした。
芦花は小さく、それでいて力強く頷いた。
「私は……伏見芦花です。よろしくお願いします」
双瀬もまた頷いた。
誘うように前に向き直る芦花に、双瀬は足を速めて追いつき、再び横に並んで歩き始めた。
駅の向こう、北口を出た先には商店が建ち並んでいる。南側と比べると人通りがあり繁華である。とはいえ活気にあふれているというのではなく、客と店員、店員同士が和気あいあいとしていて地域に根差しているようである。芦花が歩いていると手を振る者がある。方々から声が掛かる。小さな子供が足元に引っ付いて、母親にお菓子を買ってもらったことを楽しげに話す。芦花の周囲の人々が彼女の人柄を物語っていた。双瀬は自分がそのうちの一人であることを誇らしく思い、胸を張った。それと同時に内心自分はつまらない人間だなとしょぼくれた。
ようやくのことで四、五軒通り過ぎて、精肉店の手前を右手に曲がると幅の狭い道が続いていた。低層の住宅や貸し駐車場を横目に進んでいくと一軒の店の前で芦花は立ち止まった。「ここ」と指さして中へ入る彼女の後ろについて双瀬も入った。店内は小ぢんまりとしていながら、袋に詰められた種々の餡が色鮮やかに彩っている。入店時の鈴の音を聞いて、暖簾の奥から店主らしい痩身の男性が出てきた。芦花と店主は互いに挨拶を交わし、近況を話したりこの時期の餡の話をしたりしている。その間、双瀬は肩を細めて居づらそうにしていた。双瀬に気づいた店主は、
「こんにちは」と朗らかに挨拶する。
「こんにちは」と双瀬も返す。
「新しい従業員……というわけではなさそうだね。手伝いか何か?」
「ええ、そうです」手伝いとは少し違うと思いながら。
芦花はおかしそうに笑っている。店主は気にせず、
「あそこは老夫婦だからねぇ、芦花ちゃんもいるけどたくさんは持たせられないでしょう。重いから」と続けた。
「私は平気なのに」
「後で俺が怒られるんだから」
談笑もそこそこに、量のある業務用の餡を数種頼んで店を出た。双瀬は腕力を鍛えてこなかった過去の自分を恨めしく思った。
途中、双瀬は茶屋についてあれこれ尋ねた。円谷夫婦が経営しており、旦那は武治、奥さんは芳美ということや、茶屋の名前は「茶織」と書いて「さおり」と読み、店を開いて三十年ほど経つことなど、芦花は子供みたく楽しそうに話す。それでいて話が進むに従って歩く速度が速くなっていく。茶屋について聞くことがなくなれば当然話の矛先は自身に向くだろうと考えて、それを恐れているようにも受け取れる。彼女の顔に翳が差しそうになると双瀬はそれ以上踏み入ろうとはしなかった。「人の過去を知るのは怖いことだ。相手を傷つけ、自分も傷つくかもしれない。だから無理に入り込もうとしてはいけない」といういつか聞いた父の言が思い出されてのことであった。
茶屋に着いて荷物を渡したところで目の端に時計が映った。それで三限の講義のことを思い出した。
「あっ、これから講義だった。すみません、もう行かなくちゃ」
「こちらこそごめんなさい。長く付き合わせてしまって」
「そんなこと。こんなこと言うのもなんですが、楽しかったです」
「私も」
名残惜しくも双瀬は一礼して茶織を後にした。軽やかに、跳ねるように。
その後大学の教室で達樹が一言、
「上機嫌で」
次の週も双瀬は茶織に足を運んだ。週の初めから降り出した雨は強まることも弱まることもなく、しとしとと降り続いている。前方に足を放ってつま先から飛ぶ水を見ながら歩いて、枝葉の張りだした緩く曲がった道に差し掛かったところで彼はしんみりとした心持ちがした。あの目に鮮やかな野点傘の姿はなく、慎ましさを内包した華やかな風情は一変して閑寂としている。雨の降り落ちる音も相まって一層寂しく見えるのであった。
洋傘を閉じ、腕に付いた雨粒を払って店に入った。例の如く芳美という老女が顔を出した。
「いらっしゃい。雨の中大変だったでしょう」
「傘を差しても濡れますね」
「そうでしょう」芳美は改まって、
「先日は手数をおかけしまして。芦花からお聞きかもしれませんが私、円谷芳美と言いまして、奥のは武治と言います。何卒お願いします」
「北川双瀬です。こちらこそよろしくお願いします」
客と店員という間柄でありながら名前を伝えあっている妙を心地よく感じるのであった。
双瀬は最中を頼んで、店の奥の畳敷きで一息ついた。甍を打つ雨水の音に交じって雨樋を伝い落ちる音、木の葉を跳ねる音がむしろ静けさ作り上げている。店内の足音、食器の音でさえも静かに感ぜられる。双瀬は静心の内に眠気に誘われた。
しばらくのあいだ目を瞑っていて再び開いたところで盆から器を下ろしている芦花の姿が目に映った。静心は一瞬のうちに雲散霧消した。
「起こしてしまいましたか」
「寝てましたか。すみません」
「気にしないでください。こういう日は雨の音を聞きながら微睡むのもいいですよね」
しみじみと言って芦花は彼の正面に座る。
双瀬は最中を一口、小豆の粒を噛んで。
「いいんですか?」
「ええ、雨の日はやることが少ないんですよ」
確かに忙しい様子もなく、仕事とは関係なさそうな夫婦の会話が聞こえる。双瀬は祖父母の家にいるような心地がした。
「でも少し淋しいですね、雨の日は。なんだか取り残されたような気がする」と芦花。
「僕もそういう時があります。でも今は穏やかですね」
「ええ、本当に」
話に区切りがついて双瀬がお茶を飲んでいると店の電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。茶屋茶織でございます――」芳美が電話を取った。
退屈したのか、話し相手を失った武治が顔を出した。
「初めまして、武治です」
「初めまして、北川双瀬です」
「ああ、聞いてるよ。しかしまあすっかり常連だね」
「なんだかすみません」
「いや良いのよ、嬉しいばかりだよ。ここに来るのは年寄り連中が多いからさ」
平生から菓子作りに勤しんでいるものだから職人気質の寡黙な人だと双瀬は推していたが、いざ話すとその気さくさに驚かされた。
「今の学生は和菓子食べない?」
「見ませんね。学食にも」
「そういうもんかぁ……ん、湯呑が空いたね、もう一杯飲む? 芦花ちゃんは?」
「私が入れますよ」芦花が腰を浮かせる。武治はそれを制して、
「座ってていいよ、二人分入れてくるから。店のじゃなくて私物だから安心しなさい」と言って立ち上がった。
若いモン同士で、とでもいうような調子があった。こうして二人でいる場を作られると双瀬は気恥ずかしさを覚えて何も言えないでいた。お茶も飲み終え最中も胃の中、間を繋げるものは何もない。会話の糸口を探しに探して一つ疑問が浮かんだ。
「そういえば『茶織』の由来って何なんでしょう」
「実は私も聞いたことがないの。気になってはいるんですけど」
ちょうど武治が盆を持って戻ってきた。湯呑が四つ乗っている。双瀬の隣に腰を下ろして双瀬、芦花、正面に湯呑を置いて最後に自分の分を取りながら、
「店の名前の由来ね」と話に入った。
「あれは俺がまだバカやって騒いでた高校の頃だね。好きになった人がいてな、一目惚れってやつだ。それで――」
「また嘘言って」
話を遮るようにして芳美が現れた。どうやら用件は済んだらしく、武治の前の座についた。四人が一堂に会したのは初めてのことであった。
「重苦しい話になるけどいいかい」と前置きをして芳美は語り始めた。
二人がまだ会社に勤めていた二十代中ごろ、一人の子を授かった。大きい目をした愛らしい女の子である。夫婦は「沙織」と名付けて可愛がった。腹を空かせれば乳をあげ、おむつを取り替え、夜泣きをすれば夫婦で代わる代わるあやした。外に出るときには芳美がおぶり、武治が頬を指でつついてちょっかいを出したものであった。落ち着きのある子に育ってほしいという願いとは裏腹に、沙織はお転婆に育った。
幼稚園に入園すると、服を汚して帰ってくることがよくあった。膝をすりむいてくることも度々であった。そんな沙織は、意外にも幼稚園のお茶の時間を好んでいた。お茶の時間があった日には、武治の帰りを待って、お茶を立ててと芳美にせがんだ。さすがにお茶の立て方は分からないので、芳美は急須で入れて出した。沙織は少しがっかりしながらも、ポケットから紙のかいしきを取り出して、宝物を扱うように丁寧に開いた。桜や菊をかたどった、白の桃色のと様々な色をした茶菓子が中にあり、それを大事そうにちびちびと食べるのである。二人にとりこの時間が何よりも至福であった。こうした時間が残る人生の中に溢れるほどあればいいと願い、そうあろうと決心した。しかしその決心は虚しく散ることとなった。
沙織が五歳になった年、じりじりと肌を焼く暑い夏の日のことである。友達と近所の公園に行くと言って出かけた沙織は帰る途中に事故に遭って、家に戻ることはなかった。
「あの子が好きなもの大事にしたかったのよ。だから『茶織』って名前。あの子が生きていたらこの仕事はしてなかったし、あなたたちと会うこともなかった。複雑ね」
双瀬にはこの「複雑ね」に含まれる種々の感情を推し量ることができなかった。自分の子どもをもうけることも、共に過ごす時間も、最愛の人を亡くすこともその名を残すことも全く別の世界のことのように感じていた。それを経験した老夫婦の、顔に刻まれた深い皺の数々を彼は直視できなかった。
双瀬も芦花も言葉が出ずに重い沈黙が漂った。
次に言葉を発したのは芳美であった。
「この人、彼女がどうとか言ってたけれど、こういう話に弱いんですよ」
「お前、やめろ。なんだ急に」
慌てて遮る武治に三人して笑った。
双瀬は、沙織が送った短いながらも幸福な日々を心の内で想った。
茶屋を出て大学に着いた双瀬は、三限の講義の始まる前、達樹に合コンの顛末を聞いた。どういう訳か何でもいいから誰かと話がしたい気分だったのである。達樹は端的に「失敗した」と答えた。なんでも幹事が来なかったという。結び目がほどけたのだから散ずるのも無理からぬことである。
「そういうこともあるさ」と気楽に言って、双瀬の進展具合を探り始めた。双瀬は一通りかいつまんで話して、
「伏見って言ってたから達のお姉さんじゃないね」と言ってから、
「いや、まさか結婚してる、とか」と付け加えた。
「聞いてないね。家族の誰も。だから安心しな……って言いたいとこだけど、連絡ないから結婚しててもおかしくないな。いや、結婚するならさすがに連絡くらいは……」
達樹は双瀬がいることを忘れたように、一人で考え始めた。
双瀬の胸中に不安が顔を覗かせたのであった。
雨はやむことなく降り続いている。道端の植え込みに咲く紫陽花も飽き飽きしたとでも言うように茶色に変色している。木曜日、この日は珍しく三限と四限の講義が休講となったために、双瀬はいつもとは違って午後に茶織を訪れた。少し重い足取りで。先週来、芦花が自分に対して何を思っているのか、見つかるはずのない答えを探して頭を空転させていた。彼女が既婚であるという可能性は彼に大きな衝撃を与えたのみならず、自己に埋没した視点を脱するのに充分であった。仮に休講にならなかったら、果たして彼はいつもの時間に茶織を訪れたのかどうか疑問である。
格子戸を開けて中に入ると先客がいた。スーツ姿の若い男性が、誰かに渡すのであろう菓子を決めあぐねて芳美を呼んだものとみえる。人数だとか相手との間柄だとか、それほど広くはない茶屋の中で話声が明瞭に聞こえる。双瀬が聞こえていない風を装って突っ立っていると、空いていてる勘定台を芦花が埋めた。
「いらっしゃいませ」
他に客がいるせいか、いつにも増して落ち着きのある、余所行きの応対である。仮にもう一度芦花がスーパーに現れたら双瀬はきっと平常通りの応対などできないに違いない。芦花は続けて、
「いつもの時間にお見えにならないから今日はもういらっしゃらないかと」と言う。
双瀬はその言葉を聞いて瞬時胸を躍らせた。
「休講になって時間が空いたものですから、たまにはと思って」
羊羹を頼んで畳敷きの部屋に移った。時間を変えても特筆するようなところは何もなかった。
しばらくしてスーツの男が店を出た。それと時を同じくして、芦花が羊羹を持ってきた。ことりと器を置いて正面に座す。双瀬が端を切って口に運ぶのを見届けて、
「北川さんは来る度に違うものを頼みますね。いつもそうなんですか」
「言われてみればそうですね。普段はこれと決めたものしか買わないのに、どうしてだろう。伏見さんは?」
「私もなかなか手を出せません。ちょっと勿体ないな、とも思うんですけれど」
ささやかな共通点に双瀬は顔を上気させた。その上、行動をよく観察していることもまた彼の内に喜悦を惹起する因となった。
こうして和やかに話していると、入口の格子戸が俄かに開かれた。芦花は応対のために座を立った。
「やあ、芦花ちゃん。今日も会いに来ちゃった」
気安い調子の声が双瀬の耳にも届いた。反応せずにいられるはずもなかった。波の立った心を抱いて二人の声の調子から関係性を詳らかにしようと注力した。
「こんにちは平さん。いまお茶を用意しますから奥へどうぞ」
「いやぁ悪いね」
勝手を知っている風をして平さんと呼ばれた老人が隣に座った。呻いているのか呼吸の音なのか分からない音を出している。双瀬は波の静まりを感じた。間を置かず三、四人の老人が愉快そうに入ってきて平さんと合流した。どうやら年寄り仲間らしい。大声でしかも早口で話して、一人が終える前に別の人が話し始めるものだからよく分からない。いかに双瀬が無関係であっても聞こえてくるのが人の声ならばどうしても意味を捕らえようとする。それがなんとも居心地悪く、彼は隅の方に退散した。
しばし間があって、芦花、芳美、武治の三人が茶や菓子を持って調理場から出てきて話に混ざった。といって、会話に混ざったのは芳美と武治で、芦花は少し距離を置いている。それに気づいたのか、平さんは、
「芦花ちゃんや、もっとこっちにおいで。わしゃ芦花ちゃんと話すためにここに来たようなもんだから。ほらおいで」と孫娘に言うような調子で言う。
「よしな、平さん。またババさんに来てもらうよ」武治が諫める。
「そうだぞ、助平はいかんぞ」と則さんと呼ばれていた老人が余計なことを言う。
すかさず平さんが応じる。
「何が助平だ。それを言うなら、そこの坊主だ。さっきっから芦花ちゃんを助平な目で見てらぁ」
突然槍玉に挙げられた双瀬は困惑に眉根を寄せ、心の内を暴露されたような恥ずかしさに口元を歪めて笑うしかなかった。見ず知らずの年寄りの言葉に彼の恋情は打ち砕かれたも同然であった。畢竟、芦花にしたって表面上は心安く接してはいるが本心では助平心に取り浮かれた人間に見えているのだろうと勘繰って、どうでもよくなった。
そこへ怒声が轟いた。
「なんてこと言うんですか。いくら平さんでも許しませんよ」
不意に芦花に怒鳴られた平さんは叱られた子供のようにしょぼくれた。時折恨めしそうに双瀬に顔を向けるものの、芦花が剣呑な目付きで射るので再び顔を落とした。
辺りはしんと静まり返った。
白けた場に誰もが口を閉ざしていると、
「飲みましょうか。お茶が冷める前に」ときれいな白髪をした曾根というらしい老人がとりなした。
双瀬は残りの羊羹を腹中に収めて煎茶を啜った。どうしようもなく居心地の悪さを感じてわざとらしく時計を見て立ち上がった。
格子戸を開ける双瀬の後ろについて芦花が見送りに出た。
「ごめんなさい。あんなことになって」芦花は静かに言う。
軒先から落ちる雨垂れを、開いた洋傘で弾きながら双瀬は振り返る。
「伏見さんが謝ることじゃないですよ」
「でも……あんな大声まで出して」
「嬉しかったです。ああやって怒ってくれて。でも、その、見てたことは確かですし」尻すぼみに言って雨音に消えた。
「僕の方も悪かったんです。ちゃんと言い返せばよかった」
「そうしたら喧嘩になっていたでしょう。悪いことはないと思うんです」
芦花は淋しそうな顔をして、
「嫌になりましたか?」と聞く。
「まさか」咄嗟に答えて、何に対する問であったのか、茶織に来ることかそれとも芦花のことか判断に迷った。迷って愚図愚図しているうちに、「おぉい、芦花ちゃん」と立ち直ったらしい平さんの声がした。双瀬は肩を跳ねさせて、「じゃ、また」と言い残して足早に店を後にした。
一か月続いた長雨も漸う降り止んで、夏に向かって日差しの漸う強くなる間にも、双瀬は茶織に通った。午前中なら顔を合わせずに済むと耳打ちしたのは芦花であった。耳に吐息が触れるその距離は彼に希望の光をもたらした。光明に照らされた前途にはもはや彼女が既婚者であるという可能性から生じた暗雲は存しないものと思われた。
アルバイトの方も順調で、スーパーの仕事は始めてからおよそ三か月が経ち、後に入った高校生に教えることもしばしばであった。共に働いているうちに高校生時分に抱いていた同級生に対する嫌悪は感心に変じていった。過日公園で出くわした父の、ひとり暮らしを始めた双瀬に対する心の持ちように、しぜん近づいていた。双瀬の胸にはそういう感慨が湧いたのであった。
その一方で、宅配の仕事も続けていた。元はと言えば巡って切れることのない思考を捨てるために始めたことであったが、近頃はむしろ尽きない恋慕の情を整理するために自転車を走らせていた。その上、余裕のない財布を僅かでも潤し、茶織へ赴く資金を供する役割を担っていた。何にも増して、茶織で芦花と話し、菓子を食べ茶を飲むのを至福だと感ぜられるのも多忙な日々に身を投じているからにほかならない事であった。
ところが七月も中旬に差し掛かると、いよいよ試験が目前に迫ってくる。初年次の前期で単位を落としていては今後どうして茶織へ通えるものか。試験の具合が分からない双瀬はとにかく勉強するより他になく、この間、茶織に顔を出さないと自らを固く縛って、羅列された文字と向き合った。初めのうちは紙を繰り、思考を巡らせ、手を動かして、平生から講義を聴いている分、滞ることもなかった。しかし、恋心に自ら封をした彼がそう何日も集中していられるはずもなかった。日を追うごとに勉強への熱は漸う冷め、思考は彷徨い出し、気が付けば芦花のことを考えていた。そのたび頭を振って頬を叩いても一時間と経たないうちに手が止まる。確かに普段からして週に一度、しかも一時間か二時間ほどしか会わないが、来週になればまた会えると思えばこそ双瀬の中で芦花の存在が大きく膨れた。しかし会わないと自ら決めると、彼女の存在はむしろ萎んでいき、捕まえようと手を伸ばすほどに霧中に消えていくのである。とりわけ木曜日は茶織へ向かおうとする足を止めるのに骨を折った。
こうして煩悶するうちに試験は終わった。
次に茶織へと赴いたのは八月三日のことであった。足音軽く、沸き立つ心をそのままに店の前までくると、格子戸に「臨時休業」と書かれた紙が貼ってあった。胸とともに身を躍らせたその先は、一寸先も見えぬ闇。不慮の事故か病気か、老夫婦かはたまた芦花さんではあるまいか、と想像してはかき消した。店の前を行ったり来たり、ひとり不審な動きをしているところに、突如として格子戸が開かれた。芦花であった。双瀬は芦花の姿を見るや否や安堵の吐息を漏らし、その拍子に力が抜けてへたり込みそうになった。
「臨時休業ってあってびっくりしましたよ」
「今日は芳美さんと武治さんが用事でいないの。でもいいの、入って。暑いでしょう」
裏手に木々が茂っているせいか中は割合ひんやりとしている。
いつものように芦花がお茶を持ってくる。
「お代はいいですよ。私物なので」いつかの武治みたいなことを言う。
「遠慮なく」
双瀬は一口啜った。乾いた喉を潤す一口の冷茶は火照った体に染み入って、ただただ感慨に浸るばかり。
「お久しぶりですね。待ち侘びていました。――でもどうして急に」芦花がゆっくりとした調子で口火を切る。
「すみません、試験があってそれで。改まって言うのもどうなんだろうと思って」
「少し心配していました」
「本当にすみません」
二人してグラスに口をつける。
「心配っていうなら僕もですよ。臨時休業って、何かあったのかと」
「お墓参りに行ってるんです。だからお休みなんです。今日が沙織さんの命日なんだそうです。覚えていますか、お二人の話」
双瀬は言葉なく頷いた。両親の愛情を一身に受けた沙織。お茶とお茶菓子が好きだった沙織。五歳にして早すぎる死を迎えた沙織を、双瀬は無念に思った。
「毎年なんですか」
「どうなんでしょう。私も分からないんです。去年のちょうど今日、二人に拾ってもらったから」
昨日の今日と言った芦花はどこか遠い昔を見ているような目をしていた。双瀬はどういう意味か聞こうとして開きかけた口を閉じた。
彼女は一口飲んで喉を湿らせた。わざとらしく喉を鳴らしたところに決心が窺えた。
「私、二人に拾ってもらう前は会社に勤めていたんです。私の直属の上司、物腰柔らかで、なんでも丁寧に教えてくれて、理不尽に怒ることのない人だった。とてもいい人だと思った。でも本当は違ったんです。その人、同僚の子に付きまとっていて、私、偶々その場に出くわしたの。それからその人の上司に報告しないように脅されて、監視されて、なのに仕事の話をするときは穏やかなの。それが数か月続いて、その間に食事も取れなくなって、付きまとわれてた子を助けられない自分が嫌で」
長い沈黙が流れる。
外で風鈴が細い音を鳴らしている。
双瀬は知らず涙を流していた。
「どうしてあなたが泣いているの」
「すみませ。僕にもなんだか分からないんです」
芦花は座卓に身を乗り出して、双瀬の頬を拭った。
「謝ってばかりですね、今日は」柔らかに笑う。
「もう大丈夫ですから。芳美さんと武治さんのお陰で立ち直れましたから。それから――」
芦花の言葉を遮るようにして入口の戸が引かれた。臙脂色の上下に同色の中折れ帽を被って西洋杖を突いた老人の姿があった。曾根である。曾根は三歩四歩と店に入り、勘定台の奥の調理場に向かって、帽を取って胸に抑えて慇懃に礼をした。終わると被り直して、丁度入口から見える位置に座る双瀬に近づいていく。
「やあ、どうも」
双瀬は曾根のために座を空け、芦花は新しく冷茶を入れた。
「今年もこの日が来ましたか」と曾根。
「ご存じなんですか」と問うたのは双瀬である。
「ええ、もちろん」
「定休日にはならないんですね」これも双瀬である。芦花の過去から少し距離を置こうとして矢継ぎ早に問うた。
「しないね。僕たちも年だからね、定休日だと忘れてしまうんだ。臨時休業と書いてあれば、あぁこの日が来たかって思うんだね。お二人さんも大切な人の命日だから、いつも会う人たちに会いたくなるんだと思うよ」
双瀬は身勝手な問いを恥ずかしく思って黙った。
喋り疲れたらしい曾根は冷茶を飲んで一息ついて、再び口を開いた。
「先達ては連れが大変失礼した。もう少し思慮があってもいいものだが」
「いえ、僕はもう平気ですから」
するうちにまた戸が開かれ、年寄り集団が入ってきた。静かな店内はすぐに騒々しくなった。そのすぐ後に老夫婦が帰ってきて、流れのままに食事会が始まった。なんだか申し訳なくなった双瀬が店を出ようとして立ち上がると、武治が引き留めた。実のところ、辞そうとしていた双瀬は久しぶりの人の手料理に喉が鳴っていたのであった。
食事が進み喋りの方が多くなってきた時分に、双瀬は座を抜けて芳美に耳打ちをして抜けてもらった。
「すみません、こんな時に」
「いいのよ、気にしないで。帰省の手土産ね」
少し悩んで、五つ入りの水羊羹を包んでもらった。
「芦花ちゃんのことはもう聞いた?」唐突にこんなことを聞く。
「つい先ほど」
この「ちゃん」とつけたのがただの客以上の関係になっていることを物語っていた。
「前よりずいぶん明るくなって、本当によかったよ」
「お二人のお陰だと」
「こりゃ難儀だねぇ」芳美は楽しそうに笑った。
会もお開きになって店を出ようとする際、試験の時の反省から帰省のことを芦花に伝えた。たかが二、三日のことで大げさかもしれないと思いながら伝えて、芦花の方はどうなのか尋ねると、迷っているという答を得た。かれこれ一年以上連絡を取っていないらしい。双瀬はそこに少しの引っ掛かりを感じた。いつの日か聞いたような話であったから。判然としないままその日は帰路に就いた。
翌日、金曜日の夕方に双瀬は実家に帰った。同じ市内に暮らしていながら、最寄りの駅に降りるのはひとり暮らしを始めてから此の方、一度もなかった。両親に対して不徳義がある訳ではなく、罪悪を感ずるところもない、ただ多忙の中にあってすっかり忘れていたのである。
駅から家へと向かう最中、方々に目を遣った。陽炎に沈む街は、四か月前と変わらぬ顔をして双瀬を見ている。だからなのか街を見渡しても懐かしさはなく、懐かしさを覚えるものと思っていた双瀬は拍子抜けした。歩いているうちに、むしろ多忙な日々を過ごしている街の方が懐かしく感ぜられるのであった。
玄関扉を開けると父と母は在宅であった。手土産の水羊羹を渡したところ嬉々として封を開けた。水羊羹を食べながら双瀬は大学のこと、アルバイトのことなど色々と聞かれた。やがて話頭は普段の生活に移った。
「自炊してるの?」
「あんまり」実際のところ自炊なぞしていないに等しいのだが、濁して言った。
「しておかないと後々困るわよ。ひとりならまだいいけどね、結婚したら任せっきりって訳にはいかないでしょ。ねぇ、あなた」
茶を口に含んでいた父は急に話を振られてむせ返った。
「え? おぅ、そうだぞ。今のうちにやっておけ」
双瀬と母は顔を合わせて噴き出した。
「それで、いい人見つかった?」
母が何の気なしに聞く。前段の話からすれば、この問いに帰着するのは不思議でもなく、双瀬も何とはなしに予測していた。ただ、それでも僅かに動揺した。父同様、口に茶を含んでいたのならば口の端から垂らすくらいはしていたかもしれなかった。
「いないよ」なるべく少ない語で簡潔に言った。平静を装ったつもりが、易々と母に看破された。そのうち呼びなさいとだけ母は言った。
土曜日は何もせずに家にいた。実家にいる時くらいは、と両親はむしろゆっくりするように言った。慌ただしい日常から脱して何もせずに休んで、しかしながら物足りない心持ちになった。こうして動かないでいることが大学生前の日常であって生活が大きく変わったのだとしみじみ感じるのであった。早めに帰ろうかとも考えて、結局、明くる日の日曜日に家に帰った。
また双瀬の身に多忙な日々が戻ってきた。大学が休みであるからアルバイトが生活の中心になってはいるものの、忙しいことに変わりない。当然の如く、休みの間にも時間を見つけては茶織を訪れた。夏の時期は客足繁く、芦花と話す機会は全くと言っていいほどなかった。そのために、彼女が実家に帰ったのかどうかは分からず仕舞いであった。相手が話さないことを彼の方から無理に聞き出すこともなく、したがって彼の方から帰省話を持ち出すこともなかった。
九月に入って暑さも漸く和らいできた頃、後期の講義が始まった。双瀬は前期分と同時に後期の履修届も出していたので、出席する講義の日程は既に決まっていた。
この日は一限から講義が入っていた。双瀬は開始二十分前に大教室に着いて本を読んでいた。そこへ後方の出入り口から慌ただしい足音が近づいてくる。端の席に座っている双瀬の隣で足音が止まり、達樹の顔が横からのびて目前に迫った。
「話がある。何も聞かないで来てくれ」
険のある顔をして双瀬を引っ張り上げる。講義は、と弾みで聞くと休めと言下に言い捨てる。平生との変わりように双瀬はただただ困惑した。
達樹が双瀬を拉して向かったのは学食内にあるカフェテリアであった。朝食を取る者、課題や論文執筆に追われる者で朝から人が多い。達樹と双瀬は丸テーブルに対座して黙っている。連れ出した本人が黙っているのだから双瀬も何も言わずにいる。しかし大方の内容は予測できた。夏休みの間中、達樹とは会っておらず急ぎの話はない筈である。したがって芦花の話以外ある筈もなかった。
たっぷり五分経って、ようやく達樹が口を開いた。
「姉さんが返ってきた。何か聞いてないか」
話し始めたと思うそばからこういう嫌な言い方をする。核心を避けておきながら悪事を問い詰めるような。
双瀬はむっとして、
「何も。話があるのは達の方なんじゃないの」
また押し黙る。しかし、やや雰囲気に違いが見える。先の沈黙は話すかどうかの迷いからくるものであり、今はどう話すかを考えているが故に生じているようであった。この沈黙は達樹のみならず双瀬にも考える時間を与えた。推測を深める時間は、しかし彼の胃を痛めつけるばかりであった。あまりに長い時間そうしているので堪りかねて、
「元気だった?」と口火を切った。
「そりゃもう。色々話してくれた。姉さん、会社辞めたんだってさ。で、今は……茶屋だそうだ」
双瀬は嫌な汗で額を濡らした。予想した通りであった。が、いざ言葉にされると心臓をわしづかみにされたようで苦しくなった。何故なのか、悪事を働いたわけではない、後ろめたいことなど何もない。きょうだいだからといって彼に咎める権利などはじめからないのである。だのに彼の主張に耳を貸そうとするのは築いてきた友情に亀裂を入れたくないからにほかならなかった。
「まだ付き合ってないんだよな。ならさ――」
そこまで言って、達樹は呻きながら頭を掻きむしった。突然の奇行に周りの学生が不審な目を向けた。
「どこでもいいからさ、歩きながら話さない?」
双瀬の提案に達樹はおとなしく頷いた。
大学構内を一通り歩いても話は出てこず、二人で大学を出た。大通りから狭い脇道に入り、疎水に沿って歩いた。暑さは和らいだといっても、こうも歩いていては額に薄っすらと汗が滲む。そこに風が吹けば体感丁度良くなる。葉擦れに混ざって鳥のさえずりが聞こえる。長閑そのもの。
「さっきは悪い。話そうと思うと難しくって」落ち着きを取り戻した調子で達樹が言った。それからぽつぽつと語を紡いだ。
「実の姉と友人が交際するのは嫌だ。我儘だと言われてもこれが正直な想いだ。……でも、知らなかったとはいえ、迷っている双瀬の背中を押したのは俺だ。俺はこの責任から逃れるわけにはいかない。まだ揺れてる。けど応援することにするよ。……それに、姉さんが帰ってきたのは双のお陰だ。姉さんの話からそれがよく分かった。だから、姉さんを頼む」
達樹は立ち止まって深々と頭を下げた。朋友の雄々しい背に胸を打たれた。と同時に達樹の頼み、期待が重くのしかかった。友が故に感ずる重圧であった。
爾来、双瀬と達樹との間で芦花が話頭にのぼることはなかった。達樹は全く双瀬に一任して身軽でいる。平生と変わらぬ、むしろ晴れていて、それが却ってこれ以上話さないという雰囲気を作っている。双瀬の方でも話す気の生ずることはなかった。達樹に頼まれたことで純粋な恋慕に別の力が加わり、見事に引き際を失った。何の責任を感ずることなくただ恋をしている限りはいつでも退くことができた。退く道があればこそ進むことができるし安泰であった。退路を塞がれた上に背中を強く押された今、もはや客と恋人との間に安住しているわけにはいかなくなった。にもかかわらず、年齢のために、経済力のために、己の臆病さのために次なる一歩を踏み出せずにいるのであった。
秋も随分と深まり、蒼い空に薄く棚引く白雲が悠然と揺蕩うている。街路の木々は葉を落とし、落ち葉が風に吹かれて乾いた音を立てている。茶屋の前の桜紅葉は散り落ちてなおその美しさを保っている。
双瀬は大学を休んで茶織へ向かうだらだら坂を上っていた。前期とは打って変わって、近頃は大学を休むことが増えた。休んで何をするということもなく、寝転がっているか開いた本の文字の上に目を落とすばかり。呆然として日々を過ごした。茶織には行くものの芦花に見つからないようにこっそり入って、何かしら買って、その場で食べずに持ち帰った。食べながら、ただの惰性だと呟いて涙した。
この日も双瀬は惰性にのまま茶織へ行った。みたらし団子を三串買っただけで店を出た。応対にあたった芳美は年の功ゆえか、何も言わず触れずにいた。日中でも肌寒く早いとこ家に帰ろうとして、家の方がよっぽど寒いとすぐさま手を返した。どうしようかと思案して至ったのが茶織のその先、半年が過ぎてもなお行ったことのなかった坂の上であった。上着のポケットに手を突き込んで歩き出した。
三人が横に並んでも余裕のある道幅が、歩くに従って狭くなり、やっとのことで二人並べるくらいまで狭まったところで、土剥き出しの道に変わった。起伏の甚だしい土砂道の両側から木々が迫っている。楓の紅い葉、楢や椈の黄色、また、茶褐色の葉がほんの僅かに樹上に残っていたり、地に落ち色を付けたりしている。ほとんど裸の枝々の向こうに澄んだ蒼天が見える。
三分ほど歩いた頃、道の端に木で造られた小さな祠が見えた。近づくと双瀬の膝くらいの大きさだと分かる。長いこと手入れがなされていないせいで所々苔むし、朽ちている。対照的に、祠の手前の石段の上にまだ新しい、透明なプラスチック容器が輪ゴムで閉じられた状態で置かれている。中には三本の串と黄金のたれが僅かについているばかり。捨てられたものとも思えず、誰かが供えたものを誰かが食べたように見える。全く不思議である。不思議なことであるが、供えたのはきっと芦花であろうと直感した。双瀬はしゃがんで、先ほど買ったみたらし団子を取り出して、一串を段の上の容器に入れて輪ゴムで閉じた。どうという考えはなかった。ぽつねんと残された容器を少しでも満たしてやりたくなったのであった。ただそういう心持ちになったのであった。彼は立ち上がって再び歩き始めた。
勾配緩やかな道はひたすらに真っ直ぐ続いている。歩いているうちにつま先は更に上がり、間隔も高さもまちまちの階段があって、終いには開けた高台に出た。高台に登っても空は頭上高くに広がっている。前方には黒の、橙の、赤のと様々な色をした屋根をもつ、背の低い家々が密集している。その向こうには常緑樹の茂った小山が二つ三つと連なっている。左手の方には奥に向かって線路が細く長く伸びている。高台の淵に設けられた木の柵から身を乗り出して下を見れば、茶屋の方へ向かう小川が流れている。
双瀬は、高台の中央に置かれている、磨かれた岩に腰を下ろした。その冷たさに身を震わせた。こうして日常から脱したところで逃避に過ぎないことは彼も承知していた。自然に任せて熱を冷まして、残りの学生生活を平凡に過ごすのも一つの考えであった。惰性だなんだと言いながら茶織に足を運ぶのは手放せない想いがあるからであって、これも間違いなかった。しかし、自らの思いを優先しては片手落ちになる。芦花の真意はいまだ知れない。聞こうにも踏ん張りがきかない。その上、達樹が頭を押さえつける。思考は巡る……結句、家にいるのと変わりがなかった。じきに体が冷えてきた。団子は家で食べることにして双瀬は来た道を戻った。
舗道辺りまで戻って、茶屋の前が騒々しい。双瀬が足を速めて入口に着いた時、ちょうど中からストレッチャーを運び出す救急隊員に出くわした。緊迫した雰囲気にたじろぐ彼の目にも一瞬、横たわる武治の姿が映った。続いて出てきた芳美と目が合った。悲痛な心の内を隠して気丈に見せる芳美は彼の胸の内を激しく揺すぶった。
「主人が倒れて、付き添いに行きますから、芦花ちゃんを頼みます」
つっかえつっかえ言いながら一礼した。ええ、と承知した双瀬に愁眉を向けて芳美は駅の方へと下って行った。
双瀬は店に入って開け放たれたままの戸を立てた。冷気を断つとストーブの熱がじんわりと彼の体を温めた。芦花は座卓を前にして項垂れて座し、悲愴感の滲む背を入口に向けている。彼はその背にゆっくり近づき、
「こんにちは」と気を落ち着けて挨拶をし、対座した。「こんにちは」と芦花は力なく返した。疲れの見える顔をして、額に髪がへばりついている様子に双瀬は見惚れた。美しいとさえ思った。慌てて、
「お茶でも入れようか」と立ち上がった。芦花は僅かに頷いた。
双瀬は調理場を借りて湯を沸かし始め、今になって人に出せるほどの茶の知識なぞ持ち合わせていないことに気づいた。言い出した手前あとには引けず、沸騰した湯を急須に注いだ。火も換気扇も止めて静かに蒸らしている間、内省して、今の芦花を美しいと思った己の愚かさに恥じ入った。
茶を入れた湯呑を芦花の前に置いて元の通り対面して座った。芦花は何も話さないでいる。双瀬も聞かずにいる。仔細を知らずとも、芳美の言で何とはなしに想像がついた。水を打ったような静けさに時計の針の進む音だけが時の流れを思わせる。秒針の進む毎に息が詰まっていく。足元から水がせり上がってくるような焦りが双瀬を苛む。悲愴感に満ちた芦花を前にして、この沈黙に容易に耐え得るほどには成熟してはいないのであった。
かつて悪意に害された彼女に手を差し伸べたのは老夫婦であった。老夫婦の慈愛に満ちたたなごころが彼女を起き上がらせ、彼女の生を支えている。しかしここに至ってその支えが最早それほど強固でないと知れた。拠り所を失ってはいけないと思う反面、自らその役割を担う自信が双瀬にはなかった。学生という身分が気後れさせた。なにより、彼自身の未熟さからくる臆病に打ち勝たねばならなかった。
逡巡している双瀬が顔を入口の方に向けた折、格子戸の向こうで人影が揺れた。杖を突く音が微かに聞こえる。双瀬は芦花に断って表に出た。はたして人影は曾根のものであった。臙脂の中折れ帽を取って軽く会釈をした。
「いやに静かなもので。君が出てきたということは何かあったね」臈長けた紳士が洞察鋭く言う。
双瀬は目にしたことを伝えた。知っていることが少ないだけに不得要領であったが、曾根は相槌を打ちながら最後まで聞いた。どこまでも平静を保っている。
「そうか。そういうことならいつもの連中には私から話しておこう」
曾根は背を向け左手を挙げて去ろうとする。
「曾根さん、中には」
曾根は足を止めて振り返った。
「いえ結構。大切な人がいるんでしょう」
双瀬が暗い顔をしていたのか、あるいは陽が傾いて翳って見えたのか、そんなことを言う。曾根は歩き出した数歩分また双瀬に歩み寄った。
「若いうちは悩むもんだ。相手が年上なら一層」
曾根は、出しっぱなしの床几に腰かけ、隣を手のひらで軽く叩いた。双瀬は促されるまま隣に座った。口は開かないでいる。
「人と巡り合えるのは仕合わせなことだ。でも人は人を幸せにはできないし、一人でいても難しい。私は年寄り連中とばかりいるから君みたいな若い人と巡り合えたことは仕合わせだ。君の抱えている問題を話してくれて、一緒に考えられたのなら私は幸せだ」
胸を震わした。目頭が熱くなった。双瀬は堰を切ったように胸中を打ち明けた。達樹に話して以来誰にも話さなかったことを。起こった出来事を、抱いた恋情を、疑いを、懊悩を、その全てを。
話し終えた双瀬は心地よい疲労感を覚えた。曾根の受け方が巧みで、思考も感情も整理されつつあった。
少し間を開けて曾根が徐に口を開いた。
「年齢はどうにもならない。どうにもならないことを嘆いているのは停滞だ。芦花ちゃんは……確か二十五だったかな。一般的には所帯を持っていてもおかしくない頃合いだ。一般的にはね。経済力は、大学生じゃたかが知れている。自分だけでも精一杯だ。交際するには金が必要で、その先を見据えるのならなおさら。あって困るものでもない。これも一般的にだ。君の臆病は……君の考え方次第だ」
少し喋り疲れたのか、ここで一度切った。冷たい風が落ち葉を捲いている。
「君が好いているのは、目に見えて、匂いを感じられて、触れることができる。その上話すことができて、この世に確かに存在していて、この世にただ一人しかいない、そういう人でしょう。平均的だとか、一般的だとか、そういう像に囚われて手前勝手に考えてちゃいけない。芦花ちゃんのことをちゃんと見てあげなさい。その悩みも感情も君のものだけれども、君だけのものじゃない」
双瀬は神妙な面持ちで頷いた。
「忘れないことだ」曾根は柔らかく笑った。
「よぅし、老いぼれの説教は終わりだ」
「曾根さん、一つ」
「なにかな」
双瀬は少し迷って、先を続けた。
「曾根さんの奥さんは」
ほんのわずかな間の後に、
「ばあさんは死んだよ」と言った。
はっきりと、簡潔なこの答には、しかし一切の冷たさがなかった。
「よくやったよ、お互い。私はそう思うね。だから……」音にならない言葉は推量のようであり、願望のようでもあった。
「そろそろ帰ろうか。この寒さは老いぼれには耐え難い。北川君も戻ってあげなさい」
曾根は立ち上がって背を向けた。夕暮れに溶けていく老人の背に双瀬はお辞儀をした。
甲高い杖の音が高い空に響いた。
店に戻った双瀬は座卓に伏している芦花を見留めた。静かに寝息を立てている。長いこと気を張っていたらしい。無理からぬことである。双瀬は着ている上着を脱いで肩にそっとかけ、湯呑を手に調理場へ移った。薬缶を火にかけようとして、寝ている芦花を思ってやめた。生ぬるいお湯を急須に注いでお茶を入れた。
双瀬は芦花を前にして瞬時考えて、隣に座った。湯呑を置く際、思いのほか音が出て芦花の肩が震えた。彼女は顔をあげて周囲を見回して、最後に双瀬の方を見た。目が合った。たった数秒、その数秒のうちに互いに生起する思いがあった。芦花は申し訳なさそうな顔をする。双瀬は首を横に振る。
「もう一杯どうですか」と双瀬。
「座っていてください、私が入れてきます。外は寒かったでしょう。それにこれ」
芦花は肩に掛かった上着を手に取って差し出した。
「ありがとう」言うなり立ち上がった。
湯気の立つ湯呑を二つ持って芦花が戻ってきた。双瀬は受け取って一口含んだ。
「そういえば買った団子、まだ食べてないんです。一つどうですか」
双瀬は鞄から取り出しながら言う。
「もう冷たくなってるけど」
「いただきます」
プラスチック容器の蓋と底を切り離し、蓋の方に一串乗せて底の方を芦花に渡した。
「……あれ、これ」
芦花は不思議そうに団子を見て、続いて双瀬を見た。双瀬は首を傾げた。茶織で買った団子に何を不思議に思うことがあるのだろうか、彼には分らなかった。
二人で飲んで食べて、そうしている間に随分と時間が経ち外は既に暗くなっていた。ストーブが動いていても冷えた外気が流れ入ってきて肌寒い。不意に芦花が口を開いた。
「私、あなたに謝らないといけないことがあるんです」
双瀬は頷いた。
「でも」と芦花が言うと同時に、彼もまた胸中で呟いていた。
「今じゃないと思うんです」
双瀬はまた頷いた。今聞いてしまうのは不幸に乗ずるようで耐えられなかった。芦花も同様に感じているようであった。
「だから…もっと別の機会に……」芦花が思案するように言ったのを双瀬が受けて、
「一緒に初日の出を見ませんか?」
双瀬の提案に今度は芦花が頷いた。
そこへ芳美が格子戸を開けて入ってきた。音を聞いて二人して立ち上がった。芦花の方が早く、慌てた様子で芳美の元へ寄った。
「武治さんは」
切羽詰まって言う芦花に対して芳美はのんびり構えている。救急隊員の後についていく彼女とは別人のように見える。
「大きな病気なんかじゃなくてね、過労だとさ」
それを聞いた芦花は安堵の溜息をついた。
「ただ、いい機会だから検査とかして、それから少し休もうって話になったの。ごめんね芦花ちゃん」
子供みたく首を横に振る。芳美は、まだ整理のつけられていない芦花を優しく包んだ。
「ごめんね。これからまた病院に行かないといけないの。着替えなんかを持って。明日にでも見舞ってあげて、きっと喜んですぐに元気になるんだから」朗らかに言った。
芳美と芦花はいつものように店仕舞いをして、双瀬は外の床几と野点傘を中に入れて店を出た。三人で駅まで歩いて、芳美はタクシーに乗るといって別れた。残された二人は同じ電車に乗った。双瀬は、芦花もそうかもしれないが、最寄りの駅が同じだということをこのとき初めて知った。双瀬が送ろうかと言い出すと芦花はやんわりと断った。曰く、弟に出くわしたら困ると。確かに双瀬にとっても一緒にいるところを見られたくはなかった。
駅に着いて二人は別れた。三人が二人に、二人がついには一人になって、寒い夜道を歩く双瀬は余計に寒さを感じていた。頭では芦花の無事を祈っていた。それから彼女の弟のことを考えていた。これから決着をつけねばならないと腹を決めていた。彼に何も言わずに付き合おうとは考えていなかった。その時間を取る為に初日の出を見ようと提案した側面もあったのである。体が冷えるのはそれを考えているせいでもあるらしかった。
この年最後に達樹と会ったのはクリスマスも目前に迫った頃であった。この日、年内最後の講義を前にして達樹に告白の意思を話そうという腹積もりで教室に向かった。話すだけで、何と言われようとも構わないという気でいた。達樹は既に席についていた。彼の元へと歩いて行って、ちょうど後期最初の講義前の、二人の位置を入れ替えたような具合になった。双瀬が立って見下ろし、達樹が座って見上げている形である。達樹は何かを察して徐に立ち上がった。二人は教室を出た。
寒さは一段と厳しさを増し、行き交う学生等は足早に目的の場所へと歩いている。二人は当てもなく歩いた。学部棟のある場所から離れて裏手の、大学の所有地かどうか分からない、しかし均された道のある林を逍遥した。冬枯れした木ばかりの林を歩いて数分、双瀬は立ち止まってようやく口火を切った。
「こんど芦花さんに告白することにしたよ。もう決めた。その前に、達にはちゃんと言っておきたかった」
達樹はじっと双瀬を見つめた。苦悶の表情を浮かべている。双瀬はもはや動じることもなく全身で受け止めた。達樹の激しい葛藤は一分ほど続いた。やがて、
「分かった。話してくれてありがとな」と表情を緩めた。双瀬も同様に。
「ところで最近なかなか来んね。出席は大丈夫かい」達樹はおどけた調子で言う。こうやって気を回す奴である。彼のそういうところが、双瀬が進退を決するのに時間を要した一因でもあった。
「何とかなるでしょ」
「困るなぁこういう人は。まぁ、できることはやっておいたよ」
「それはありがたい限りで。いったいどんなことを」
「そりゃ君、――」
そんな話をしながら構内に戻った。
一年ももう終わろうかという大晦日の夜、双瀬は部屋で鐘の音を聞いていた。一人の部屋に低く響く鐘の音は過ぎていった濃密な日々を思い起こさせ、一抹の侘しさを彼の身の上にもたらした。即席の蕎麦を食べ始めるとそれが一層募った。そうして食べているうちに新しい年を迎えた。何ともあっさりしたものである。共に過ごす家族もいなければテレビから聞こえていた声もない。日の連続に過ぎず気持ちを新たにすることもなかった。
零時を回って最後の鐘が鳴り終わり、その余韻を体に感じながら双瀬は洗い物をした。終わってからはしばらくぼうっとしていた。芦花のことは考えていなかった。この期に及んで考えていても手前勝手な空想を押し広げるに過ぎないと、曾根の説教を肝に銘じていた。そうして四時間、まんじりともせずにいた。
双瀬は夜明け前の街に繰り出した。夜気に身を打ち震わせ、吐く息は白い。街は森閑として、人の影なし。双瀬は自ら鳴らす足音の大きさに驚きながら茶織へ向かった。先に着いたのは双瀬で、次の電車で芦花がやってきた。揃うなり二人並んで坂を上った。進むほどに街灯の間隔が開いてゆき、舗道の途切れた先には一つとしてなかった。頭上は天照る月と星々に任せ、足元は双瀬が照らして半歩先を行く。多くを語らず、道中の祠まで来て芦花が、
「武治さんが倒れた日、団子をお供えしませんでしたか」と問う。
「確かに。でもどうして」
「串の本数が違ったからそうかなって」
「なるほど。あそこには何かいるんですか。動物とか」
「どうなんでしょう。動物にしては綺麗に食べますよね。私としてはなんだっていいんです。あそこはなんだか寂しいから」
「優しいんですね」
「あなたも」
双瀬はコートの襟を立てた。
高台に出た二人は並んで岩に腰をかけた。空は少しずつ白み始めている。その光景を見ながら芦花は小さな、しかしよく通る声で話し始めた。
「もう私の名前はご存じですよね」
双瀬は瞬時考えて、
「どちらのですか」と返した。
「意地悪を言って。分かってるじゃないですか。……ごめんなさい。騙すつもりはなかったんです」
「詳しく教えてもらえませんか」
芦花は頷いた。
「改めまして、私は古谷芦花。電車の中であなたに遇った日、弟の達樹から写真が送られてきたんです。何の変哲もない、入学式の看板を写した写真。そこにあなたが映っていたの。あの時私は思ったの。スーパーの駐車場で助けてくれたこと、ちゃんとお礼ができなかったから、いつか、偶然にも出会えたらお礼をしようって。その偶然が本当に来るなんて」
芦花は白い息を吐いて双瀬の方に顔を向けた。双瀬は頷いて促した。促されて、彼女は続きを訥々と話し始めた。
「具合の悪そうなあなたを電車で見かけたとき、これで恩が返せると思ったんです。ひどい話ですよね。その時はそれだけで。ちょっと違うかな。いいって言ってるのにお金を払おうとする変な人? また来た時にもお金を払うって、相変わらず変だけど、正直というか誠実というか、ちょっと心配になった。それからいいなって思った。自己紹介したのはこの日だったね。ここから話せばよかったかも。もしも達樹と仲良くなっていたら嫌だなって思って、咄嗟に嘘の名字を言っちゃったの。その時は色々ばれたくなかったから、本当にごめんなさい」
いつの間にか芦花の口調は砕けたものになっていた。話し終えた芦花の頬は寒さのせいか何なのか、赤らんでいた。双瀬は首を横に振って、
「でも、じゃあどうして名前は変えなかったんですか」と問いかけた。
「それは……知っておいてほしかったから」
僅かに潤んだ瞳で答えた。それを聞いて双瀬は徐に立ち上がった。拳を固めて、己を奮興させて。
「僕はまだ大学生で、お金もなくて、なかなか踏ん切りが付けられなくて。まだまだ未熟だけれど芦花さんを一人にしたくないって思ったから。だから、付き合ってください」
双瀬は深々と頭を下げた。これほどまでに熱情に駆られたことなどなかった彼は脳の奥底まで痺れて思考もままならなかった。
芦花は立ち上がって頭を下げている双瀬を優しく包み込んだ。
「こちらこそ。あんなことがあって、次に人を信じられなくなったら私はもう。だから、あなたがあなたでいる限り」
その時、芦花が感嘆の声を上げた。
「見て。後ろ」
双瀬は振り返った。地平線から顔を出した太陽は夜を払って赤々と輝いている。家々を照らし影を作り、新しい一日の、新しい年の始まりを告げている。
「陽が綺麗だ」
「あなたも。綺麗だと思えるあなたも」
二人は暁光に照らされながら見つめ合い、唇を重ね合わせた。初めは軽く、続いて長く、溶け合うように。
*
「お待ちどうさま」
朗らかな陽気を纏った声に弾かれて、双瀬は長くもあり短くもあった旅から帰ってきた。その当時あらわれては消えて行った種々の感情や苦悩は過ぎ去ってしまえば流れ行く雲と同じであった。
芦花が床几に団子を置いて傍にそっと立っている。
「どうですか調子は」双瀬が串を取り上げて言う。
「再開してから随分忙しくなったの。なんでも普段はインターネットで、この機に足を運んでくださるお客さんもいて」
「ちょっと心配ですね」
真剣な顔をして言う双瀬に、芦花は口元を隠して笑う。
「双さんほど熱心な人はいませんよ」
「それならいいんですが」
湯呑に口をつけながらくぐもった声で言った。
「大学の方はどうですか」
「なかなか順調ですよ。ただ、二年になって少し難しくなってきましたね。どうなることか」
「私の時もそんな感じでした。積み重ねですからね、気を抜くと大変ですよ」
「ええ」
他愛ない話をしているうちに双瀬は団子を平らげた。
「ごちそうさまでした。お邪魔でしたかね」
「いえ、双さんがいる日は不思議とお客さんが少ないんですよね」
「人を疫病神みたいに」
二人して笑い合った。
告白以来、大きく進展してはいなかった。しかしたとえ牛歩といえども、それが他ならぬ彼らの、彼らだけの恋愛であった。