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動き出す

翌朝私たちを迎えに来た慎一郎が、園川教授夫人が倒れた事を教えてくれた。

「心不全らしい。予断を許さない状況だ」

和馬と慎一郎は苦い顔をしている。

「文兄とレイちゃんが心配だな、それに今日はきっと教授も休みだろ」

「そうね…。さっき休講一覧に2人の名前があったから」

今日は大学は午後からなので、蓮華堂に荷物を置いてから出ようと思っていたが、どうなることか。

蓮華堂に着くと、レイさんが少し疲れた顔で迎えてくれた。

「2階の部屋、一番奥の客室を使って。2人で使うには丁度いいわ」

「ありがとうございます。あの、レイさん…大丈夫ですか?」

私のスーツケースを持ってくれて階段を上がるレイさんはいつもの元気がない。

「ありがとう、ちょっとだけ戸惑ってるけど大丈夫。今文彦が病院に行ってるけど、集中治療室だから外からしか面会できないみたい。なんとか持ち直してくれたらいいのだけど」

私たちに用意された部屋は随分広めの部屋だ。焦げ茶色の箪笥階段に芍薬の花の彫刻が施された中華風の木の衝立、同じ色合いのテーブルと赤いアラベスク模様の絨毯、2人掛けのソファーもある。

ベッドもクイーンサイズで、窓の障子の枠もレトロで可愛らしい。

「素敵な部屋ですね…」

「でしょ、青蓮ちゃんの母親がコーディネートしたのよ。寒かったら追加の掛け布団は隣の納戸にあるから、寝る時に運んでね。荷物も納戸に入れておく。…詳しいことは下で話しましょう、文彦があと少ししたら戻るみたい」

蓮華堂は廊下から中庭を四方に囲むような回廊があり、表側が店舗、裏側が住居になっている。

中庭はアラベスク模様のタイルが敷かれていて、水鉢には蓮が浮いている。季節を感じられる植物が窓から見えて、全体的にセンスの良い建物だ。

「あっちは青蓮ちゃんの部屋、一つ空けて私の部屋。何かあったら呼んで。」

レイさんはテキパキと納戸にスーツケースを仕舞うと、階段を降りる。

いつもの台所には和馬、慎一郎、レイさん、私、藤砂先生と南木さんが揃った。

藤砂先生は少し瞼が腫れている。

暫くの重い沈黙の後で、南木さんが口を開いた。

この人は警察のOBで、夜勤の案件は大体南木さん経由で依頼がある。

「園川教授の依頼を受けたそうだな。」

南木さんがタバコに火をつけて、ゆっくりと吸う。

「すみません、青蓮ちゃんには反対されたんですけど」

藤砂先生が口を開く。

「いや、いいんだ。園川さんなら俺もよく知ってる。奥方がその昔今野の情婦(いろ)だったことも…。」

「奥様をそこまで追い詰めるなんて許せないわ、あんな素敵な方を…」

レイさんが怒りを滲ませる。

「今野に関しては反社の中でもタチが悪いやつでな…常に誰かしら見張りはついてるから下手な手は打ってこれないはずなんだが…ちょっと外すよ」

南木さんはタバコを灰皿に置いてスマートフォンを取り出すと、席を外した。どこかから電話らしい。

「文彦、あんた少し休みなさい。お茶いれるから」

レイさんはお湯を沸かして、ハーブティーの葉を出す。

「蜂蜜も追加で頼むよ」

「わかった」

キッチンにラベンダーの香りが広がる。

「みんなも一緒に飲む?ハーブティー嫌いなら他のお茶も…」

「大変だ。今野が今朝射殺された」

いつもはどこか飄々とした南木さんの声も戸惑いを隠せていない。

藤砂先生が椅子を倒す勢いで立ち上がる。

レイさんもお茶を盛大に零した。

「どういうことだよ」

慎一郎までも声を出す。

動揺は伝播するから落ち着かないと…と思っても、心臓がバクバクしてしまって上手くいかない。

意味がわからない、指先が冷たい。

思わず和馬の手を握ると、強く握り返してくれた。温かい。

今は私よりも、和馬の方が冷静だ。

「南木さん、今野が殺された場所は」

藤砂先生の声が少し上ずっている。

「奴の自宅だ。頭を撃ち抜かれて即死、奴の手下も3人同じような殺され方をしてたそうだ。とりあえず俺は今から現場行って状況を聞いてくる。それと…レイちゃん、昨日引き渡してもらった下っ端の取り調べが終わったら連絡するから」

南木さんは去り際に「これ貰ってくよ」とお茶菓子を1つ取って表口から出ていった。

「とりあえず、南木さんからの連絡を待ちましょう。お店もあと1時間で開けるわよ。文彦はお茶飲んで上で休んでなさい。和馬、慎、倉庫から荷物出してくれる?」

「わかった」

「了解」

忙しくしていた方が気が紛れていいのだろう、レイさんが慌ただしく手を動かす。

「ライラちゃん、学校は?」

「午後からです、何かお手伝いしますか?」

「ありがとう、そしたら店の掃除と伝票の整理お願いね」

「分かりました」

お茶とお菓子を片付けて、店先に向かった。



今日は担当する講義がないので、研究室にそのまま向かう。

石蕗(つわぶき)研究室は心理学部棟の中でも比較的こじんまりとした研究室だ。

石蕗直巳先生は心理学の中でも発達心理学の研究者として名高いが、少数精鋭で学生も1学年あたり2名までしか入れないため、その年の成績優秀者が入ってくると聞いた。

他にも准教授やアシスタントさん、私のような講師と研究員の兼業を含めても18人程度しかいない。

その分付き合いが濃くなりがちだ。

「御堂さん、昨日藤砂先生と園川教授と一緒じゃなかった?」

自席につくと、研究室の先輩の笠置さんに声をかけられた。

この人は普段から他人の事を詮索するのが好きらしく、正直苦手だ。

「ランチをご馳走になりました。」

なるべく目を合わせずにやり過ごす。

「あの二人親子みたいに仲良しだから…。」

笠置さんはチラチラとこちらを見てくる。

「聞きたいことがあるならハッキリ聞いてください」

私の言葉にドキッとしたのか、笠置さんは手をパタパタさせる。

「ごめんごめん気を悪くさせちゃった。今日、園川先生も藤砂先生もお休みじゃない?何かあったのかしらって。」

話すのも面倒臭いので、来たばかりだがノートパソコンをたたんで席を立つ。

「お先に失礼します。今日は先生も不在ですし、ちょっと体調が悪いので」

笠置さんが止める間を与えずに、研究室を後にした。

外は雨が降り始めていた。


蓮華堂に戻ってから、レイさんと藤砂先生と一緒に園川教授の自宅に伺うことになった。

その頃には雨は止んで、湿った空気がまとわりつく。

園川教授の邸宅は、大学の最寄り駅から3駅先の高級住宅地だった。

その中でも一際目立つ瀟洒な外観の豪邸に着いて、インターホンを鳴らす。玄関で迎えてくれた園川教授は昨日よりも更に老け込んでしまった気がする。

「ご無沙汰してます、園川先生」

レイさんが懐かしそうに微笑む。

園川教授も少しほっとしたように、「本当に久しぶりだ、東野くん」と笑顔で返す。

「蓮人が居なくなってからは店に足を運ばなくなってしまってね、先代の葬儀も参列出来ずに藤砂くんに香典だけ渡すような真似をしてしまって…。青蓮ちゃんは大きくなったかい」

「ええ、それはもう…。今度久々にいらしてください」

どうやら青蓮の父親と園川教授は旧知の仲らしい。

下の名前で呼ぶのはかなり親しいのだろうか。

「園川先生と青蓮ちゃんのお父さんは大学の同窓なのよ、昔はよくお店にも来て遊んでもらったわ」

「結婚前のことだよ、まだ東野くんも中学生だったか」

2人は懐かしそうに笑う。

応接室のような部屋に案内されて、取り急ぎ今野が殺害された事を伝えると、園川教授は驚いた顔で「そんな事が…」と声を絞り出した。

「今朝…といっても7時頃だったか…外にいつもの黒い車が停まっていたんだ」

藤砂先生とレイさんも驚きを隠せない。

「今野じゃなかった…?」

「先生、他に心当たりは」

「思い当たる節がない…。しかし…一体どうなってるのだ」

少しの沈黙の後、

「本当は依頼を取り消すつもりだったが、監視が続いているなら…改めてお願いできるかね」

と頭を下げられた。

「かしこまりました。先生、あとはこちらにお任せください」

レイさんがにこやかに手を差し伸べて、教授と握手を交わした。


「文彦、大丈夫?」

帰り道でレイさんが藤砂先生に尋ねる。

「まだ頭の整理ができないけど、なんとか。」

「先生、帰ったら少し休んでください。」

「そうさせてもらいます。とりあえず、後ろの奴を片付けたら」

藤砂先生の目付きが変わった。通りがかったタクシーを捕まえて私たちを乗せる。

「2人は先に帰ってください。僕はあいつを片付けたら帰るので」

藤砂先生はそう言うと、凄い速さで走って夕闇に消えていった。

「異人街の蓮華堂まで」

レイさんが行き先を告げて、タクシーが出発した。

「藤砂先生、大丈夫ですか…」

既に姿が見えない藤砂先生を案じたが、レイさんは至って冷静に

「大丈夫よ、うちのスタッフであいつに敵うのいないから」

と言って、スマートフォンに目をやった。


タクシーで蓮華堂に戻ると、和馬が出迎えてくれた。

今日は午後は早じまいしたので、帰った頃には表口はシャッターが降りていた。

「あれ、文兄は?」

「ひと暴れしたら帰ってくるわよ。帰らなかったらその時は警察と葬儀屋さんに連絡して」

「ひっでえ」

ダイニングでは南木さんと青蓮が夕飯を食べていた。

「らいらちゃんおかえり、お風呂先に入ってきて!今夜のご飯は慎ちゃん特製の天丼だよ」

慎一郎がエプロン姿で台所で黙々と天ぷらを揚げている。

小学校の家庭科で作ったような派手な柄のエプロン姿に思わず笑ってしまった。

「笑うな、このエプロンが一番使いやすい」

少しむすっとした顔がなんだか可愛くて、また笑ってしまった。

「ここの連中は大食いばっかだからな、青蓮ちゃんはもう3杯目だ」

南木さんは天ぷらをおつまみにビールを飲んでいた。

テレビからは野球中継が流れている。

「早くしないと青蓮に食べ尽くされるぞ」

慎一郎は2つめの炊飯器にご飯をセットし始めた。

「分かった、ありがとう」

一番風呂を堪能してダイニングに向かうと、和馬とレイさんも天丼を食べ始めていた。

「お風呂、お先に頂戴しました」

「こちらもお先にご飯いただいてるわ。」

ふと青蓮が私の顔をまじまじと見て、

「らいらちゃんすっぴん!?メイクした顔と変わらないんだね、ウケる!」

と笑う。高校生だが思った事を何でも口に出すせいで、学校でも浮いていて友達も少ないとレイさんが困っていた。

「失礼ね、多少変わってるでしょ!」

流石にメイクの意味がないと言われるとカチンとくる。

「蕾良は化粧なんてしなくても綺麗だから」

和馬の一言に青蓮とレイさんが「きゃー」と黄色い声をあげる。

「和馬、逆に恥ずかしいんだけど…」

顔が熱くなる。

「お前よくそんな恥ずかしげもなく惚気られるな」

「俺は事実しか言わねえ」

「はいはいそうですか、嫁自慢は程々にしておけよ」

嫁、というひと言に和馬が赤くなって「気が早いぜ」とデレデレしている。

慎一郎が少し引き気味に「アイツ大丈夫か」と言いながら、私の前に天丼を置いてくれた。

えび、かぼちゃ、椎茸、なす、蓮根、鶏の天ぷらに、銀杏の素揚げを串に刺したものがあしらわれていて、とても豪華だ。

きのことお豆腐のすまし汁に、白菜の浅漬けもある。

「ありがとう、いただきます」

「タレが足りなかったらここにあるからな」

慎一郎はたタレの器を置いてくれた。

「慎一郎も料理当番するのね。すごく美味しい!」

さくさくの天ぷらとふっくらしたご飯と少し甘めのタレのバランスが良くて、箸が進む。

「慎ちゃんの実家は天ぷら屋さんなんだよ、だからすっごい美味しいの!」

青蓮が私が見ただけで3杯目のすまし汁を口に流し込む。

「食べたいって感情は生きたいって感情と同じなのよ」

レイさんが2杯目のご飯を丼によそいながら言う。

「レイちゃんいい事いうね、僕もいただこうかな」

藤砂先生の声がする。どこから入ったのだろう。

「文兄おかえり、これ使いなよ」

和馬が消毒用アルコールとウエットティッシュを差し出す。

よく見ると指に血がついている。

「先生、怪我されたんですか!?」

「いえいえこれは返り血というかなんというか。濡れティッシュありがとう和馬くん。お、今日は慎一郎の天丼か、また僕の大好物だ」

「文彦、あんたまた勝手に夜勤用出入口使ったわね。着替えてから食べなさい。それと、さっきの奴どうしたの?」

「ああ、ちょっと眠ってもらったよ。頭から倒れないようにぶっ飛ばしたら相手が鼻血出しちゃって、それが手についちゃったんだ」

ネクタイを解きながら藤砂先生は笑顔でこたえる。

「途中からよく分からない言葉で喚き散らすから、一発みぞおちにいれちゃった。ちょっと心当たりがあるから、ひと休みした後で色々話すよレイちゃん」

そのまま奥の部屋に引っ込んで、すぐにラフな格好で現れた。白衣とスーツ姿しか知らない彼のファンの女子なら歓喜もののプライベートショットなのだろうが、ひょろひょろな体が余計細く見える。

「文兄ほっそいなー、体重何キロだよ」

「これでも65キロはあるよ、でも身長があるからちょっと痩せすぎ感は否めないね。」

藤砂先生は流しで手を洗いながら和馬に答える。

慎一郎が藤砂先生用の特盛の天丼を持ってきた。

「ありがとう慎一郎」

「痩せの大食いはタチが悪い」

「あはは、いただきます」

藤砂先生は特盛の天丼をあっという間にたいらげると、2階の休憩室に上がっていった。



食事が終わると、南木さんから昨日の尾行犯の取調べ結果を教えてもらった。

「和馬くんと蕾良ちゃんを尾行するように言ったのは確かに今野からの指示だったが、今野も誰かに言われて投げてきたらしい。で、今野と手下の死亡推定時刻は今朝の6時から7時の間、財布から現金が抜き取られていた。こっちは強盗殺人の線で捜査が進んでるが、おそらくカモフラージュだろう。」

南木さんが胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。

「それにしても今野に尾行を指示した奴も誰なのか。ここの夜の稼業の依頼人は俺が大体管理してるし…」

南木さんは煙草の煙を深く吸って吐き出す。

「ちょっと心当たりがあるんだけど…。あんまり子供には聞かせられないわね」

レイさんが青蓮の方を向く。

「青蓮ちゃん、お風呂入って宿題片付けて寝なさい」

どこか業務的な口調だった。

「えー…。いいよ、大人の会話ってやつ?私がいると話しづらいなら消えますよー」

青蓮が頬を膨らませつつも素直にダイニングを後にした。

ドアを閉めると、レイさんは料理本の棚から小さなアルバムを持ってきた。

赤い革表紙を開くと、最初のページの写真に初老の男性と彼によく似た背の高い男性、園川教授、その横にはセーラー服を着た高校生の頃のレイさん、青蓮と思しき赤ちゃんが写っている。

よく見ると青蓮の横が不自然に切り取られていた。

「これは15年前の写真。左から先代の店主の蓮十郎おじさんと息子の蓮人(れんと)さん…青蓮ちゃんのお父さんね。で、園川先生と私、青蓮ちゃん。で、その横…切り取られてるけど…に写ってたのが青蓮ちゃんのお母さん、美紗(みしゃ)さん」

レイさんはアルバムの中から1枚の写真を取り出す。

大学のサークルの集合写真のようだ。

その中に青蓮にどことなく似ているが、ブルネットの髪とグリーンがかった冷たい瞳の美女が写っていた。外国の血が入ってるような風貌だ。

「美紗さんは留学生で来日したって聞いた。蓮人さんと知り合って結婚したのが18年前…。で、青蓮ちゃんが1歳になってすぐに姿を消した。その頃から黒孔雀って海外の犯罪組織が日本で暗躍し始めた…って言ったら察しがつくかしら」

「その黒孔雀のメンバーが美紗さんて訳か。あの人は確か」

南木さんがハンカチを取り出して額の汗を拭う。

「ロシア、日本、中国の混血って聞いたわ。ここにいた時はインテリアデザイナーをやってて、家具や雑貨の輸入販売もしてた。姿を消したのは、法律に引っかかる物を輸入してしまったから…っていうのが表向きの理由ね。美紗さんを探す中で、蓮人さんも行方が分からなくなってしまって…」

「青蓮の両親、まだ生きてる可能性があるのか?」

「その可能性はある。少なくとも美紗さんに関しては」

慎一郎の問いにレイさんが答える。

「黒孔雀ってのは強盗殺人、放火、監禁、何でもアリのタチが悪い組織だ。言われれば今野の殺害方法も奴らの常套手段だな…頭を一発で撃ち抜くのは」

「仮にその黒孔雀に青蓮の母親がいたとして、何で今野を殺す必要があったんだ?」

和馬が白菜の浅漬けをぽりぽり食べながら聞く。

「うちの仕事の邪魔をしてるのか、札辻と組んで裏社会を牛耳りたいのか…。でも反社や黒孔雀がそんな回りくどい事しないわよね」

レイさんも首を傾げる。

「ただ、美紗さんに関しては相当ヤバいって事は言っておくわ。あの人、私と文彦の武術の先生だから。二人がかりでも一度として勝てなかった。」

慎一郎と和馬が息を飲んだ。

「来日前の経歴は一切不明…だったっけ」

藤砂先生が入ってきた。

「文彦、もういいの?」

「青蓮ちゃんから大人の話してるから行ってこいって言われてね」

少しは休めたのか、慎一郎がいれたお茶を飲み干すと、ふうーっと一息ついて、空いてるところに座る。

「美紗さんの話してたんでしょ?それなら僕からも報告。

今日僕らをつけてた奴、あれ黒孔雀の下っ端だね。あの組織の連中はどこかに黒い孔雀の羽の刺青がある。さっきのやつも首の裏にあった。以前にも夜勤中にバッティングしたことがあるから間違いない」

お茶のおかわりを急須からついで、また飲み干すと、ふうっと息を吐いた。

「それと…。美紗さんを見た」

全員の顔色が変わった。

「…どこで」

「さっき店の前で。全然変わってなかったから直ぐに分かった。声掛けたら走って逃げられたし、追いかけたところで僕一人じゃ生きて戻れるか分からなかった」

藤砂先生は苦笑いのような顔で言う。

「俺ら、今日来たばかりだけど一回帰った方がいいのか」

和馬が尋ねると、レイさんは首を横に振った。

「2人の時に何かあった方が恐い。こういう時は固まってましょう。セキュリティも建物も頑丈にしてある。」

「色々不安かもしれんが、俺からもこの辺の見回りを強化するように言っとく。…いい時間だな、そろそろお暇するよ」

南木さんが席を立つ。慎一郎が車を出しに向かった。

「お疲れ様です。慎、今日は私の車使って。」

レイさんが車の鍵を慎一郎に渡す。

南木さんは「おやすみ」と言って、蓮華堂を後にした。

「蕾良は明日も大学あるのか?近くまで送るから」

「明日は一日研究室に籠るつもりだったけど…在宅でもいいから一緒にいるわ」

私の言葉に和馬は目をキラキラさせる。なんて分かりやすいんだろう。

「笠置さんの質問攻撃をかわしたいんでしょう」

藤砂先生が私の真の目的を見透かしたように言う。

「何で分かったんですか…」

「彼女、僕の後輩で元々園川教授のゼミにいたんですよ。途中から学部変更して、園川ゼミから石蕗ゼミに転籍になったんです。」

「昔からあんな感じなんですか」

「そうですねぇ、当時からあんまり好かれてはいなかったと思います。とりあえず明日はここで作業していいと思いますよ。資料はオンラインで取り出せますし、石蕗先生もその辺は緩い方なので」

私の所属する石蕗研究室はかなり緩い方なのだが、石蕗先生は曲がりなりにも日本の心理学研究の第一人者なので、私が帰国したのも先生に教えを乞う為だ。

アメリカで紹介状を書いてもらい、面談と筆記試験を経て今年から研究室に加わった。

その時から笠置さんは居たのだが、他の研究員にまず教えてもらったのが「笠置さんに余計なことは話さない」ことだったくらいには研究室内でも距離を置かれている。

優秀だが性格が残念な人はどこにでも居るらしい。

時計が22時を差した。

「ちょっと残ってる作業片付けてから寝ます。それとレイさん、見積の確認お願いします。」

園川教授の依頼にかかる見積と、笠置さんに邪魔をされて出来きらなかった所を少し進めたいので、2階の寝室に向かう。

「おやすみ、ライラちゃん」

「おやすみなさい」

「俺が風呂から上がるまでは起きててくれよ」

和馬が慌ててお風呂に向かう。

「御堂さん、和馬くんを大事にしてあげてくださいね」

からかい半分に言われたが、言われなくても分かっている。

「和馬は私が居ないと死んじゃうと思うので」

そう言って、私は2階に上がった。



用意された部屋に入ってパソコンを開くと、笠置さんからメールが入っていた。

「お疲れ様、明日よかったらお昼一緒に食べない?」

とひと言だけだったので、「申し訳ありませんが在宅作業なので」とだけ返した。

論文の資料をピックアップして見積もりをレイさんに送ったあと、下でもらったお茶を飲んでいると、和馬が部屋に来た。

今夜は肌寒いので納戸から布団を運んで、そのまま2人でベッドに寝転がる。普段ダブルのベッドで寝ていると、クイーンサイズはかなり大きい。

「美紗さんて人、センス良いよな」

「本当に。この部屋まるで高級ホテルみたい」

ベッドから部屋の隅々を見渡していると、不意に和馬が私を抱き寄せた。

「ちょっと、いきなりどうしたの」

思わず驚いて少し大きい声が出てしまった。

「正直、美紗さんの話を聞いて俺が感じたのは恐怖だった。

レイちゃんや文兄よりも強くて、やばい組織の一員かもしれないって考えたらさ…」

少し震える和馬の手を握って、体の向きを変える。

和馬の耳元に胸を近づけて抱き寄せると、ぎゅっと抱きついてきた。

「落ち着くまでこうしてるから、今夜はゆっくり休んで」

「ありがとう」

少し伸びかけのさらさらの髪を撫でていると、しばらくして和馬の寝息が聞こえ始めた。

私が眠りにつくまでにそう時間はかからなかった。



朝起きると和馬は既に起きて下に行っていた。

時計は8時、すっかり寝坊だ。

慌ててパソコンを起動すると、早くも笠置さんから返信が入っていた。

「残念、またの機会に。そしたら藤砂先生でも誘おうかな☆」

何か勘違いされていそうで、ますます会いたくなくなる。

石蕗研究室は体調不良時や災害発生時のほかに、週に3回までは在宅での作業が許可されているので、資料データ保管用のタブレットから色々と閲覧して論文を仕上げていく。

臨床試験の結果一覧や過去の論文もタブレットから取り出せるため、有難く活用している。

今日は定休日でバイトもないし、上手くいけばかなり進められるはずだ。

パパっと身支度を整えたところで、タイミング良く和馬が朝食を持ってきてくれた。

ロールパンに目玉焼き、フルーツがたくさん入ったヨーグルトと昨夜の残り野菜の蒸し物が載っている。

飲み物もコーヒーをポットで用意してくれているので、とても嬉しい。

「いただきます」

和馬と2人で朝食をとるのは久しぶりだ。

「どれも美味しい、和馬が作ってくれたの?」

「蒸し野菜はレイちゃん、ヨーグルトは青蓮、目玉焼きは俺。パンはさっき隣の店の焼きたてを買ってきた」

「お隣のパン初めて食べた」

「昼前には売り切れて閉めちゃうからな、俺も早番の時に買えるかどうかってとこだ」

ヨーグルトは底に蜂蜜もたくさん入っている。

「青蓮は糖分の量加減しないからな…甘すぎたらヨーグルト足すから」

「大丈夫、アメリカので慣れっこ」

確かに甘いがアメリカのヨーグルトに比べたらまだ平気だ。

コーヒーをいただいて2人で下に食器を運ぶと、慎一郎がコーヒーを飲みながらテレビを見ている。

「おはよう、慎一郎」

慎一郎は片手をあげて「おはよ」と返してきた。

彼も昨夜はここに泊まったのか、スウェット姿で髪には寝癖がついていて、食後で眠いのか大きな欠伸をしている。

「洗うものある?一緒に片付けるから」

ダイニングテーブルの上の食器を片付けようとしたところ、テレビからニュース速報の音がする。

「紅葉台大学の敷地内で女性が心肺停止」

テロップが流れてよく見知った大学の建物がテレビに映る。

「ここ、うちの研究室がある建物…」

何か嫌な予感がして、2階の部屋に行ってスマートフォンを取りに行く。

研究室のグループチャットに石蕗先生からメッセージが入っている。

「笠置さんが4号館から転落。詳細は確認中。今病院に向かってます」

すぐに倉庫にいるレイさんと藤砂先生に声をかける。

「南木さんに連絡した、これから情報集めて来てくれるって。とりあえず3人はここに待機。私はちょっとPCで作業するから、文彦は大学で情報集めて」

藤砂先生は無言で頷くと、すぐに大学に向かう。

それにしてもいくら苦手な人だからといって今朝メールが来てた人がそんな事になるなんて。急に力が入らなくなって、何とも言えない感情が込み上げてくる。

「慎一郎ごめん、片付け後でやる」

「無理しなくていい、部屋に戻ってろ。和馬、お前もそばに居てやれ」

慎一郎がテーブルの上の食器を流しに引いて、私たちの使った食器と合わせて洗い始めた。

「蕾良、大丈夫か…」

和馬と一緒に2階の部屋に戻る。

グループチャットにはひっきりなしにメッセージが入り、石蕗先生から笠置さんが亡くなったと連絡が入ると、「残念です」「お悔やみ申し上げます」の形式的な文字が並んだ。

取り急ぎ「お悔やみ申し上げます」とだけ送ったものの、気持ちはざわついたままだ。

隣に座っている和馬の太ももに頭をのせて横になる。

和馬は何も言わずに私の頭を撫でたり背中をさすってくれた。

しばらく経った頃、表玄関のインターホンが鳴る音がして、慎一郎と南木さんの声がする。

少しして部屋のドアをノックする音がした。

「蕾良、落ち着いてからでいいから下に来てくれ」

慎一郎の声だ。それだけ言うとすぐに下に降りていった。今度は階段を降りる音がする。

「あいつ相変わらず気配消すの天才だな」

和馬がボソッと言う。そこそこ古い建物なのに、階段を昇る音も廊下を歩く音も聞こえなかった。

グループチャットに石蕗先生から警察の事情聴取が順番にあるとメッセージが入った。

石蕗先生、准教授の神谷先生、助手さん2人、私を含めた研究員5人、ゼミ生と、かなり範囲が広い。

今日通学していない人は個別に連絡が入るので登録しておいて、と警察の電話番号が記載されている。

和馬と2人、下に降りると南木さんと慎一郎がテレビを見ていた。

「蕾良ちゃんおはよう、昨日に続いて大変なことで」

南木さんがお茶を飲みながら片手をあげる。

「おはようございます、朝からすみません」

「いやいいんだ、暇なじいさんだからな。それよりこのニュースの仏さん、蕾良ちゃんの知り合いなんだって?」

「同じ研究室の先輩です。昨夜ランチのお誘いがあったんですけど、お断りしたら今朝返信が…パソコン持ってきます!」

そうだ、今朝早い時間に笠置さんからメールが届いていた。

急いで2階の部屋からパソコンをダイニングに持ってきて、南木さんに確認してもらう。

「蕾良ちゃんが昨夜22時過ぎに送ったメールに6時30分に返信してる。随分早くから仕事熱心なことだ。ついでに文彦くんとも知り合いか。ホトケさん、顔が広いのかい」

「いえ、笠置さんは以前は薬学部で藤砂先生と同じ園川ゼミに在籍してその後で転籍したと聞いてます。かなり過干渉というか、人のことを詮索する癖があって…」

「そんな性分の人間がこのメールを送ってから自殺は考えにくいな。怨恨殺人の線もあるか…」

南木さんが煙草に火をつける。

テレビのニュースは既に別の話題になっていた。



藤砂先生が戻ったのは午後になってからだった。幾分疲れた様子でソファに座ってため息をつく。

レイさんはパソコンをプロジェクターに接続してスクリーンを用意すると、藤砂先生同様にため息をついた。

「この数日で色々起こりすぎて、頭も体も情報収集も追いつかないわね」

「ほんとに。そういえば笠置さん、メールに藤砂先生の名前打ち込んでたので、多分警察から何か聞かれるかも…」

藤砂先生は「えええ」と心底面倒くさそうにため息をつく。

「南木さんのコネでササッと終わらせて貰えません?」

「そりゃ構わないけど、担当刑事によるぞ。」

「僕ばっちりアリバイあるんですけど…」

その時私のスマートフォンが鳴った。警察だ。

電話の内容は事情聴取の日時の確認だった。藤砂先生も一緒にいること、南木さんも居ることを伝えると、すぐに蓮華堂に来てくれる事になった。

「南木さんの名前出したらめちゃめちゃびっくりしてましたけど…」

「そりゃ俺の昔の部下かな、ははは」

そう言うとお茶菓子を口に運んだ。



警察の事情聴取は30分程度で終わらせてくれた。

担当の若い警官が終始南木さんに緊張していて、肌寒い日なのに汗だくで帰って行った。

「あちこち大変だね、お疲れ様」

警官の帰り間際に南木さんはいつもの調子でニコニコしながら声をかけていたが、相手はずっと背筋を伸ばして恐縮していた。

笠置さんからのメールは印刷して渡したし、当日のアリバイは和馬と慎一郎、それに南木さんが証人になってくれたことで、藤砂先生のアリバイも無事に解決した。

「さっき連絡したら、園川先生も笠置さんが亡くなった事に驚いてましたよ。」

藤砂先生がお茶を一息に飲み干すと、大学で色々と聞いてきた事をおしえてくれた。

「現場や荷物の中、研究室やパソコンの中にも遺書のような物ははなくて、靴も履いたままだったそうです。指紋も本人以外のものは検出されてないとのことですが、手袋をしていたら無意味なので。ちなみに昨夜は学内に泊まっていたみたいで、研究室のソファで眠っていた形跡もありました。心理学部はそんなに忙しいものなんですか?」

「いえ、この時期はまだ後期の始まりですしそこまでは」

「そうですよね、彼女は講師でもないし」

「自殺に見せかけて…っていうのも黒孔雀の常套手段なんですか?」

南木さんに尋ねる。

「いや、奴らはそんな手が込んだ事はしない。…一応今日の現場の資料送ってもらうから、ちょっと待っててくれ」

そう言うと南木さんは電話を始めた。

「俺だ。今朝の紅葉台大学の転落死の現場写真データを送ってくれ…それと遺書は…やっぱり無しか、わかった」

電話を終えると煙草を燻らす。程なくしてレイさんのパソコンにデータが飛んできたようだ。

「ちょっとグロい画像があるから注意してくれよ。」

スクリーンに写真データが映る。

流石に遺体の写真はないが、事故現場は血まみれだった。

「死亡推定時刻は今朝7時から8時頃、第一発見者は朝練明けの空手部の連中だ。おそらく屋上から落ちたんだろうな、血の飛び散り方がかなり広い」

「朝早くから屋上にいたなんで、何してたんでしょうね」

どんどん疑問が湧いてきて収集が追いつかない。

「念のため仏さんは司法解剖と血液検査もしてもらってるが…。何せ顔が潰れてて判別がつかないから、DNA鑑定も並行して実施らしい」

想像してしまって、少し吐き気がする。

「笠置さんのスマートフォンはあったんですか?」

「壊れた状態で見つかったが、第三者の指紋は出なかった。手袋の繊維やレザー痕も今のところ未検出らしい。中のデータは解析してるが、派手に壊れてるからメッセージやら電話の履歴やらは通信会社に依頼して出してもらうしかない。相当時間かかるな」

レイさんが現場の写真をいくつかスクリーンに映す。

めちゃめちゃに画面が割れたスマートフォンや、笠置さんの愛用していたペンが近くに転がっていた。

ふと慎一郎が

「このペン、もしかしたら録音機能が付いてるやつかもしれない」

と言うと、チノパンのポケットからペンを取り出した。

「一見普通の3色ペンなんだが、赤は録音、青はストップ、黒が録音データの再生ができる。うちの御用達の電気屋が作ってるやつだから、市販はされてないんだけど…」

使い方を見せてくれた。音質はあまり良くはないものの、はっきりと声は分かる。

御用達の電気屋は「町野電気」というちょっとふざけた名前の店で、表向きは普通の電気屋だが、裏では盗聴器や超ミニカメラといった物を趣味で作っている。

「…もしかしたら何かデータが残ってるかもしれないな。急いで確認してもらう」

南木さんがまた電話で連絡をする。

「少し時間がかかると思うから、他に何か気づいたことがあれば…」

「笠置さんが何でこんなペンを」

私の疑問に対して、様々な回答が返ってくる。

「ストーカーか出歯亀根性」

「ゆすりたかりのネタ探し?」

慎一郎とレイさんが暴言を吐く。

「2人とも酷いなあ、笠置さんならさもありなんだけど。」

藤砂先生が慎一郎のペン型レコーダーをガチャガチャいじる。

「おそらく慎一郎の推測が一番近いかな。御堂さんに声をかけたのも、園川先生と一緒にいるのを見たからだと思います」

「どういう事でしょうか」

「笠置さんが学部を転籍したのは、園川先生への付きまとい行為が問題になったからなんですよ。ただ園川先生が大ごとにしたくないとして不問にした事や、彼女が非常に優秀な学生だったことも鑑みた結果、カウンセリング治療も兼ねて石蕗先生がゼミ生として引き取ってくれたんです。」

「ええ…」

園川教授は人格者で紳士なのは間違いないが、年齢が20歳以上も年上の妻帯者に横恋慕は正直気持ち悪い。

「石蕗先生のカウンセリングと学部も変わったことで大分落ち着いたのが、何かのきっかけで再燃しちゃったんですかね…」

藤砂先生がまたため息をつく。

「でも薬学部と心理学部の学部棟ってキャンパスの端と端ですよね。入る門も違いますし…」

薬学部と心理学部はそもそも講師室や学食のある建物を挟んで正反対にある上にキャンパスの敷地がかなり広く、各学部専用の建物がある造りなので、他学部の人間とすれ違うことは滅多にない。

「ただ、その話を聞くと、園川さんにも動機があったことになるな。一応アリバイ聞いておくか」

少しして、南木さんの電話が鳴った。

「録音データ、途切れ途切れだが残ってたそうだ。今から流してもらう」

南木さんがスマートフォンをスピーカーにする。

『…お前は……違い……る』

少し低い女性の声、おそらくロシア語のような外国語だ。

それを聞いたレイさんが声を出さないように口に手を当てる。

「美紗さんの声…」

藤砂先生も驚きを隠せていない。

録音の音声はまだ続いている。

『園…先生は……』

今度は笠置さんの声だ。こちらもロシア語を使っているが、音が途切れて肝心な所が聞こえない。

その後、ブツっという音がして、音声は終わった。

「益々意味が分からないな…何がどうなってやがる」

南木さんはタバコを深く吸う。

「念のため笠置さんの素性を洗いましょう。そもそも美紗さんとの接点もだし、優秀とはいえロシア語まで話せるのはなかなかいない。文彦、頼める?」

「学内なら僕が一番動きやすいからね、了解」

「慎は園川先生のお宅周りで怪しい人や車を見ていないか聞き込み、和馬は念のためロシア語教室を洗い出して、笠置さんの在籍確認してみてくれる?ライラちゃんは青蓮ちゃんが帰ってきたら買い物ついでにお使いをお願い」

レイさんは買い物のメモと、お使いの用事をサラサラと書いて渡してくれた。

「いつものスーパーと、ここは」

「青蓮ちゃんに連れて行ってもらって。ちょっと遠くて申し訳ないけど、タクシー使って構わないから」

異人街から少し離れた埠頭の倉庫だ。

車で10分程度のところにある。

「着いたら書いてある番号の箱を持ち帰ってもらえるかしら。」

レイさんは茶目っ気たっぷりにウインクする。

「蕾良が行くなら俺も…」

和馬が手を挙げるが、レイさんはそれを遮る。

「和馬は自分の仕事に集中する。南木さん、司法解剖の結果が分かったら教えてくださいね」

和馬は少し不服そうだが、ロシア語教室を調べると片っ端から電話をかけ始める。

異人街ということもあり、そこそこの件数がある。

慎一郎はバイクの鍵を取ると、そのまま出かけた。

「ただいまー」

慎一郎と入れ違いに勝手口から青蓮が帰ってきた。

「おかえりなさい」

「今そこで慎ちゃんと会った!和馬くんも電話してるし、動き始めた?」

青蓮は流しで手を洗いながらレイさんに尋ねる。

「そうよ、青蓮ちゃんもお使いあるからライラちゃんと出かけて」

「帰って早々に人使いが荒いなー、スーパーと倉庫だね」

青蓮はそう言うとカバンからハンカチを出して手を拭いて、2階に上がる。

「らいらちゃん待ってて、着替えてくる」

そう言ってから1分と経たずに降りてきた。

ライトグレーのオーバーサイズのトップスに黒のショートパンツとニーハイソックスで、今どきの女子高生のような格好だ。

いつものダサいスウェットやレイさんの趣味が反映された接客時の洋服とは感じが違う。

「こないだ買ったスニーカー履く!らいらちゃん行こう」

そう言うと表玄関から厚底のスニーカーを持ってくる。

「気をつけてね。青蓮ちゃんは何かあったらライラちゃんを守ってあげて」

「だいじょーぶだいじょーぶ、任せて!」

青蓮はそう言うと財布とスマートフォンを通学カバンから取り出してリュックサックに入れた。



スーパーで食料品を買い込み、タクシーを捕まえて埠頭に向かう。タクシーはそのまま待ってもらい、倉庫街の中を進むと、青蓮は鍵を開けて中に入ると、中からも鍵をした。

コンテナ1つ分程度の広さの倉庫には、段ボール箱が沢山並んでいた。

他にも洋服やバッグ、灯油の缶やセメントの粉もある。

「ここは…」

「うちに置ききれない荷物だよ、夜勤の依頼受けた時に必要なものを取りに来るの。今回は4番と5番と7番、それと36番か…ライラちゃん、7番取ってくれる?」

7番の箱は脚立に昇らないと届かない場所にあった。

脚立を上がって少しだけ重い箱を取る。

「取ったら下に投げてー」

言われた通り、7番と書かれた箱を青蓮に向かって投げると、ガチャン!と音がした。

「大丈夫?」

「平気だよー」

いつもの軽い口調で返してくる。

倉庫の隅にある台車でタクシーまで荷物を運び、また台車を戻して鍵をすると、青蓮は倉庫の上を睨む。

「どうしたの?」

「先に帰って。あと、レイちゃんと南木さんに連絡しておいてくれるかな?」

青蓮はそう言うと、タクシーとは反対側に走り出した。

刹那、倉庫の屋根の上から青蓮を追いかける人影が見えた。

驚いている場合ではない、急いでレイさんに連絡しないと…スマートフォンを取り出しそうとした瞬間。

「動かないでね、お嬢さん」

背後から声がして、背中に金属の質感を感じる。少しロシア訛りのある英語だ。

両手を上げると、声の主は私のポケットからスマートフォンを取り出して、遠くに投げる。

「あのスマホケースお気に入りなの、大事に扱って」

日本語で返す。なるべく声が震えないように力を入れる。さっき南木さんが聞かせてくれた声の人だ。

「あら失礼。貴女に危害を加えるつもりはないから、安心して」

今度は流暢な日本語を操る。耳元で睦言を囁くような、甘い声。この状況が楽しくて仕方がないような狂気を孕んでいる。

「あなたの娘さんはさっき別の方向に行きましたよ」

「あら、もう私の事調べてたのね」

声の主…美紗さんは嬉しそうに囁く。

「どうしてこんな事を…」

なるべく時間を稼いでゆっくり色々と質問をする。

「それを話しても、ねえ」

「笠置さんを殺したの、あなたですか?」

「…うふふ、どうかしら」

うまくはぐらかされる。

「何で青蓮を追いかけないんですか?」

「生憎あの子に会う訳にはいかないの。だから貴女にお願いしにきたわけ。」

「お願いというより、断ったら体に風穴が空くんじゃないですか」

嫌な汗が背中をつたう。

「それに私、夜勤には関わらないって契約で蓮華堂で働いてるんですけど」

「あら、そうなの?「娘」と一緒にいたからてっきり。まぁいいわ、お願いは2つ。まずは私の写真を全て処分すること。当然データとして保存するのも禁止。それから、青蓮…娘をこの仕事から解放して。」

「え…」

私が何故?と聞こうとした時、バイクが近づいてくる音がして、美紗さんが呻き声をあげて(うずくま)った。

「蕾良ーーー!!無事かーー!!!」

和馬の絶叫が聞こえた。バイクから降りてものすごい速さで駆け寄ってくると、美紗さんの落とした銃を蹴り、遠くに飛ばす。

後にも先にもあんなに悲壮感が溢れた顔は見たことがない。

「和馬…和馬!!」

思わず名前を叫ぶ。美紗さんはまだ動けない。脚から血が流れている。

急いで和馬の元に走ると、ものすごい力で抱きしめられた。

「よかった…痛いところとか…怪我はないか、もうすぐ文兄が来る…からっ」

泣きじゃくって声が出ない和馬を抱きしめ返す。

「大丈夫よ、ありがとう…」

私も声が出ない代わりに涙が止まらない。和馬に心配ばかりかけて、情けなさと申し訳なさで苦しい。

「和馬くん、御堂さん、あとは僕に任せて2人は先に帰って」

和馬の背後から藤砂先生の声がした。

「文彦…また会ったわね」

美紗さんが漸く立ち上がるが、脚がガクガク震えている。

手には血のついたダーツの矢を持っている。さっき和馬が投げたものだ。

初めて美紗さんの顔が見えた。写真で見たとおり、冷たさをたたえた美女だ。とても40歳を過ぎているとは思えない程若々しく、青蓮の姉と言われても遜色ない。

真っ黒なロングワンピースからのぞく白い胸元に黒い孔雀の羽根のタトゥーが見える。

「さっき和馬くんがあなたの脚に撃ち込んだダーツの矢、痺れ薬がたっぷりついてるんです。それにちょっとだけカエンタケの毒もついてますから、早く病院に行かないと大変な事になりますよ。あなたとは出来ればやり合いたくないので」

ほどなく車が近づいてきたので、藤砂先生は私たちを車に乗せると、美紗さんに投げられたスマートフォンを回収して渡してくれた。

「少し聞きたいことを聞いたら僕はバイクで帰ります」

そう言うとドアを閉めた。

「行くぞ。舌噛むから、今は喋るな」

運転席から慎一郎の声がして、猛スピードで走り出した。



帰りの車中、和馬はずっと私の肩を抱いたままだった。

私もずっと彼の手を握りしめていた。

「…無事でよかったけどな。お前らいつまでそうしてるんだ。」

慎一郎が気まずそうに話しかけてきた。

「ごめんなさい…」

謝る私に慎一郎は「とにかく怪我がなくてよかった」と言ってくれた。

また涙が出てきてしまう。

「ごめんなさい…ありがとう」

「慎一郎てめえ、蕾良を泣かせるな!」

さっきまで泣いてた和馬が怒り出す。

「和馬…ありがとう。本当に…恐かったから」

ほっとして、つい本音が出てしまった。

「蕾良…」

和馬がまた泣きそうな顔で私を見つめる。

「泣かないで…お願い。」

慌てて涙を引っ込める和馬が可愛い。

「あと青蓮は無事だ、タクシーで荷物を持ち帰って蕾良の状況を教えてくれた。あいつも家でわんわん泣いてた。私のせいでらいらちゃんを危ない目に遭わせたーって」

「青蓮まで泣かせちゃったのね」

程なくして蓮華堂に到着すると、慎一郎は店の前で私たちを降ろした。

「夜勤用の出入口から入ってくれ。今夜はこの辺は警察が見回りしてくれてるから多少は安心だ」

そういえば今日は警察官が数人店の周りを歩いている。

パトカーも何台もすれ違った。

南木さんのお陰だろうか。


夜勤用の出入口は初めて使った。

表庭の一角にある睡蓮の鉢をずらすと人が1人通れるくらいの階段が現れて、数秒後に自動で閉まるようになっている。そこを下ってまた上がると、蓮華堂の中庭に出る仕組みだ。和馬はスマートフォンのライトをつけて足元を照らしてくれた。

「ここは去年作ったばかりだから、美紗さんも知らないはずだ」

和馬が私の手を引きながら言う。

中庭の窓からいつものダイニングに入ると、青蓮とレイさんが両サイドから抱きついてきた。2人とも泣いている。

「ごめんねええええ、らいらちゃん!!私のせいで!怪我してない!?大丈夫??」

青蓮の鼻水が私のカーディガンの袖にべったりついた。

「青蓮、泣かないで。大丈夫だから…鼻かんで」

レイさんも「ごめんなさいごめんなさい」と言いながら泣いてしまった。

「怖い思いをさせてしまって…。怪我はしてない?あなたに何かあったらってそればかり考えて…よかった…」

レイさんの涙が私の頬にも流れてくる。

「大丈夫です…恐かったけど、和馬も先生も、慎一郎も来てくれたから。それに青蓮が知らせてくれなかったら、今ここにはいなかったかもしれないし」

右手で青蓮の綺麗な髪を撫でて、左手でレイさんの背中をさする。

「私を追いかけてきた奴は適当にのしておいたんだけどね、まさからいらちゃんに…うえええん」

また青蓮が泣き出してしまった。泣きすぎて目が真っ赤になっている。

「みんな泣きすぎだろ…なんだこの光景」

慎一郎が勝手口から戻ってきて、引き気味につぶやく。

和馬もまた泣いてるし、私も泣いてるし、レイさんと青蓮も泣いている。確かにちょっと異様な光景かもしれない。

「今夜も俺が飯作るから。食材、適当に使うぞ」

そう言うと例のダサいエプロンをつけて、料理を始める。

「ライラちゃん、とりあえずお風呂入ってきて。疲れてるし恐い目に遭ったのに、色々と聞かせてもらわないといけないから。みんなも、進捗状況教えて」

「レイ、明日でもいいだろ」

珍しく慎一郎が口を挟む。

「…ごめんなさい、気が早ってしまって」

「大丈夫です、後で何があったかお話します。」

ただ、青蓮にも伝えていいのか。パンパンに腫れた目でまだ泣きじゃくる青蓮を抱きしめて、背中をさすった。

脱衣所までついてきた和馬を締め出して、なんとかドアの外で待ってもらう。流石に恥ずかしい。

お風呂から出て、待ち構えていた和馬と一緒にダイニングに戻る。

藤砂先生も戻っていた。

「文兄、無事!?」

和馬が駆け寄る。

「僕は大丈夫。ちょっとやり合ったけど…。慎一郎が警察呼んでおいてくれて助かったよ。美紗さんは少し毒が回ってたから、救急車呼んで病院に連れてってもらった。警察の人が同乗してくれたから、帰ってきたんだ。…僕の質問には何も答えてくれなかった」

藤砂先生の目に疲労と悔しそうな色が滲む。

「御堂さん、本当に…無事で何よりです。恐い思いをさせてしまって、和馬くんにも申し訳ない。」

職場の先輩に深々と頭を下げてくる。

「いえ、皆が助けてくれたおかげでこうして戻ってきて、お風呂もご飯も用意してもらって…」

少し気が緩んでまた涙ぐんでしまう。

「私、皆さんのこと大好きです。だから引き続きここで働かせてください」

「らいらぢゃああああん」

青蓮がまだ泣きながら抱きついてくる。

レイさんまでまた泣き出してしまった。

「おい、泣いてたら飯の味が分からなくなるぞ。青蓮とレイは早く風呂入ってこい。和馬と文彦も、汗臭いからシャワーブース使えよ」

慎一郎が若干うんざりした顔で炊飯器2つにスイッチを入れる。

「お前、空気読めよ」

和馬が涙ぐんだ顔でつっこむ。

「慎一郎だって嬉しいくせに。今日は随分なご馳走じゃないか」

藤砂先生がふふんと慎一郎の頬をつんつんする。

「文彦、うるさい」

そう言う慎一郎の顔は少し赤かった。

皆がお風呂に入っている間に慎一郎の手伝いをする。

あまり料理は得意ではないが、慎一郎の指示が的確なので、作業がさくさくと進む。

「手際いいのね、さすが」

「口はいいから手を動かせ。鶏肉の皮にフォークで満遍なく穴開けて、塩ふっておいてくれ」

言われた通りに手を動かす。

「ねえ慎一郎。美紗さんにお願いされたこと、青蓮に伝えてもいいかな」

レイさんよりも先に慎一郎に相談する。

今は彼が一番冷静だ。

慎一郎は少し考えて、「俺なら」と前置きしたうえで、「青蓮にも伝えるべきだと思う」と言った。

「私もそう思う。レイさんは嫌がるかもしれないけど」

慎一郎は鶏肉にキッチンペーパーをかぶせて、「次は…」と新しい指示を出す。

慎一郎は藤砂先生が言った通り、たくさんおかずを作ってくれた。

皮をパリパリに焼いた鶏肉のソテーに綺麗に素揚げした野菜の付け合せ、大根と豆腐の味噌汁をサッと作り、エビとブロッコリーのサラダに箸休めのきゅうりの浅漬け、キノコのマリネ、大学芋もある。

全員で食卓を囲んでご飯を食べるのが当たり前だと思っていた。けれど、今日のような事がまたあったら…。

悪いことはあまり考えないように、ご飯を口にはこぶ。

どれも美味しくて、ついついたくさん食べてしまった。

ここにいると、体重管理が大変だ。

藤砂先生はきゅうりの浅漬けを、「慎一郎、この浅漬け美味しいね」と言って大量に食べていた。



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