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7 好きな人に手酷く裏切られました

「ジェスター様……嘘ですよね? ご友人方はあなたが私に薬を盛ったと言うのです。しかも私を好きにしていいと言われたんだとか」


 長椅子の婚約者を見上げ、ミリアは意を決したように息を吸うと震える小さな声で確かめるようにした。

 菫色の瞳にはどうか否定してほしいとの心からの懇願が込められている。

 極限の緊張に、ミリアは自分の呼吸がやけに乱れて息苦しいような心地がしている。過呼吸になりそうだった。

 お願いどうか、と一際強く願った時、ジェスターが口を開いた。


「ああ、その通りだ」

「やはり嘘で…………え?」

「何故訊き返す、そうだと言った。二度も言わせるな」


 愕然と表情を固まらせるミリアを見下ろして、彼はいつものような素っ気なさで答えた。


 ミリアの心の奥に小さな亀裂が入った瞬間だった。


「ど、どうしてそのようなご冗談を……」

「冗談? 君にはそう聞こえるのか?」

「…………」


 ミリアは一度唇をぎゅっと噛んでから解放した。


「何故、このような真似を?」

「俺には君と結婚する気はないからだ。何度言っても聞かないから強硬手段を取ったというわけだ。まあ、かと言って変な男に行かれてもこちらの評判にも関わるからな、だから君に釣り合う者たちに来てもらった。安心しろ。どちらを選んでも隣室の彼らは申し分のない家柄の者たちだ。その気があれば婚約でも結婚でもするといい」


 絶句するミリアへと、ジェスターは揶揄(やゆ)するように口角を引き上げる。


「今の俺のように君は君で俺じゃない男と好きに楽しめばいい。さあほらさっさと隣の部屋に戻れ。二人も心待ちにしているぞ。心配せずとも今夜の事は他言しない」


 彼は女性の肩を抱き寄せて、その色素の薄い茶色い長い髪を指で弄ぶ。女性が擽ったそうに小さく笑って彼の首元にキスをした。


 ――やめて!


 劣情を伴ってジェスターが女に触れている……触れられるのだと思えば許せなかった。自分には一度だってそのような意味合いで手を触れてこなかったのに、と。

 煮えくり返るような殺意が湧く。彼が触れた部分の女の体を抉り取ってしまいたいとも。激しく燃え上がった嫉妬が暴虐的感情と共に爆発しそうになってすぐにでも制止を叫びたかったのに、しかし急激に萎んでいく。

 しかと悟った彼の意思に、何をどうしようと変わらないと悟ったからだ。

 深く強烈な無力感と潔い諦念。

 それは言い換えればある種の絶望とも言えた。


「他の殿方を無理やり宛がう程に、そこまで私と一緒に居たくないと……?」

「今まで散々突き放してきたから理解はしているだろう?」

「ジェスター様は、その方がお好きなのですか?」

「好きでもない女など傍に置くか?」

「……そう、ですよね。ですが、今まで全然知りませんでした」

「君に邪魔されないよう、慎重に逢瀬を重ねていたからな」

「……なるほど」


 ジェスターがどこを触ったのか、女性が嬌声を発して赤い唇に優越の弧を描く。


「これで懲りただろう? これ以上俺に面倒をかけるな」

「ジェスター様……」


 ミリアも一般的な意見は持ち合わせている。

 だから、これも自分たちではない男女二人の上に起きた事だと考えれば、脈なしでとっくにその女は振られているのだと理解できる。

 しかし、他者の事であれば容易に納得できるものも自分とジェスターの間ではそう考えるのは甚だ難しかった。人間自身の望まない身の上は受け入れずらい。

 命を救われ本心から運命だと思っていたので尚更だ。

 ずるずると恋慕の念を引き摺ってきたのはそのせいだ。


「あなたはずっと私をそんな風に思っていたのですね……」

「ああ。――俺は君が好きではない」


 まるで氷が割れるように、彼への想いに幾筋もの大きな亀裂が走っていく。


(ああ、私はまた大事な人を……)


 いや、彼の場合、最初からミリアの手の中になどなかったのだ。


 だから、この仕打ちなのだ。

 だから、この言い様なのだ。

 だから、微塵も情など感じられない眼差しなのだ。


 途轍(とてつ)もなく、ただただ悲しかった。


 この世の不条理が刃となって、とうとうふつりと何か大事なものの糸を切る。


 その糸は、ヒビが入ろうと砕けようと、今の今までぐるぐると包帯のようにミリアの恋心を包み込んでいた。

 だからジェスターへの想いは揺らがなかった。

 その糸が切れて緩み、解け、本当はもう砕けていた中身が空からの崩落のようにバラバラと心の水面に落ち無数の波紋を刻んだ。


 直前まで感じていた嫉妬すらも消失していく。


 ポタリと、座り込んだ彼女の手の甲に、何かが落ちてきた。


 両目の奥が痛んで熱くなって、目の乾きが取れる。


 久しく経験していなかったこの感覚は果たして何だったろうと自分でも疑問に思い、頬に手を持って行けば、指先が生温い水滴に濡れた。


(私……泣いて……?)


 認識すれば納得した。


 何故なら視界が潤んで像が定まらない。


(泣くなんて、嫌ですね。恥ずかしい)


 これ以上の醜態を晒したくなかった。

 ギュッと両目を瞑って一時的に涙を押し出して、ミリアはふらりと立ち上がった。

 俯いたままの口元に、無意識が力ない笑みを刷く。

 薬のせいで幽鬼のように覚束ない足取りで部屋の出口へと向かった。

 扉の前まで来た所で、黙っていたジェスターが硬い声を掛けてくる。


「婚約はどうする?」

「……お気持ちはわかりましたから、どうぞジェスター様のお好きなように破棄でも何でもなさって下さい」


 抑揚のない、掠れた鼻声だけを残してミリアは静かに部屋を出た。

 当然彼は追いかけてきてはくれない。


(わかり切っている事ですね)


 部屋を出た直後だと言うのに、相手の女性の顔なんて丸きり覚えてもいない。

 しかし誰が相手だとかそんなものは追究するだけ無意味だ。

 こんな裏切り、心が砕けるには十分だ。

 ポタポタポタと顎の先から涙が滴るも、ミリアには涙を拭う気力すらない。

 感情が一杯一杯でそこまで気が回らないと言った方が正しいかもしれない。


 ミリアの恋は最悪な形で幕引きを迎えた。


 誰もいないと余計に厳かな雰囲気を醸す豪華な廊下には幸い見覚えがあり、ミリアはここはまだマスタード家の屋敷だとわかった。きっと家から乗ってきた馬車もまだいるに違いない。長々と待たせてしまい御者には申し訳ないと思いつつも、彼女は馬車には乗らないつもりだった。


(こんな顔、今は誰にも見られたくありませんし、見せたら心配を掛けてしまいます)


 よくこの屋敷に出入りしていたおかげで勝手知ったる造りだったのは幸いだった。重い体を引き摺って裏口から外に出る。

 廊下で誰にも会わなかったのは、とっくに婚約式とそれに連なる一切は終わっていて招待客たちが帰路に就いていたからだろう。

 マスタード家の侯爵夫妻もきっと就寝している。今夜最後の挨拶は出来ないが、かえって良かったかもしれない。


(お父様たちが来なかったのを怒っていらっしゃるかもしれませんしね)


 しかしそれも最早気にした所で詮無い。


 全てはミリアにとって最も望まない形で進んでしまった。


 隠れるように歩いた庭先の夜気は少し肌寒く、裏門から出た後は街路の道行く人々に不審がられないよう一応身だしなみを整えて、努めて平気な顔を装って歩いた。

 運悪く知り合いに会わなければいい。

 早く誰の目もない場所に閉じこもりたかった。

 薬で力の抜けそうになる足を叱咤してなるべく急いで歩いてはみたけれど、我慢していた気持ちは家の近くに来た気の緩みから言う事を利かなくて、人目に付かないように細い路地に入って壁に背を預けギュッと目を閉じた。

 目の奥からまた溢れ出るものがあって、それは強く閉じている瞼の隙間から容易に滲み出してくる。

 俯くまつげを伝って離れた滴は、暗い石畳にポタポタと落下して染みを作った。


「……ふ、うぅ……っ、どう、して……っ」


 詰る語気を向けた相手はジェスターだけではない。


 今はこの世の全部が恨めしい。


 色々な感情がゴチャゴチャと混ざり合って心を揺さぶった。


「お父様、お母さま、本当にどこにいるのですか……?」


 まるで自分が寄る辺のない幼子になったようだった。

 優しい両親に甘えたかった。縋りたかった。


 しかし、二人はいない。


 無事なのか、いや無事でいて欲しいと強く願う。


 前日、執事から齎された報せは、婚約式の日までには戻ると言っていた両親の馬車が吸血鬼に襲われ、二人の行方がわからないというものだった。


 執事は怪我を負ったが幸運にも逃げ出して助けを呼びに行ったものの、人を連れて現場に戻った時には二人の姿はどこにもなかったという。

 そして忠義にも執事はその怪我をろくに手当てもせず、ミリアに報せに戻ってきた。彼の顔色が悪かったのは何も精神的な打撃だけではなかったのだ。今は屋敷で安静にさせている。

 昨日は執事には無理をしてもらってミリアもその日のうちに襲撃現場に向かったが、悔しくも両親の手掛かりはなく、夜になっても二人の行方は杳として知れなかった。

 襲われたらしき痕跡も綺麗さっぱりなかったので、証拠もない段階では警察も動くに動けない始末。


 本当はそのままずっと捜し続けたかったが、翌日は婚約披露パーティーだったから後ろ髪を引かれる思いで街まで戻ったのだ。


 おめでたい日なので両親の事は伏せミリアは式に出た。終わってお客たちが帰り次第ジェスターにも侯爵夫妻にも告げるつもりでいたのだ。


 その結果がこれだが……。


 笑えないのに、心底笑えた。

 自分も一緒に出掛けていればまた違った結末だったかもしれない。

 両親と共に吸血鬼に襲われていれば、もしかしたらジェスターに振られる経験をする必要さえなかったのかもしれない。

 日程的にギリギリだったので、婚約式の主役が無理をするなと両親はミリアを気遣ってくれたから、彼女は街から出なかったのだ。


「こんな事なら、一緒に行けば良かった……」


 しばし路地の上に小さな嗚咽が零れ続けた。


「こんな顔で帰ったら、執事にも心配をかけてしまいますよね」


 現在ミリアが祖父程に年の離れた彼にしてやれる事は、傷に障らないよう彼にこれ以上心労を掛けない事だろう。

 顔の赤みが引くまでもう少し、夜の街中に滞在するしかなさそうだった。


 そういうわけで、この場でただ無為に時間を潰すか、今いる場所から移動するかで悩んでいると、路地の奥から争うような声が聞こえてきた。


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