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4 好きな人に救われました

 双方相当の力を込めているのがわかる筋肉の痙攣を伴って、しばしその場から動かなかったが、徐々にジェスターが僅かずつ押され始めた。

 牙の歯止めとして押さえはしたが、それ以後の純粋な力比べではただの人間には分が悪いのだ。


(また、ジェスター様に助けられました)


 感動にも似た想いで頑張ってとミリアは彼の背中に心で叫んだ。

 更には、勝利を願う必死さが彼女にただ見守るだけを許さない。


(だって何もしなければ、何も変わりません!)


「――私はッ、こっちよッ!」


 出来る事は何かと考えて、力の抜けていた足を叱咤して駆け出して、声を張る。


 案の定吸血鬼は獲物と定めたミリアの方へと意識を逸らした。


 それが、彼女が作り出した絶好の隙。


 その隙を突いてきっと彼は引き金を引くだろうと信じた。


 吸血鬼は恐ろしい程の跳躍を見せてミリアとの距離を詰める。

 もっと距離を取ろうとしたがまたもや足が縺れて無様に尻もちをついてしまった。

 大きく開けられた赤黒い口腔と濁った黄色い牙があと三歩、あと半歩、あと一指分でミリアに至る。


「――今ですジェスター様ッ」


(私の英雄、私の神様、お願いです!)


 祈るようにギュッと目を瞑った。

 刹那、鼓膜を劈くような発砲音がしたかと思えば、吸血鬼の体が一度跳ねた。

 被弾したのだ。

 着弾した瞬間から異形の化物は塵になって空気に溶けて消えて行く。


 吸血鬼を瞬時に死に絶えさせるなど、銀の弾丸以外にない。


 ハンターたる彼が狙いを過たず吸血鬼の心臓を撃ってくれたのだ。


「――ッハ、ハアッ、終わったか」


 ジェスターは弾丸を打ち出した後の構えを解いて、それまでの体力消耗を物語るように大きく肩で息を切らしている。


(助かった……のですね)


 それくらいはミリアの呆然とした頭でもさすがに理解できた。


「ジ、ジェスター様……」


 ミリアはミリアで今度こそ腰が抜けて咽がつっかえて、それ以上の、例えば感謝の言葉も出て来ない。

 剥かれた牙の何と鋭かった事か。

 理性もなく醜く歪められ赤く底光りする双眸の、何とおぞましかった事か。


(とてもとても怖かった)


 今更ながら冷汗が噴き出して、ミリアは蒼白な顔で震えた。


 しかし彼女は涙だけは流さなかった。


 どれほど怖くても何故か泣く気にはならないのだ。


 ミリアが人前で泣いたのは、小さい頃に転んで怪我をして痛い思いをした時くらいだった。あの頃は感情もまだ不安定で泣くのは簡単だったのかもしれない。


 普段から彼女は全く泣かないので、彼女自身泣く事自体に恥じ入るようなものを感じてもいるのは否めない。


 とは言え、彼女がこの場で泣き喚いても、きっとジェスターも責めなかっただろう。


「噛まれていないだろうな?」

「あ、はい。何とか……」

「ならいい」


 吸血鬼の牙は尋常でなく鋭い。

 噛み付かれて太い血管を損傷でもしていたら、体中の血を啜られなくても出血多量でどうなるかは明白だ。


 吸血鬼の中には、人間を吸血鬼に変える牙を持つ者もいるが、理性を失った下等な吸血鬼はその牙を持たない。


 故にその点での心配はなかった。


「無事なら早く立て」

「あ、はい」


 ジェスターは手を貸してくれるでもなく傍に佇んでミリアを見下ろしているので、彼女は自力で立ち上がるしかなかった。ふら付くのを何とか堪える。


「その……、遅くなりましたが、助けに入って下さりありがとうございました」


 深々と頭を下げた所で彼は唾棄するように荒っぽく息を吐き出した。


「ああくそ、本当にもういい加減にしろ。誰かに尾行されているのは気付いていたが、よりにもよって君か。わざわざ撒いたのが無駄だった」


 どうやらミリアが見失ったのは勘付いた彼らに撒かれたからだったらしい。


「何故危険に自ら首を突っ込んだ? 危険だとわかっているだろうに。大体襲われるのは何度目だ? 死にたいのか? 全く愚かとしか言いようがない」

「少しでも長くジェスター様と一緒にいたくて……」

「そんな事のために?」

「そんな事ではありません。私には切実です」

「それで命を失くしても?」

「それは……」


 と、ミリアはここで自身の肩掛け鞄の底がじわりと何かで湿っているのに気付いた。手をやればべたつく液体が染みている。


「あ……蜂蜜レモンの瓶が割れて……」

「蜂蜜レモン? 何故そんな役に立たない物を持参した?」


 ミリアは少し躊躇するように言い淀んだが、持ってきた目的を正直に話した。

 ジェスターは彼女の不純な思惑を知って心底迷惑そうにする。


「ハッ、その結果がこれか? 俺たちに手間を掛けさせるな。君の下らない行いのためにもしも君に何かあれば、我がマスタード家やハンター側の落ち度となるんだぞ。その迷惑を考えた事はあるのか? え?」

「そ、そんなつもりは……。それに、それだけではなくて、本当にジェスター様が心配だったという気持ちも……」

「心配、だと?」


 彼は聞いた事もないような単語を耳にした人のように何とも言えない表情を作ると、次に頬を歪めた。


「それこそ余計な世話だ。自分で自分の身も護れない者に心配される程俺が未熟だと言うのか?」

「い、いえ、そんなつもりでもなくて……!」

「もう惨めったらしい言い訳は不要だ。命を粗末にするも同然の、自らの力量と分を弁えない愚者の言葉など、微塵も必要ない。むしろこの場では存在ごと邪魔だ!」

「……ッ」


 吸血鬼の牙よりも鋭い言葉と激しい怒りを内包した冷たい眼差しをぶつけられて、ミリアは身が竦んだ。


 吸血鬼に襲われるのとはまた違った動悸と硬直が全身を苛む。


「わかったなら今後は一切任務に付いて来ようとするな。君は足手纏いでしかない」


 彼の怒りは正当だ。叱責と非難は間違えようもなくその通りで、ミリアは項垂れた。


「わかり、ました。今夜は本当にごめんなさい」


 助けてもらった胸の高鳴り、憤怒された悄然と、それでも全然諦め切れない想い。


 鞄の底からとうとう地面に滴り落ちる、甘くて酸っぱくてべたつく、最早何の役にも立たない滴がミリア自身のようだった。

 彼女の謝罪には彼からうんともすんとも返らず、次にどう動けばいいのかもわからない。居た堪れなくなって気を紛らわすように鞄の中味をどうにか整理した。

 そうしていたら、彼のハンター仲間が駆け付けて、ジェスターは対象の討伐完了を報告しにミリアから離れていった。


(ああそうですよね。お仲間の方と任務なのですものね。私は私で帰らないと……)


 ジェスターの仲間二人がちょうどミリアの方を見たので、軽く会釈をしてからゆっくりと踵を返し、のろのろと歩き出す。少し歩いた時だった。


「おい、どこへ行く。帰るぞ」


 肩を落とした背中にそんな言葉が掛かった。


「え……?」

「送って行く。吸血鬼が出なくとも令嬢の深夜の一人歩きは物騒だからな。暴漢にでも襲われたら君のご両親に合わせる顔がない」


 言葉通りの義務感からかジェスターはわざわざ馬車を呼んでミリアを家まで送り届けてくれた。

 けれど、馬車の中は終始無言。

 ミリアは心から反省していた。さっきはミリアのせいで彼が負傷しかねなかった。危うい場面を招いた後悔は深い。


「ミリア、本当に無謀な真似はやめろ。俺たちハンターといる人間は吸血鬼に目を付けられ易いからな。余計な面倒を増やさないでくれ。それをゆめゆめ忘れるな」

「う、はい……」


 萎れた花のように俯くミリアをフォースター家の門前に置いて、ジェスターを乗せた馬車は夜の王都の街を走り去って行く。


「はあ……すっかりべとべとですね」


 律儀にも見送って馬車が見えなくなった頃、今夜は散々だったとミリアはだいぶ染みた鞄を手に提げ、とぼとぼと門を入ったのだった。

 因みに、玄関を入った先には仁王立ちする両親がいて、ミリアは夜歩きを見つかってこってり絞られた。





 ――吸血鬼に目を付けられる。


 ジェスターの注意は彼本人もそこまで深刻には捉えていなかった。


 それは言われたミリアの方もそうだ。


 しかし、日常的に吸血鬼ハンターの青年の周囲をうろちょろしていた少女の存在に、吸血鬼たちの興味が向くのは、何も不思議な事ではない。


「……ふうん、任務にまで一緒に付いてきただなんて、物好きな娘ね。あの冷血漢やその一族には煮え湯ばかり飲まされているし、その人間の娘を少し調べてみようかしら。もしも奴の弱点になるなら儲けものだしね。どうせお兄様はまだここに来ないし、暇潰しにちょうどいいわ」


 使い魔の蝙蝠(こうもり)からの報告に、暗闇に響く少女の可愛らしい声が禍々しくも甘い余韻を残す。

 赤々とした異形の双眸が猫の目のように細められ、そのまま漆黒に紛れた。


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