3 好きな人を尾行しました
この日も、青天の王都の目抜き通りを行く揺れる馬車内で、ジェスターは不機嫌丸出しに腕組みをして、対面に腰かけているミリアをじろりと睨んだ。
「君は実にしつこく、図々しい。そして空気を読まない。もしも意に添わない相手から自分がそうされたらどう思う? 甚だ迷惑だと思うだろう? もっと人の気持ちを考えろ」
「ジェスター様からなら大歓迎です。愛の鞭ですものね!」
「……このくそアマ」
ジェスターが礼儀正しい貴族令息らしからぬ呟きを口にこめかみに青筋を立てる。明らかにピリリとした空気が馬車内に流れた。
眉間のしわが深くなっているし彼が更に苛立ったのは明白だ。
ジェスター・マスタードはこう言ったふざけた相手は基本的に相手にしない。一緒にいない。馬車に同乗など彼の心情的にもってのほかだ。
だがしかし彼の意に反して現在この馬車内には彼の神経を逆撫でしかしない相手、ミリア・フォースターがどういうわけか同乗している。
彼女は招かれた茶会を終えて帰路に就くジェスターが馬車に乗り込みいざ出発しようとした矢先、どこに潜んでいたのか馬車に強引に乗り込んできたのだ。
御者は仰天したがジェスターは予想していたせいか平静そのもの。微かにこめかみに青筋を立てつつもよくある事と即座に叩き出したりはしなかった。
そう、よくある事なのだ。
そもそも乗り込んで素早く彼女が座席に齧り付いて離せそうになかったというのもあるだろう。これもミリアの図太さと図々しさがなせる業だった。
因みに本日の茶会には交友関係が異なるグループのためミリアは招待されておらず、何食わぬ顔で入り込もうとして抓み出され外で根気強く待っていたらしい。
ここまでくると自分の影よりも自分から離れない何かのようで、頭痛がしてくるジェスターだ。
「もういい。とっとと今すぐ馬車を降りろ。そもそもどうして俺の馬車に同乗している。君の家は反対方向だろうに」
「このままジェスター様のお部屋にお泊まりしようかと。そのために侍女だって撒いてきましたし……」
ちょっと俯いたミリアは上目遣いでちろりとジェスターを意味深に見た。
「是非とも作りましょう、既成事実!」
「お断りだ」
すげなく返せばミリアは残念がったが、改心して降りる素振りは微塵もない。
だからしばし放置して、ミリアがすっかり席上で寛いで油断したと見るや、彼はすぐさま馬車を停めさせ有無を言わさず迷惑令嬢を叩き出した。
そうしてすっきりとした面持ちでパンパンと手の埃か何かを払いつつ何事もなかったように馬車を出発させた。
「あっちょっとっこんな所で酷いですよ! ううう~、ですがこれも二人の試練なのですよね!」
一緒に放り出された差し入れの焼き菓子の横で、石畳の街路に座り込む悲劇のヒロインミリアは俄然やる気を出した。
どんなに冷たくあしらわれても、罵られても、彼女は彼が好きなのを止められないのだ。
ジェスターに特定の女性が居ないのも、彼女のやる気を後押ししていた。
(だってどう見ても私が一番ジェスター様に近い女です!)
彼女は諦めないで気持ちを伝え続ければいつかは必ず応えてくれるだろうと、根性論にも等しい超絶前向き思考の持ち主でもあった。
(今日はもう仕方がないですけれど、明日はどうしましょうか)
王都にあるマスタード家のタウンハウスに押しかけて、手作りの料理やお菓子を広げるのはもう通例で、若干の手垢感があると言えばそうだ。その都度それらの食べ物は有効活用されて庭の鳥の餌にもなっていたようだが、鳥たちだって飽き飽きしているだろう。
何か目新しい方策を模索する必要がありそうだった。
(夜会で何か作戦を練るにしても、限られていますし……)
夜会では他の令嬢たちを押し退けて彼に付いて回っているが、今まで一度もダンスを踊ってもらえたためしはない。
彼が他の令嬢とも踊らなかったのはせめてもの救いだろう。
(ですが私もそろそろ本気でジェスター様の妻になるために手を打たなければ、婚期を逃してしまいます! ご近所の令嬢は十二歳で既に婚約されていましたし、十四で嫁いで行った方もいましたし……。夜会で何か……って、夜?)
ミリアは閃くものがあった。
(そうです夜と言えば、吸血鬼たちが活発になる時間! ジェスター様たちハンターは、ほとんど夜に吸血鬼退治の任務をこなしているって話でしたっけ)
今まで邪魔をしてはいけないし、ミリアの両親も心配するので任務に付いて行った事はなかった。
(かくなる上は、任務に付いて行きましょう! そして任務終了後の一汗掻いた所で蜂蜜レモンなどの差し入れをすれば、こいつこんな所まで付いてくるくらいに俺の事を……とポイントも高いのではないでしょうか!)
発奮し早速決行を決めたミリアは、彼の任務予定を調べてこっそり付いて行く事にした。
過去に何度も襲われているというのに懲りないと言えばそうだが、危険な相手と対峙して彼がもしも怪我をしては大変だと心配にもなって救急セットも荷物に入れた。ついでに痴漢撃退用の唐辛子の粉も。果たして効くのかはわからないがないよりはマシだろう。
「もしもの時は、私を盾にしてでもジェスター様をお護りしますね」
そんなある意味漢らしい腹を決めてもいた。
これは見つからず付いて行き、最後の最後で登場するのが効果的だと考えて、支度を整えたミリアはこっそりマスタード家までやってくると物陰に隠れ、夜ジェスターが武装して彼の仲間と屋敷を後にするのを待った。
彼女自身も周囲から浮いて目立たないよう、尚且つ動きやすいようにズボンを穿いてシャツにベストにキャスケット帽を身に付けて、肩からは蜂蜜レモン入りの鞄を掛けて、庶民の少年の恰好をして追いかける。
ほとんど人の出歩かない深夜に吸血鬼は出没して人の血を啜るので、目撃者もないままに被害者は翌朝冷たい躯となって発見される事例が多い。
しかしハンターにはその彼らの行動予測が可能らしい。
やや離れた場所からジェスターたちの後を追い、ギリギリで見失わないようにしていたミリアだったが、いよいよ街の外れに至った所で見失ってしまった。
(どうしましょう、確か向こうの倉庫街の方に行きましたよね?)
もうこうなっては大体の方向に進むしかなかった。もしも尾行が見つかっても仕方がないだろうと肩を落として歩き出す。
周りを見てみれば、人の通りは完全になくなっている。
道の横には暗い倉庫ばかりが建ち並び、民家などは一つもなくなっていた。
人家の灯りや温もりのない労働者たちのすっかりいなくなった倉庫街は、音もなく静かに過ぎた。
髪を帽子の中に詰め込んでいるせいで、露出している項を風の手が撫でていく。
そんな夜風の温さも薄気味悪かった。
寒くもないのに、ミリアはぶるりと小さく体を震わせた。
ここに来て初めて心許なくなっていた。
こういう雰囲気の時は、――出るのだ。
幾度となく襲われた経験がそれを確信させていた。
(ええとこれは、近くに居ますよね……。もしかしなくても吸血鬼に見つからないうちに、どこかに隠れて朝までじっとしているのが最善そうです)
吸血鬼は陽の光の下では出歩かない。
よって今夜は蜂蜜レモンの差し入れは諦めるしかなさそうだと判断し、素早く壁際に寄ってどこか物陰に隠れてやり過ごそうとした矢先。
「ガアアアア!」
比較的近い場所から声がして、ミリアの背筋が凍った。
(こ、このねっとりとしたバナナみたいな声は、大体が吸血鬼ですよね。しかも声の低さからして男の吸血鬼ですし、最悪にも食欲に特化して理性の飛んだ吸血鬼……!)
最早疑いようもなくそれだとミリアは思いつつも、ゆっくりと踵を起点にして体を反転させる。
案の定、正面の先には異形の存在が佇んでいた。
一歩の差で気付かれたようだ。姿勢も悪く、だらりと両腕を体の前に垂らすようにしたその相手は光の細い街灯の下でも、若くもないが老いているようにも見えないよくわからない人相だとわかった。
人相とは言うも、そもそも唸る様は獣のようで人間ではないが。
そして人間ではないその最たる証拠が暗がりでも赤く光る双眸だ。
ミリアは一歩、また一歩と後退した。あたかもゆっくり動けば相手も襲って来ないとでも言うように。野生のクマにでも遭遇したみたいに。
しかし吸血鬼は野生動物とは違うのだ。そんなわけはなかった。
「ガアアアッ」
舌舐めずりをして跳躍してきた吸血鬼に一瞬にして距離を詰められ、動転して後ろにたたらを踏むようにして足を縺れさせて転んでしまう。
(あ……! どうしましょう!)
ミリアはこの時もまた恐怖に身が竦んで上手く立ち上がれないでいた。荷物を漁って手に触れた痴漢撃退用の唐辛子の粉を投げ付けてやる。
吸血鬼でも目には染みたのか、相手は怯んだように一度飛び退った。
しかし退散してくれるかと思いきや、火に油で逆効果だった。
「――ガアアアアッ!」
人の形をしているのに人間の言語を発す事のない人間のなれの果て。
そんな憐れな存在になり果てた相手から、ミリアは今度こそ跳び掛かられ両肩を地面に強く押さえ付けられた。
そうして彼らは獲物の首に深く噛み付いて血を残らず啜るのだ。
逃げられない、殺される、と思った。
こんな恐怖は何度味わっても堪える。耐性なんて出来やしない。
(ジェスター様……!)
助けて欲しいとか、そんな感情よりも、これからもう会えなくなるかもしれないと悟れば、ただただ一も二もなく悲しくて彼の名を叫んでいた。
声にはならない心の声で。
無駄な抵抗かもしれないが、何もしないで餌になるのは御免で、ミリアの方からも吸血鬼の顔を両手で押し返す。
「――っ、たっ、助けて誰か!」
少しなりとも自分自身で抵抗を試みて、彼女はようやく誰かに助けてと願った。
もう一度ジェスターに会うために、生き残りたいと強く思った。
(このまま死ぬなんて嫌です嫌です嫌です……!)
しかし大人と赤子の力の差も同然に大きく開けられた口が見る間に迫った。
「嫌っ、――助けてジェスター様!」
今まさに牙を突き立てられんとした時、ゴッという骨同士が当たったような鈍く嫌な音と共に、吸血鬼が横に吹っ飛んで転がった。
誰かからの膝蹴りを食らったのだ。
しかし人間離れした身体能力で起き上がりこぼしのように飛び起きると、吸血鬼は依然として標的のミリアの方に跳び掛かってくる。
「ひッ……!」
今のは引き攣った呼吸なのか声にならない悲鳴なのか自分でも判断が付かない。
「こ……っの化け物風情がッ!」
その時視界に割り込んだのは誰かの大きな背中だ。
その人はミリアを庇うように吸血鬼との間に入り込んできて、ガキィン、と硬質な物同士がぶつかるような音を立てた。
それはその誰かが吸血鬼の口に硬い銃身を噛ませたからだ。
襟足の短く整った黒髪が夜の中で揺れる。
「ぐぅっ……このっ!」
(ジェスター様!?)
現れたのは何と見失ったはずのジェスターだった。