05
結局、あの日から彼女から電話は来なかった。
気付けば高校も卒業。彼女のいない人生は退屈で、気付けばもう就職を終えていた。
今の僕はもうあの頃の子どもじゃない。
僕は開いていた携帯電話を閉じる。
それは彼女に教えた番号の携帯電話。
あの日から肌身離さず持っていたが、その着信は今日の今まで、鳴ることはなかった。
錆びついて、苦しそうに鳴く鉄柵に身を任せる。
空を見上げると、そこにはあの日と変わらない満月が浮かんでいた。
満月の夜は必ずここに来ていた。雨でも雪でも嵐でも僕はここに通っていた。
僕の心はまだあの日に取り残されていた。彼女と別れたその瞬間に。
僕の心に空いた穴。新しくなにか詰め込めば埋まるかと、部室にあった本を片っ端から読んでみた。
けれどどんな文豪の詩的な表現もまったく足りなくて、響かなくて、穴から滑り落ちてしまった。
唯一心の穴を忘れられるのは、今日みたいな肌寒い夜に、ここでひとり見る満月だけだった。
雲で満月が隠れて暗くなる。月の光が亡くなると、ここはとたんに寂しくて、苦しい場所となった。
鉄柵に寄りかかるのをやめたとき、僕の顔が照らされた。
満月はまだ隠れていた。
僕を照らしていたのは、空に浮かぶどの星でもない。手元の携帯電話だ。
古臭い着信音が展望台に鳴り響いた。
僕の全身の血液が急速に流れるのを感じる。
外の肌寒さなど、ふけった寂しさもとうに忘れ、僕の手からは汗が滲んで、指先は震えた。
『久しぶり、今夜って暇?』
あぁ……彼女だ。一言でわかる。あの頃より少し低いけれど、芯のある綺麗な声。
「もちろん、いつだって空いてます」
僕はあくまであの頃と変わらないように振る舞った。実際は震えていたかもしれないが、気持ちだけでも平静を保っていたかった。
『そう、良かった。それなら山の下公園の上の』
『「展望台で集合ね」』
その声は、電話からだけじゃなく、後ろからも聞こえてきた。
振り返ると、線の細いスーツ姿の彼女が、スマートフォンを耳に当てて立っていた。
「先輩……」
「久しぶり。ごめんね連絡遅くなっちゃって」
雲が晴れ、月光が彼女を照らす。
あのときより大人びてきれいになっていたが、整った顔立ちと、くっきりとした眼は変わっていない。紛れもなく彼女だ。
彼女は隣に立って、僕の顔を見つめる。
「自立してから連絡しようって思ってたの。そしたらこんなに遅くなっちゃった」
「いえ、生きてたならなにより……です」
彼女の手には僕の渡した切れ端が握られていた。
「これのお陰で、辛くても頑張れた。ありがとう」
「……いえ、そんな」
僕は彼女から顔を逸らす。あれだけ恋しかった月の光だったが、今だけは雲に隠れていてほしかった。
「先輩は今は何を?」
顔の火照りも冷えてきて、僕はやっと彼女の顔を直視できた。
「司書になったの」
「それは、またお似合いですね」
「でしょう?」
彼女は左手を口元に近づけて笑う。白い陶器のような指には、何のアクセサリーもついていなかった。
「先輩って、今……」
僕の目は彼女の指から離れない。
「ん~?」
彼女は指を自分の口元に持っていき、僕を試すように目を細めた。
「……いえ」
今は久しぶりに会ったばかりだ。早計だ。今日はひとまず、この再開の喜びをかみしめよう。
「……意気地なし」
「えっ」
「久しぶりに会ったんだから。なんかいうこと無いの?」
「えっと」
彼女は僕の目をじっと見つめて離さない。
その眼で見つめられると、僕の脳みそはすぐにオーバーヒートして、何も考えられなくなってしまう。
僕は、何度も詰まりながらも、口を開いた。
「月が、きれいですね……?」
「なにそれ、告白?」
「いちおう……そのつもりですが」
「ふふっそうね。確かにとってもきれいな満月ね」
彼女の首を傾ける仕草は、やっぱりあの頃と変わらなくて、そんなところがやっぱり好きだなぁって僕は思った。
「ねぇ、どこに住んでるの? 一人暮らし?」
「あ、はい。すぐそこのマンションです」
僕と彼女は二人歩いて山を下りていた。二人の間に繋がれた手は暖かくてそこだけこの肌寒さを完全にかき消していた。
「それなら、今日はそこに泊まってもいいよね」
「えっ!? あ、はい!」
あんなにきれいな満月ですら、もう僕らの眼中にはない。
僕らは今後の事を笑顔で話しながらマンションへと向かった。
帰りにコンビニにでも寄ろうか。きっと今の僕の笑顔は本物だ。




