展望台で月明かりを待つ01
満月の夜、一人展望台に立ち、まだ明るい町を見下ろす。
展望台に敷かれた芝生に座った。
芝生を撫でながら吹く風が気持ちいい。
町の輝きに反して、ここは薄暗かった。
手に持った旧式の携帯を開くと、人工的な明かりに顔が照らされた。
周りに人の気配はない。
以前置かれていた観光客向けの思い出ノートも撤去され、木製の台座には苔が生えていた。
あのころから夜は人が居なかったが、今となってはもう昼間でも誰かが来ることはないだろう。
昔から、月を見るには最適な場所だった。
――これは僕があの展望台を知る前のこと。
夕陽に照らされた部室の窓から外を眺めていた。部屋には紙の匂いが充満していた。
壁には本棚が置かれており、過去の先輩らが置いて行った多種多様なジャンルの小説が置かれていた。
部活は文芸部。けれど小説を書くようなことはしていなかった。
部員も僕を含めて二人。
厳密に言えばもう数人いるが、全員三年生で、もう部活には来ていなかった。
部活の存在すら知らない人も学内にはいるだろう。
僕自身、正直小説自体にそこまで興味はなかった。
僕は楽な部活を探してここに入った。
星を見ない天文部や、山に登らない山岳部があれば、そちらを選んでいただろう。
ひたすら小説を読むか、雑談をするだけのつまらなそうな部活。
そう思う人のことを責められる立場ではない。
「お疲れ様です」
外から聞こえる運動部の掛け声と、じわじわと制服を暖める日差しにうつらうつらとしていると、彼女は入ってきた。
黒髪を肩まで伸ばした、委員長というあだ名が似合いそうな眼鏡の女性。
彼女はもう一人の、まともに部活に参加している部員だ。
僕の一つ上の高校二年生で、僕が幽霊部員にならなかった理由だ。
「なに? またボーッとしてたの?」
彼女は僕の隣の席に座って、くっきりとした輪郭の目で僕の顔を覗き込む。
はらりと流れた髪が、僕の頬に触れた。
羽で足をくすぐられる様な近過ぎる距離感。
濡れているのかと錯覚するほど艶やかな目に僕は視線を逸らす。
彼女がこの近すぎる距離感を気にした様子はない。
二人しかいない空間でこの距離感。
もはや狙っているのか、一切相手にされていないかの二択だろう。
こういうときの二択は大抵、後者なのだ。
「いや、僕も読みますよ」
立ち上がって、整理された本棚を眺めた。
僕でも聞いたことのある小説家から、一切知らない小説家まで様々だ。
小説には詳しくない。
読むなら漫画のほうが多いが、それでもこの部活に入って、多少は読む様になって活字の良さも分かってきたところだ。
「今日は何読むんですか?」
適当な本を取って彼女の隣に座った。
隣といっても隣の席だ。
椅子と椅子は若干離れていて、その距離を詰めるのは僕にはできない。
むしろ隣に座っただけ勇気を出したと褒めてほしいくらいだ。
まぁ、もともと座っていた席に座っただけなのだが。
「夏目漱石の『こころ』。知ってる?」
「知ってますよ。『羅生門』とか『吾輩は猫である』とか……あとは、月がきれいですね?」
「……告白?」
「あ、いやっ! とか有名だなぁって話ですよ」
慌てて訂正する。
首を傾ける彼女の仕草に僕は思わず目を逸らして、首を横に振った。
一気に顔が赤くなって眠気が覚めた。
……美人の冗談は心臓に悪い。
「なんだ。でも、あの告白、別に夏目漱石の小説には出て来ないのよね」
「えっそうなんですか?」
「そう、なんでも弟子が『I LIVE YOU』を訳すときに、日本人はそんな直接的には言わないってそう訳したのが元なんだって」
てっきり、小説からの引用なのかと思っていた。
そういうくさい詩的な言い回し、昔の文豪なら使いそうだし。
「そういう君は、今日は何を読むの?」
「あ〜これです」
僕が手にしていたのは『野菊の墓』だ。読んだことはないが、まぁ昔の小説だし、面白いだろう。
何より短い。このくらいなら僕でも読める。
それに彼女は納得したのかしてないのか。
「そう」とだけ言って夏目漱石の『こころ』を読み始めた。
ページを捲る音だけが、部室を染み渡る様に流れた。
もう会話が終わってしまった。
話題を一生懸命探すが、その全てが、浮かび上がっては弾けて消えてしまった。




