廃れたバス停、雨宿り 01
僕の頭上で、無数の手足を持つ生き物が暴れ回っている。
ぴちょん。ぴちょん。
トタンの屋根に無数に降り注ぐ音は、段々と音の形を崩し、何度も何度も執拗に屋根を叩く。その音は途切れる事なく僕の上で暴れ続けた。
僕は地面を叩きつける豪雨の中、屋根の下に一つだけ置かれたベンチ。錆に侵食された全身の塗装は、少し触れると簡単に剥がれてしまう。そんなベンチに僕は座っていた。
ここに来る前のことはなにも覚えていない。唯一脳の奥底に、こびりつくように残っているのは、僕を見て泣く一人の少女の姿だけだった。
ぴちょん。ぴちょん。
屋根から落ちた雨粒が僕の頬を撫でる。屋根はかろうじて雨を防いてくれているが、それもいつまで保つか。もしこの屋根が無くなったら、僕は全身を雨に濡らして、このベンチの様に少しずつ雨に削られ風化していくのだろうか。
ぴちょん。ぴちょん。
視界の左端から音が鳴る。屋根から落ちた雨音に目を向けると、僕の背丈より少し高い何かが、雨の中で僕を見ている。
自身の手先も見えない闇の中、お互い見えている筈がないのに、僕にはそこに何がいるのが感覚で分かった。
この気が狂いそうなほどに誰の声もしない中で、僕は声を掛けることはしない。それをしたところで無意味だと僕は知っていた。
ぴちょん、ぴちょん。
雨音に紛れて聞こえる足音。明かりに照らされ、それが他と同じ、ただの朽ち果てたバス停の標識だったことを思い出す。
「こんばんは」
僕は明かりの方向に顔を向ける。立っていたのはセーラー服に身を包んだ女子高生。
傘を忘れたのか全身が雨に濡れており、僕を見て強張っていた表情が和らぐ。
「なんか、気付いたらここに居て、ここはバス停? 帰れるの?」
矢継ぎ早に口から溢れ出る言葉を必死に音にする。そんな彼女に、僕は落ち着く様にゆっくりと口を開く。
「もうすぐバスが来るから、座ってなよ。これ以上濡れて、風邪でも引いたら大変だからさ」
僕は自身の顔に被せた笑顔の仮面で、彼女をベンチに座るよう促す。
「う、うん。君、小学生? だよね。こんな時間にどうして?」
ぴちょん、ぴちょん。
ベンチに座った彼女の髪から黒い液体が流れ落ちる。
バス停に明かりは存在しない。彼女の持つ明かりだけでは、彼女の顔がぼんやりと見える程度にしか分からない。
彼女の髪を滴る雨水は、凝固を忘れた血液の様にどろりと彼女を包み込んでいた。
「僕も気付いたらここにいて、何処なんだろうね」
「そうなんだ。ってかこんなボロっちいバス停、本当にバス来るの?」
「来るよ。座って、待ってれば大丈夫。せめて雨が止むまではここに居なよ。雨が止めばバスが来なくても、歩いて帰れるでしょ?」
「……そうね。そうしようかな」
「うん。それが良いよ」
口から出る言葉は全て軽く浮き、屋根に当たって弾けて僕の頭に降り注ぐ。
ぴちょん。ぴちょん。
雨は止む気配がない。バス停の前を通る一車線の小さな道路には川が流れていた。
黒いアスファルトの上を流れる雨は、ゴキブリの大移動の様に無数の波を立てて蠢いている。
そんな蠢く波を押し潰し、彼女の歩いてきた右側の道路から、一対の光が地ならしを立てて走ってきた。
「あっ! 車!」
彼女は慌てて立ち上がり両手を振ると、車は僕たちの前に音を立てて止まった。
随分と古い車だ。白黒の映画がよく似合うその車の窓が開く。
「あんた、こんなとこで何してるんだ?」
窓が開いて男の声が聞こえるが、車の中は煙で充満して男の顔は見えない。風に乗って流れてきた煙の臭いから、煙草の煙だということが分かる。
「迷子になっちゃって……」
「そうか、それなら町まで連れてってやろう」
「え、良いんですか? やったね」
彼女は喜んで僕を見る。
「いや、悪いが中は荷物で一杯でな。あんたしか乗せられないんだ」
男は本当に申し訳なさそうに、しかしキッパリと言い切った。
「え」
それを聞いた彼女の顔が若干強張る。
「ほら、早く乗りな。俺も急いでるんだ」
車の後部座席が開く。他の部分は全て煙に包まれているのに、その席だけは綺麗に煙が避けて、人一人分の空間が出来ていた。
「乗りなよ。僕は大丈夫だから」
彼女は僕と車を交互に見て、助手席の開いた窓に歩き出した。僕は若干の安堵とともに、胸に突っ掛かりを覚えた。このまま彼女が乗ってしまったら、僕は何故か一生後悔を心に残してしまうのではないかと。
「私は良いから、この子をのせて!」
彼女は僕を指差して言った。
「え?」
「はぁ……んなもん乗せる訳ねぇだろ!」
彼女がそう言った瞬間、優しかった声が怒鳴り声に変わり、ドアが叩き付けるように閉められた。
「あ、ちょっと!」
伸ばした手もむなしく、車は左側に向かって行ってしまった。
また暗くなるバス停。視界の情報が消え、雨の音だけが僕たちを囲むが、僕の心は安堵と疑問に満ちていた。
「どうして、乗らなかったの?」
「えっと、自分より年下の子を置いていくのは……ってのも本心なんだけど」
言葉が止まる。雨の音の中、彼女の深呼吸の音が深く響いた。
「昔、ちょうど君とおんなじくらいの頃に、幼馴染がいたんだよね」
雨音に消されそうなくらい小さくて、優しい声色。
「君、彼にどこか似ててさ。落ち着いてるところとか、その少し寂しそうに下がる眉とかさ」
「僕がその幼馴染に似てる。それだけの理由で、僕に譲ったんですか?」
「まぁ、ね。そんなもんでしょ、残る理由なんて。それにこんなところに一人、君だけ残して私だけ助かるなんて、できないよ」
すっと僕の頬に彼女の手が触れる。優しく、冷たい手。
「……そう、ですか」
「お願い。少しだけ」
震える手。それは冷たさのせいか、はたまた――。
僕はその手を振り払わずに身を委ねた。しばらく撫でられた後、その冷たい手は僕の頬にそっと離れた。
「さて! あの車も行っちゃったし、雨が止むまで……ねぇ! あれ!」
彼女は目元を拭い立ち上がると、僕の方を向かずに道路を見ながら大げさなまでに声を張り上げた。




