臆病逃非行 01
むせかえるほどに暑い夏休み。熱されたアスファルトがゆらゆらと蜃気楼を纏う中、僕は黒カビの生えた薄暗い路地裏にいた。
「なぁ、金持ってんだろ?」
視界に映るのは光を反射して輝くシルバーの十字架。僕を壁に押し付けて凄む不良の首からぶら下がったネックレスが、顔の前で左右に揺れる。
「も、持ってない……です」
両手に抱えた赤いリュックサックを握りしめる。
中にあるのは明日発売のフィギュアを買うためのお金。奪われるわけにはいかないのだ。
「へぇ……よこせ!」
不良は僕の持つリュックに素早く掴みかかった。
僕は小指ほどの抵抗も出来ずに、呆気なくリュックを取られてしまった。
「や、やめて!」
「お、これかぁ? やっぱり隠してやがったなぁ!」
僕の鞄を漁る不良が財布を見つけ、僕の腹を蹴り飛ばした。腹に響く鈍痛。小汚い路地裏を僕の小さくて、丸く太った身体が跳ねる。胃の中から今朝の朝食が帰ってきて、喉の奥に酸っぱい味が広がる。
「さぁて、夏休みのガキのお小遣いはいくらかな――むぐぅ!?」
まるでカエルを轢き潰したような声が不良から聞こえる。僕が痛む身体を持ち上げて前を見ると、不良の足が地面に着いていない。
足を激しく動かして暴れる不良を見上げると、巨人が不良の口を掴んで持ち上げていた。
二メートルは優に超える彼は、不良を僕の横に放り投げた。
「――ガハッ! お、お前、あの伝説の――」
そこまで言ったところで、不良はゴミを撒き散らしながら吹き飛び、壁に激突して気絶した。
数秒経って、僕はなにが起きたのかを理解した。蹴りだ。彼がただ勢いよく不良を蹴っただけ。
その速度が人智を越える速度ということを除けば、なんの変哲もないことだった。
この町には伝説のヤンキーがいる。そういう噂が流れているのは知っていた。
世界のヤンキーを統べる王だとか、熊を素手で倒したとか。あくまでそういう都市伝説の類いと思っていたが……。
俗世に疎い僕でも流石に分かった。
彼がそうだ。
不良を一撃で延した彼の目線が僕に向く。
まるで虎のような目に、熊かと見間違う体格とその筋肉はまるで岩のようで、鋭く伸びた金色の髪はライオンの立髪のように煌めいていた。
そんな百獣の王が裸足で逃げ出す威圧感の彼に睨まれた僕は、蛇に睨まれた蛙。いや、龍に睨まれた鼠のように、完全に身体が硬直してしまった。
「大丈夫か?」
無機質で感情の起伏のない声とともに肩に手が置かれる。
助けて……くれた?
そう理解した瞬間全身の筋肉の硬直が一気に解け、半ば気絶するように、僕はその場に倒れ込んだ。
「気を付けろ」
横になりそうな僕の身体が支えられる。まるで肉で出来た電柱に寄りかかっているようだ。
「あっえっと、た、た、助けてくださり、ありがとう、ござい、ます!」
「気にするな」
彼は僕が動けそうなのを確認すると、立ち上がって路地裏に背を向けた。
「あ、あの!」
空から降って湧いたチャンスに、今しかないと喉を締めて上擦った声で叫んだ。
「ぼ、僕を強くしてください!」
僕の言葉に立ち去ろうとした彼の足が止まる。
「なぜ?」
低い声。先ほどとは違い、無機質さの中には威圧が含まれており、一瞬にして全身の毛が逆立つのを感じた。
「え、えっと……強くなれば、さっきみたいに絡まれることもないかなぁ……なんて」
気圧されて僕は口を回す。理由など、自分でも考えずに口走った。目は泳いで冷や汗は、足元に水溜りが出来るほどに流れていた。
口から咄嗟に出た出まかせ。それでも完全に嘘というわけでもなかった。
外に出れば不良からカツアゲされ、学校ではいじめられて、パシリにされる日々。
夏休み開けに、彼と同じくらい……とまでは行かなくとも、強くなればきっといじめられなくなると思ったのだ。
彼は僕を睨んだまま口を開いた。




