木下水月と欷泣Ⅲ
「子供だったと割り切ってもよかったんです。私が片桐君と釣り合わないから逃げ出したんだって、そうしてもう片桐君とは関わらないで生きようって、そう思えたら楽だった。でもある日聞いちゃったんです。片桐君がいまだに昼時どこかに行っているってことを」
彼女はまるで昔を懐かしむようにどこか遠くを見ている。
「私のためによく昼時にクラスから抜け出してくれていたのは知っていました。でも私がよく片桐君と二人で会ってた校舎裏に行かなくなって、片桐君ももう行ってはいないんだろうなって、そう思っていたかった。でも、彼はあれからもずっとあの校舎裏に行ってたんです。彼は私みたいなぼっちじゃなかったから、たくさんの友達に誘われているはずなのに」
今からでは考えられないような彼女の告白に私は少しながらたじろいで聞く。彼女もまた、変わった人間なのだと思いながら。
「そんなある日、ふと木陰から校舎裏を覗いてたんです。そこにはやっぱり片桐君の姿があって。たった一人でただそこでボールを蹴ってたんです。そんな姿を見たらどんどん自分が惨めになってました。彼はあんなにも努力しているのに、私はなにもしないでただ彼の隣にいようとしていただけなんだって、そう気づかされて思わずその場から逃げ出したんです。冬の枯れ葉が多い時期でしたから、多分その時彼も私の姿は捉えてたんだと思います」
彼女は一呼吸挟み、まるで自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉にする。
「それが私が彼と向き合う最後の機会だったはずなのに、私は彼のことなんて一切考えもせずに自分の羞恥に耐えられずに逃げ出したんです。だから私は変わらなきゃって、いつか雫君とも釣り合えるような人になるんだって。そう思って……。ううん、本当はまた片桐君に会う機会がほしくて、私から逃げ出した責任をどうしても償いたくて変わりたかった。きっとそうなんです。私は先輩のように向き合うことすらできなかったから」
その瞳には確固たる意志が込められていた。
彼女はもう信念を持ち合わせているのだ。
自分がしなければいけないことを自覚して、それを遂行することにいかなる障害もその障害たりえないのだと。
「だから本当は私なんかが片桐君を好きでいる資格はないはずなんです。だって私が勝手逃げ出したんですもん」
彼女は少し微笑んでみせる。少し嘲笑するかのように。
「……でもそれでも好きでいたかった。それに謝ってから許せないって言われてこっぴどく嫌われるなら、それもそれで良いかなって。幸い高校も同じだから、私が彼とちゃんと向き合えるようになったら謝りに行こうって。でも、高校になってから変わったのは私だけじゃなかったんですよ」
「もしかして……その頃から……?」
その頃から彼は危うい状態に陥っていたのだろうか。
「ーーそれが、わからないんです。高校に入ってめっぽう彼の噂を聞かなくなって、クラスでも異彩は放つものの、中学の頃のような親しみやすさが形を潜めてしまったようなそんな感じになったって」
それに加えて彼女はでも、と繋げる。
「みんなそれを特におかしいだとか、どうしたのかとか、そんなことは聞かなかったんです」
「……なぜ?」
「私も詳しくは知らないんです。中学三年の頃に部活関連で何かあったってことしか。だから多分人に話せるほどそのことについて知らなくて。でも、それが今の彼を作っていることも間違いはないんだと思います。だって、あんな好きなサッカーを止めるほどのことでしたから」
彼女はどこか悲しそうな声で言う。多分これ以上は聞かない方がいいのだろうことも、どことない雰囲気で感じ取った。
「……そうか」
ふと、時間が止まったようにこれまでの言葉が鳴り止む。
夕日は既に沈み、この公園には電灯の灯りが差し込まれていた。
さっきまでとは打って変わって、夜の静けさを肌に感じながら何処か鑑賞に浸っているかのように時間が流れていく。
今の私たちの間に流れるのは互いを気遣うような無言ではなく、どこか心地の良いものを感じさせるものだった。
五分、十分と経って、私の隣に整然と座り込む彼女の横顔を盗み見た。
彼女は元々はその前髪で目を隠して、今でこそコンタクトでいるものの昔は厚縁のメガネをこしらえていたと言う。
今の彼女からは想像もできない姿だろう。だってこんなにも可愛いのだもの。
女の私から見ても可愛いと思えるほどの容姿を持つ彼女が、こうなるほどにまでどれほどの努力をしたんだろう。
元々は容姿に無頓着とも言っていたから、髪も肌も全て一から手入れしたのだろうか。
人の目を見られないほどに自分に自信がなかった彼女が、自信を持って人に話しかけられるようになるまで一体どれほどの苦悩があっただろうか。
彼女は自分で自分のことを向き合うことができなかった、逃げてしまったと評価していた。
なのに彼女はそんな自分が許せないから変わったんだって、そう言ったのだ。
一度でいいから謝りたいのだと、そう言ったのだ。
そんなの、凄くないわけないじゃないか。
確かに一ノ瀬は強くはないのかもしれない。
でも自分の過去と向き合って、自分がすべきことがはっきりしていて、そしてそれを実行できるほどまでに変わってしまえるのだから。
そんな人をすごくないと言えるほどに自分は立派ではないのだから。
返って私はどうだ?
私は彼女に雫君と向き合っていると言ってもらった。
本当に?
私は雫君とちゃんと向き合って話すことができた?
本当はどこか一歩後ろに引いていたんじゃないのか?
本当はどこか自分が傷つきたくないって、そう思っていたんじゃないのか?
お姉ちゃんではない誰かを細かな悩みから救ってあげることで本当に報いた気になっているのか?
私は昔と変われている?あの頃の何もできなかった頃の。お姉ちゃんに守ってもらって、それを自覚できていなかった頃の自分より、何かが変わってるって胸を張って言える自分になることができた?
一ノ瀬のように、自分の過去と向き合ってそれでなお変わっていこうと思えているか?
お姉ちゃんとの確執すら向き合えていないのに。
「先輩、ちょっと向こう向いててくれませんか?」
「……あぁ」
「少し、だけですから」
彼女は私の背後で泣いていた。
どこかすすり泣くようなそんな声で。
そうだ、不安に思わないはずがないんだ。
一ノ瀬は確かに変わったのかもしれない。
向き合おうと思えたのかもしれない。
でもそれで全てが変わるわけでもないのだ。
もし彼に拒否されたら?
もし彼ともう一度会うことすら叶わなかったら?
もし彼に本当に好きな人が出来たのなら?
そう思えば思うほどに自責の念と戦い続けて、それでついに目の前まで迫ってきているのに不安に思わずにはいられない。
そうだ、そんなの当たり前じゃないか。
人は誰しも自分一人で生きてきたわけじゃない。
いつも誰かと一緒に生きてきた。
どんな不安もどんな苦悩もどんな困難も、誰でもない誰かと共に望んできたのだ。
私は弱い。
きっと一人じゃ本当の意味で何もできないクズになってしまう。
でも、一人じゃなかったら?
もし誰かといてもいいってそう思っていいのだとしたら?
そしたら私は……この娘と、どうありたい。
いつのまにか、私の背後で彼女は空を見上げていた。
「先輩。東京の空ってあんまり綺麗じゃありませんよね」
「……あぁ、そうだな」
「どっちかっていうと汚さを感じるくらい」
「…………そうかもな」
「でもなんで月はあんなに綺麗なんでしょうね。ずっと遠くにあるはずなのに、こんなに綺麗」
「――あぁ、綺麗だ」
その月は満月ではなく少し欠けてもいたが、でもそんなところも綺麗だと思った。
そういえば最近は空もろくに眺めていない。
泥臭い土手に寝転がって、朝の雲空を眺めることもないから。
「先輩。私やっぱり片桐君のこと好きなんだって思います。先輩に全部話して、自分が本当はどうしたかったのかってはっきりしたから。多分ここで話さなかったらずっと先輩に引け目を感じていたと思うんです」
「引け目を?」
「そうですよ。だって先輩ってとっても綺麗で美人さんで、最近はちょっと元気がなかったですけど普段は気さくで物怖じもしないし、自信たっぷりで。そんな先輩が片桐君を好きって告白してくれて、それで私お似合いだなって思っちゃったんですもん。きっとお似合いのカップルなんだろうなって」
「……何言ってるんだか。一ノ瀬の方こそ自分では逃げ出したって言ってるけど、ちゃんと過去と向き合った結果変わってるんだ。雫君のためにそこまでできる人が、私に引け目を感じる要素なんてどこにもないだろう」
「そんなことないですって。先輩の方が魅力的で大人な女性な分片桐君と相性いいですって」
「それこそ一ノ瀬の方が話題作りが上手いし、聞き上手で話し上手だ。雫君とお似合いじゃないか」
「いや、先輩だってめっちゃ会話盛り上げてくれるし、片桐君とお似合いですって!」
「いやいや、一ノ瀬の方こそ自炊だってしてるって聞くし、雫君の胃袋だって掴んでみせるんだろう!?」
「いやいやいや、先輩の方が片桐君との身長差が小さいですし、片桐君とお似合いの美男美女カップルですって!!」
「いやいやいや、一ノ瀬の方がその豊満なボディで雫君を誘惑してるんだろう!?」
「ん?いやいきなり何言ってるんですか!どさくさに紛れてセクハラですか!?誘惑なんてしてません〜!!」
「するんだろう!どうせ!さっき私を抱いたみたいに雫君をこうやって抱いてみせるんだろう!?」
「っ!?しませんからぁ!いや、したいとは思いますけど、違いますからぁ!!片桐君とはもっとこう、ゆっくりと……」
「語るに落ちたな!やっぱりするんじゃないか!この女狐め!!」
「なっ、いくら先輩でも言っていいことと、悪いことがあるんですよ〜!!先輩の弱点ぐらい心得てるんですからねっ!」
一ノ瀬は徐に立ち上がり、その瞳をギラつかせながら両手を繰り出してきた。
「や、やめろぉ!こちょこちょはダメだ!マジでやばいからぁ!!」
「くくく、これに懲りたらそんな口を聞かないことですよ」
「わかったわかった!もう言わないから!女狐だって言わないからぁ!!」
「また言った!これはお仕置きプラス三十秒ですね」
「や、やめてぇ」
やがて夜の公園のベンチでぐったりとした女が一人出来上がった。
隣の女はどこかホクホク顔と言ったところで、なんとも対照的な二人が出来上がってしまう。
そしてその二人でようやく目を合わせてみると、急にどこかからか笑いがこみ上げてきた。
二人して互いの顔を見ては笑い合って、なんだか些細なことを永遠と考え続けていたようなそんな錯覚さえ感じてしまった。
「先輩。私、親友っていたことないんです。私って本来はこういう人だから、あんまり高校に入って変わったと言っても友達も多かったわけじゃなくて」
「奇遇だね。私も生まれてこの方親友と呼べる人はいたことがないね。まぁ、私の場合親友と呼べるほどの中にまで発展する前に相手が離れていくんだけどね」
「なんですか、それ。でも先輩らしいですね」
「そうか?一ノ瀬も大概だと思うけどな?」
そうですかね、と彼女は笑ってみせる。
そして、その言葉は彼女から放たれていた。
「先輩、私と親友になってくれませんか?」
「待った」
「……ん!?この流れは親友になる流れでは!?」
「そんな流れは知らんが、その、一ノ瀬には私のことは名前で呼んでほしい」
「えっ、なにそれ可愛い。先輩可愛い〜、じゃなかった。水月可愛いぃ〜〜」
ブチっと脳の血管がはちきれそうになるのを抑えながら私は言う。
「そのノリはうざいぞ?…………でもありがとう、綾香」
「ん?今綾香って?」
「ーー気のせいだ!ほら、帰るぞ一ノ瀬!」
「え、もしかして水月ってツンデレ……!?あの絶滅危惧種が存在してたの!?」
「はぁ、もしかして選択間違えたかな……」
帰り道では敬語はどうした、と話しかけては親友は敬語じゃ話さないんですよ、と敬語で言われなんとなくそういうものなのだと納得しておいた。
綾香からはなんで突っ込まないの!と言われてしまったが、なんだかそんな反応も微笑ましいと思えた。
そんなことがままあって、晴れて私たちはあの暗い公園の中で親友の契りを交わした。
契りというほど何かあったわけでもないが。
でも、きっとその契りは他のどんな契約よりも強固なものだと思う。
だって二人とも同じ人を好きになってしまった人同士なのだから。
私の迷いも晴れたわけではないし、結局私は答えを見つけることはできなかったのだと思う。
なにが答えなのかも、なにをしていればよかったのかもわからない。
今私がなにをすればいいのかさえわかっていないのだと思う。
でも、私はどこかで全てを一人で結論づけようとして結局何もわからなかったのだ。
だから時には誰かに頼ってみるのは、ダメだろうか?
誰かと一緒に悩んでみてはダメだろうか?
一緒に答えを模索してはダメだろうか?
そんな誰にでもない自分への言い訳を連ねては、一つ一つどこか明瞭になっていく思考。
私はどこかで私を押しとどめてしまっていた。
だから今度こそ雫君が好きだと言った綾香と、一緒に君を救いたいと思ってもいいのだろうか?
いつか見せたような救いを求める瞳に、手を差し伸べてあげてもいいだろうか?
まだわからない。
私と綾香で何ができるのかなんて。
でも、きっとそれは私一人ではできなかったことなのだと思う。
だから私は足掻くよ。どこまでも。
君がお姉ちゃんに似てるからじゃない。
私が君を好きでいたいから。
ゔ




