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木下水月の憂鬱Ⅱ


 私の後ろで縮こまりながらお姉ちゃんも声を出していたのを覚えている。

 

 それからしばらくして、小さくない怒鳴り声が聞こえてきていた。


「この、クソがッ!」


 そんな声が聞こえてきたと同時に私は後ろから袖を引かれていた。

 お姉ちゃんが引っ張ってくれたのだろうことはすぐにわかった。

 ただ急に引っ張られてしまった私は転んでしまったせいで多分男にも聞こえるだろう音を出してしまった。それが、すべての引き金だったように思う。


「おい!そこに誰かいるのか!」


「水月ちゃんっ……」


 多分男がすでに近づいて来ているのだろうことはわかっていた。

 でも私は動けないでいた。


 しかしちょうどその時私たちはちょうど草むらの間からあるものが見えてしまってた。

 そこに横たわっていたのはミケの姿を。


「ミケッ……!!」


「水月ちゃん、ダメッ」


 慌ててお姉ちゃんが私の口をふさいだ時には遅かった。


「なんだぁ?ガキじゃねぇか」


 すでに目の前に男は立っていた。

 私はその男の醜悪な気配と、ミケの姿にどうしようもなく何をすればいいのかわからなくなっていた。


 ただ茫然とするしかできなかった。

 でもお姉ちゃんは違った。

 その一瞬で状況を理解したんだと思う。

 お姉ちゃんも私と同じ姿を見ていたはずなのに。


「ダメじゃないか。子供がこんなところに来ちゃあ」


 男は手を私たちへと伸ばしていた。


「お、おじさんはここでな、何してたの……?」


 そんな手から私を守るようにしてお姉ちゃんが出てきた。

 私はその背中に隠れるようにして縮こまっていることしかできなかった。


「ん?おじさんはね、ここで猫を飼ってるんだ。だからこんな暗くなる時間に子供がこんなところに来ちゃダメじゃないか」


「ご、ごめんなさい。でも私たちも、ね、猫を探しているの」


「ここら辺には俺の飼ってる猫しかいないんだけどなぁ」


「じ、じゃああの猫、は……?」


 お姉ちゃんが指をさした方向には横たわっているミケがいる。

 そこにその男が視線を配らせたかと思うと、お姉ちゃんは私を後ろに振り向かせ背中を優しくたたいた。

 私たちの間でいつの間にか決まっていた合図のうちの一つでもあるそれに、私はせかされるようにして動いた。

 

 その意味は逃げる。

 ただそれだけだ。

 

 私は合図の意味だけが頭の中で繰り返され、その指示だけに従うようにして動き出す。

 ほかに何の思考もそこには介在しなかった。


「っのガキ、逃がすかよ!」


 そんな声が聞こえたような気もしたがそんなことを意にも返さず私は走った。

 林を抜け、神社を下り、私たちの家に。



「お母さん!」


 玄関を強引に開いて私は涙を浮かべながら言った。


「お姉ちゃんが……、お姉ちゃんが……!」


「いったい何時だと思ってるんだい。まったく」


 そう言ってリビングから出てきたお母さんをその涙でかすんだ視界でとらえた。


「み、水月!?いったいどうしたんだい!その怪我……」


「そ、それよりお姉ちゃんが、お姉ちゃんが、林に!」


 私は林の中で幾度と転び全身に傷を作っていたが、それよりもお姉ちゃんのことしか頭になかった。

 逃がしてくれた時にはただ逃げることしか頭にはなかったけど、走っている間に私は十分にお姉ちゃんのことを考える時間が出来てしまっていた。

 私を逃がしたお姉ちゃんがどうなっているのか。

 きっと危ない目にあっていると思うと、そんな状態で逃げてしまった私が許せなくなってた。

 

 でもきっと私じゃどうすることもできなんだって言い訳して逃げた。



 お父さんがいなくなってから私は逃げたことはなかったはずだった。

 何かつらいことがあっても立ち向かったし、何からも目はそむけていなかったはずだった。

 でも思い返してみればそんなこと全くなくて、そう思っていたのは私がそう思いたかったからなのだと気づいた。

 だって、私がそういうことに出会うのはいつだってお姉ちゃんといた時だったから。

 お姉ちゃんがいつのまにか私を守ってくれていたことに私が気付かなかったのだ。

 いつだっておしとやかで引っ込み思案なお姉ちゃんは、私を守ってくれていたのに。

 お父さんさんがいなくなってからお母さんに暴力を働かれることがあったのに、いつの間にか私は傷が少なくてお姉ちゃんの傷が増えていた。

 

 それにようやく私が気付いた。



 お母さんはそれから警察も呼んで、私を連れて林に向かった。

 私も無我夢中で逃げていたから道は覚えていなかったが、なんとなく何かに呼ばれているような気がしてその方向へ進んでいっていた。


 それから私たちが見たのは三メートル程の高さのある崖下で倒れていたお姉ちゃんの姿だった。

 もともとこの辺りは地形が急勾配で、そこら中に崖があり危険であることが知られている場所だった。

 だからこういった事故は起こりやすい場所でもあるといわれていた。

 でもそんなこと私には関係なくて、私があの時逃げなければお姉ちゃんがこんな目に合わなくて済んでいたはずなんじゃないかとか、そんなことを考えていた。



 後日お姉ちゃんは腕と足を骨折していたが命に別状もなく目を覚ました。

 お姉ちゃんをこんな目にあわせたあの醜悪な男は、最近この辺りで悪さをしている奴でもあったためすぐに警察によって捕まった。

 ミケをいたぶっていたのもなかなかうまくいかなかったことに対する鬱憤を晴らしていたらしい。

 見た目以上に傷は深かったがミケも無事目を覚ますことができていた。

 それで一件落着のはずだった。


 お姉ちゃんが目を覚ますと初めに心配してくれたのは私だったらしい。

 水月ちゃんは大丈夫だったのかと、言ってくれたようだ。

 あんなに大けがをしているのに心配することは私のことだって、そう思った。


 そしてなんで私を守ってくれたのかって、これまで守ってくれてたのかって聞くと決まってお姉ちゃんはこういっていた。


「私は水月ちゃんのお姉ちゃんだから。ほかの何もできなくても妹は守ってあげなくちゃいけないんだよ」


 でもそんなお姉ちゃんが笑顔を見せていたのは私だけだって知った。



 お姉ちゃんが崖に落ちたのはあの男のせいなのは間違いなかった。

 でも、それは私が思っていたよりがよっぽど残酷でよっぽど醜いものだったのをのちに知らされた。


 お姉ちゃんは私を逃がした後、私を追いかけないように男の足をつかんで止めたらしい。

 そして私が林から抜けるように逃げ出したのを悟って男の標的はお姉ちゃんに移った。

 お姉ちゃんの小さな体を殴り、蹴り、あわやその小さな腕を折ってしまうほどに。


 それでもお姉ちゃんは逃げようと走り回るも、怪我をした足では到底逃げ切ることはできずに何度も捕まる。

 殴られては逃げ、蹴りあげられては地をはいつくばって、胃から逆流したあらゆるものを吐いて逃げ続ける。

 でもそんな状態もすぐに途絶え、折れた腕を必死に動かし逃げたのについに、足までも折られる。

 そう、彼女の怪我の大半が男によってできた傷だったのだ。


 そして初めてお姉ちゃんが目を覚ました時、お姉ちゃんは目の前にいた男の医者を見て吐いてしまったらしい。お姉ちゃんは男性恐怖症になっていた。

 多分その兆候はお父さんのこともあってのものだと思う。私たち姉妹にとって醜い男の大人が周囲に多すぎたのだ。

 私自身は男女問わず醜く映っていたがお姉ちゃんは違う。

 その目ではっきりとその醜さを身を持って体験したのだ。

 男性恐怖症になってしまってもおかしくなかった。

 


 でも、そんなことは私には言わなかったし、そんな一面私には見せてくれなかった。

 私を助けてくれたのにお姉ちゃんがなんでそんな目に合わなければいけないんだって、お姉ちゃんをこんな目に合わせたあの男は何にも傷ついてなんかいないのになぜって。

 私はそう思わずにはいられなかった。

 

 でも、そんなことよりもお姉ちゃんに気を使わせてしまった私がどうにも許せなかった。

 お姉ちゃんにとって私は守るべき存在で、私には一切の気苦労を見せようとはしてこなくて、そんなお姉ちゃんのひた隠す真実を知った私と会うことがあってもいつでも笑顔で接してきた。


 そんな裏でお姉ちゃんは必死にその境遇を受け止めてなお立ち上がろうとしていた。

 それからだ。お姉ちゃんが本格的に変わったのは。

 

 まずは引っ込み思案だった性格が嘘のように明るくなった。まるで私みたいに。

 そして次に口調が男の子っぽくなった。

 髪の毛も短くなってどこか男の子っぽくふるまうようにもなっていた。

 小学生にしては大きなその身長もどこか男の子らしい部分を助長していたように思う。

 

 そして一年もたったころにはお姉ちゃんは昔の姿のかけらも見られないほどに変わった。

 多分それは自分自身を守るためなんだって、今ならわかる。

 本当の自分を心の中に隠して、男性恐怖症である自分でさえどこかに押さえ込んでしまう。

 本当は吐くほどに嫌いなはずの。


「どうしてお姉ちゃんはそんなに男の子っぽくしてるの?」


「ん?簡単だよ。僕が水月のお姉ちゃんであるためだよ」


 私といつものようにいるために、自分さえも騙していると言うのだろうか。

 本当にそれでいいのだろうか。


 しかし決まってお姉ちゃんはそう言うし、その瞳に嘘はなかった。

 でもそんな裏側でお姉ちゃんは私のために何かしてくれているのだと、そう思ったが最後、私にはお姉ちゃんにしてあげることは何もなくなっていた。

 

 私がお姉ちゃんに何かしてあげられたのなら、きっと気付いた時からしてあげるべきで、ずっと一緒にいてあげればよかった。

 でも実際は私はお姉ちゃんに守られたことの負い目を自分に課して、お姉ちゃんと対等であろうとしなかった。

 お姉ちゃんがそんなことを望んでいるはずがないとわかっているのに。


次回、

続く

とうべこんちぬえ

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