他愛のない日常
「よろしくお願いします。七々扇さん」
「よろしく!紫音君!」
男がこれまでとは比べ物にならないほどの大きさのディスプレイと睨めっこしていた時だった。
いつのまにか、ディスコードの通知が来ていたのだ。
「よろしくお願いします!先輩」
先輩方からのDMの数々に男はそのありきたりな返答をする。
他にもユナイトのメンバー全員が入っているサーバーにも加入し、初配信の数々の感想を飛び交わせていたのを男は少し複雑な気持ちで覗いていた。
男はその現状に少し驚いてもいたのだ。
バーチャルライバーで同じ企業だとは言っても、こういう全員が参加しているサーバーで活気のある状態だとは思っていなかったからだ。
もう少し厳粛な雰囲気の漂う場所であると思っていたらしい。
男にとってすれば、そんな様子が一切見られないほど活性化していたサーバーに驚くしかなかったわけだ。
まだチャット上で話したことがない人も俺の話題を話していてくれたことに少し感傷的にもなっていた。
「私は七々扇さんより一つ前にデビューしたミリス、です。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします!まだまだ新参者ではありますが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします!」
そのうちの一人にミリスという、女神的な存在がいる。
髪の毛は白銀色に輝いており、腰にまで伸びたロングかつストレートな髪がよく目立つ。
その前髪は目元あたりで切りそろえられていて、どこか神秘的な様相が漂っている。
格好はまったくもって普通のタートルネックなセーター調のものなのであるが色気を漂わせており、特にこの男のマネージャーが最近までハマっていた一人でもある。
そんな容姿が相まって、彼女は序盤から女神と称されるユナイト屈しの清楚キャラであった、はずだった。
そんな形と丁寧な口調からは想像できない、男らしさを見せることで彼女は新人とは思えないほどの伸びを見せたりしたのである。
どこか感情が昂ぶると、自然に口調が妙にイケメンになっていき、どこか顔が険しくなる。
本来は変わるはずがないのに。
しかし、そう錯覚してしまうほどに彼女は性格がイケメンになってしまうことがあるのだ。
それが一種のギャップとなって彼女の魅力になっている。
そんな彼女のチャットは確かに清楚で可憐な様子を感じさせていた。
男はそれから送られてくるあいも変わらぬチャットに一つ一つ答えていった。
他の人たちとのチャットでもそういった感じで男は返していく。
そして全てに返し終えた頃、昼食を終えて南中していたはずの陽がすでに地平線を越えようという時間になってしまった。
男は一人暮らしゆえに、すべての家事を一人でやらなきゃいけない性質上、時間管理は結構綿密にしなければいけない。
いつものように洗濯を取り込み、夕ご飯の準備をし、空いた時間に周りを片付ける。
そんな最中にふと、スマホがバイブしていることに気づいた。
男にとってスマホはそこまで日常的にもっているものでもないし、ましてや電話も限られた回数しかかかってきたことがない。
そうすればもう選択肢は限られてきて、電話してきた相手も自然と導き出される。
「はい、もしもし」
『もしもし?紫音かい?おはよう、いい夢は見れたかな?』
「おはようございますっていうか、もう夕方ですけどね?ちなみにいい夢は見れませんでしたよ」
『なんだい、せっかく初配信は大成功に収められたっていうのに、つくづく運がないね?』
「運で片付けたくはないですけどね?それに今日からは自分で配信しなくちゃいけませんし、ちょっと不安ですよ」
『まぁ確かに初配信であんなに凄いことをしちゃったら、これからの活動のプレッシャーになっちゃうかもね?大丈夫かい?』
「あぁいえ、そういうのは全然大丈夫なんですけど、配信のソフトとか使ったことないですから……」
『そ、そういえば君は経験者ではないもんな。僕もできる限りサポートするから問題ないとは思うけどね』
「それならありがたいです」
電話をかけてきていたのは、この男のマネージャーである木下柚月であった。
それから電話越しに数秒と空白の時間が流れる。
男は通話状態になっているのかを確認したのち、そろそろ、と声をかけようとした。
しかしそれに食い気味に反応したような感じで木下柚月は言葉にした。
『時にさ、紫音に聞きたいことがあったんだ』
「なんです?」
『ちなみに時間は大丈夫かい?』
「夕ご飯の準備をしてはいましたが、まぁ大丈夫です」
『そうかい、それならいいかな』
その声は電話越しであるからか、男には聞こえていなかった。
『紫音、きみ、何かあったかい?』
「……特に何もありませんでしたよ?」
『本当に?』
「えぇ」
男はなんでもないかのように答える。
『なら聞かせてもらうけど、なんでいきなり初配信のプランを変えたのかな?紫音のおかげで特別忙しくなったわけではないけど、結構僕の方は奔走してたんだぜ?』
「あぁ〜〜、それはほんとにすみません。どうしてもこうしたかったんです」
『まぁ君のおかげで本来の初配信より面白い出来になったからね。伊達プロも褒めてたよ?演者がここまでプランを持ってやれるなら、今後の放送ではいろんなことができるだろうってね。あの伊達プロデューサーが、だよ?』
「そ、そんなに凄い人だったんですね」
『まぁ、僕もそこまで詳しいわけじゃないからどのくらい凄いか知らないんだけどね?でもその道のプロの人に褒められるっていうのは凄いことじゃん?』
「確かにそうですね。演者が自分をどう見せて欲しいか言うって結構大事なのかも知れないですね。俺とかは結構そういうところが小慣れてるので、今回においては自分のやり方でやりたかったんですよ」
『……なるほどね』
彼女はそこら辺で息を呑んだような音を出し、男もそれが聞こえてしまう。
それが聞こえてしまうほど部屋が静かであるとも言えた。
『じゃあ聞くけど、君は本当に紫音かい?』
彼女はそんなことを言う。
男にとってみれば何をいっているのかもわからないだろう。
「……そんなこと聞くなんてどうしたんですか?そんな俺らしくなかったですかね?」
『…………』
「ん?柚月さん?」
『いや、なんでもない。忘れてくれ。とにかく今日は頑張ってくれよ』
「え、あはい。わかりました。ではまた……」
『あぁ、困ったことがあればすぐに連絡してくれ、じゃ』
「あ、切れた……」
男がもう一度スマホを確認するようにして耳からスマホを話すと既に通話は切れていた。
男はいったいなんだったのか、と思いながら夕ご飯の準備を徐に再開していた。
男はいつものように調理をしていつものように味付けをして、いつものように盛り付けをしたはずの料理。
自分用の料理に味見をする必要もないと思っている男は、その料理が完成するまで舌に味を感じさせていなかった。
しかし夕ご飯としてその料理を口に入れた時初めて男は気づいた。
本来味噌の風味が感じ取れる味噌汁が、炊き立てで湯気を立てて盛られている大量の白米が、あっさりとした味が特徴のカツオが、そのすべてが味を持っていなかったことに。
いや、男が味を感じなくなっていることに。




