激動の一日Ⅵ
あくる本番の日、俺はアップ時から違和感を感じていた。
どこか足の筋肉が浮き足立つような、何か不安定な感覚。
それを漠然とした何かで感じ取っていた。
それでも予選は余裕といったタイムで勝ち抜き残るは決勝。
周りは十歳。八月に開催されることから、その年まで十歳である小五の人たちもそこには参戦していた。
むしろ周りはそういった人ばかりである。
そんな中俺は今でも聞こえてくる最後のホイッスルと共に飛び込んだ。
今の体にあったスピードを出す最適な泳ぎ方。
筋肉で失ったしなやかさを補うために持続的な体の負荷を与え続ける泳ぎ方であった。
その泳ぎは年上たちをあっという間に抜き出し、間隔一メートル以上の差をつけたターンに入った。
このままいけばさらに差をつけたゴールを見せつけられるだろう。
このジュニアオリンピックの十歳以下の記録を大きく上回る結果になっていただろう泳ぎだ。
しかし、そうはならなかった。ラストスパート、残り十メートルといったところだ。
比喩でもなんでもない、ブチッという音が全身から聞こえた。
その音が聞こえたと思ったときには、右足が、動かなくなっていた。
その時の感覚は鮮明に覚えている。
何も聞こえない水の中でバタ足をしていた俺の右足が唐突にその活動を止め、一瞬体が拘束されたように硬直する。
背筋を舐めるような寒気に体はその暖かさを失い、体から血の気が失われていく。
脳への血液が一瞬にして止まり、全身から水の中だというのに嫌な汗がこぼれ出す。
その時俺は、俺を俯瞰的に覗いていた。
水の抵抗を最小限に抑えていた俺の体は一瞬でその速度を落とし水に進路を阻まれる。
体躯は小さく、周りと比べても一回りは小さい。懸命に動かしていたはずの体はピタッと止まっている。
ただし、それでも俺は動かない右足を放棄していかに進めばいいのかを模索した。
どうせ片足だけではバランスが取れなくて減速する。
これまでの推進力を失っている以上流れに乗った伸びも期待できない。
だから俺は不格好でも精一杯に手だけを動かした。
そろそろゴールだという壁から後一メートルとないくらいに、俺は隣と並走していた。
かたや綺麗な泳ぎで他の年代の子を押しのけて飛び出し、かたやいきなり不格好な泳ぎ方になった子ども。
そして俺が壁に触って電光掲示板を見た時には、その一位という表示は隣の男が取っていた。
今までどこまでもスピードを追い求めてその面白さを追求してきただけだった俺は、初めて誰かと勝負して負けたことによって俺の中で燃えていた熱意の炎が微かに揺れ動いていた。
それこそ俺が右足を動かせなくなっていたことなど関係なく。
そこでふと力が抜けた時には俺は水の中で力なく倒れていた。
幸い隣のレーンの一位だった子に抱えられ無事救出されて救急車で運ばれたらしい。
そしてその時告げられたのは右足のふくらはぎの肉離れ。それも重症度の高い、Ⅲ型に位置する腱の完全断裂だった。
本来成長段階に伴う際の過度な運動で発症する肉離れは、小三という身体的に成長していない体に重い負荷をかけた。原因は母親による重度な筋トレと、それを生かした無理な泳ぎ方がそれを誘発していた。
その処置は本来の放置療法で済む段階でなく、手術をするような重症度にまで達した怪我だった。
およそ完全に運動が再開できる見立てまで六ヶ月、半年を要するほどのものだ。
それを聞いた母親はこれまでの生活を事細やかに説明し、それが過度な運動の強要によって起きてしまったことを知るとその場で泣き崩れた。
さらに完全に治療し終えたとしても、一度肉離れを起こすと今後も切れやすくなる可能性があり、幼い頃から過度な運動を同じように続けていると俺の成長にも影響してくると聞くと母親はその腫らした目で俺を見つめ、何度も謝ってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と、何回も何十回も。
私があなたを縛りつけなければこんなことにはならなかったのに。私が素直にあなたを認めて応援してあげれればもっと活躍できたはずなのに。
そんな言葉をまるで自分に言い聞かせるように俺へと話していた。
それを見た俺は別にそんなことない、とはっきりと言葉にしていた。
どんなニュアンスだったかは覚えていない。
しかしはっきりとそういう意味に取れる言葉を発したような気がする。
なんていったって、俺は決して母親を嫌っていたわけではなかったから。むしろ前より自分を構ってくれていた母親に好意を抱いていたといってもいい。
母親のせいで肉離れを起こしてしまったことだとか、そんな些細なことで謝られることではないと、俺はそう思っていた。
こうなって初めて母は俺を目に映し、そしてその瞳から溢れんばかりの涙を見せてみせた。
その様子を俺はどこか俯瞰的に覗いていた。
ただし、世間はそう綺麗に物事を解決にはさせなかった。
俺の知らないところで俺は、世間の注目の的だったらしい。
何しろ幼い段階で、およそ十二歳が出しておかしくない記録を出しているのだ。スイミングスクールはそんな記録を持つ俺を担ぎ上げ、神童と呼んでいた。
そして今回も若干七歳にしてジュニアオリンピックの十歳以下で銀メダルを飾って見せた、という見出しと共に、家庭内でのDV疑惑を飾らせていた。
本来公開されるはずでなかった問題をわざわざ世間に流していたのだ。それによって水泳関連の記事を書く人に幾度と電話されたり、病室にまで通って情報を聞こうとする人たちが出てきていた。
俺たちの間では解決していたものを態々掘り返すようにして。
それからしばらく経って周りから声が聞こえて来なくなった頃、ふと病室で漏れた母親の声から、もう疲れたと聞こえたような気がした。
母はこれまで仕事の前と後に必ず病室を訪れてくれていた。
始めは謝罪から話が始まっていたが、次第に挨拶から始まるようになり、やがて普通の親子のようになっていった。
そんな中で母親はきっと俺の目の前で見せてこなかった弱音を吐いていた。
その頃はまだ小三の俺は、事情はよくわからなかったが、自分のせいでこうなっていることは理解していたように思う。
だから俺はそれをもって水泳をやめた。
スクールのコーチからは親に言わされているんじゃないか、とか戻ってきたら自由に泳いでいていいから残ってくれ、と引き止められたがそんなこと意に解さなかった。
たった一つ心残りがあるとするなら、俺がまだプールを続けていたいと、違うところでも本当は泳いでいたいのかもしれないと、心の中で少しでも思ってしまったことだ。
その頃から俺は多分水泳を、泳ぐことを楽しめなくなることを察していたのだ。
これ以上この環境にいて水泳を続けることで俺が楽しめなくなると理性では判断しても、本能はどこかで泳いでいたいと思ってしまう。
それがたった一つの心残りだった。
後に母から聞いた話では、母は本当は俺が水泳を続けていたいことを知っていて、それでも何もいってあげることができなくて、それなのに子どもに決断させてしまったことを悔やんでしまっていたらしい。
スクール側からは入院の時の補償に加え、俺を引き止めるために色をつけた金額を渡してきたらしいが、母はそれをしっかりと否定して息子が決めたことだ、といってくれたりもしたようだ。
でもそんな建前よりも本当は息子がこれ以上水泳を続けているところを見るのが苦痛だっただろう、という本音があったのだと誠意を持って教えてくれた。
きっと水泳を続けてどんどん有名になって伸びていったら、私は私のことを許せなくなってたと思う、とそう悲痛な叫びを孕む声で言っていた。
それが俺の初めて興味を持ったものの末路。
失ったのは周りの期待、俺がこれまでに類を見ない選手になりうる、俺の将来性だった。
あと二話!
ちなみに作者も初めてやったのは水泳でした