第五議題 前編
仕事が終わり、自宅へ戻り玄関のドアを開けると仄かにお味噌汁の良い香りが漂ってくる。先に帰ってきていた架名が夕飯を作っている所だった。
「おかえり輝!」
「ただいま。」
「…輝?どうしたの…?」
架名が不安そうに輝の顔を除き込むので、輝は自分が心配される様な顔や態度であったことを初めて自覚し、焦って笑顔を作った。
「大丈夫!大したこと無いよ!今日大変で…ちょっと疲れちゃっただけ!」
「…そっか。夕飯もうちょっと時間かかるから、着替えてからゆっくりしてなよ。」
「うん、ありがと!」
パタパタと自室に入りスーツを脱ぐ輝の背中に、架名は心配そうな視線を外さない。しばらく無言で言うべきか言わざるべきか悩むと、短いため息を吐いてから架名は輝に声をかけることにした。
「言えることや言えないこと…どんなに信頼してても一つや二つはあるもんだと思うし、無理に言えとは言わないよ。でも、抱え込んでんのが辛いんだったら…言いなね?」
「…架名…。」
「親友じゃん、アタシらさ。輝の辛い顔見たくないから。」
「…ありがと、あの、夕飯の時に…話せたら話すね。」
「おっけ、りょーかい。」
架名の温かい言葉に少しだけ心の中の重りのようなものが取れた気がしたが、心の中に引っ掛かった様な違和感だけはどうしても取れない。
石際真由美について密かに気にしていた輝だったが、そこで思わぬ事実が判明した。
依斗が元大学教授であった事実、それは本人から聞いたものではない。だからこそ、罪悪感と不信感のようなものがチラついた。
輝がどんなに依斗を信頼していても、依斗は輝を完全に信頼しているわけではないのかもしれない。
自己肯定感の低い輝は他人から見ればたったそれだけの事で一気に自信を無くしていくのである。
それでも初めて認めてもらった場所を守ろうと決意していた。しかし、信頼は一度陰るとその分ぎこちなくなっていくものであり、依斗への後ろめたさと信じてもらえないという事実が輝を追い詰める。
疲れてしまった。それが一番の感想だった。
再び暗い顔になった輝に架名はなるべく元気に振る舞いながら、テーブルにつくように促した。そして輝が自分から話始めるまで、架名は適当な話をして待った。
輝はというと、せっかくの親友の手作りだって今日は味がしないくらいに気持ちは沈んでいた。
しかし、一番好きな食べ物を口にした瞬間に少しだけ輝の瞳に光が灯る。
「……ピーマンの肉詰め美味しい…?」
「うん…!美味しい………!」
「そっか、良かった。」
輝は自分の事で精一杯であったが、ピーマンの肉詰めを食べてから、ふと不思議に思って台所をながめる。
何故なら、帰ってきたときは別の惣菜が用意されていた筈だったからだ。
そして台所に隠れるようにラップがかけてある皿を見つけた。
「わざわざ作ってくれたの…?」
「あちゃー…見つかっちゃったか。あら熱取らないと冷蔵庫入れられなくて!明日のおかずで良いでしょ?」
台所を見れば見るほどにわかる。輝が元気がないのを気付いて、架名は慌ててピーマンを切り、明日使う筈のひき肉をこねて元気付けようとしてくれたのだろう、と。
「…架名。ごめん…私自分の事ばっかりで…架名がせっかく作ってくれたお料理も…こんな暗い顔で食べちゃって…。」
「いーの。それに、ピーマンの肉詰め食べてからちょっと元気出たんしょ?美味しいでしょ?」
「うん…美味しい…!」
「なら大成功~!それだけで良いの。」
輝はさっきまで重たく引っ掛かったものが口の中のピーマンの苦みと共にほどけるのを感じる。
「ありがとう…。」
自然と出た言葉に、架名は少しだけ目を見開いた。いつだって輝は「ごめん」とマイナスな言葉をよく使っていた。それが、変わってきている。
それはたしかに良い変化だった。
夕飯を食べ終わり、食後のコーヒーとミルクティーを飲みながら二人はようやく本題に入った。
「前に言ってた…女の話かぁ…アタシも結構色んな子に聞いてんだけどね…。」
「色々その人の事知ってる人に聞いたら、先生の昔の話を聞いちゃって…。」
「なるほどねぇ…。」
「だから、何があったのか知りたい…。ちゃんと先生の事理解してからアシスタントとして役に立ちたい…!」
架名は意欲的な輝に驚きつつも、空回りしそうな空気を感じ取ったので諭す様に言った。
「あんまり勝手に人の過去を詮索するのは、信頼感系を築く上であまり良くないと思う。」
「…!でも…。」
「向こうから言うまで待てないかも…ってんだったらさ。直接、自分から聞いたら良いんじゃない?」
「…!」
たしかに、自分の過去をコソコソ調べられるのはあまり良い気はしないだろう。だったら直接聞くべきだろう。
しかし、あの依斗の事だ。もしかしたらはぐらかされて終わるかもしれない。
様々な不安が飛び交うが、架名の言うとおり自分から信頼を崩す様な事は避けるべきであるだろう、と輝は石際真由美と依斗の過去について調べるのを一旦思いとどまる事にした。
「直接、聞いてみる。」
「それがいーよ。そういえば今の職場大丈夫なの?事件とか巻き込まれてるんでしょ???」
架名は相変わらず心配そうに輝を見るが、今度こそ本当の笑顔を浮かべる。
「里日さんも優しいし、仕事もなんだかんだちゃんとできてきたし…自分も変われる気がするの。あと、お守りあるから大丈夫!」
「たしかに、それなら大丈夫そうだね!てか、まだ持ってるんだ!あのお守り!」
輝と架名が高校時代修学旅行でお揃いで買ったお守り。輝はそれを常に持ち歩いていたのだった。もちろん、架名もなんだかんだ常に持ち歩いていたのだが。
「そうだね…でもこれがあるから強く居られるんだよね。架名が近くに居るって感じがして」
「そっかぁ…!良かった!アタシもちゃんと持ってるよ!身につけすぎてたまに着いてること忘れるケド!」
同じ色、同じ願いを込めたお守りはボロボロになりながらもたしかに二人を守っている様に思えた。
次の日、職場である依斗の自宅へと着いた輝は玄関にいつもの里日のヒールの靴の横に、見知らぬ女性の物と思われる靴が一足並べてある事に気付く。
「誰だろう・・・?」
依斗のサンダルが無いところを見るに、恐らく里日の客人だろうか。どっちにしても見知らぬ人間である事には変わりない。
輝は少し緊張しながら部屋に入ると、ほんわりとダージリンの香りが輝を迎えるように漂ってきた。
「あら、輝ちゃん!おはよう。」
「里日さん、おはようございます。」
里日が輝に気付いて笑いかけると、輝に背を向ける様に座っていた黒髪の女性が振り返る。
スーツを着たキリッとした印象の女性で、一つに束ねたサラサラの長い髪が揺れた。
「あ、こちらはさっき紅茶店で知り合った・・・」
「山木文香です。高校で国語の教師をやっています。」
「国語の教師が・・・どうしてここに?」
「私、実は哲学者の卵でして・・・佐久間先生に是非ともお願いしたいことがあって、佐久間先生ごひいきの紅茶店に通い詰めていたんです。」
「そうなんですか・・・。」
輝はなんとなく、一歩間違えばストーカーのような手口だな。と内心ヒヤヒヤしてしまった。職業のイメージとは恐ろしいもので、特に疑われることも無く文香は里日と打ち解けている。
多少警戒しながらも、里日に促されるままに輝は文香の隣に座った。
里日は輝の分の紅茶を用意して真正面に座ると、少しだけ湯気が弱くなった紅茶に口を付け、会話を再開させた。
「それで・・・依頼と言いますのは?」
「あ、はい。実はここ最近・・・いえ、もう一年ほどでしょうか。我が校の生徒の問題行動などが目立つようになっておりまして。」
「・・・と、言いますと?」
「後先考えずその時々の感情で、相手の気持ちを考えず自分の都合で、人を傷つけたりする生徒が多い様に感じるんです。」
真剣な顔で生徒達の事を語る文香は、先程の不信感などを簡単に振り払うくらい、教師としてあるべき姿だった。
「・・・しかし、恥ずかしながら生徒達にとって、教師は尊敬できるだけの人間では無くなりました。苦しんでいる生徒を、自らも一緒になって追い詰める教師や、見て見ぬフリをする教師。・・・こんな姿を間近で見せられ、誰が教師の言うことを素直に受け止めるでしょうか?」
見て見ぬフリ、一緒になって生徒を追い詰める教師。輝にも経験のあった事である。
もしも、自分が高校生の時に文香のような教師がいたのなら、少しは今の自分の嫌な部分も改善されたかもしれない、と。文香に対する印象は、文香が発する言葉の数に比例するように変っていった。
「ですから、名声があってなおかつ生徒達が尊敬できる、佐久間先生に・・・深く考え思考する事の大切さを、生徒達に説いて頂きたいんです。」
先程感じた執念のような様な物の正体に、一欠片も邪な感情などこもっていなかった。
ただ純粋に生徒のために、文香は藁にもすがる思いでなり振り構わずここまでやってきたのだ。
里日は終始笑顔を絶やさずにこやかに紅茶をすすっていたが、その姿は真剣であることは輝でも感じとれた。
そして、里日の一存で決めることができないと言うことも。
この場所において、里日には発言権はあるが、重要な事を決めるのはいつだって依斗なのだ。
しかも、依頼内容はつい先日断っていた内容と大して変らない。対象が大学生から高校生に変わっただけで、これが講義の依頼である事は明確な事実。
依斗は、講義の依頼を酷く避けている。
理由は恐らく石際真由美と関係しているのだろうが、この場でそれを口にするほど輝は馬鹿では無い。
「・・・お話しはわかりました。・・・この件は私一人で結論を出すことはできません。・・・先生に直接・・・」
里日が落ち着いた優しい声で言葉を繋ぐ中、突然背後から冷たい声がした。
「無論、答えはノーだ。お引き取り願いたい。」
輝は驚いて振り返る、そこに居たのは確かに見慣れたニット帽。間違いなく依斗だが、輝はまるで別人を見ているような気分になった。
優しさも慈しみも、憎悪や恐怖や怒りすらこもっていない真っ白な笑顔。
輝の心が最も受け付けない空虚な無感情な笑顔。
ゾッとしながら固まる輝の横で、文香は少しだけ眉をひそめた。
「・・・アナタが、佐久間先生ですか。」
「いかにもそうだが、生憎、講義の依頼は全て断っている。」
輝は文香が生半可な気持ちで依頼したわけでは無い事、それなりの決意があってここへ来ていることを伝えようと口を開きたかったが、どうにも昨日の事があって憚られた。
しかし、文香は拒絶されてもなお引き下がることは無かった。
「佐久間先生、一つ意見させて下さい。」
文香は臆すること無く依斗の真正面に立った。
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文香が帰った日の夕方、依斗は自室にこもって珍しくパソコンに向かっていた。画面には『講義用原稿』という大きめの文字と、永遠と綴られた小さい文字の数々が映し出されていた。
依斗の機嫌はあまり芳しくない。眉間にしわを寄せて文章を作っている。
リビングでは輝と里日が講義に必要な機材などの準備や、講義で依斗が着ていくスーツの手配をしていたが、時折心配そうに依斗の部屋を覗いていた。
無言でパソコンに向かう依斗の脳裏には先程の文香の言葉が過ぎる。
依斗はいつだって思考するに当たり誰より確信に近い考えに至る自信があった。だから言い負かされるなんて事は殆ど無い。
しかし、今回ばかりは相手が一枚上手であった。
『佐久間先生一つ意見をさせて下さい。先生は本の執筆をなさっていますよね?私も拝見致しましたが素晴らしいものでした。あの本によって思考する事の大切さを実感し、人生観が変った読者も多いことでしょう。ですが、本の執筆で人に影響を与えるのと、講義によって直接影響を与える事に何の違いがあるのでしょうか?
・・・もし、直接影響を及ぼすことが怖いのであれば、それを克服しようとせずに避け続ける事こそが思考の放棄であると考えます。』
文香の言葉に依斗は何も言い返す事ができなかった。
文香が間違っていないこと、最もな意見であること、それは依斗が一番わかっている。
だからこそ、こんなにも機嫌が悪いのだろう。
「・・・は、ふふ」
突然客観的に自分の現状を意識して、なんとも滑稽だ、と依斗は思わず笑ってしまった。
人に言い負かされて苛ついている様では、そこら辺の思考を吸収できない者達と同じである。
否、自分の愚かさは既に自覚している。だからこんなにも可笑しいのだ。
自覚していた以上に自分が愚かであり、一部を気付いていただけで全て知った気になっているから余計に。
「私もいつの間にか考えの偏った凡人になったか。」
その呟きは誰かに届くことは無く消えていく。
そこからは何故かスムーズに仕事が進んでいく。人は苛ついているとこんなに頭の回転が悪くなるのか・・・、と依斗はまた一つ学習した。
一通り文章を作成し終えた頃には、すっかりあたりは暗くなって、輝が丁度帰るところであった。
「お疲れ様、飯塚くん。」
「あ・・・先生・・・。お疲れ様です。」
依斗の表情が軽くなっていた事に気付いた輝は、少しだけ微笑んだ。
苛ついている事で気まずかったというのもあるが、避けていた事に再び向かう事が怖いのを輝は知っていた。
だからこそ、何よりも依斗が心配だった。
「・・・飯塚くん。君のことだからきっと、私の気持ちを感じ取ってしまうのだろうね。」
「あ・・・私は、あの。」
「私は大丈夫だ。」
下手すれば拒絶とも取れる言葉だったが、輝はそんな事思わなかった。
たとえ過去を知らなくとも、輝は目の前の依斗を信じようと思えた。
「先生・・・、私・・・!」
「・・・あら?輝ちゃんまだいたの!?・・・終電大丈夫?」
石際真由美と関係を聞こうとしたが、里日の声で我に返る。
「うわ・・・ごめんなさい!!!!!帰ります!」
走って玄関を飛び出して行く輝の後に続く様に里日も靴を履いて依斗に振り返る。
「先生、私もこれで失礼しますね。」
「あぁ・・・里日くん。ありがとう。」
「・・・講義、無理なら今からでも断りますよ?」
「・・・いや、このままではいけない事くらい、私だってわかってる。大丈夫だ。」
里日はいつも以上に優しく笑った。
「そうですか。・・・先生が決めたなら良いんです。」
「あぁ・・・私の我が儘に付き合わせてすまないね。」
「良いんですよ。先生達に助けられたあの日から、ずっと付いていくと決めてますから。・・・では、失礼します。」
里日の後ろ姿に軽く手を振る依斗。もちろん振り返されなかったが、それはいつものことで。
閉じた玄関のドアを特に理由も無く呆然と見つめる。
静寂が依斗を包み込む中、パソコンにメールが届いた時の音が玄関にまで聞こえてきた。
「・・・?」
特に不思議に思うことも無く、依斗は自室に向かう。先程まで緩やかになっていた依斗の顔がメールの文面を見た瞬間に再び険しくなった。
送り主は不明、しかもたった数行のメール。
依斗の眉をひそめさせるには十分な内容だった。
【この前の事件解決されたそうで良かったですね。私からのプレゼントは喜んで頂けましたか?思考するのが大好きで、私のことが大嫌いな先生ならきっと喜んで下さると思って、私一生懸命考えたんですから。・・・先生の一番の助手より。】
間違い無く石際真由美の仕業だろうと直感した瞬間に違和感を感じる。
石際真由美は、『先生』と呼んでいただろうか?
依斗の頭に真っ先に浮かぶのは何故か輝だった。
「まさか・・・?いや・・・飯塚くんは・・・。」
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その一週間後、輝はこの日も慌てて自室を飛び出した。高校での講義当日、輝は完全に寝坊してしまったのだった。
「朝ご飯は~?」
「ごめん!すぐ出なきゃ!」
架名の作った朝ご飯に目をやりながら、申し訳なさと、食べたかったのに食べられなかった無念さに断腸の思いでアパートをでた。
(走れば・・・!まだ間に合う!)
最近買ったばかりの運動靴を軽やかにはねさせていると、アパートの敷地から出た瞬間に人が通りかかった。
「・・・・・・う・・・わ・・・」
止まろうとしたが、輝は普通の人間であり咄嗟に回避できる様な身体能力は持ち合わせていない。
当然、ぶつかった。
見事にばらまかれる輝の荷物、そして尻餅をついてしまう輝。
相手は驚いてはいたが、ふらついた程度だった。
「ご、ごごごごめんなさい!!!」
条件反射の様な謝罪に、相手は心配そうに輝の顔を覗き込んできた。
女性は見るからにキャリアウーマンといった感じの装いであり、里日とは対照的でクールな印象を受けた。
「びっくりした・・・大丈夫?」
「あ、私なんかより・・・アナタにお怪我は!?」
「アタシは大丈夫。でも危ないから飛び出しちゃダメよ。」
厳しい言葉であったが、それは当然のことで。
しかも女性は笑っているため、そこまで怒っているわけでもなさそうだった。
だからこそ余計に申し訳なく思い、輝は反省しながら再び頭を下げる。
「本当にすみません・・・!」
「良いのよ、次から気を付ければ。・・・荷物集めるの手伝うわよ。」
「え、そんな・・・!申し訳ないです・・・!」
輝が止めることも気にせず、女性は散らばった荷物を集めていく。
「ハイ、これで全部ね。」
「ほ、本当になにからなにまですみません!!」
「いいから!気にしないで!それより急いでるんじゃ無かった?」
女性に指摘されて思い出したようにスマホで時間を確認する。時刻は乗るはずの電車が既に出発してから10分も経っていた。
「あーーー・・・遅刻・・・。」
輝は完全に遅刻した状況に体の力が悪い意味で抜けていくのがわかる。急がなければいけない現状が変らなくとも、明らかに先程まであった希望は潰えていた。
「あの・・・大丈夫・・・?」
「・・・あ、すみません・・・。大丈夫です・・・ご心配とご迷惑おかけしました。」
「・・・どこに行く予定だったの?」
「実は、私立桜宮高校に用事があって・・・。10時までに到着しておかなければいけないんですけど・・・。」
今回講義をすることになった高校と場所を聞くと、女性は少し考えた後、煌びやかでオシャレな腕時計で時間を確認した。
「・・・こっちはまだ時間はあるし・・・アタシの車で送っていってあげる。」
「・・・へ?」
「電車だと実質遠回りだから間に合わないけど・・・、車ならすぐよ。早く乗りなさい。」
女性に案内されるままに付いていくと、水色の車が停めてあり、ドアを開けると清潔な香りが輝の気持ちを落ち着かせた。
「ほ、本当に良いんですか!?」
「良いから!急がないとアタシの予定にまで差し支えるでしょ、大丈夫だから早く乗って。」
「し、失礼します!」
車に乗り込むと、女性は無駄の無い動きでエンジンをかける。シートベルトをしていることを確認すると、精密機械の様に丁寧に迅速に運転し始めた。
「運転すごくお上手なんですね・・・!」
初対面の相手に中々話しかけられないタイプの輝だが、そう言わずにいられなかった。
「そう?・・・まぁ、職業柄よく運転してるからかしらね。こう見えて教習所では結構下手くそだったのよ?」
「そうは見えません!」
「アタシ、こんな性格だから・・・プライドっていうの?そういうの高くて、馬鹿にされるの嫌だったから。誰より練習したのよ。」
「努力家・・・なんですね・・・!」
「ふふ、ありがと。でもね、努力は人に見せない方がかっこいいの。アタシはいつだってそうしてきたわ。料理も仕事も・・・人生だって。」
そう語ったまだ名前も知らぬ女性に、輝は思わず「かっこいい」と感じた。
女性はその眼差しに気付いていたのか否か、チラリと輝に目をやってから口角を上げる。
「アタシと同じ生き方なんて、結構しんどいからおすすめしないわよ。・・・それに、人それぞれの生き方があんの。アタシはたまたまこの生き方が生に合ってるだけ。」
窓の外を見ると、目的地まであと数百メートルといったところだった。
「アンタはアンタの生き方を探せば良いわ。」
「・・・私の、生き方・・・。」
「さ、着いたわよ。」
車は高校の門の前に停まっており、時刻は当初の時間の5分前だった。
「す、すみません!助かりました!」
「あ、そうそう!偉そうなこと言っときながら難だけど、一つだけ指図させてくれる?」
「え、な、なんでしょうか!」
「そういうときは、ありがとう、って言うのよ。」
女性はドアを閉めると、窓を開けて輝に笑いかけた。
「アタシ、森野 紀和。貴方の名前は?」
「い、飯塚輝です!」
「また、会えるといいわね。じゃ!」
あっという間に去って行った紀和の車を、輝は見えなくなるまで見送った。
輝もまた、紀和と再び会いたいと感じていたからだった。
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晴れ渡った空の下、グラウンドからはサッカーをする男子生徒の賑やかな声が聞こえ、逆に校舎では授業に取り組む生徒達が静かな空間を作り出していた。
高校生達の青春の場所に足を踏み入れながら、輝は職員玄関に向かって歩く。
既に職員玄関の前にはいつも通りの里日とスーツ姿の依斗が立っていた。少し前まではスーツ姿の方が見慣れていたが、いつものサルエルパンツを着ていないからか、改めて佐久間依斗のアシスタントなんだなぁ・・・と実感した。
「あら、5分前に到着ね。」
「珍しい。君なら寝坊して焦って厄介ごとに巻き込まれて電車を逃す位の事はしそうだがな?」
「エスパーですか・・・?お察しの通り、寝坊して走ったら人とぶつかって電車逃しましたよ・・・えぇ。」
「ふむ、やはりな。」
「でもそれなのによく間に合ったわね?」
「ぶつかった相手がとても親切な方で・・・送って下さったんです。」
思い出す程に、紀和の顔が浮かんで温かい気持ちになる輝の顔を、依斗は少しだけ怪訝な顔で観察している。
「そう!良かったわね~。」
「はい!」
「・・・・・・。」
依斗の頭は昨日のメールの事でいっぱいだった。輝は果たして本当に石際真由美と関係しているのか?
(一連の不可解な出来事は、飯塚くんがやって来た日から始まった。・・・・・・可能性は・・・十分にある。・・・だが、まさか・・・。)
人は見かけでは無い事は依斗もよくわかっている。しかしどうしても目の前の輝が石際真由美と関係しているなんて信じられない。
いや、信じたくないという方が正しいだろう。
輝を見つめたまま直立不動になった依斗と、見つめられている輝が目を合わせるのにそこまで時間はかからなかった。
「先生?」
「・・・!」
「どうしたんですか・・・?」
警戒している依斗とは真逆に、すっかり依斗を信頼している輝は無防備と言って良いほどにキョトンとしている。
それも演技かもしれないと思うと、全てが怪しく思えて来るから不思議だ。
「何でも無いさ。相変わらず寝癖バッチリだ。」
「あ・・・。」
慌てて頭を押さえる輝からあっさり目を反らすと、依斗は職員玄関のインターホンを押した。
そんな依斗の言動に輝はもちろんのこと気付いていた。この前の夜を最後に依斗が輝に優しく微笑みかける事が無くなったからである。
それは些細な変化に思われるが、輝にとっては大きな変化で、石際真由美と依斗の過去を聞きたい現状では重要な事。
自分が原因なのか、それとももっと別の理由なのか。依斗に疑われているのは間違い無かった。
(私がいつまでもコソコソしてるからだ・・・今日こそ絶対に、聞くんだ。)
輝の決意を待っていたかの様なタイミングで職員玄関の扉が開き、中から国語教師の文香が出迎えた。
「佐久間先生!今日は引き受けて下さいましてありがとうございます。里日さんも飯塚さんも、助かります!」
「構わないさ、私も一歩踏み出さなくてはね。」
「さ、中へお入り下さい。校長室に案内します。」
文香の後を付いていくと一般的な職員室の前を通り過ぎ、校長室に着く。中は重厚な空気で満たされており、校長席には一人の男性が座っている。
「失礼します。佐久間先生が到着されました。」
「おぉ、お待ちしてました!」
校長は依斗を見るなり素早く立ち上がって握手を求める。依斗もまたいつもの感じからは想像しづらい礼儀正しさで握手に応じる。
「こちらこそ、貴重な体験をさせて頂く機会をありがとうございます。」
「貴方の執筆された著書、わたしも拝読させて頂きましが、素晴らしい内容でございました。教育者として目の覚める思いです。」
「お役に立てたのなら光栄です。」
しかしやはり敬語は苦手なのだろう。依斗をいつも見ている側から見れば少しぎこちない様に見える。
しばらく校長の『桜宮信一郎』と立ち話をした後、依斗達は文香に学校を案内して貰える事になった。
職員室にはこの時間授業がない教師が数名デスクに座っている。入ってきた依斗に会釈したり、一部の女性教員は少しざわめいていた。
「佐久間依斗・・・本物ですよ・・・!」
「えぇ、そうねぇ・・・。」
敬語で話しているのは茶髪の小柄な女性、頷いているのは黒髪の落ち着いた雰囲気の女性。その二人で話している女性教員に文香が声をかけた。
「筆井先生、沢倉先生。確か佐久間先生のファンでしたよね?」
「はい!!大ファンです!・・・主に顔の造形の美しさと表現方の美しさがたまりません!」
「私は、教育者として参考にさせて貰っている程度だけれど・・・。有名な方に会えて光栄だわ。」
「佐久間先生、こちらの方が美術教師の『筆井立子』先生、隣にいるのが養護教諭の『沢倉乙女』先生です。」
互いに自己紹介を終えると、筆井と沢倉は軽く会釈し、そのまま各々の仕事に戻っていった。
講義が行われる第三体育館へ向かう途中、プールの前を通る。輝はなんとなくそちらへ目をやった。
部活動だろうか?授業にしては立っている男性教師の顔も生徒の顔もこわばっている。
「・・・あれは、水泳部です。もうすぐ全国大会なので水泳部だけは特別に練習しているんです。」
「へぇ、この学校は水泳が有名なんだねぇ。」
「はい、何せあの男性教師は『岩浦 孔子』先生といって。・・・彼は・・・」
依斗と文香の会話を聞き流しながら、輝は岩浦に目を向ける。
その瞬間、輝の体の中を言い表せない嫌悪感が駆け巡った。
「・・・!!!」
思い出せない。いや、思い出したくないというのが正しい。輝の中で封印していた記憶。
今にもトラウマが吹き出してしまいそうな間際、輝の肩は強く掴まれた。
「飯塚くん!」
「・・・!・・・・・・せん・・・せ・・・。」
「・・・大丈夫かい・・・?」
「・・・あ・・・。」
突然立ち止まった輝を不思議そうに首を傾げて見る里日と文香。そして、肩をつかんでいる依斗は酷く不安そうな顔をしていた。
「・・・ごめん、なさい・・・私・・・。」
「・・・。」
依斗はチラリとプールの方に目を反らし、そして悟った様に輝の手を掴んだ。
「全く、飯塚くんは・・・。睡眠時間を削るなとあれほど言っただろう。」
「え・・・?」
「・・・早く講義の準備をして休みたまえ。講義は午後からだし少しくらい休んでも問題ない。」
「・・・あ、はい・・・。」
その場から輝を遠ざける様に依斗は腕を引っ張って第三体育館へ向かった。
輝は人の気持ちを汲み取る事にかけては誰よりも得意な筈だったのに。だけどどうしても依斗のこのときの行動は理解できなくて。何故依斗が疑っているはずの自分にあんな表情を向けるのか。
わからなかった。
わからなくて当然だ。考えても答えは出ない。
依斗自身、理解できない不可解な行動だったのだから。
第三体育館に着くと、相変わらず依斗は元の仮面を被った様な態度で輝と接していた。
順序良く講義の準備を終え休憩中、文香と里日は昼食を取るために意気揚々と学食へ向かった。輝も誘われたが、断って依斗と体育館に残る事にした。
無言な空間、スーツの上着を脱いで腕捲りをした状態でパンを頬張る依斗に目をやる。輝は先の出来事で薄々感じていた。依斗はまだ完全に輝を疑っているわけでは無いということを。
まだ疑念の段階。それさえ祓うことが出来れば、依斗との信頼をまた取り戻せるかもしれない。輝は今話さなければそのチャンスは無いと直感していた。
「先生。」
「なんだい飯塚くん。」
目は見ないが無視をする訳でもない。当たり障りの無い"どうでも良い人間"に向ける態度。
もし輝が今までと変わらなければ、それを受け入れて避けていったのだろう。
しかし良くも悪くも、輝を変えたのは依斗の言葉な訳で。
信頼してもらうには、自分がまず全てをさらけ出すべきである、と。輝は思いきって聞いた。
「先生が私を何故疑っているのかは、聞きません。」
「…!」
「…だから、私は信じてもらうために、こそこそしないって決めたんです。」
「…ほう。それで?何が言いたいんだね?」
これを聞けば依斗は、何故石際の事を知っているのか?とさらに疑うだろうか。それとも、勝手に自分の過去を詮索していた事を怒るだろうか。
輝はスーツの裾を握り、口から吐き出すように疑問をぶつけた。
「先生は、昔…大学の教授をしていたとき…!石際真由美という人物と…何があったんですか?」
「……。」
「詮索するつもりは、ありませんでした…でも、シュンちゃんとの会話で先生が大学の教授をしていた事を知りました。そして、その石際という方と何か関係があって、人に教えることを辞めた事も…!」
「……。」
「私は、どんな過去があっても今の先生を信じると決めました…!だから、教えて下さい!」
依斗は真顔で輝を見ていたが、片手を頭に手をやり、長めのため息をつく。
そして、肩を揺らして盛大に笑い始めた。
「……ハッハッハッハッ…ハッハッハッハッ!!」
「な、なんですか先生!私は真面目ですよ!」
「すまない…フフ……。君の口から石際真由美という名前が出てくるとは思わなかったよ。」
依斗は愉快そうに腹を押さえて笑い、そして輝にかつての優しく慈悲のこもった笑顔を向けた。
「はーーー、笑った。とりあえず飯塚くんが馬鹿正直だって事は良くわかった。」
「どういうことですか?」
「君を疑う必要は無くなったというわけさ。」
「…え、そんなあっさり…?」
呆ける輝に、依斗は歪んだ笑顔を浮かべて自らが輝を疑っていた理由を話した。
「この前メールが届いた。おそらく石際真由美からだろうね。君を装った文面と呼称を使っていた。」
「…!!」
「私は愚かにもまんまと相手の思惑通り君を疑っていたらしい。やれやれ、情けないな。」
依斗はどことなく安心したように、しかし嫌な汗を滲ませながら体育館のステージに座った。
「…君を疑うのはかなり心理的負担だった」
「…先生…あの…。」
「石際真由美について、私の過去については時間のあるときに話そう。」
里日と文香の喋り声が体育館に近づいてくる。それは休憩の終わりを指していた。
先ほどより柔らかくなった依斗の表情に輝は安堵を隠せない。
依斗はもちろん直感的に信じた訳ではない。考えた上で信じると決めたのだ。
石際真由美と関係があるのならば過去を知らない筈が無い。彼女ならば輝を説き伏せる事もできるだろうが、依斗の言葉に感化されて成長した輝には石際真由美の言葉が影響しているとは思えない。
石際真由美の味方なら、依斗の過去を聞く必要すら無いのだ。
どうしたってこの場面で輝が石際真由美の名前を出すことは、輝は信じても良いと確信できる情報だった。
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昼休憩が終わり五限目が始まる時間になると、第三体育館には続々と生徒達が集まってくる。
今回依斗が講義を行う事は事前に生徒達にも伝わっているためなのか、特に女子生徒は和気あいあいと楽しそうにしており、男子生徒は気怠そうに整列していた。
依斗は講義で壇上に上がるためステージ裏で待機している。追加資料を取ってくるために一旦戻った里日が居ない為、輝は一人体育館の隅で立っていた。
こういうときどこに立っているのが正解なのかわからず、ただ生徒達が整列するのをぼんやりと眺める。
「・・・アシスタントの方ですか?」
「え?」
突然声をかけられて驚きながら振り返ると、輝は激しい動悸に襲われた。
声をかけてきたのは、あの体育教師だったからだ。たしか岩浦だっただろうか。
うろ覚えだがまだ直接紹介されていた訳では無いため、名前は覚えて無くとも仕方が無い、と自分に言い聞かせながらなるべく平穏を装ってぎこちない笑顔を浮かべた。
「はい、あの、初めまして。」
「あ、びっくりさせちゃいましたよね。僕は体育教師の岩浦です。良かったらこちらへどうぞ。・・・えぇっと・・・。」
「・・・飯塚です。」
「飯塚さんですね!・・・さぁ、どうぞどうぞ!」
思ったよりにこやかに案内され、先程よりも幾分か居心地の良い場所に立つ。
岩浦は特別危害を加えるわけでも無く、ただニコニコと輝の隣に立っていて、時折生徒に注意したりするだけだった。
輝は尚のこと不思議に思った。この嫌悪感や鳥肌の正体は一体何なのか?
何故こんなにも、岩浦に対して強烈な恐怖にも似た感情を抱くのか。
そんな事を考えている内に生徒達は整列し終え、ガヤガヤと騒がしかった体育館が静まりかえる。
校長が前に立って前置きをし、そして依斗が壇上に上がった。スーツ姿の依斗はテレビによく映っている姿そのままであり、控えめに見ても女子生徒達が黄色い歓声を上げるのは必然のように思えた。
「このような場所で、未来ある皆さんに直接講義できることを非常に嬉しく思います。講義を始めるに当たって一つだけ、先生や周りなど関係なく言わせて下さい。その前に・・・申し訳ないんだけど敬語だとちょっとテレビの時みたいで疲れちゃうから、普段通り喋るね?」
依斗の茶目っ気のある最初の挨拶に体育館の生徒達がどっと笑う。
「・・・この時間、ご飯食べたばっかりでとっても眠いだろう。・・・私も眠い。だから、最初の15分は私は意味の無い話をしよう。眠い者は寝ると良い。聞きたい者は聞いてってくれ。・・・脳を休める事は、とても大切だからね。」
依斗はそこから用意したパワーポイントも原稿も使うこと無く、本当に当たり障りの無い、いわば雑談と称される話を十五分間も展開した。
どの話も面白く、寝ている者はおろか私語をする生徒もいない。皆が依斗の話、仕草に釘付けになっていた。
「・・・さて、15分経った訳だけど・・・誰も寝てないみたいだからこのまま本題に入ろう。皆眠くないの・・・?私だけ?ハハハ。」
マイクを持った手を時折反対の手と交代しながら、依斗は哲学というよりももっと簡潔な、考える事について話しはじめた。
しかしそれは輝が知っている様な一方的な講義では無い。
「君、大学生になったらバイトとかするかい?」
「はい、まぁ。」
「どんなバイトしてみたい?」
「考えたことないっす。」
「ま、そうだろうな。進学する前からバイト先まで考えてる人中々居ない。良いんだ良いんだ!それで!…でも今ちょっと考えただろう?」
「考えてみても…良いかなぁ…。」
「良いね、些細なことでも先の事を考えるのは良いことだね。」
「佐久間先生はどんなバイトしてたんですか。」
「私?・・・私は紅茶店で紅茶売ってた。紅茶好きなんだよ。」
講義と言うよりも全校生徒との対談のような、笑い声と質疑応答が飛び交う空間。
聞いている教師も思わず笑ってしまう様な、そんな時間。
輝はさっきまで自分の隣に居る人間に底知れぬ恐怖を感じていた事などすっかり忘れて、依斗と生徒達のやりとりを眺める。
だからだろうか、その恐怖は再び唐突に輝に襲いかかった。
たまたま視界に入ってきた岩浦の横顔は、先程のにこやかさなど見る影も無い。
憎たらしい者を見る様な目で依斗を見ていた。
その目は、輝にとって思い出したくない過去を呼び起こすのに十分だった。
「・・・あ」
『お前みたいな、弱い癖に自分が正しいと思ってる奴、一番ムカつくんだよ。』
なんで気付かなかったのだろう。
目の前の岩浦を何故嫌悪していたのか。
簡単だ。かつて輝や架名をいじめていた同級生に似ているからだった。




