ベル・ガール
***
花の咲き乱れる庭園の中で、彼女の後ろ姿は黄金に輝いていた。
金糸のような髪が風に揺れ、首筋がちらちらと見え隠れする。
その肩のなんと華奢なことか。細い腕の、なんと白いことか。
ドレスは肩から腰まで細い体のラインをなぞり、腰からふわりと大きく広がる。
サテンのスカートが西陽を浴びて、太陽の色に染まっていた。その裾は地面に僅かに触れていて、脚も靴もその中に隠れてしまって何も見えない。
細い胴体と、その何倍があろうかという膨らんだスカート。
(呼び鈴の妖精だ)
思わずごくりと唾を飲み込む。それは、恐ろしいほどに幻想的な光景だった。
目を奪われたまま動けないでいると、突然彼女がこちらを振り向いた。心臓が跳ねる。
彼女は胸の前に花束を抱いていた。彼女が首を傾げると、スカートと花束がその動きに呼応するように揺れた。
リン、と音がしたような。
逆光で彼女の顔はよく見えなかった。彼女が小さな唇を動かして何か喋ったことはわかったが、風の音と心音にかき消されて、何を話しているのか判然としなかった。
ただ、その声は高く澄んでいて、本当の鈴の音の響のように耳朶をくすぐった。
その時湧き上がった感情に、なんと名前をつければよかったのだろうか。
***
「さて我が友人アベラルドよ。私は君に聞かねばならないことがある。君の返答如何によっては、我々の鉄よりも硬き友情に亀裂が走り兼ねない、あまりにも辛い話だ。しかし私は聞かねばならぬ。覚悟は決めた、苦しみを堪えて聞くことにしよう。良いか」
「我が友人ラウロよ、一体何を聞こうというんだね。まるで往年の舞台俳優のように芝居掛かって……」
「このくらい芝居掛けなければ怒りと悲しみで震えて死んでしまいそうだからだよ。よくもまあ抜け抜けと、平然としていられるものだ」
ある放課後、ラウロから話があると連れ込まれた空き教室の中で、アベラルドは机を挟んでラウロと対峙していた。ラウロの口角は上がっているが、目は笑っていない。アベラルドは何がこんなにも彼を怒らせているのか、さっぱり分からなかった。
「昨日、君は私の家にやってきたね」
「ああ、学校が終わってから君と共に君の家の馬車にのり、君の家にお邪魔したね」
「我々は哲学の読書会に参加していて、今週末は我々二人がレッサンの『ラオコオン』について発表しなければならないからね。美術について我々は全く門外漢であったからその内容や他の美学者との影響関係を理解することに苦労したが、次第にその興味深さに気がつき、良き発表をしようと意気込んでいたね。二人で分担していた調べものを共有し統合するため、昨日から放課後は私の家で準備することを決めた訳だ」
「今の説明は果たして必要なのかい?」
「ああ、必要だね私の精神を落ち着けるために」
ニッコリとラウロは笑うがやはり目は笑っていない。アベラルドはまた首を傾げた。
「しかし昨日の作業は順調に進んだじゃないか。一体全体、君が聞きたいこととは何なんだ」
「その通り、君のウィンカーマンとレッサンとの比較は見事だった!おかげであとはほとんど形式を整えるだけだ。問題はその作業の前後だ」
その前後というと、ラウロの家に到着してから部屋で準備を開始する前と、終わってお暇するときのことだろうか。
「小さな女の子に会っただろう。まさか昨日の今日で忘れたとは言わせないよ」
ラウロの顔からゆっくりと笑みが消える。幼馴染である彼の怒りには度々触れてきたが、相変わらず回りくどい怒り方をするものだと思う。初めて見る者なら、普段の物腰柔らかい彼との落差で身が縮んでしまうかもしれないが、アベラルドはもう慣れたものだ。ああ、これは本気で怒っているな、と思う程度である。
だが流石に、小さな女の子と言われてその怒りの理由を察せないほど鈍感でもない。これは旗色が悪い、とアベラルドは思った。
「……あんな幼い女の子、私の親戚にはいないんだよ。どう接していいか分からなくて失礼な態度を取ってしまったことは、心から謝罪するよ」
この話題は早々に終わらせようと、素直に謝る方向に方針転換する。しかしそれが、ラウロの逆鱗に触れてしまった。
「失礼?ああ、失礼だったね!部屋に案内する途中、君が突然立ち止まるから何かと思えば、庭にいた私の可愛い姪っ子を凝視してるじゃないか!この気持ちが分かるか?目に入れても痛くないほど、可愛がって守り慈しんでいる姪っ子を、友人がねっとりした目で見据えていた時、私が感じた気持ち悪さと恐怖が分かるか!?」
「ねっとり……酷い言い様だな!?私はこれまで何度も訪れてきた友人の家に、見知らぬ女の子が突然現れたから何事かと思って見てしまっただけだ!」
「そんな言い訳が通用すると思っているのか?思い出すだに恐ろしい目をしていた!具体的に言おうか?これから財宝も女も好きにしろと略奪を許された餓えた兵士、酒に酔ってしなだれかかって来た高貴な人妻女性に期待を抑えられない貧乏貴族、あるいは娼館で今夜の相手を選ぼうとしたら、新人の生娘が揃っていて舌舐めずりをする成金男……簡単に言えば品の無い男の目だ!君から急速に心が離れるのを感じたよ。我が友人は、まさか危険な犯罪者予備軍だったのか?
そこまで言うか。思い起こせば、確かに己の所業はひどかった。しかしこの友人の遠慮のない物言いには、流石に心の弱い部分がズタズタに引き裂かれる思いがした。
「しかしそれを突然追求するのも憚られた。無視する訳にも行かないからと仕方がなくあの子を呼んで、さっさと紹介だけして引き離そうとしたら、君はあの子がこちらに向かってきた途端に我に帰ったかのように私を部屋へと急かしたね!」
いっそ心が離れた瞬間に憚らずに追求してくれればよかったのに、なぜ一晩怒りと共にその思いを熟成させるのか……とは逆非難でしかないので口が避けても言えない。全て己の所業が原因なので、せめてもの抵抗を試みようにも、『そこまで酷くはなかったと思う』という言い訳しかできない。火に油である。もうボロボロになるまで言葉の鞭で打たれるしかない、とアベラルドは腹を括った。
(というか、あの子は姪だったのか。少し見とれて、少し反応に困って避けてしまっただけでこんなに怒るとは、そこまで親族を可愛がる男だとは知らなかった)
あるいはそんなに怒らせてしまうほど、客観的に見た自分の態度は気持ちの悪いものだったのだろうか。
「部屋に戻ってから、君は物凄い勢いで発表準備を進め、私はあの子のことについて何も口に出すことができなかった。そして帰り際、あの子は君に挨拶をしようと見送りに出てくれたのに、それを、君という奴は!」
一気に声を荒げ、目に怒りの炎を灯したラウロに、思わずアベラルドも身が竦んだ。しかしそのまま怒号が浴びせられるかと思いきや、ラウロは突然諦めたように、あるいは悲しみに襲われたように、急速にその炎を鎮めた。
「……君はまた、あの子から目を逸らして、あの子の言うことに生返事だけ返して、帰っていったね。あの子がどんなに悲しそうだったか。しょんぼりとしたあの子の顔を君は一度も振り返らずに帰っていった。君にどんな事情があったのか知らないが、一一歳の女の子を真っ当に慈しむことも、対等な人間として接することもできない人間だなんて、まさか思いも寄らなかったんだよ」
はっきり言おう。失望した。
友人の冷たい目に見据えられて、やっとアベラルドは自分の振る舞いが友人だけでなく、誰よりも、小さな少女を傷つけるものだったことを理解した。最初に不躾な態度を取られながら、しかし礼儀を尽くそうとして、またもその思いを裏切られたのだ。ラウロの怒りはその少女のためのものだった。
ラウロに責められながら、自分は本当に反省はしていなかったのだ。アルベルトはようやく、本当に申し訳ないという気持ちに襲われた。
「正直に言おう……庭にいた彼女が夕焼けや庭園と相まって、そのあまりの美しさに思わず見惚れてしまったんだ。挨拶に来てくれたとき、そうやって見つめてしまった気恥ずかしさと、先に言ったように子供慣れしていないことから、思わず逃げ出してしまったんだ。決して、馬鹿にするつもりもやましい思いも無かったんだよ。私の振る舞いが彼女を傷つけてしまったことには、心から謝罪する。申し訳なかった」
ラウロはアベラルドの目を探るように見据える。
「その言葉を、信じて良いんだね」
「信じてくれ、友よ」
「君があの子を傷つけることになるのなら、何かやましい気持ちを抱くのなら、私はもう二度と君に私の家の敷居を跨がせる訳にはいかない」
「そのようなことはない。誓って」
アベラルドもラウロの胡乱な視線を正面から受け止める。心臓がばくばくと音を立てた。永遠にも感じられた睨み合いの後、ラウロは小さく溜息をついた。
「分かった、信じるよ」
「ありがとう、ラウロ」
アベラルドはほっと息をついて微笑んだ。
「金輪際君とあの子を会わせないことも考えたが、あの子は何か失礼をしたんじゃないかと気にしているんだ。次はきちんと貴族らしく挨拶をしてやってくれないか」
「それは……面目ない。次は上手くやってみせるよ」
「さてそうと決まれば発表の準備をしよう、と言いたいところだが、生憎昨日持ち帰った宿題が全く終わっていなくてね。申し訳ないが、今日は休みにしてくれないだろうか」
「構わないよ。既にほとんど進めているからね。一日くらい休んだって十分間に合う」
二人は鞄を持って立ち上がった。校舎を出て、それぞれの馬車へと乗り込む。
「明日にはほとんど準備を終わらせてしまおう。家で出来る限り進めておく。明日の放課後はまた私の家に来てくれ。……あの子のことも、頼んだよ」
「ああ。また明日会おう、ラウロ」
ラウロの馬車が先に出発する。アベラルドはその馬車の最後尾が角を曲がって見えなくなるまでじっと見送って、深く溜息をついた。
心臓の音はまだ、耳につくほどうるさかった。
***
家に帰り、自分の部屋の扉を閉めて一人きりになって、ようやくアベラルドはほっとすることができた。
胸に手を当て、心臓を落ち着けようと深呼吸する。
(やましいことは何も無い。それは本当だ。私は友人に、なんの嘘も着いていない)
(美しさに見惚れただけだ。子供慣れしていないのも本当だ。なんの嘘も着いていない、やましいことは何も無い。ただ……)
ラウロが今日の準備を中止にしてくれてよかった。何も言わなかったけれど、アベラルドも昨日から何も進んでいないのだ。おそらく彼は、アベラルドに怒り、どのような言葉で追い詰めてやろうかと一晩中考えていたに違いない。一晩中一つのことに取り憑かれて何も手につかなかったのは、アベラルドも同じだった。
勉強をしようにも、他の何をしようにも、瞼に浮かぶのは黄金の少女の姿。
アベラルドの部屋の扉近くには、呼び鈴が一つ置いてある。木の柄に、真鍮に金メッキの鈴が付いている。それがふと目に入って、アベラルドは手に取って鳴らしてみた。
リィン、リィンと甲高い音をたてる呼び鈴を、アベラルドはじっと見つめた。
(姿がよく似ている。しかし音は、あの子の方が数枚上手だな)
溜息をついて少女の幻を脳内から打ち消し、資料を取り出して読書会の準備を進めようとする。明日、ラウロの家に向かうまでにもう少し詰めなくては。と考えて、次に会ったら詫びがわりにきちんと挨拶を、というラウロの言葉を思い出す。
「挨拶を?……あの子に?私が?そんなことが許されるのか?私が触れたら、あの子は消えてなくなってしまうのではないか?」
突然そんな不安に襲われて流石に馬鹿らしいと首を振った。
「いや、普通にすればいいんだ、きっと。アベラルド、君ならできる。普通に令嬢に対するように。ああでも、見つめ過ぎたらまたラウロから軽蔑されてしまう……」
アベラルドは置かれた呼び鈴の前に跪いた。
「こんにちは。昨日は失礼な態度を取って失礼しました、ラウロの学友のアベラルドと申しま……うわっ!?」
突然部屋の扉が開いて、高齢の執事が飛び込んできた。
「アベラルド様、遅くなって申し訳ありません!何かありましたか!……何をしていらっしゃるのですか?」
執事は扉脇に跪いたアベラルドを怪訝そうに見下ろした。
「な、な、何もしていない!呼んでもいない!ノックもせずにいきなりなんだ!」
「呼んだじゃありませんか。鈴で。私は聞き逃しませんよ、遅くなったので何かあってはいけないと急いでしまいました」
執事が指さした呼び鈴を見て、アベラルドはカッと赤くなった。
「いや、ちょっと物をぶつけただけだ!何もない!」
「はあ、左様でございましたか」
執事を押し出し、アベラルドは部屋の鍵をガチャリと閉めた。要らぬ恥をかいた。熱が引かぬまま、何もかも振り払うようにアベラルドは発表準備に取り組んだ。
***
翌日の放課後。アベラルドはラウロと共にラウロの家の馬車にのり、ラウロの館へと向かった。門の前で馬車を降り、メイドに迎えられて館の中へと入る。ラウロはメイドの後ろを迷い無く進み、アベラルドは緊張を悟られぬよう努めつつラウロに続いた。
客間の前でラウロは立ち止まり、アベラルドを振り返った。(分かっているな)と目で念を押してきたので、コクコクと頷くしかない。メイドが客間をノックし、「ラウロ様がお戻りになりました。ご友人のアベラルド様とご一緒です」と声をかける。すぐに女性の声で返答があり、メイドが扉を開けて二人を中に促した。
「ただいま、姉さん。僕の可愛いおひめさまは今日も良い子にしていたかい?」
「なーにが僕のおひめさま、だ。可愛がってくれるのはありがたいが、その緩みきった顔はよしてくれ、気色悪い」
友人といるときよりワントーン高くなったラウロの声にアベラルドまでギョッとしたが、それを女性がバッサリと切り捨てる。後ろからラウロの表情は見えないが、その肩越しに見えた女性の軽蔑するような顔を見るにそれなりに酷い顔をしているのは間違いない。――果たしてこの男に、昨日の自分を非難する権利が本当にあるのだろうか?
女性はアベラルドに気がつくと、懐かしそうに笑った。アベラルドも応えて、スッと紳士の礼を取る。
「アベラルド!いやあ、久しぶりだな!何年ぶりだ?相変わらず愚弟と親しくしてくれているのだな、ありがとう」
「リーサ様、お久しぶりです。リーサ様に最後にお会いしたのが私が中等部に上がるまえですから、もう六年ぶりになりましょうか。相変わらずお美しい」
「ふふ、ありがとう。もうそんなになるのか。しかし予想通り、良い男に育ちおって」
目を細めるリーサに、アベラルドもはにかみ笑った。
リーサとラウロは異母姉弟で、その年の差は十二にもなる。アベラルドも随分幼い頃にラウロと共に遊んでもらった記憶があるが、男勝りな喋り方はその頃から変わらない。彼女は十六歳で海を越えた異国へと嫁いで行ったので、ただでさえ数年に一度しか帰って来ない。しかも家族でないアベラルドは毎回会える訳ではなく、特にこの数年は色々悪運が重なって、再会までに六年もの間があいてしまうことになった。
自分の幼い頃を知る年上の女性。懐かしむような視線は、小さな頃のアベラルドと今のアベラルドとを見比べ、成長を見いだしているのだろう。胸の奥がむず痒くなり、思わず目を逸らしてしまった。――そしてその目を逸らした先で、アベラルドは見たくないものを見た。
「ああ、今日は菜の花色のドレスなんだね、僕の妖精さん!なんて美しいんだ……君の前では庭の花も嫉妬して蕾を閉じてしまうよ」
少女に跪き、高い声でその美しさを称賛する友人の姿である。
「気持ち悪い!やめてくれ、ラウロ!私の娘を誘惑するな!」
鳥肌がたったのか、リーサは自分の腕をさすっている。昨日自分を詰ったあの男、鏡を見るべきではないだろうか。後でそう言ってやろうと、その時はそう思っていたのだが。
リィン、と鈴の音が響いた。
違う、あの少女の澄んだ声だ。
「ふふっ。ありがとう、ラウロおにいさま。今日は庭師のおじさまのお手伝いをしたのよ。お給料としてお花をもらったの。おにいさまにもあげる」
ゾクリ、と背筋が震えた。
先ほどからあの子と同じ部屋にいたのだと、今更気がついて鼓動が激しくなる。目が釘付けになる。金髪のストレートヘア、細い首と腕、白い肌、小さな唇、そして菜の花色の――腰から大きくスカートが膨らむドレス。
アーモンド型の目に縁取られた空色の瞳が、パチリとアベラルドの方を見た。視線が絡まる。
「ああ、なんてことだ!小さな庭師、まるであの聖母の生まれ変わりじゃないか。これを本当に僕にくれるのかい?舞いあがってしまうよ!ありがとう、お礼にキスを」
「ラウロ、本当にやめてくれ!落ち着け!おい、誰か水を、水を奴の頭からぶちまけてくれ!」
姉弟の騒がしい声も耳に入ってこない。いや、耳には入っているのだが、意味を成す文章として脳が受け取らない。まるでその空間が、少女とアベラルド、ふたりだけになってしまったような――
「ああ、アベラルド、紹介がまだだったな?私の娘だ。ほら、おじさんのご友人に挨拶なさい」
そうリーサが取り成した声に、心臓がバクリと跳ねた。我に帰った。アベラルドが少女に見とれていたことには、どうやら気がつかれずに済んだらしい。ラウロが「おじさんというな!おにいさまだ」と噛み着いていたおかげでもある。
少女は少しばかり緊張した面持ちで、アベラルドの前に進み出た。
「お初にお目にかかります。わたくし、ラウロおにいさまの姪、リーサおかあさまの娘、マリア=ベッラと申します。あなたのことは二人から聞いております、お会いできて光栄ですわ」
そういってスカートをちょっと摘まみ、浅すぎず深すぎない礼をする。淑女の礼として百点満点だ。アベラルドはその姿に再び見とれそうになるが、慌てて跪いて目線を合わせた。
「初めまして、マリア=ベッラ。私はあなたのお母様と叔父様の昔からの友人、アベラルドと申します。……昨日は大変な失礼を」
昨日の態度への詫びは、リーサの手前、小声にならざるを得なかった。少女は軽く首を左右に振って、気にして居ないことを伝える。アベラルドはその答えと、無言で応えてくれたことにホッと胸をなでおろした。――ラウロが「だからおじさんと言うな」と文句を言ってくれたおかげで、リーサはそちらに気を取られてアベラルドの謝罪には気がつかなかった――
「ありがとう、小さなレディ。あなたの優しさと私たちの出会いに感謝を込めて、その手に口づけをしても?」
アベラルドがそう言って右手を差し出すと、マリア=ベッラは自らの右手を重ねた。その小さく白い手の甲に、ほとんど触れるか触れないか程度の口づけを落とす。見上げると、マリア=ベッラは頬を濃い薔薇色に染め、唇をキュッと結んではにかんでいた。
そっと手を離し、アベラルドは気を取り直すようにやや声を張った。
「さて!リーサ様やマリア=ベッラともっとお話をしたいのは山々だが、私とラウロは学業を疎かにするわけには行かないのです。今日この家にお邪魔しているのは他でもなく、私とラウロの勉学のため。お二人に偶然お会いできたことはこの上ない幸せだが、今日のところはこのあたりで」
ラウロは名残惜しそうにしていたが、すぐに諦めて「その通りだな、友人よ。我々には優先すべきことがある」と言って立ち上がった。リーサも微笑んで手を振る。
「会えて嬉しかったよ。それに娘を紹介できてよかった。まだしばらくはこの家に滞在しているから、勉強が一区切りついたら是非お茶を飲みにおいで」
「ありがとうございます。……マリア=ベッラも、また」
リーサに頭を下げ、マリア=ベッラに微笑む。マリア=ベッラはまた見事な淑女の礼をして、アベラルドとラウロを見送った。
ラウロの部屋へと向かいながら、「さて、我が友人ラウロよ」とアベラルドは声を掛けた。
「私の挨拶はどうだったかな?」
ラウロは気に入らないとばかりにフンと鼻を鳴らしたが、「良かったんじゃないか」と渋々返した。
「ちょっと大仰だったかもしれない」
「いいんじゃないか?あのくらいの年頃の女の子はレディ扱いが一番喜ぶからな」
「ラウロ、君のあの態度はレディに対するものか……?」
「僕は“おにいさま”だから良いんだよ!」
キッと睨み付けてきたラウロに、昨日の怒りは感じられない。それがアベラルドの礼を認めたものなのか、あの少女に癒やされたためなのかは知らないが、どちらにせよアベラルドは胸を撫で下ろした。
***
その晩も、アベラルドは自室に戻って深く深くため息をついた。
ラウロの挙動がどんなに怪しいものであれ、己が同様に気持ち悪いものになっていい訳ではない。少女を見つめすぎたり、逆に目を逸らしたりすることなく、ごく普通の紳士として、目を見て微笑む。たったそれだけのことをするのに、アベラルドは必死に己を律しなければならなかった。
帰り際にも、リーサとマリア=ベッラは見送りに来てくれた。ごく普通に、失礼な態度をせずに、と心の中で唱え続けた結果、やはり過度に丁寧な挨拶になってしまったことはもはや仕方が無い。
そして最後に見たマリア=ベッラのシルエットが、瞼の裏に焼き付いて離れない。そしてあの声も……。
チラと自室の呼び鈴に目を遣る。無機質なそれに、マリア=ベッラのシルエットが重なり、そして菜の花色のスカートが鐘に変わる。
「マリア=ベッラ……あの子は、マリア=ベッラというのか。マリア=ベッラ……」
その名の響きのなんと美しいこと。
『マリア=ベッラと申します』あの子の声がそう名乗るのに、なんとふさわしいこと。
アベラルドはまた、呼び鈴を手に取った。リン、と鳴らしてみるが、やはりその音はあの声と比べ涼やかさに劣る。錆が混じったようなそれは、「私のマリア=ベッラに相応しくない……」
「お呼びですかな、坊ちゃま!」
「うわあ!」
バタン、と音を立てて部屋に入ってきたのは、当然あのそそっかしい執事だ。
驚いたアベラルドの手から、呼び鈴が滑り落ちる。リリン!と痛々しい音を立てながら、呼び鈴は大きな円を描くように転がっていく。
「だから、呼んでない!いい加減にノックをせずに入るのはやめてくれ!」
「はあ、何事もないなら良いのでございますが」
深々と頭を下げて退室していく執事を見送りながら、ドッドッと激しく鳴る心臓を両手で抑えた。あの執事のマナーの無さは父上にその内告げ口してやろう。
床に転がった呼び鈴を拾おうとして、その鐘の中の振り子が目にとまった。これが鐘に当たって、あの劣化した音を立てるのだ。
あの子とよく似たシルエットが、こんな小さな振り子で汚される。それなら、そんなの、
「……いらないな」
***
「ラウロ、今日も君の家で……」
「すまない、アベラルド!突然だが生徒会の仕事が入ってしまったんだ。今日は準備は各自でやれることをやろう、発表前日に本当に申し訳ない」
翌日の放課後。アベラルドが声をかけると、ラウロは慌ただしく荷物をまとめながら答えた。
「そうか、それなら構わないよ。ちょっとした訂正と時間の調整だけだったからね。明日の朝か昼に一緒に確認すればなんの問題もないさ」
「ありがとう、アベラルド」
ラウロは最後まで申し訳なさそうな顔をしながら、小走りで教室を飛び出していった。生徒会副会長であるラウロは、学校行事の取りまとめだの、先生の雑用だので年中忙しくしている。それでいながら読書会にも積極的に参加しているのだから、なかなかに逞しい奴なのだ。口にこそ出さないが、アベラルドはラウロのことを尊敬している。
その尊敬するラウロが、どうやら今日は家に帰るのが遅くなるらしい。
(ふむ、そうか)
アベラルドは一人学校を出、家の馬車に乗り込み、馭者に声をかけた。
「ちょっと今日は寄り道するよ。大通りに向かってくれ。買いたいものがある」
しばらくして、馬車はアベラルドの指定した店の前についた。アベラルドはそこで目当てのものを購入し、再び馬車に乗り込む。馭者が訪ねた。
「ご用事はお済みで?ご帰宅なさいますか?」
「いや、ラウロの家に向かってくれ」
そのまたしばらくして、馬車はラウロの家の館に到着した。馭者には迎えはいらないと言って先に帰らせ、アベラルドは躊躇いなくラウロの家をずんずんと進んだ。
「リーサ様はおられるかい?」
メイドに尋ねると客間に通され、ややあってリーサがマリア=ベッラと共に部屋に入ってきた。マリア=ベッラはくすんだ桃色のドレスに身を包み、幾分上品な佇まいをしている。そのせいだろうか、昨日より胸を張って大人ぶったような態度が微笑ましい。
「やあ、アベラルド。昨日ぶりだな。今日は弟と一緒ではないのかい?」
「ご機嫌麗しゅう、リーサ様、マリア=ベッラ。本当はラウロと共に来る予定だったのですが、生憎ラウロは生徒会の仕事が入ってしまいまして」
「そうか。では今日は勉強会ではないのかい?」
「リーサ様やマリア=ベッラとゆっくりお話したいと思って参りました。ラウロがいては騒がしくて叶わない。せっかくの久しぶりの再会ですから、異国の話、異国でのリーサ様のお話をお聞かせ願いたいのです。もちろん、突然の訪問がお邪魔でしたら、急な用事を作って帰るのですが……」
用意していた文章をつらつらと喋ると、リーサは破顔した。
「ははは!これは可愛いことを言ってくれるじゃないか!愚弟の居ぬ間に、まるで内緒話だな。おい、紅茶と茶菓子を頼むよ」
リーサがメイドに声をかけたので、アベラルドは先ほど大通りで買ったものをサッと差し出した。
「これ、つまらぬ手土産ですが。急な訪問の詫びに」
その箱をみて、リーサは目を丸くした。
「『ベリー』のケーキじゃないか!並ばないと買えないって聞いて、私の国でも評判だぞ!」
店名を聞いて、マリア=ベッラがパッと目を輝かせた。
「本当?何のケーキ?スフレもある?」
リーサが箱をあけ、マリア=ベッラが中を覗き込む。一番人気のホールケーキやスフレはアベラルドが行った時既に売り切れていたので、小さなサイズを六種類ほど詰め込んでもらった。余り物では不満かもしれない、と心配していたが、マリア=ベッラの目の輝きを見るに杞憂であったようだ。
「スフレもタルトもある!チョコケーキも!どうしよう、選べない!」
「こんなにたくさん…アベラルド、わざわざありがとう。ほら、マリもお礼を言いなさい」
当然アベラルドは少女のお気に召せば、と思って買ってきたのでが、予想以上にリーサも喜んでくれた。促され、マリア=ベッラは進み出てアベラルドに立派なお辞儀をしてみせた。
「ありがとうございます、アベラルドおにいさま!私、この国にいる間に『ベリー』のスフレが絶対食べたいって、何度も言っていたんです。本当に嬉しい!」
顔をあげたマリア=ベッラは頬を紅潮させ、その瞳の輝きは眩しいほどだった。アベラルドは「それはよかった」と曖昧に笑って目をそらす。
メイドに預けられたケーキは、すぐに磁器の皿の上に盛り付けられた。「選べない」と言っていたマリア=ベッラは結局当初の希望通りスフレを選び、リーサは苺タルト、アベラルドはレアチーズケーキをそれぞれフォークでつつく。ケーキを食べる母娘の幸せそうな顔と言ったらなかった。買ってきてよかった。二人の喜ぶ顔が見られたのはもちろん、間が持つ。
「美味しい!美味しいけど、すぐに口の中でとろけて消えちゃう!美味しい!素敵!」
アベラルドはリーサの異国の話に耳を傾けながら、時折マリア=ベッラの顔を盗み見た。マリア=ベッラはスフレを食べている間中フワフワとした表情で、まるで天使がこの世に迷い込んだかのようだった。スフレを食べ終わると紅茶を飲んで一息つき、母親の話に相槌を打ちつつ、スフレを包んでいた紙カップを未練がましくフォークでつついていた。なんと愛らしい。
そうしてしばらくティータイムを楽しんでいると、バタンと大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「おや、おかえりラウロ。随分急いで帰ってきたんだな」
「僕の可愛いマリーが退屈していないかと心配でね!そしたらアベラルドがいるっていうじゃないか!何しているんだ、今日は各自で準備って言ったじゃないか!」
息を切らせたラウロはそこまで畳みかけてから、改めて「姉さん、マリア、ただいま!」と挨拶した。
「おかえり、ラウロ」
「アベラルド、君の家じゃない!」
「おかえりなさい、ラウロおにいさま。アベラルド様が『ベリー』のスフレを買ってきてくれたのよ!とっても美味しかったの!」
「マリア=ベッラ、僕のお姫様!『ベリー』のケーキが食べたいなら僕にそう言ってくれればいつでも買ってきたというのに……!」
マリア=ベッラの頭を慈しむように撫でてから、ラウロはキッとアベラルドを睨みつけた。
「それで、本当に君は何をしているんだい!」
「明日の昼に予定が入っているのをすっかり忘れていてね。もし朝も確認が取れなかったら不安だから、やはり今日中に君と話し合いたいと思って。リーサ様やマリア=ベッラとお話をしたかったのもあるがね」
淀みなく答えると、ラウロは言葉に詰まった。明日の昼の予定は図書館に本を返すだけで、別に期限が迫っている訳でもないのだが。司書と話でもして時間を潰すことにしよう。
「だからって……僕の帰りがいつになるかも分からないのに、僕に無断で押しかけるかい?」
「突然の訪問は申し訳なかった。その詫びも込めてケーキを買ってきたんだ。ラウロ、君は確か、ベイクドチーズケーキに目がなかったな?」
チラと背後を見るとメイドが残り三種類のケーキの中から、ベイクドチーズケーキをさも当然のように持ってきた。ラウロはそれを見て目を輝かせたが表情は努めて変えず、「そういうことなら今回は」とブツブツ言いながらフォークを握り締めた。それを見たリーサは「友人が来るくらいいいじゃないか、何を意地を張っているんだ」と苦笑いした。
「ねえまだショートケーキがあるわよね?食べちゃだめ?」
マリア=ベッラは椅子から立ち上がって母親にせがむが、「夕飯前だ」と即座に否定される。「むう」と頬を膨らませると、彼女はアベラルドの方へ一歩進み出て、上目遣いで訴えた。
「アベラルドさま、あのケーキ、私のために買ってきてくださったのではないの?チーズケーキはラウロおにいさまのためでも、残りはきっと私のために選んでくださったのよね?」
顔を傾けて見つめられ、「ングッ」と喉から変な声が出そうになった。なんて小悪魔だ。胸の前で手を組み、もう一歩進んだ拍子に、鐘型のスカートがわずかに振れる。
「……もちろん、マリア=ベッラに喜んでもらいたくて選んできたが、買い過ぎてしまったかな。マリア=ベッラが食べ過ぎてお腹を壊してしまったら私も悲しいし、ご飯を残してしまったらシェフも悲しむよ。お母様の言うことを聞きなさい」
やっとの思いでそう言い聞かせると、マリア=ベッラは渋々と頷いた。
「マリ、今のははしたないぞ?素敵なレディじゃないなあ」
「いいもん!まだ子供だもん……でもレディだから、ケーキも我慢できるもん」
リーサが軽く叱ると、ツンと拗ねた顔をする。その愛らしさに部屋の空気が和んだ。その中でアベラルドはなんとなく居心地の悪さを感じ、チーズケーキをゆっくりと味わうラウロを「早くしたまえよ、明日の準備をさっさとやろう」と急かした。
***
翌日の発表はつつがなく終わった。二人が発表し、その他の参加者たちが様々な質問を投げかけてきて始まった議論は充実したものとなり、下校時刻ぎりぎりにまで続いた。会がお開きになり、ラウロとアベラルドはどちらからともなく固い握手をして健闘を称えあった。そう、国一番の大学を目指す者たちばかりが集うその読書会における発表と質疑応答は、それは緊迫感溢れる闘いだったのである。
「ラウロ、ありがとう。今日を無事に終えられたのは誠に君のおかげだ」
「何を言うか、アベラルド。君のおかげで僕はなんの心配もしていなかったよ。むしろ楽しかったくらいだ!本当にありがとう」
互いに感謝を述べると、どこか気恥ずかしくなって二人してはにかんだ。パッと手を離すと、「さて!」とラウロが切り出す。
「今日は労いも兼ねてうちに夕飯を食べに来ないか?本当はその辺でお茶でも良かったんだが、もう遅くなってしまったし。明日は休日だ、ゆっくりしていってくれ」
「お誘いありがとう。ではお言葉に甘えようかな」
ラウロの馬車に乗り込む前に、アベラルドは自分の馭者にラウロの家に行くことを伝え、彼から包みを受け取ってきた。ラウロが怪訝な顔でその包みを見る。
「なんだい、それ」
「手土産をね。リーサ様とマリア=ベッラが喜びそうなものを」
「君、今日も僕に事前の確認なく僕の家に来る気だったんだな……」
ラウロのジト目は気にせずに、さっさと馬車に乗り込む。ラウロはため息をついて馬車を出発させた。
家に着くと、ラウロの家族は温かくアベラルドを迎えてくれる。ラウロの両親である伯爵夫妻とはたまに顔を合わせていたものの、食事を同席するのは久しぶりだったので、アベラルドがちょっと驚くほどに喜んでくれた。その二人の間に椅子を用意されるのも普通では考えられないが、それほどアベラルドがラウロ一家に気に入られているということだ。
「アベラルド、ご両親はお元気?」
「おかげさまで、変りなくしております。父は近頃、読書のしすぎで視力が落ちたと嘆いていますが」
「なんと、それは大変だ!私の懇意にしている眼鏡屋を紹介しよう」
「まあ、あなた。あそこは老眼専門ではなかった?あなたよりアベラルドのお父様はずっと若いのよ、紹介を間違えては失礼だわ」
「むう、そうかのう」
「いえ、私も父は老眼ではないかと思っておりますので、是非。新聞を少し顔から離して読むようになりました」
「はっはっは!奴ももう年ではないか!」
「もう、あなたは老眼では先輩だからって、そんなに嬉しそうにしないの!アベラルド、この人に気をつかってくれなくでも大丈夫よ。でも役にたてるなら何よりだわ。あなたも困ったことがあったらいつでも言ってね」
「お心遣いに感謝いたします」
夫妻が嬉しそうに左右から話しかけてくるので、アベラルドは首をあっちに振りこっちに振りの大忙しだった。アベラルドの家族に関する事情聴取が終わると、今度はラウロとアベラルドの話を掘り出そうとしてくる。
「どう、息子は。学校で迷惑をかけてない?」
「迷惑だなんて!たくさん助けられていますよ。今日の発表も、ラウロなしではこんなに良いものにはなりませんでした」
「それはお互い様だ、アベラルド。僕たちは良い関係を築けているから、父さんも母さんも心配しないでくれ」
「何を発表したんだい?」
父親に聞かれて、ラウロは得意げに説明を始めた。アベラルドはこれ幸いと料理に手をつけ、ちらりとリーサとマリア=ベッラの方を見た。リーサはラウロの話を興味深そうに聞いているが、幼いマリア=ベッラには難しいのか退屈そうにしている。ツンツンと人参をつついて「お母様、これ食べなきゃダメ?」「好き嫌いするのはレディじゃないな」「むう……」と口を尖らせている。
アベラルドはこの食事の間、マリア=ベッラを見るのは一秒から三秒までと決めていた。それより短ければチラチラと見ているようで不快に感じられそうだし、それより長ければ凝視していると言われかねない。今回はきっちり三秒数えてラウロに視線を戻した。
「うんうん、しっかりと勉学に励んでいるようで何よりだ。マリア=ベッラ、ちゃんと聞いていたかい?叔父さんたちのことをしっかりと見習って勉強するんだよ」
「おにいさまたちの話は難しすぎるわ……」
「マリ、お前も高等部に入るのはそんなに遠い先の話じゃないぞ。理解できなくても、理解しようとする姿勢は見せなさい」
「マリア!おにいさまがいつでも勉強を教えてあげるからね!」
「お前は黙ってろ」
リーサに頭を撫でられたマリア=ベッラは、頬を膨らませた。食卓にあたたかな空気が満ちる。やはりアベラルドにはその空気は居心地が悪い。例えば今、自分がここにいなければ?それとも逆に、彼女と自分が二人きりなら?……一家団欒の中に自分が紛れ込んでいるのは、絶対に何かが違う、そう思った。
食後、夫妻は明日の予定があるからと早々に席をたち、残った四人は「月のない夜だ。星々が綺麗に見えるだろう?」というリーサの一言で、夜空を眺めるティータイムと洒落込むことになった。
「わー!」
歓声をあげながらマリア=ベッラが庭に飛び出す。
「綺麗よ!ねえ、みんな早く!」
くるりと踊るように振り返った彼女の愛らしさに、ラウロが「可愛い!」と頭を抱えている。リーサは苦笑しながら、メイドに紅茶と娘のためのストールを頼んだ。アベラルドは、そんな彼らの一番後ろに立っている。そこは彼が初めてマリア=ベッラを見た庭園。あの夕暮れには異世界の妖精にさえ思われた少女が、今は笑ったり拗ねたりする愛らしい少女であることを知っている。
パチリと目が合って、マリア=ベッラは大きく手を振った。アベラルドに向かって。その腕の細さ白さ。
金のドレスが、夜空の濃紺の中に眩しく浮かび上がる。
「アベラルドさま!早く!紅茶が冷めちゃう!」
この家の優秀なメイドは、すでに素早く熱い紅茶と茶菓子を庭のテーブルに用意していた。マリア=ベッラがその茶菓子を見て、リーサの腕を掴んだ。「ねえ、これラッセル菓子工房のバターサンドクッキーじゃない!?」
「ええ!?あの並んでも買えないって噂の……」
「きゃー!美味しい!ねえおかあさまこれ美味しいよ!!」
「ちょ、ちょっと待てマリ、早い!うむ、美味しい……食感がたまらない……」
「アベラルド、君のお土産ってこれかい」
大興奮の女性陣を前に、ラウロも少し驚いたようだ。アベラルドは苦笑しながら頷いた。
「うちのメイドに聞いたら、今一番人気のクッキーだと言うから、馭者に頼んで買ってきてもらったんだ」
「マリアに喜んでもらうために?」
「そりゃもちろん」
肩をすくめる。
「小さな女の子への態度で誰かさんにこっぴどく叱られたからね。ある程度ご機嫌取りはするよ」
ラウロはため息をついて、「あの時は悪かったよ、見ての通り僕はあの子に弱いから、絶対に守らなくてはと過敏になってしまっていたようだ。君はもうすっかり、あの子に気に入られてしまったようで嫉妬してしまうよ」と詫びだか言い訳だか分からないことを言ってきた。
「アベラルドさまが買ってきてくださったの!?ありがとうございます!すっごく美味しい!嬉しい!ありがとう!」
マリア=ベッラが駆け寄ってきて、両手でアベラルドの右手を握った。見上げてくるその瞳の輝きと言ったらない。夜空の星々、ランプの明かりを反射したドレス、そしてこの少女の笑顔。
アベラルドは左手で恐る恐る――もちろん傍目には自然に見えるように――その髪を撫でて、微笑んだ。
「ここまで喜んでもらえるとは思わなかったよ。君のためならなんでも買ってきてしまいそうだ」
頬を赤くしたマリア=ベッラに手を引かれて、テーブルにつく。
「アベラルド、娘をあまり甘やかさないでくれよ。でも……あの、お菓子ならいつでも歓迎するから」
咳払いをしながら言うリーサに、アベラルドとラウロは思わず笑ってしまった。
***
遅くなったからと親がよこしてきた迎えの馬車の中。
伯爵夫妻に関してはずっと前から思っていたが、ラウロも含め改めて、つくづくあの一家は自分のことが好きらしい。アベラルドも彼らのことを好ましく思っているし、好まれたいと思って行動しているのだから当然といえば当然なのだが。もう三日連続で家に伺っているが、迷惑そうな顔一つ見せない。ラウロは抵抗する振りは一応するが、家で話をしている時の楽しそうな顔の方が本心だと確信している。
そしてあの少女も、どうやら早々にアベラルドに懐いてくれたらしい。アベラルドが学校の様子などを尋ねると、たどたどしくも一所懸命に説明してくれる。頬を染めた愛らしい少女が、必死に目を見て話をしてくれるのが嬉しくないわけがない。
しかし、それよりもアベラルドの気分を高揚させたのは、何と言ってもあの自分に向かって少女が駆け寄ってきてくれた瞬間だ。
今日の金のドレスはまた素敵だった。まだ季節は早いが、夜空と金のコントラストはクリスマスのベルを思い起こさせた。鐘型のスカートが上下にもわずかに揺れていて、あれは身体の一部としか思えない。
(やはり、あの子はベルの妖精だ。どんなに年頃の女の子らしく、笑ったり拗ねたりしても……この世のものとは思えない幻想的な雰囲気は変わらない)
ふわふわとした夢見心地で、まぶたの裏にあの子の姿を思い浮かべる。馬車に揺られながら、アベラルドは静かに目を閉じた。
***
翌日は週末の休みである。前日の帰りが遅くなったアベラルドは昼前まで寝て執事に叩き起こされた。
「ぼっちゃま、休日とはいえあまり寝すぎるのも体にようございませんよ」
「あー……課題も終わったんだしゆっくりさせてくれてもいいのに……」
もそもそと起き出して身なりを整え、朝食をとる。この時間だと昼は食べないと思われたらしく、通常より量が多い。ため息をつきながら朝食をつつく。執事はせっせと給仕をしながら、アベラルドに問いかけた。
「ぼっちゃま、本日のご予定は?珍しく家の仕事もないですけれども」
「好きなことをして過ごしていいのなら、もう少し寝ていてもよかったかな……」
「ダメです。ぼっちゃまの生活習慣の乱れはわたくしが責任を持って阻止いたします」
「そうか……」
スープを飲み干して、ふと思いついて執事に声をかけた。
「たまには買い物に行くことにするよ。ついてこなくても大丈夫だけど、ちょっと帰りが遅くなるかもしれない。でも夕飯までには帰るから」
そしてそそくさと身支度を済ませると、馬車に乗り込んで貴族の若者向けの店が立ち並ぶ大通りに向かう。馬車を降りたところで、新聞売りが鐘を鳴らして客を集めていた。
「王都新聞ー!王都新聞ー!伯爵の官位売買の真相、男爵の幼女軟禁事件の最新情報、東の国王弟クーデターの顛末ー!」
「あー、あの伯爵は仕事が出来ないって旦那がため息ついてたわ。賄賂がなきゃ出世できないのも納得って感じがしますわ」
「それよりこの男爵の事件、娘が被害者だったらと思うとぞっとしませんわ…小児性愛だなんて、ああ、気持ち悪い!」
喫茶店に腰掛けた女性達が、顔を寄せ合い新聞を眺めてはしゃいでいる。ご婦人方のゴシップ好きには困ったものだ、アベラルドは新聞売りをさりげなく避けながら歩き始めた。
最近、万年筆のインクが切れ気味だったな……と文房具屋に入ったり、気に入りの作家の新刊が数日前に出ていた気がする……と本屋に入ったり、新しい形のものが出て話題になっていたから、早めに買うのもいいかもしれない……と帽子屋に立ち寄ったりする。
アベラルドはそれほど買い物好きな気質ではない。必要なものがあれば執事や馭者に頼んでおけば学校に行っている間に買ってきてもらえるし、自分の目で見て選びたいというほどのこだわりも薄い。だがまあ、こうして最近の街がどうなっているのかを見るのもたまには悪くないな、と思いつつ、色々な店に出入りして、ものを買ったり買わなかったりする。せっかくだから普段入らない店も見てみようか、とひやかしに行ったりする。
だから、そう、ちょっと女性向けの店に入ったのも、その一環にすぎない。そうすればあの子に似合うものを偶然見つけることもあるだろう。早くプレゼントしてあげようと急遽その家に伺うことだって、全然ありえない話ではないのだ。
「もうお帰りで?」
「いや、ラウロの家へ」
馭者に告げれば怪訝な顔をされた気がするが、馭者は何も言わずに「へ、かしこまりました」と馬を走らせた。数分とせずにラウロの家につき、アベラルドはすぐに戻るからと門の前に馬車を待たせた。
(確かラウロはこの休日は二日とも、昼の間に生徒会の仕事があると言っていた。夕飯までには戻るとも。まだ日が落ちる前だから、きっと彼はいないな……いや、ラウロがいたら不都合なんてことはない、そんなことはないが)
と考えながらも、メイドに迎えられて最初に言うのは
「やあ、ラウロはいますか」
である。
メイドはラウロがいないことを詫び、客間で待つか聞いてきた。そこで「ああ、そうか、残念だ。だが今日はそれほど時間がなくてね。ところでリーサ様やマリア=ベッラはおられるかい?」と聞く。よくもまあぬけぬけと……というラウロの声が聞こえてきそうだ。自分でもそう思う。
しばらくして、マリア=ベッラがやってきた。今日はグレーのドレスだが、光の加減で銀色にも見える。
「ラウロおにいさまは生徒会の仕事があって、おかあさまも今お客様がいらしてて出られないんです。でもよろしければ、お茶を飲んで行かれてください」
少したどたどしくアベラルドを迎え、淑女の礼をとる。リーサまでいないと知り、アベラルドは内心狼狽した。二人きりだと?もともと長居する気はなかったが、これは一刻も早く帰らなければならないと思った。二人きりでいるところに後からラウロやリーサが現れたら……と思うと、謎の背徳感で心臓が早鐘を打つ。
同時に、この少女が今自分以外の人に目を向けることがないという状況は、なんとも言えない興奮を感じさせた。
そんな内心を悟られまいと余裕の笑顔を浮かべながら、アベラルドは跪く。
「ご機嫌麗しゅう、マリア=ベッラ。ラウロやリーサ様にお会いできないのはとても残念だけれど、今日は君に会いにきたんだ。街で偶然、こんなものを見つけてね。貴女に似合うと思うと、居ても立ってもいられずにここまで押しかけてしまったんだ」
そう言って丁寧に包装された小さな箱を手渡す。マリア=ベッラは頬を赤くして受け取った。
「まあ、私のためにわざわざ、ありがとうございます。……開けていい?」
感謝の言葉は淑女らしく、しかし開封の許可は子供らしく、はやる気持ちを抑えきれないというように上目遣いで聞いてくる。アベラルドが頷くとマリア=ベッラはパッと顔を明るくして、できるだけ丁寧に、でも所々気が急いて雑になりながら包み紙を開けていく。
そうして出てきたのは白い花飾りのついたコームとヘアピンだ。可愛らしさと上品さを併せもったデザインは、未だ子供でありながら大人ぶりたく、ぎこちない仕草の中に気品の溢れるマリア=ベッラにぴったりなように思えた。
「可愛い!ねえ、今の髪型にも似合うと思う?つけてもいい?」
「もちろん」
廊下にかかった鏡に駆け寄って、ヘアピンを恐る恐る顔の横につける。そして振り返って、「どう?似合う!?」と期待を込めた目で見てくる。
「とっても似合っているよ。私の目に狂いはなかった。すごく愛らしい……」
目を細めて心からの賛美を告げる。マリア=ベッラはまた頬を赤くして、小さな声で「ありがとうございます」と言った。その姿にむず痒さを感じて、アベラルドは立ち上がった。
「もう行かなくては。急いでいて、まともにお話もできなくて申し訳ない」
「もう帰っちゃうの……?」
「うん、ごめんね。でも、もし……もし、君が許すなら」
再び小さな少女に目線を合わせて、小声で語りかける。
「もしマリア=ベッラが許してくれるなら、明日も来るよ。そうだな、明日はマリア=ベッラに似合う花を持って来よう。ここの庭園もとても綺麗だけど、負けないくらいうちの庭にも素敵な花が咲いているんだ」
「もちろん許すわ!ぜひ明日もいらして!」
「じゃあ、その代わりに、今日私が来たことをラウロには秘密にしてほしいんだ。リーサ様はもう知ってる?」
「まだ知らないわ」
「じゃあ、おかあさまにも内緒にして。明日、二人のためにも花を持ってくることにするよ。サプライズだ」
人差し指を口元に持ってきて言うと、マリア=ベッラはいたずらっぽく笑ってヘアピンを外した。「じゃあこれも隠しておかなきゃ」
「そうだね、そうしてくれると助かるかな。また後日、私がプレゼントしたことにしよう」
「私とアベラルド様の秘密ね!明日が楽しみだわ!」
「では今日はこのくらいで。また明日会おう、ご機嫌よう、マリア=ベッラ」
「ご機嫌よう、アベラルド様」
マリア=ベッラに背を向けて馬車に向かって歩き出しながら、アベラルドは口角が上がるのを抑えるのに必死だった。
(二人で話せた!マリア=ベッラと二人で話せたぞ!)
(しかも明日の約束までしてしまった!リーサ様やラウロには知られずに!なんていい日だ!なんていい日だ!)
それでも妙な顔になっていたらしく、馭者には「ぼっちゃん、なんかいいことありましたか」と訝しげな顔をされた。
***
その晩、いてもたってもいられなくなって、アベラルドはランプを片手に庭に出ていた。なんの花があっただろうか。あの子に一番似合うのはどれだろう。
「ぼっちゃま、もう冷えますからお部屋にお戻りになってください。花の良し悪しも、明日の朝咲いたものから選ぶのがよろしいですよ」
困った顔をした執事に急かされるまで、ああでもないこうでもないと庭をぐるぐる回っていた。執事の言葉に確かにと納得して部屋に戻ると、扉を閉めた拍子に呼び鈴が目に入る。
「明日も会えるね、私のマリア=ベッラ…」
頬を緩めて、白い花飾りのつけられた呼び鈴を慈しむように手に取る。アベラルドはその姿に満足する。どんなに振っても、もうこの呼び鈴の音で執事が駆け込んでくることはない。全体を眺めると、鐘の中はぽっかりと空洞になっている。振り子はない。呼び鈴を元あった棚の上に戻し、アベラルドはベッドへと向かった。
***
マリア=ベッラはニマニマと笑いながらアベラルドを出迎えた。
「こんにちは、ようこそいらっしゃいました、アベラルド様!」
「こんにちはマリア=ベッラ。二日ぶりですね」
「ええ、二日ぶりですね!」
片目を瞑ると、マリア=ベッラは笑いを堪えながら答えた。自分が提案しておいて何だが、「昨日家に来たことを秘密にして、今日は花をプレゼントしにくる」というたったそれだけのことを、何故そんなに面白がるのだろう。
「いらっしゃい、アベラルド」
「ご機嫌麗しゅう、リーサ様」
「今日もラウロは不在だよ。生徒会の仕事で休日まで忙しいらしい。あの弟にそんな役職が務まるのかと心配していたが……」
「ラウロはしっかりしていますよ。周りの生徒にも先生にも信頼されている。私もこっそり尊敬しています」
「ふふっ、そうらしいな。家で見せる顔と学校で見せる顔も違うのだろうな。実は大人になってしまっていることを、喜べばいいのやら、寂しがればいいのやら」
「私の前でも昔からよく知るラウロのままですよ。いろいろな顔があって、全部含めてラウロなのでしょう」
「ほう、ではアベラルドにも私達の知らない顔があるのかな?」
いたずらっぽく聞かれて、アベラルドは動揺した。「そりゃもちろん」と余裕のある振りをする。
と、マリア=ベッラがちらちらとこちらに目配せしていることに気がついた。期待に満ちた視線に、アベラルドは僅かに肩を竦めてリーサに向き直った。
「美しい女性に愛を囁くときの顔など、人に見せるものではないでしょう?」
「おや、言うじゃないか色男」
鼻で笑うリーサの前に仰々しく跪き、その手を取る。
「ご要望とあらばご覧にいれましょうか?リーサ様のような凜とした美しい方に跪くのは男の喜び。人妻で無ければ喜んで口説いたものを……ねえ、冗談とお思いでしょう?全て心からの言葉ですよ。貴女は薔薇より美しい」
そう言って、忍ばせていた濃紫の薔薇を差し出す。
「私の女神、貴女に囚われた私の惨めな心をお救いいただけるならば、どうかこの薔薇を受け取ってくださいませ。さもなくば私の心は散り散りになり、男らしくもない涙が頬を幾筋も伝うでしょう」
さも胸か締め付けられて苦しいと言わんばかりの表情をすると、リーサは耐えきれないとばかりに吹き出した。
「はっはっは!実に見事だよアベラルド。劇団員でも向いているんじゃないかい?」
「お褒めにあずかり光栄です。……そこまで笑うことないでしょう。花、受け取っていただけません?」
涙目になりながらリーサは薔薇を受け取った。アベラルドも苦笑しながら立ちあがる。
「もらってあげないと、お前が夜な夜な枕をしとど濡らすことになってしまうからな?」
「冗談ですよ」
「ふふっ、可笑しい。いや、すまない。十分及第点だよ。十代の生娘ならコロッと落とせるだろうが、生憎私は数倍いい男につかまってしまった三十近い女なのでね。他を当たってくれたまえ」
ずけずけといってから、アベラルドに貰った薔薇をしげしげと眺める。
「しかし立派な薔薇だな。花屋で買ったのか?」
「いえ、うちの庭に咲いていた中から、リーサ様に似合いそうなものを選んで参りました」
紫の薔薇の花言葉は「気品」「尊敬」。リーサにも、リーサに対するアベラルドの思いにもぴったりの花だ。
「腕の良い庭師がいるのだな。ありがとう、心から嬉しいよ」
「喜んでいただけたなら、茶番をした甲斐もあるというものです」
「茶番は無くてもよかったかな」
笑い合ってから、マリア=ベッラに向き直る。マリア=ベッラは頬を赤くして、どぎまぎしたように目を泳がせていた。母親に男が跪くところなど見たくなかったかもしれないし、そうでなくても十一歳の少女には刺激が強かったかもしれない。反省して優しい笑顔を心掛けながら、今度はマリア=ベッラに跪いた。
「マリア=ベッラにも、花を持って参りました。受け取っていただけますか?」
「……も、もし、私が受け取らなかったら?」
「今度こそ、この場で泣き崩れてしまうかも」
そっと一輪の花を差し出す。
「……綺麗な花」
「睡蓮です。今ちょうど庭の池に綺麗に咲いていて。その様子を貴女に見せたいと思ってしまって、一輪掬い取ってきてしまいました」
真っ白で真っ直ぐな花弁が幾重にも重なる、愛らしくも堂々とした睡蓮の花。花言葉は確か、「純粋」。
「ありがとうございます。この花がたくさん咲いているなんて、きっと素敵な光景でしょうね。見てみたい……」
「いつでも見にいらしてください。でも、それが一番綺麗に咲いていたものですから、あまり期待しておくとがっかりするかも」
「まあ、一番きれいなものをわたしのために取ってきてしまうなんて」
ふっと照れくさそうに微笑んで、少女は「罪なひと」と呟いた。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「ねえ、この花、今日の髪型に飾ったら素敵だとおもわない?」
マリア=ベッラは美しい金髪を顔の左側にまとめていた。アベラルドは頷いて、「よろしければ、私が付けましょう」と睡蓮を取り上げた。
心臓は嫌な音を立て続けている。
少女の髪に触れようと顔を近付けると、その肌の透明感と柔らかな香りに目眩がした。恐る恐る髪に触れ、睡蓮の茎をそのまとめ髪にそっと押し込む。髪が崩れないように、花が落ちないようにと気を配りながら向きを整える。最中、彼女の耳が零れ落ちそうなほど赤くなっていることに気が付いて、慌てて目をそらすなどした。
「出来たよ。とても素敵だ」
花に手を当てたまま、少し体を離して少女の顔を見つめる。マリア=ベッラははにかんで、「本当に?」と小声で尋ねてきた。そのあまりの可愛らしさに、アベラルドは目を細めた。
「本当に。こんなに白い花が似合う子、他に知らないよ」
恥ずかしそうな、しかし嬉しそう顔を見て、思わずアベラルドは手を滑らせて、その頬に触れた。マリア=ベッラは目をぱちくりとさせて、アベラルドに視線を合わせた。
「マリア=ベッラ、綺麗だ……」
自然と言葉が口から転がり落ちる。親指で頬を撫でると、その滑らかさに吐息が漏れる。と、マリア=ベッラはみるみる顔を赤くして、もう爆発せんとばかりになった。その姿に、アベラルドの心臓は更に激しく鼓動を打ち始める。身体の底から、何か熱いものが湧き上がってくるような、羞恥に身悶えするような、それでいて少女から目を離すことが出来ず、マリア=ベッラの頬が熱いのか、触れた手が熱いのか、もう訳が分からなくなった。
りんごのようになったこの少女を、いっそこのまま、この愛らしい少女を、ひと思いに食べてしまおうか――
「うん、すごく可愛いよマリ。そんなに照れなくてもいいじゃないか」
背後からの何気ないリーサの言葉で、アベラルドははっと我に帰った。弾かれるように手を離して立ち上がる。
突然、脳内に声が響き渡った。
『君があの子に何かやましい気持ちを抱くのなら、私はもう二度と君に私の家の敷居を跨がせる訳にはいかない』
『小児性愛だなんて、ああ、気持ち悪い!』
マリア=ベッラが怪訝そうな顔で見上げてきた。
(帰らなくては)
「……失礼。用事があるのをすっかり忘れていました。もう帰らなくては」
「もう?まだ茶も飲んでいないじゃないか。もうすぐラウロも帰ってくると思うが」
「すみません、もう、帰らなくては」
「どうした、顔色が悪いぞ……?」
「いえ、なんでもありません。帰らなくては」
言い訳もまともに思い浮かばず、リーサと目も合わせずに深く礼をして、アベラルドは早足でラウロの館を後にした。
***
道すがら拾った辻馬車の中で、アベラルドの思考は、突然浮かんできたラウロと見知らぬ婦人の言葉によってぐるぐると掻き乱されていた。
『十一歳の少女に対する真っ当な態度じゃない』
『ねっとりとした視線』
『あの子に何かやましい思いを抱くなら……』
『なんておぞましい、小児性愛だなんて!』
(小児性愛者、小児性愛者、小児性愛者)
吐き気がした。アベラルドだって、その言葉で定義される趣味を軽蔑し許すべきでないと当然考えてきた。到底理解し難い、とも。しかし、今はどうした。自分がその趣味ではないかという自問が脳内で繰り返されている。まさか。だがあの瞬間マリア=ベッラに対して抱いた熱情が、そういったものでないとどうして言えよう。いや、まさか。そんなはずはない。そんなことはあってはならない。
(アベラルド、落ち着け、落ち着くんだ、何か勘違いをしているんだ。あの子のことは気に入っているけど、そんな、やましいものだなんて、そんな……)
脚がガクガクと震える。それはこれまで感じたことのない恐怖だった。自分がその……口にするのもおぞましい存在なのかもしれないということは。
(ああ、喉が乾いた)
家についたら、まず水を思い切り飲もう。それから、熱い湯を被ろう。そしてゆっくり眠ろう。明日の学校が終わったら、まっすぐに家に帰って、哲学書を読もう。そうして、あの少女に出会う前の自分の生活を取り戻そう……。
アベラルドはそう独り言ちて、両腕で我が身を抱きながら、馬車の壁にぐったりと寄りかかった。窓の外はまだ明るく、街は休日の喧騒に満ちていた。
***
「おはよう、我が友人アベラルドよ!」
ラウロがアベラルドの前に立ち塞がったのは、週末の休日が明けた日の、もう放課後であった。
「……おはよう、ラウロ」
「はっはっは、君は冗談を言っているのかい?もう鴉が鳴き始めてしまう時間じゃないか!」
自分で言い出したくせにわざとらしい大笑いをするラウロから、そっと視線を背ける。目が笑っていない。今のアベラルドにその目を直視する度胸はなかった。
「昨日も、一昨日も、僕は休日だというのに学校で生徒会の仕事をしていたんだ。まったく、大切な姉や愛しい姪御が来ているというのに!酷い話だと思わないか」
「……大変だったんだな」
「ああ、大変だったよ!ところで君はこの二日間何をしていたんだい?」
ごくりと唾を飲み込んでから、アベラルドは答えた。
「一昨日は買い物に行ったな。昨日は君の家に立ち寄ったが、すぐに帰ったよ」
「嘘は言っていないが、本当のことでもないな」
ラウロがスッと目を細めた。
「一昨日も僕の家に来ただろう。もう何日連続で、君は僕の家に来たがるんだい?」
それも一番の友人であるラウロがいない時間に来て、彼が戻る前に帰って行くなど。
一昨日など、リーサやラウロに知らせないままに。
マリア=ベッラの口止めはしたが、あの場までアベラルドを案内したメイドはいた。
「何をしに、僕の家に来るんだい」
「……」
「マリア=ベッラに会いに来たのか」
「……違う」
「前に君に言ったな。マリア=ベッラに何かやましい思いを抱くなら」
「違うと言っているだろう!」
突然声を荒げたアベラルドに、ラウロもたじろいだ。しまったと思い、努めて声を落ち着かせて言った。
「いや、あの二人は長くここには滞在しないだろう。私はこれから忙しくなるから、時間のあるうちに会いに行っておこうと思って」
「アベラルド」
「君を心配させたことは謝るよ。だが何度でも言う、私はあの子に下心など一切抱いていない」
自分の言葉が、自分の心に重くのしかかる。きっと嘘は言っていない。きっと。
「今日もやることがあるんだ。すまない、もう帰らせてもらうよ」
ラウロを置いて立ち去ろうとすると、その腕をぐいと掴まれた。
「待て!不快にさせてすまないが、僕は君への疑いを消すことはできない。だが……あの子が君に会いたがっているんだ。渡したいものがあると」
それを聞いて、アベラルドは泣きたくなった。
「今日はいい。だが明日か明後日にはうちに来てくれ。そしてあの子に会ってくれ。だがこの時の君の態度如何によっては、今度こそ」
「分かった!分かったよ。明日は行く」
腕を振り払って立ち去る。
むしゃくしゃとしたものが胸一杯に広がっていく。それは弱いところを突いてくるラウロに対してであり、弱さを持ってしまった己に対してであり、何も知らずに会いたがってくる無邪気な少女に対してであった。
***
翌日の放課後、ラウロの家に向かう馬車の中には沈黙が漂っていた。
ラウロは親友に対する疑いから。親友を疑う現状への戸惑いから。
アベラルドは傍目には親友に疑われる不服さから。内心は、図星を突かれている気まずさから。
玄関に入ると、そんな空気は露とも知らないリーサが笑って出迎えた。
「やあ、よく会うなアベラルド!」
「……ええ、そうですね」
一瞬言葉に詰まって、頭を下げる。
「頻繁にお邪魔していて、すみません」
「ん?いや、嬉しいよ。いつでも来てくれ。家を出た私の言えることじゃないがな」
リーサは苦笑しながら、二人を連れて客間へ向かう廊下を進んだ。
「今日君を呼んだのはマリア=ベッラだから、本当はあの子がきちんとお出迎えをしないといけないのだが、身支度に手間取っていてね。ついさっき、やっぱり髪型を変えたいといって部屋に戻ってしまったんだ。申し訳ない」
「いえ、そんなことは。喜んで待ちますよ」
「ありがとう。あの子、随分君に懐いてしまったようだ」
からかうような視線にたじろぎ、そっと目をそらす。
「……それは」
「おかあさま!余計なこと言わないで!」
焦った声は、頭上から聞こえてきた。
階段の上からマリア=ベッラが身を乗り出している。黄色い鐘型スカートのドレスに身を包み、金糸の髪を編み込みにした少女は、顔を真っ赤にして階段を下り始めた。
その姿を見て、アベラルドはまた泣きたくなった。自分がこんなに汚らしい人間かも分からないのに、この少女は変わらず美しい。焦りでちょっと高くなった声も、脳に甘く響き渡る。なんて愛おしい、私の呼び鈴の妖精……。
マリア=ベッラは手すりに片手を掛けながら、急くように下りてくる。鐘型のスカートは足下が見えづらそうだ。「マリ、急ぐな」とリーサが声をかけ、ラウロが迎えに行こうと一歩踏み出した。アベラルドもその危なっかしさにはっとして目をこらすと、ちょうどマリア=ベッラと目が合った。
次の瞬間、足を踏み外したマリア=ベッラが階段を滑り落ちた。
「ひゃっ」
「マリ!!」
リーサが悲鳴を上げ、ラウロとアベラルドは同時に飛び出した。
「い、痛い……」
ラウロに抱きとめられるまで階段を半分ほど滑り、スカートは膝上まで捲れ、手摺を離してしまった左手は段に擦れて血を流していた。
アベラルドが彼女を助け起こし、立ちあがろうとするとマリア=ベッラは「いたっ!」と小さな悲鳴をあげた。階段に座らせたままその脚を見ると、血は出ていないが、捻ったのか僅かに腫れている。
「医者を呼べ!すぐに!お前は救急箱をもってこい、消毒しなくては!ぐずぐずするな!」
マリア=ベッラをアベラルドに託し、ラウロはすぐにメイドや執事に指示を出していた。バタバタという足音で館の中が騒がしくなる。
「ラウロ、足首を捻っているようだ。冷やすものも!」
「分かった!」
涙目になっているマリア=ベッラの頭を撫で、落ち着かせるように話しかける。
「びっくりしたろう、もう大丈夫だ。お医者様も来てくれるから、安心して」
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るんだ、怒ってなんかいないよ。手と脚の他に痛いところはない?背中もぶつけてた?」
「腰をぶつけたけど、痛みは引いてきたから大丈夫だと思う……足が痛い」
救急箱を持ってメイドが駆けつけたので、後の処置はひとまず彼女に任せる。代わって震えていたリーサが、マリア=ベッラを抱き締め寄り添った。
「ラウロ、アベラルド、すまない、ありがとう……。私は何も出来なかった、この子の母親は私なのに」
患部を冷やして落ち着き始めたマリア=ベッラよりも、今はリーサの方が泣きそうだった。戻ってきたラウロもリーサの隣に腰掛け、その腕をさする。
「大丈夫、姉さんも謝らなくていいよ。僕とアベラルドがいただろう。僕らがいなかったら、きっと姉さんが飛び出してたさ。三人揃って飛び出したって逆に危なかったもの」
アベラルドも少し離れたところから頷いた。
「ラウロの言うとおりです。骨も折れていないようだし、大きな怪我に繋がらなくて本当によかった」
「二人とも、すまない……ありがとう」
俯いてしまったリーサの髪を、逆にマリア=ベッラが「よしよし」と撫でてやる。すっかり逆転した母子の立場に、ラウロとアベラルドは顔を見合わせて笑った。
ほどなくして医者が到着し、軽い捻挫だと診断して暫くの安静を言い渡した。ラウロによってソファに運ばれたマリア=ベッラは、リーサによって集められたメイドや執事やアベラルドらに対し、「心配をかけてごめんなさい。助けてくれてありがとう」と頭を下げた。
メイドらが持ち場に戻っていった後、「アベラルド様」と小さな声で呼びかけられた。
直前まで整えていた髪はほつれ、ドレスのスカートは部分的に破け、治療のために止むを得ないとはいえ、淑女としては恥ずかしくも両脚を膝まで曝け出している。マリア=ベッラはすっかり落ち込んでいた。「こんなはずではなかった」と言いたげな悲しそうな目に、アベラルドの心も哀れみでいっぱいになる。
「何だい、マリア=ベッラ」
「これを……今日は、これを渡したかったの」
そう言って、マリア=ベッラは紙袋を差し出した。
「本当は、これをね、一番綺麗な姿の私でアベラルド様にプレゼントしたかったの。たくさん私に素敵なものをくださったから、そのお礼がしたかったの」
「そんな。私が贈ったものなど、そんな大層なものでは」
「アベラルド様がそう仰っても、私はとても嬉しかったの。本当よ。これも悩んで選んだけど……いただいたものに見合うと思えなかったから、せめて素敵に渡したかったのに」
躊躇っていると、ぐいと紙袋を胸に押し付けられる。
「受け取ってください。……そうじゃないと、私泣いちゃうかも」
涙を浮かべた目に見つめられて、アベラルドは切ない気持ちに襲われた。姿勢を正して紙袋を受け取る。
「では、喜んで頂戴します。貴女がくれるものなら何でも嬉しいよ、マリア=ベッラ……この場で開けても?」
本来ならば、包まれたプレゼントをその場で開けるのはマナー違反だ。だが髪飾りを贈った時のマリア=ベッラの行動を思い浮かべ、アベラルドは包みを慎重に開いていった。
最後の小箱を開けると、カフスボタンが光を反射した。ヒヤシンスの花のモチーフが切り嵌められた、可愛らし過ぎず上品なデザインは、細身のアベラルドの雰囲気によく似合うと思われた。
「貴女からなら何を頂いても嬉しい、その言葉に偽りはありません。しかし、このプレゼントはますます嬉しい。とても気に入りました」
「本当に?」
「勿論。心から、ありがとうございます」
箱を大切に仕舞いにっこりと微笑むと、マリア=ベッラはようやくホッとしたように笑った。
いかに親しいと言えどアベラルドは客人だ。あまり長居してはマリア=ベッラも安静にしていられるまい。そう考えて暇乞いをすると、リーサとラウロが玄関まで見送りに来てくれた。
「今日は招いておいて、とんだ大騒ぎに巻き込んでしまったな。すまなかった」
「リーサ様、もう謝るのはよしてください。気にしていないですし、私が少しでもお役に立てていたなら幸いです」
ラウロはリーサの後ろで唇を噛みしめていたが、やがて一歩進み出て頭を下げた。
「アベラルド、すまなかった」
「ラウロ、一体何の話だ?」
「君を疑ったことを。大変に失礼なことを言った。今日は君がいてくれて良かったと思う、心から」
アベラルドは「ああ」と微妙な声を出して、その肩に手をかけ体を起こした。
「何も言わないでくれ。何もなかったことにしよう」
それがいい筈だ。ラウロにとっても、アベラルドにとっても。
***
夜。自室の中で、アベラルドはぼんやりと立ち尽くしていた。
一昨日の夜、彼の心は大嵐よりも荒れていた。昨晩も、何の本にも集中出来ずに苦しい夜を過ごした。しかし今、その心に凪が訪れている。理性の方が驚いてしまいそうなほどの平静だった。
マリア=ベッラが階段から落ちてきた時、助けようと身を乗り出すのと同時に、アベラルドの目には信じられないものが飛び込んできた。
細くて白い、二本の脚。
(脚が生えていた)
静かな部屋の中の静かな心の中に、ポトン、とその事実が落ちてくる。
(脚が生えていた。当然だ。あの子は人間の女の子なのだから)
呼び鈴を見る。造花で飾られ、振り子を切られた、ただ見た目がマリア=ベッラのような……あのドレスのような姿の呼び鈴。
それは鳴らない呼び鈴でしかなく、マリア=ベッラではなく、マリア=ベッラもまたドレスを纏っただけの人間の少女であって、妖精でも何でもない。
あの鐘型スカートの中には、二本の脚があって、その付け根には股があって、そうしてあの胴体に繋がっているのであって、愛らしい顔と一体となっているのは鐘のスカートではなく二本の脚なのだ。
(そうか、あの子は人間だったのか)
治療の為に脚を晒したマリア=ベッラは、何とも俗っぽく、生々しい存在に思われた。
カフスボタンの入った小箱を机の上に置きながら、それをもらった時の感情を思い出そうとしても、あるのは健気な少女への憐れみだけであった。
(どこに行ってしまったのだろう)
あの熱情は。興奮は。
虚無感。
それだけが、部屋の中に満ちていた。
***
その後、アベラルドはラウロの家には行かなかった。リーサにもマリア=ベッラにも会わなかった。ラウロからマリア=ベッラが会いたがっていると聞いたが、家のことが忙しいからと放課後は早々に帰宅した。
見舞いに行かないのは心苦しくなり、庭師に花束を作らせ、手紙を添えてラウロに預けた。会いに行けずに申し訳ありません、どうか脚が早く良くなるよう祈っております。
翌日、マリア=ベッラから返信が届いたが、アベラルドはその手紙を開けることが出来なかった。代わりに薄紅色の薔薇を五本、ラウロに託した。ラウロは何か言いたげな顔をしていたし何度も家に誘ったが、アベラルドの家が実際忙しいことを知ると、詳しく問い詰めることはしなかった。
実際忙しかったのだ。だが、時間が作れなかった訳ではない。そうこうしている内に日は過ぎてゆき、リーサとマリア=ベッラが帰国したことを、後になってから知った。
ラウロに言ったように、何もなかったことにしよう。そう思って、しかし捨てるのは忍びなく、カフスボタンは引き出しの一番奥に仕舞われた。
それはアベラルドが一七歳の、夏の初めのことだった。
そして、六年の月日が過ぎた。
***
赤、青、黄、花畑のように色とりどりのドレスに着飾った女性達と、花より強い香水の香り。会場に足を踏み入れた途端、アベラルドは顔を顰めそうになった。
四、五年前から社交界の女性の間で大きくスカートが膨らんだドレスが流行しはじめ、今期にはほとんど全員が腰から吊るした鐘をゆさゆさと揺らしている。海の向こうの異国の流行がこの国にも渡ってきたらしい。当初は重たく扱いにくいスカートに、倒れたりテーブルにぶつかってグラスを倒す者が多くいたが、最近では鯨の髭で作られた軽いパニエが主流となって、多少は動きやすくなったらしい。
男にとっても、足元が見えづらいドレスを纏った女性を些細な段差においてもエスコートすることは気を引く機会になる。膨らんだスカートは女性の上半身を華奢に見せ、男女問わず好ましい流行と捉えられた。
しかしアベラルドにとってはあまり気持ちのいいものではなかった。鐘が揺れる度にかつての己の未熟さが思い起こされ、一人で気まずくなっていた。
「アベラルド!」
呼びかけられた方を振り向くと、正装に身を包み髪を撫でつけたラウロがこちらに向かっていた。その隣には美しい女性が寄り添っている。
「ラウロ!久しぶりだな。今日は招待ありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
口では親しげながら、正式な礼をとる。女性の手の甲に挨拶として口付けを落とし、ラウロの肩を叩く。
「遂に君の婚約パーティーか。時が過ぎるのは早いものだ。しかもこんなに美しい女性がお相手だなんて。本当におめでとう」
そういうと、ラウロと婚約者は照れくさそうに笑った。
高等学校卒業後もしばしば顔を合わせていたラウロとアベラルドだが、婚約者の女性と会うのはこれが初めてだった。しかし話はあちらこちらから聞こえていたので、その女性の名も地位も、ラウロに惚れ込んだ女性の押せよ押せよの勢いにラウロが陥落したことも、今ではすっかりラウロの方がベタ惚れであることも、それ以上は知らんでいいというほどに知っている。
「アベラルド、僕が君の先を越すことになるとは思わなかったよ。以前紹介してくれた年上の女性とはどうなったんだい?」
「一体いつの話をしているんだ。もう半年前に終わったことだよ」
肩を竦めると、「ああそうだったな。まあ詳しい話はあとで」と肩を叩かれた。本日の主役である二人は、次々とやってくる招待客を出迎えるためゆっくりしている暇もない。寄り添って去って行く二人の後ろ姿を見送って、アベラルドも会場の奥へと入っていった。
それからは他の客に挨拶をしたり、女性と会話の流れでダンスをしたりと、ごく一般的な独身貴族男性らしくパーティーを過ごした。つまらないと言うほど捻くれてはいないが、楽しいと言えるほど満喫してもいない。恋人も親友もいない男の社交界などこんなものだ。溜め息をつきながらソファに腰掛けたとき。
「まあ、こんなお祝いの席で溜め息だなんて。この場の女性達ではご不満?」
後ろからかけられた、知らない声――しかしどこか懐かしい響きを湛えた声に、アベラルドははっとして立ち上がった。
振り返った先にいたのは、背の高い、凜とした美しさの女性だった。いや、大人びた雰囲気の少女と言うべきか。纏め髪と鐘型スカートが主流の会場の中で、金糸のストレートヘアをハーフアップにしてゆったりと背中に流し、膨らみは控えめなAラインスカートのクチナシ色のドレスを纏った彼女は、浮世離れした気品に溢れていた。
青い瞳がいたずらっぽく光り、アベラルドを見つめている。
「隣、失礼してもよろしくて?」
再び声をかけられて、慌ててアベラルドは彼女をソファへとエスコートした。二人掛けのソファの半分に腰掛けた彼女に目で促され、アベラルドもおずおずと腰掛ける。
「お久しぶりね。何年ぶりかしら?それとも貴方、私のこと覚えてらっしゃる?」
「六年ぶりでしょうか。ご無沙汰しております。……マリア=ベッラ」
名を呼ぶと、マリア=ベッラは嬉しそうに微笑んだ。
十七歳になった彼女は、十一歳の当時も愛らしかったが、今では見違えるほどの美しさだった。細く長い首筋と大人びた眼差しに、目を奪われない方が難しいだろう。しかしアベラルドが感じていたのは、罪悪感と居心地の悪さからくる緊張だけだった。
マリア=ベッラは彼の心を知ってか知らずか、顔を覗き込むようにしながら話し続けた。
「あらやだ、覚えててくださったのね!六年も経ってるなんて、もう誰か分からないだろうと思っていたのに」
「貴女こそ……ラウロに聞いたのですか?」
「ラウロおにいさまにアベラルド様もいらっしゃるとは聞いてたけど、聞いてなくても貴方のことは分かったと思うわ」
忘れるわけがないもの。小さく続けた声を訝しんだが、それを尋ねる前にマリア=ベッラがニッと笑った。
「あとラウロおにいさまに聞いたのは、アベラルド様は未だ婚約者も決まる気配のない独身ってことかしら!」
「そっ……どうでもいいでしょう、そんなこと」
「あら、どうでもよくなんか無いわ。私今日、貴方に決別しにきたんだもの」
何言ってるんだこの子は。話の流れがさっぱり分からなくて、アベラルドはむっとした。
「この会場には、未婚の女性もたくさんいらっしゃるわけだけど。貴方ダンスは踊った?魅力的な方はいらっしゃった?」
「そりゃ踊るよ。今日のために着飾った女性たちは皆魅力的だ」
「そうじゃなくて」
何故呆れられているのか分からない。
「頬に触れたいとか、花を贈りたいとか、そういう思いを抱く相手は」
「恋愛として魅力的な女性ということか?それはまあ、すぐには見つからないけれど」
答えると、「それ見たことか」とマリア=ベッラはニタリと笑った。
「ね、貴方もっと幼い子じゃないと駄目でしょう。社交界デビューもする前の」
「な!?」
「大丈夫よ、言いふらす気もないから安心して」
呆気にとられるアベラルドに、マリア=ベッラは訳知り顔で頷いている。
「十一歳の私はそれはそれは可愛らしかったものね。誰だって心を奪われるし、それは仕方のないことだわ。思いを寄せるのは自由よ。でもやっぱり、誑かすのは駄目だと思うのよね」
「あ、あの、マリア=ベッラ」
「特に貴方は駄目よ!私何も知らなくて、すっかり流されちゃったんだから」
マリア=ベッラはそっとアベラルドの頬に触れた。
「貴方って私を悲しくさせる天才よね。初めて会ったら生返事して、親しくなったと思ったら会いに来なくなって、手紙の返信さえ寄越さない。そうやって切ない傷を残しておいて、後になって知るのは、貴方の態度は真っ当なものじゃなかったということ」
目を逸らそうにも、彼女の顔を視界から離すことは出来ない。寂しそうな表情に、胸が掴まれる思いがした。
「ねえ、貴方って見目がいいのよ。世間知らずのお子様を騙すなんて簡単なんだから、もうおかしなことはしないで」
そっと指先が離れていく。それを惜しいと思った。
考えてみれば、彼女はアベラルドが無かったことにしようとした『罪』の被害者であり、唯一その『罪』を知っている人間だった。
マリア=ベッラに詰られて、逆にアベラルドは、初めて『罪』が許されたような気がした。
ふわりと心が軽くなり、話すのにも余裕が出てくる。
「マリア=ベッラ。あの時のことは本当にすまなかった。謝罪の言葉だけでは軽いと思われるかもしれないが。私は幼女愛好家でも小児性愛者でもないが、君が私をそういうものとして断罪して心が晴れるなら、甘んじて受けよう」
「あら、往生際の悪い言い方をするのね。今更謝罪なんて結構だけど、貴方本当に反省してる?」
「心から。ああ、大人の女性をエスコートする私を見たら納得するやも。一曲ダンスなど如何でしょう?」
流石におどけすぎたか、鼻で笑われる。
「冗談。貴方の表の顔と裏の顔の使い分けがとっても見事だってことも、私よく知っているんだから。お生憎様だけど、私はもっと素敵な、良識ある殿方と恋するって決めてるのよ。見目じゃなくてね!」
呆気なく振られて、アベラルドも苦笑した。
「ところで、今日はリーサ様は?ご一緒にいらっしゃったのでは?」
「ああ、お母様はひと月前に過労で倒れたのよ。だから今回はお留守番、というかお父様と一緒に静養中」
「それは……お労しい。お大事にと、ラウロの結婚式にはきっとお目にかかれるよう祈っているとお伝えください」
「ありがとう、伝えるわ」
あの快活な女性が倒れるとは。しかし婦人が過労とは珍しい……という怪訝な顔に気がついたのだろう、マリア=ベッラが説明した。
「お母様、前から子供用のドレスのデザインと制作をしていたでしょう。三年前から大人用ドレスも作り始めたら、あっという間に話題になったの。お父様は 男爵だから、公爵夫人や侯爵令嬢に気に入られたら依頼は断れないって無理してしまって」
「そんなことが……ああ、だから」
六年前、マリア=ベッラが家でさえ毎日ドレスを着ていたことが普通ではなかったと、ようやく気がついた。それがリーサの仕事の試着を兼ねていたことも、今になって知ったのだ。
あの時の鐘型ドレスを、今、女性達が競い合って着ていることに、リーサとマリア=ベッラは少なからず貢献していたのだ。
「このドレスはお母様の最新作。向こうの国でも新しい形なのよ。これがこれからの世界の流行になるわ」
立ち上がってマリア=ベッラがくるりと回る。スカートが傘のように広がり、ハーフアップの髪が風に靡く。
そしてその髪を留めている白い花飾りがちかりと光った。
「……弱ったな。そのドレスがこれから流行しても、最初に君を見てしまった後じゃどんな人でも霞んでしまうよ」
「流石、お上手ね」
アベラルドの本心からの甘い言葉も、マリア=ベッラには柳に風だ。
苦笑していると、座ったままのアベラルドに、マリア=ベッラが右手を差し出した。
「まあでも、折角の再会ですもの。一曲くらいなら踊ってあげてもよろしくてよ?」
ツンとした澄まし顔に高飛車な態度。成長してやや低くなった声。十代の少女の六年は驚くほどの変化をもたらすけれども、マリア=ベッラが魅力的な女性であることは何も変わらない。
(今はまるで、エルフの女王だ)
そう思って、アベラルドは自分自身に呆れた。自分はあまり変わっていないらしい。
「喜んで。貴女に誘っていただけるなんて、この上ない幸福です」
そう言って手を重ねると、その手元を見てマリア=ベッラは方眉を上げた。
「ねえ、アベラルド様」
「なんでしょう?」
「私が贈ったカフスボタン、金じゃなくて銀だったと思うけど」
引き出しの奥に小箱を仕舞った時のことが思い出されて、アベラルドは言葉に詰まった。
「……次にお会いするときには、必ず付けて参ります」
「まさか無くしたとか言わないでしょうね?」
「そんなことは!」
家に帰ったらすぐに引き出しの奥から引っ張りだそう。いや、動かしてはいないはずだ。同じ場所にある筈だ。若干不安になったのを悟られないよう、アベラルドは立ち上がり、マリア=ベッラの右手を自分の左手に乗せるように逆転させた。
「エスコートさせてください、麗しい方」
「あら、誘ったのは私なのに」
「その前に私から誘っていますよ」
「あれは振ったからノーカウントよ。でも」
軽口を叩きながらダンスホールに向かう。
大人になったマリア=ベッラとこんな風に会話するなんて、全く思ってもみなかった。未だに動揺は完全には収まっていないし、罪悪感が霧散したわけでもない。しかし。
「いいわ。六年前の私のために、貴方にエスコートされてあげる。貴方に流行の最先端と踊る権利をあげる」
そう言って笑うマリア=ベッラの手を取っていることは、アベラルドにとって、紛れもない幸福であった。
ベル・ガール