第九十三話 ゴズVS空(後)
数珠丸の刀身が、いや、刀身だけでなく、鍔も柄も、すべてが無数の泡沫となってはじけていく。
鉄の色をした泡は地面に四散することなく、一つ一つが意思あるもののように動いてゴズの身体に付着していった。
頭のてっぺんからつま先まで、ゴズの全身がくまなく泡に包まれるまで、かかった時間はごくわずか。
もともとゴズの身長は雲をつくように高く、四肢の頑強さは熊を思わせるほどだった。
その巨大な体躯を包み込んだ泡沫はみるみるうちに体積を増やしていき、ゴズの身体を一回りも二回りも大きくしていく。
ややあって膨張を終えた泡沫は、次に収縮を開始する。
ただ小さくなるだけではない。泡沫は明確な意思をもって形を整えはじめる。
それは全身をくまなく包む東方甲冑だった。
ただの甲冑ではない。それには本来あるはずの関節部分の隙間がまったく存在しなかった。
どれほど精巧につくられた鎧でも、首や手足といった関節を動かすためにはある程度の隙間が必要となる。篭手と袖がくっついていれば腕が曲げられないし、脛当と脚甲がくっついていれば歩くのも難儀する。
だが、ゴズの鎧にはそういった隙間が一切存在しなかった。すべての部位が針の隙間もないほどに結びついており、にもかかわらず、動きに一切の支障がない。
黒光りする甲冑に全身を包まれ、さらに牛頭をかたどった兜で顔のすべてを覆った今のゴズは、あらゆる攻撃から身を守ることができる。
むろん、守りだけではない。ゴズが右手に持つ巨大な青竜偃月刀は、七星を象嵌した天上の武装。
その姿は甲冑武者というより、現世に降臨した牛王そのものであった。
「――空殿」
牛面からゴズの声が発される。それだけで圧倒的な闘気が吹き付けてきて、空は奥歯を噛みしめて圧迫に耐えなければならなかった。
今のゴズは兜によって目も、鼻も、口も、耳さえも覆われている。それでも五感には何の影響もないようで、空は確かにゴズの視線を感じ取っていた。
「これが空に至りし我が姿。そして我が同源存在たる数珠丸の又の名を平天大聖。かつて天界を寇略せし七天の一でござる。その後、敗れて改心し、自らに縄をうって天界に帰順した牛頭の武神……御館様に挑み、敗れて御剣家に仕えるようになったそれがしらしい同源存在と申せましょうか」
そういうと、ゴズは持っていた青竜刀を逆さに向けて地面に突き刺した。
自ら武器を手放したように見えるゴズに、空は忌々しげな目を向ける。
武器を使うまでもない、とゴズがいっているように見えたのだ。そして、この推測は正鵠を射ていた。
「これよりは無手でお相手いたす。手を抜いた、とは思わないでいただきたい。それがしの目的は空殿を正すことなれば、目的のために最善の手段を選んでいるのでござる」
「勝手にしろ」
「は。それともう一つ、すでに空殿の心装――そうるいーたーとやらは自由に力を振るえる状態でござる。遠慮なくかかってまいられよ」
「……なに?」
「数珠丸の持つ縛鎖の力は本来、強大に過ぎる己の力を封じるためのもの。他者の心装を抑え込むのは余技に過ぎませぬ。すべての力を引き出すためには鎖を解かねばならず、鎖を解けば他者の心装を抑えられない。そういうことでござる」
それを聞いた空は眉根を寄せて言葉の意味を考えた。
ゴズの心装の能力は自縄自縛であり、他者の心装能力を打ち消していたのはその副産物だという。
同源存在の力で同源存在を縛るという意味ははかりかねたが、世にいう狂戦士のようなものと考えれば納得がいった。たとえ自分を弱体化することになろうとも、そうしなければ力を制御することができないのだろう。
天に背いたというエピソードからも凶逆の気が感じられる。
となれば、ゴズが全力を振るっていられる時間はそう長くないのではないか、と空は推測した。
古今東西、狂戦士というのはそういうものだ――
と、そんな空の思考を読んだように、牛頭の兜が上下に揺れた。
「気づかれたようですな。いかにも、それがしの空装は展開できる時間にかぎりがござる。時間をかせぐ戦いをするのも一つの手でござろう」
そういったゴズは「もっとも」と続けた。
「それができればの話でござるがな」
話は終わり、というかのように、ゴズが腰を落として構えをとる。
応じて、空は魂喰いを構えてゴズと向かい合った。
◆◆◆
空装によって牛頭の甲冑姿となった今のゴズは、背の高さは優に二メートルを超え、手足の太さは丸太のごとく、文字どおりの巨人と化している。
その巨体が視界の中から消えたとき、空はとっさに後退しようとした。
だが、そのときにはすでに黒甲に包まれたゴズの拳が腹部にめり込んでいる。
ひとたまりもなく空の身体は後方に吹っ飛び、そのまま石畳に叩きつけられた。
「ぐ――くッ!」
あふれ出ようとする悲鳴やら胃液やらを無理やり飲み下し、すぐさま立ち上がろうとする空。
しかし、その左横にはゴズの姿がある。蹴りが来ると予測した空は反射的に左肘で脇腹をかばう。
ゴズはそのまま肘ごと相手の身体を蹴り上げた。
鞠のように軽々と、空の身体が宙を舞う。二メートルを超えるゴズの頭のさらに上、建物の三階部分に達する高さまで人間の身体を蹴り上げたのだ。その脚力は人間のそれではなかった。
次いで、ゴズは石畳を蹴って飛び上がる。一瞬で空中の空のところまで達すると、両手を組み合わせて即席の凶器をつくりだし――
「ぬんッ!!」
高々と掲げたそれを躊躇なく空の身体に叩きつけた。
悲鳴をあげる暇さえなかった。一瞬のうちに地面に叩きつけられた空の下で石畳が大きく爆ぜ割れ、強い振動が地面を揺らす。空は立ち上がることもできず、苦悶に顔を歪めてその場でのたうった。
音もなく地面に降り立ったゴズは、苦しむ空の姿を黙って見下ろす。
空は苦しみながらも、まだ心装を手放していない。それを見事と内心で称賛しつつ、ゴズはおもむろに口を開いた。
「もう戦えぬと思われたなら心装を手放されよ。それをもって降参と見なしまする」
悠然と言い切るその姿は揺るぎない自信に満ちていた。
言葉にしては言わぬ。だが、その態度が雄弁に告げていた。
たとえ心装の力をもってしても、そして戦える時間にかぎりがあろうとも、御剣空がゴズ・シーマに勝つことはありえない、と。
自分と空が向かい合えば、必ず強は自分であり、弱は空である――あたかもそれが世の真理であるかのように、ゴズは自分が空の上に立っていると信じきっていた。
そして、その自信は正確な事実に基づくものだった。一瞬で地面を這わされれば、どれだけ負けず嫌いな人間であっても認めざるをえない。
空も認めた。
ごぼり、と赤色の胃液が口からこぼれおちる。
激しく咳き込みながら、なんとか立ち上がろうともがく。そうしながらゴズを睨みあげると、空を見下ろしていたゴズと目があった。敵意からはほど遠い、憐れみを込めた眼差し。
――それが、ひどく腹立たしかった。
空の脳裏に鬼ヶ島での日々がよみがえる。
お前は弱者なのだと事あるごとに決め付けられる日々。
悪意をもって罵られるのはまだいい。いつか見返してやると奮起する糧になる。
だが、善意をもって憐れまれたとき、心に生じた惨めさをどうやって拭い落とせばいいのだろう。
その善意の憐憫を向けてくる筆頭が、眼前の傅役だった。
枷というならあれこそ枷。反発することさえできず、自分が弱者であることを心身に刻み付けられてしまう。
今もまた、ゴズ・シーマは御剣空が弱者であることを強いてくる。
――そのことが、ひどく腹立たしかった。
ならば、どうすればいいのか。
戦ったところで勝ち目はない。ゴズは実力の半分どころか、十分の一も出していまい。そのゴズ相手にこのていたらく。もし今、ゴズが鬼人を討とうとしても、空にそれを止める術はなかった。
戦うこともできず、護ることもできない。
そんな人間に何ができるのか。
――決まっている。喰らえばいいのだ。
御剣空にはそれができる。いや、違う。御剣空にはそれしかできない。
それこそこの五年の間に学び得た、唯一価値のある真実ではなかったか。
「………………ああ、そうだ。そうだったな」
「……空殿?」
「……お前たち三人と、戦おうとか……スズメやみんなを護ろうとか……そんなことを考えて、うまくいくはずがなかった。俺は……喰うことだけ考えていればよかったんだ」
「ぬ……?」
ゴズが怪訝そうに空を、いや、空が握っている心装を見やる。
使い手たる空は息も絶え絶えの状態。心装に勁をまとわせる余裕などない。
だというのに、心装の刀身を勁が覆っていく。
――いや、これは勁ではない。人の内よりうまれる魔力ではなく、かといって世界が生み出す魔力とも違う。もっと濃密で、もっと根源的な、それこそ神気や元素と呼ばれるレベルの力ではないのか。
それが轟々と音をたてて心装を覆っていく。それだけではない。力の奔流は空にも流れ込んでいく……
次の瞬間、ゴズはとっさにその場から飛びすさっていた。直後、一条の閃光がそれまでゴズの立っていた空間を撫で切る。
倒れたまま、空が心装を振るったのだ。今の今までのたうっていた者の放つ斬撃とはとうてい思えない鋭利な一閃だった。
と、ゴズの視界の中で空がゆっくりと立ち上がる。
すでにその顔に苦悶はない。口元に張り付いた胃液を袖で拭い取った空は、ゴズを見て愉しげに口を開いた。
「ゴズ。お前を喰うぞ」
ニィィ、と。
空が唇の端を吊りあげる。
その表情を目の当たりにしたゴズの全身に悪寒が走った。空装を励起し、鉄壁の守りを得たにもかかわらず、己を見据える空の目に怖気を震った。
とっさに地面に刺していた青竜刀に手を伸ばす。今の空相手に無手は危険であると本能が告げていた。
◆◆◆
弾けるような勢いで空がゴズへと躍りかかる。怪我の影響など微塵も感じられない、それどころか先刻までのゴズに迫る速さ。
負傷の治癒は間違いなく心装の力であろう。では、この動きも心装の助力によるものなのか。それとも、先刻のゴズの動きを見て、短期間で上級歩法を習得してのけたのか。
いずれにせよ、今の空を先刻までの空と同一視するのは危険だった。
相手の降参を引き出す心積もりだったが、ここにおいてそれは下策であるとゴズは判断する。
どれだけ空を叩き伏せても、そのつど心装が回復してしまうのでは意味がない。もしかしたらあの回復術には、回数なり条件なり、なんらかの制限があるのかもしれないが、それを探り出している時間もない。ここは一息に決着をつけるべきであろう。
そうしている間にも空は迫っている。その手に握られた魂喰いは、先刻までの鬱憤を晴らすかのように猛り狂い、決して大柄ではない空の体躯に巨象のような迫力を与えている。
振りかざされ、振り下ろされる空の心装をしっかと見据えながら、ゴズはみずからの青竜刀を一閃させた。
「幻想一刀流 中伝――閃耀!」
それは勁技と剣技を練り合わせた光の斬撃。空装の刃をもって放たれるこの奥義で、空の手から心装を叩き落とす。それがゴズの狙いだった。
これに対し、空の放った斬撃に幻想一刀流の妙はない。ただ力のかぎり心装を振り下ろす、それだけの一撃だった。
衝突する二つの刃。
次の瞬間、光を帯びたゴズの青竜刀がひときわ激しく輝き――音高く断ち切られた。
「なあッ!?」
牛面の兜の向こうから驚愕の声がこぼれでる。
自信をもって放った一刀だった。渾身の力を込めて放った斬撃だった。それが空によって文字どおりの意味で断ち切られたことに、ゴズは一瞬の半分の間、放心してしまう。
その間にも空の斬撃は止まらない。
青竜刀を叩き斬った勢いそのままに、ゴズを守る甲冑に襲いかかる。
そして、空の渾身の一刀は見事に空装の牙城を破ってのけた。左肩の装甲を叩き割った魂喰いは、一気に鎖骨を砕いて胸部にまで達する。
一拍の間を置いて、ゴズの肩から堰を切ったように血があふれ出た。