第四十五話 クラウ・ソラス
その日、イシュカの街は朝から雲ひとつない晴天に恵まれていた。
まだ太陽が東の空に昇りきっていない時刻に目を覚ました俺は、同じベッドで寝ていたシールを起こさないように着替えを済ませ、あくびをかみ殺しながら家を出た。
向かう先は北の城門である。
ティティスの森に向かう経路だが、今日の目的は森ではなく、城門沿いに設けられている従魔用の厩舎にあった。
藍色翼獣に朝食を与えに来たのだ。
先日、めでたく俺の従魔に認定された藍色翼獣は、イシュカの街に入る権利を得た。
だが、寝所はあいかわらず城壁の外の厩舎のままだ。
これには事情がある。
いかに従魔に認められたからといってもワイバーンはワイバーン。
城内に入れる条件として、飼い主の制御を離れたときの保険を付けることを求められた。
従魔用の首輪――都市側の意思で爆発する即死アイテム。
これは俺のワイバーンに限った話ではなく、他の中型、大型従魔も同様の措置をとっているとのことだった。
まあ、治安を維持する側の意見としては理解できる。
街中で従魔が暴れ出したら、衛兵にも街の住民にも多大な被害が出るだろう。そのときのための保険を用意するのは当然のことだった。
ただ、こちらから見れば、切り札の一つであるワイバーンの死命を制されることになるわけで、おいそれとうなずくわけにはいかなかった。
冒険者ギルドでの一件もある。イシュカの上層部が、自分たちの都合で俺に不利益を強いてくることは十分に考えられる。
そのとき、ワイバーンを人質にされてしまうのは面白くなかった。
それゆえ、俺は従魔用の首輪を受け入れず、ワイバーンを外に置くことに決めた。
『組合』の協力のもと、ワイバーン用の巨大厩舎も建ててもらった。最近では一目ワイバーンを見ようと、見物客が押し寄せる騒ぎになっている。
竜騎士団を擁するカナリア王国において、ワイバーンは魔獣ではなく、人間と共に戦う益獣と認識されているのだ。
一度でもワイバーンに襲われればそうも言っていられないだろうが、一般市民がワイバーンに襲われることなどめったにない。
そんなわけで、ワイバーンはイシュカの住民の間で結構な人気者(?)になっていた。
最近では、ワイバーンの鱗に直接触れた者には幸運がおとずれる、などという妙な風説まで流布しているらしい。
柵を乗り越えて侵入する者が後をたたない、と係の役人が苦笑していた。
だもので、最初にその光景を見たとき、俺は反射的に眉をひそめてしまった。
――朝日が差し込む厩舎の中で、一人の女性が手を伸ばして藍色翼獣の鱗に触れている。
不心得者がしょうこりもなく侵入してきたのか、と思ってしまったのは無理からぬことだろう。
だが、すぐにおかしなことに気づく。
俺以外の人間を容易に寄せ付けず、シールでさえこの頃ようやくエサをやれるようになったばかりの藍色翼獣。
そのワイバーンが見覚えのない相手に、何の抵抗もせずに接触を許しているのだ。
警戒している様子も、興奮している様子もない。見知らぬ人間がすぐ近くに立っているというのに、である。
と、ワイバーンが厩舎に入ってきた俺に気づいて「ぷぃぃ」とうれしげに鳴いた。尾でばったんばったんと地面を叩く。
それに気づいた女性が振り向いた。
その瞬間、澄んだ鈴の音が鳴らなかったことを、俺は不思議に思ってしまった。それくらい綺麗な人だったのだ。
年の頃は俺より上。二十歳をいくつか超えたあたりだろうか。
貴族の血を思わせる鮮やかな黄金色の髪、紫水晶を思わせる両の瞳。肌は新雪のように白く、鼻梁は理想的な曲線を描き、唇は形よく整っている。
まるで物語に出てくる深窓の姫君のような容姿だった。
ただし、この女性には高貴な女性にありがちな弱々しさはまるで感じられない。
それも道理。彼女は腰に剣を佩いているのだ。それが形だけの武装でないことは、隙のない立ち姿が証明していた。
相手の目にまっすぐ見つめられたとき、真っ先に脳裏をよぎったのは「強い」という言葉だった。
このイシュカにおいて、俺が知る最強の人間はギルドマスターのエルガートである。レベル三十五にして第一級冒険者。
この女性はそのエルガートと同等か、あるいはそれ以上の力を持っていると思われた。
湖水のように穏やかな外面の下に、底知れぬ力量が眠っているのが感じ取れる。
あと、次に女性を見て思ったのは「でかい」だった。
女性が履いている白銀製のブーツは戦闘用のものらしく、ヒールの部分に背を高くする部品はついていない。
にもかかわらず、女性の身長は俺を超えていた。
最近は測っていないが、俺の身長は百七十五あたりのはず。そこから判断するに、たぶん女性の身長は百八十近いのではなかろうか。
しなやかに伸びた手足は剣士らしい肉つきをしており、率直にいって女性らしい「細さ」や「か弱さ」は感じられない。
だが、一方で「太い」だの「ゴツい」だのといった感想が浮かばないのは、全体として非常に均整が取れた体格をしているからだろう。
生まれ持った才能を鉄の努力で磨きあげた人物。眼前の女性はきっとそういう相手だ。
そして、明らかに良家の出である。
着ている服は絹製と一目でわかるし、ブーツや胸当てといった防具はすべて白銀色にかがやく一級品。
冒険者や衛兵ではありえない。間違いなく騎士、それもかなりの上級騎士だ。近衛騎士団長と言われても信じられる。
なんでこんな人物が、早朝、まだ日も昇りきっていない時刻に俺の厩舎にいるんだ、と頭の中でハテナマークが乱舞する。
すると、視線の先にいる相手がゆっくりと口を開き――
「……す」
「……す?」
「すみませんでしたッ!」
びっくりするくらいの勢いでがばっと頭を下げてきた。
女性の金色の髪が、謝罪の勢いにおされてぴょんと空中で跳ねている。ついでに俺の身体もちょっと跳ねた。
目を丸くして、頭を下げた女性の後頭部を見やる。
正直なところ「何をじろじろ見ている、そこの下郎!?」と怒鳴られてもまったく不思議ではないと考えていただけに、相手の反応に戸惑ってしまう。
そんな俺の戸惑いに気づかず、女性は謝罪を続ける。
「噂のワイバーンを一目見たいと思ったのですが、あたりには誰もおらず……それで、その、こんな朝早い時間であれば、少し中をのぞいても誰にも気づかれないだろうと思いまして」
「……で、こっそりのぞいてみた、と。おもいきり中に入ってワイバーンに触れていたのは……?」
「申し訳ありません! その、一目みたら帰るつもりだったのですが、まさか本当に藍色翼獣がいるとは思わず……いえ、話には聞いていたのです。聞いていたのですが、あの凶暴な藍色翼獣が人間に従うなどありえぬこと。おそらく誤報であろうと考えておりまして……」
ところが実際に見たら本物の藍色翼獣だった。
それで好奇心がおさまらず、見るだけでなく厩舎にまで入り込んでしまったらしい。
事情を把握した俺は女性に頭をあげるようにうながした。
「あ、いや、別にそこまで謝らないでもいいですよ。ワイバーンが大人しく触らせたということは、それだけあなたが気に入ったということでしょうし」
どう見ても身分が高そうな相手にいつまでも頭を下げさせておくのは、精神衛生上よろしくない。
すると、女性はほっとしたように顔をあげた。
「寛大な言葉、感謝します。その寛大さに付け込むようで心苦しいのですが、一つうかがってもよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょうか?」
「このワイバーンの主はあなたとお見受けしましたが、相違ございませんか?」
「はい」
俺がうなずくと、女性の視線が何かを量るようにすっと鋭くなった。
だが、それも一瞬のこと。すぐに眼差しを元に戻した女性は、俺が手に持った籠に視線を向ける。
俺は中の一つを取り出して相手に見せた。
「ああ、これはあんずの実です。ワイバーンの朝食でして」
「あんず、ですか? ワイバーンがこれを? 調理していないあんずは硬い上にとても酸っぱかったと記憶しているのですが……いえ、そもそも肉食のワイバーンが果実を食べるのですか?」
「基本は肉なんですがね。以前の強烈な体験を経て、酸味の良さに目覚めたようなんです」
女性に答えながらワイバーンに拳大のあんずを放ってやると「ぷぎぃ!」と喜びながら、ばくりとくわえこんだ。
あんずの実が硬いといっても、ワイバーンの鋭い歯に耐えられるものではない。しゃくしゃくと小気味良い音をたて、ワイバーンはあっさりあんずの実を咀嚼してしまう。
ちなみに「以前の強烈な体験」というのは、マンティコアの毒にやられ、ジライアオオクスの実を食べたときのことである。
あのときはジライアオオクスの実の酸っぱさに耐えかね、かなり苦しげな悲鳴をあげていたのだが、その後、身体から毒が抜け落ちたことで、ワイバーンの頭の中には「酸っぱいもの=身体に良いもの」という図式が出来上がったらしい。ちょくちょく欲しがるようになった。
さすがに毎回毎回ティティスの森に行って、ジライアオオクスの実を取ってくるのは面倒だったので、歯ごたえがあって酸っぱい果物を見繕い、こうしてエサにしている次第である。
ぷいぷいと果物を食べて喜ぶワイバーンを、女性はあっけに取られたように見つめていた。
「……藍色翼獣の好物は果物だった? いえ、与えたエサの記録には、たしか果物も含まれていたはず。それに野生種が好んで酸味のあるものを食べるなんて聞いたことがない……」
無意識の仕草なのだろう、女性は腕組みをしてなにやらぶつぶつと呟いている。
組んだ腕の隙間から、たわわな胸がこぼれおちそうになっていて実に眼福である。が、あんまり見ているとすぐ気づかれそうなので、邪まな視線を無理やりひきはがす。
「強烈な体験」についての質問が飛んでくるかと思ったが、どうやら露骨な詮索は避けているようで、次に女性が口にしたのは別の事柄だった。
「ところで、先ほどからこの子のことをワイバーンと呼んでいますが、名前はまだ決めていらっしゃらないのですか?」
「名前に関しては他の人にも言われたことがあるんですけどね。どうも気に入る名前がないようで、何を提案しても哀しそうな顔をされてしまうんです」
「それはおそらく、提案した名前の中にあなたの名前が入っていなかったからでしょう」
「俺の――いえ、私の名前ですか?」
なんのこっちゃと首をかしげると、女性はあんずを食べるワイバーンを見上げながら微笑んだ。
「ワイバーンは、主と認めた者の名前を自らに冠することを望む生き物なのです。頭の良い個体ほどその傾向は強まります。この子ほど明瞭に人の言葉を聞き分ける個体であれば、なおさら主の名を欲する気持ちは強いと思いますよ」
「ふむ、それは初耳ですね……つまり名前にソラをつければいいのか? ソラリ、ソラーラ、ソラン?」
試しに色々と名前を口にしてみると、ワイバーンの反応は悪くなかった。少なくとも「ダイゴ」の時よりは目に光がある。
「ソラミチ、ミソラ、ソラト、ソラリス……ううむ。もうちょっと、こう、かっこいい名前はないものか」
「ぷぎ、ぷぎ」
「待て、急かすな。いま喉元まで出かかってるんだ。ソラサ……ソラシ……ソラス………………おもいきってソラ太郎というのはどうだろう?」
「ぷぎぃ!」
「あ痛!? こら、尻尾で叩くな! 悪かった、ごめん、ちゃんと考えます!」
そんな風にワイバーンと戯れていると、女性が何事か思いついたように、ぽんと手を叩いた。
「クラウ・ソラス、というのはいかがです?」
「……クラウ・ソラス?」
「はい。古の言葉で炎の剣を意味します」
「おお、かっこいい! 炎というのもワイバーンにぴったりですね。お前はどう――って聞くまでもなさそうだな」
「ぷいー!」
ワイバーンは羽をばっさばっさと震わせて喜んでいた。埃が飛ぶからやめなさい。
「よし、お前は今日からクラウ・ソラスだ!」
「ぷぎ!」
俺が宣言すると、ワイバーンが長い首をくっと立てて鋭く吼えた。
気のせいか、こころもち表情が凛々しくなった気がする。
そんなワイバーン――もといクラウ・ソラスの首を軽く撫でてから、俺は女性の方に向き直った。
「良い名前をいただき感謝します――えーと……」
「アストリッドといいます。こちらこそ、色々と興味深いことを教授していただいて感謝します。ええと……ソラ殿、でよろしいでしょうか?」
「はい、ソラと申します」
「では、ソラ殿。かなうならもう少しお話したいところなのですが、あいにく人と会う約束がありまして、今日はここで失礼させていただきます。また近いうちにお会いしましょう」
「はい、いずれまた――近いうちに?」
再会を確信しているような相手の言葉に引っかかり、目を瞬かせる。
すると、アストリッドと名乗った女性はくすりと微笑むと、すらりと長い人差し指を唇の前に立てた。
「その際は、今日のことはどうかご内密に。それでは失礼いたします」