第5話 増援
「――申し上げます! 逃亡した野盗たちはマリス山に逃げ込んだものと思われます!」
その報告を受けたアストリッド・ドラグノートは反射的に眉をひそめた。
マリス山はドラグノート公爵領の東の位置しており、山向こうはアドアステラ帝国領になっている。かつて――アストリッドが生まれる以前にはこの山をめぐって王国軍と帝国軍が干戈を交えたこともあった。
帝国が『法の街道』を整備したことによって両国の主戦場は北に移動し、マリス山が戦場になることはなくなったが、この山が両国の国境に位置している事実は動かない。
野盗討伐のためとはいえ、不用意に兵を向ければ帝国を刺激してしまうだろう。そのことを思ってアストリッドは眉をひそめたのである。
帝国を刺激しないためにはあらかじめ使者を派遣して、国境に兵を展開する許可を得る必要がある。幸いカナリア王国とアドアステラ帝国は先ごろ婚姻関係を結んだばかりであり、使者が粗略に扱われることはないだろう。
ただ、ことが軍事に関わるだけに即答は得られないと思われる。帝国側の了承が得られなければ兵を動かすことができず、その間、野盗たちは体勢を整えることができるわけだ。
そのことを計算してマリス山に逃げ込んだのだとすれば、野盗の頭目は相当にしたたかな人物だろう、とアストリッドは思う。
――問題は、それだけしたたかな人間が、あえてドラグノート公爵領を荒した目的ですが……
報告の兵士を下がらせたアストリッドは、臨時にしつらえた天幕の中で考えに沈む。
時期的に考えても、アザール王太子と咲耶妃の婚儀が契機となっていることは間違いないだろう。
真っ先に思いつくのは、両国の結びつきが強まることを望まない第三国の謀略というものだが――「両国の結びつきが強まることを望まない」という意味では、第三国にかぎらなくても候補はいくらでもいる。
たとえば帝国のリシャール皇太子をはじめとした対外強硬派。
たとえば王国の反帝国派。
婚姻の当事国の中にも、今回の婚儀をこころよく思わない者たちは少なくない。そういう者たちが策動した可能性もあるのだ。
あるいは、単純にドラグノート公爵家に敵意を持つ者の仕業ということも考えられる。音に聞こえた『雷公』が自領に出没する野盗に苦戦していると知れば、口さがない者たちは姦しく騒ぎ立てるに違いない。
政敵であるコルキア侯あたりは喜んでドラグノート公の失態をあげつらうだろう。
そう考えると、コルキア侯をはじめとした親帝国派の仕業という線も十分に考えられる。もっとも、自国内で野盗を使嗾したと知られたら、使嗾した者自身の破滅につながりかねない。その意味では用心深いコルキア侯が今回の件に関わっている可能性は低いだろうが……
あれこれ考えた末、アストリッドは我知らずため息を吐いていた。
「黒幕の心当たりが多いというのも面倒なものですね」
そう言って天幕の外へ向かって歩き出す。
幸い、マリス山は無人で街道も通っていない。野盗たちが巣食っても民衆に被害が出ることはない。ひとまず帝国を刺激しないよう遠巻きに囲んで野盗たちをマリス山に封じ込めつつ、王都の父に状況を知らせて対応してもらうしかないだろう。
帝国と協力するとなると国王にも話を通さねばならず、その意味でも王都にいる父に任せるしかないのである。
同時に、山向こうの帝国領にも一報をいれておくべきだろう。野盗たちが帝国領に逃げ込んでしまえば、それはそれで問題になるからだ。
事態がそこまで進めば黒幕もなんらかの動きをみせるはず。そうなれば今回の裏面をさぐることもできるに違いない。
アストリッドは考えをまとめつつ口をひらいた。
「とはいえ、事態が動くまで賊を自由にさせておくのはいただけないですね。冒険者ギルドに打診して野盗討伐の依頼をかけておいた方がいいでしょう」
帝国領の近くで王国兵を動かすから問題になるのであって、冒険者を動かして野盗退治をする分には何の問題もない。
ただ、賊の数が数なので少人数の冒険者では返り討ちにあうだけだ。かといって多数の冒険者を集めようと思えば時間がかかってしまい、結局、賊に猶予を与えることになってしまう。
多数の賊をものともしない有能な冒険者がたまさか近くに滞在していればいいのだが――そんなことを考えて、アストリッドは思わず苦笑してしまう。そんな都合の良い人間がそうそういるはずがない、とおかしくなったのである。
まさか、それから半刻(一時間)と経たないうちに「都合の良い人間」の見本のような相手が目の前にあらわれるとは、このときのアストリッドは想像だにしていなかった。
「それはまさしく私のためにあるような依頼ですね」
久方ぶりにアストリッドと顔を合わせたソラは、話を聞くや迷うそぶりも見せずにそう言った。
それを聞いたアストリッドは表情の選択に迷う。
確かに人間の身で竜種を屠るソラにしてみれば、野盗の多寡など問題ではないだろう。それこそ単身でマリス山の野盗を屠ることも難しくないに違いない。
ただ、アストリッドとしては「それならよろしくお願いします」と気軽に頼むことはできなかった。実力的には問題なくとも、妹の命の恩人に対して「野盗が巣食うマリス山に単身で突っ込んできてください」と簡単に言えるものではない。
それに、アストリッドはソラが王侯貴族に対して否定的な感情を持っていることを知っている。ドラグノート公爵家には好意的に振る舞ってくれているが、その好意に狎れてソラの力を利用しようとすれば、たちまち好意は敵意に変じ、以後ソラは公爵家との付き合いを断ち切るに違いない。
眼前の青年にはそういう激しい一面がある。そのことを知っているアストリッドが、すべてをソラに押しつけるような決断に迷いをおぼえたのは当然であった。
せめて自分が同行するならまだしも、カナリア王国軍に属するアストリッドが動けば帝国に無用の警戒を与えてしまう。悪意ある者が『竜騎士団の副長が竜殺しと共に帝国国境で怪しい動きを見せている』と喧伝すれば、事態はソラを巻き込んで更に厄介なものになりかねない。
それを考えると、アストリッドが同行することは避けなければならなかった。配下の兵士も同様だ。ソラには単身で、もしくは臨時で雇い入れた少数の冒険者と共にマリス山に向かってもらうことになる。
決断に迷うアストリッドを見たソラは、相手の内心のためらいを掬い取るように柔らかく微笑んだ。
「アストリッド様、遠慮なさらずともけっこうですよ。実のところ、私もアストリッド様と公爵閣下にお願いしたいことがあるのです」
「私と父にお願い、ですか? ソラ殿が?」
「はい。ですので、どうか遠慮せずに私をお使いください。私への依頼が厄介であればあるほど、私としても後のお願い事がしやすくなるのです」
ソラは悪戯っぽくアストリッドを見やる。暗に自分の頼みも厄介事であると匂わせているのは、そうすることでアストリッドの心理的負担をやわらげようという気遣いなのだろう。
まっすぐに自分を見つめてくるソラの視線を、何故か受けとめかねたアストリッドはつつっと目をそらしてしまう。
が、すぐに我に返って視線を戻すと、感謝を込めてうなずきを返した。
「わかりました。そういうことであれば、ここはソラ殿に頼らせていただきます。かわりにソラ殿の頼みは責任をもって引き受けますので」
頼み事の内容を聞かずにそう応じたのは、アストリッドなりの信頼の表明だった。ソラが道理に外れた、あるいはドラグノート公爵家を陥れるような頼み事をするはずがない、という信頼である。
後にソラから御剣家継承や鬼人族移住の話を聞かされたアストリッドはわりと本気で頭を抱えることになるのだが、それはさておき、こうしてソラはマリス山に足を踏み入れることになった。
そして、長く国外に出ていて婚儀にも参加しなかった竜殺しが参戦したことで、ドラグノート公爵領を取り巻く事態は一気に加速することになるのである。
「……クラウ」
「どうかしましたか、姉様?」
「ソラ殿のことですが……少し雰囲気が変わられましたか? 以前にお会いしたときと比べて、なんというか、とても穏やかになられた気がします。懐の深さが感じられるというか……」
「あ、姉様もそう思われました? ソラさん、帝国から戻られてから以前にもまして素敵になられたんですよ! シールさんとスズメさんも同意見でした!」




