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第3話 騒乱の兆し


 東の空に太陽が顔をのぞかせはじめた時刻、俺は木刀を持って自邸の庭に足を運んでいた。


 しんしんとした朝の冷気が全身を包み込んでいる。最近は朝晩の冷え込みがきつくなったとシールがぼやいていたが、なるほどとうなずける寒さだった。


 もっとも、鬼ヶ島の冬はイシュカ以上に厳しいので、俺としてはそれほど寒さがきついとは感じない。獣人であるシールは感覚が鋭いので、気温の寒暖差を俺以上に感じてしまうのだろう。


 シールはオセロット(山猫)の獣人であり、オセロットは暑い地方の生き物だ。そのあたりも関わっているのかもしれない。


 そんなことを考えながら俺は素振りを開始する。


 冷々たる朝の空気を切り裂いて、木刀が宙を断つ音があたりに響きわたる。何度か同じ動作を繰り返していると、起き抜けの身体の隅々に血液が行きわたっていくのが実感できた。


 身体が火照り、意識が研ぎ澄まされていく。


 その感覚が心地よかった。ここ最近、どことなく落ち着かない日々が続いていたこともあり、なおさらその感が強い。



「父上に勝ってから、だよな」



 木刀を振り上げ、振り下ろしながら独りごちる。


 なんというか、ふわふわ宙に浮いているような感覚がこのところずっと続いているのだ。


 はじめの頃は父に勝った高揚が続いているのだと思っていた。五年前にかけられた『弱者は不要』という呪いをはねのけた解放感がそう感じさせているのだろう、と。


 そう思って、これまではあまり気にしないようにしていた。鬼人族のティティス移住を進めていく中で自然とおさまっていくと思っていたのだが、イシュカに帰って数日が経過してもなお浮ついた感覚が消えてくれない。


 別段いやな感覚ではないので、このまま続いても問題ないと言えば問題ないのだが、地に足がつかない状態が続けば思わぬ落とし穴に落ちる可能性もある。特にこれから俺が相手をするのは魔物や幻想種ではなく人間――もっといえば貴族や王族になる。注意するに越したことはない。


 幸いというべきか、予想どおりというべきか、ティティスの森を見たカガリはの地の豊かさに驚き、同胞の移住地として十分だと認めた。


 ヒュドラの毒の影響を差し引いても鬼人族を養うに足りる土地だと判断したのである。どうして人間たちはこんな豊かな森を開拓しないのか、と不思議そうな顔をしていたくらいだ。


 ともあれ、これで鬼人側の承諾は得られたので、次にカナリア王国と交渉して鬼人の移住を認めてもらわなければならない。しかる後、アドアステラ帝国におもむいて鬼人の領内通行を認めてもらう必要がある。



「なかなかに前途多難だな。ま、わかっていたことだけど」



 自然と苦笑が浮かぶが、鬼人族移住の決断を悔いる気持ちは湧いてこない。


 むしろ、前述したふわふわ気分のおかげで、厄介を極めるであろう二国との交渉もさして面倒だとは感じなかった。これまでは国とのやり取りなどわずらわしくて仕方なかったのに、今は「この程度の問題なら何とでもなる」と強がるでもなく思っている。


 これが高揚感にともなう根拠のない楽観なのか、確固たる自信に裏打ちされた冷静な分析なのか、これから各勢力との交渉を続けていくうちにはっきりしてくるだろう。


 俺はそんなことを考えながら、それからしばらくの間、無心に木刀を振り続けた。




 先のアザール王太子とさく妃の婚儀で、カナリア王国の王都ホルスには国の内外からたくさんの見物客が訪れた。


 あいにく俺は自分の目で婚儀を見ることはできなかったが、実際に相当の人手だったらしい。それこそ都市ひとつ、いや、国ひとつが動いた規模で人の流入が起きたのだ。


 人が集まれば物が集まり、物が集まれば金が集まる。


 先の魔獣暴走スタンピードによって冷え切っていたカナリア王国の経済は今回の婚儀によっておおいに活性化し、中央と地方とを問わず、カナリア国民の懐をおおいに潤わせる結果となったらしい。


 実際、俺がクライアと共に帝都に向かう前も、イシュカはかなりの人手で賑わっていた。王都はそれ以上の活況であったことは想像に難くない。婚儀が近づくにつれて賑わいはますます大きくなり、それにともなって王都には多くの金が落ちたに違いない。


 それ自体はまことにけっこうなことである。


 ただ、光があれば影が差すように、めでたい婚儀にも負の側面は存在した。


 一国の経済を動かすほどに大挙して王都に押し寄せた見物客たちは、婚儀の後にどこへ行ったのか。


 もちろん、大半は元いた場所に帰ったであろう。


 だが、一口に見物客といっても様々な境遇の者がいる。その中には善良とは言いがたい者たちもいた。


 食い詰めて王都に流れ着いた浮浪者程度なら可愛いもので、罪を犯して故郷を追われた者、見物客目当てのすりやかっぱらい、さらには野盗が見物客になりすまして王都に潜り込んだ例もあったらしい。おそらく、カナリア王国の内情をさぐるべく諸国から派遣された間諜スパイの類もいたと思われる。


 常であれば、カナリア王国は国境や街道に配置した関所でそういった者たちを締めだすわけだが、なにしろ婚儀の人手があまりに膨大であったため、治安維持の将兵の目が行き届かなかった部分がかなり出たらしい。


 結果、彼らは婚儀が終わっても王都を離れようとはせず、一部では貧民窟スラムを形成して問題になっているという。


 さらに婚儀後、各地の街道で隊商を襲う野盗が頻繁に出没するようになった。イシュカのあるケール河以西はそれほどでもないが、王都のあるケール河以東では村や町が襲われた例もあるらしい。


 このことはカナリア宮廷でも大きな問題になっている――俺にそう教えてくれたのはクラウディア・ドラグノート公爵令嬢だった。


 クラウディアは俺がイシュカに帰ってきた時点では王都のドラグノート邸にいた。そのクラウディアがイシュカに帰ってきたのがついさっきのことだ。具体的にいえば、俺が木刀で素振りをした日の昼のことである。


 俺の帰還を聞きつけて帰ってきたわけではなく『血煙ちけむりの剣』に依頼があって王都からワイバーンで飛んできたのだという。


 その依頼内容というのが――



「ドラグノート公爵領に出没する賊の討伐、ですか」


「はい」



 俺の言葉にクラウディアが真剣な顔でうなずいた。


 先刻、俺と再会したときは満面に笑みを浮かべて喜んでくれたのだが、今のクラウディアに喜色はない。それだけ厄介な事態が起きている、ということなのだろう。


 ただ、ドラグノート公といえばこの国では知らぬ者とてない大貴族、泣く子も黙るといわれる『雷公』だ。そのドラグノート公の領地で野盗が跳梁しているというのは、なかなかに信じがたい話だった。


 他国から流れてきた盗賊がカナリア国内の事情を知らずに暴れているだけ、という可能性もあるが、それなら公爵家の私兵だけで対処できるはず。クラウディアがわざわざ『血煙の剣』に依頼を持ってくる以上、そういう単純な話ではないのだろう。


 そんな俺の疑問を察したのか、クラウディアは真剣な面持ちで言葉を重ねた。



父様とうさまは筆頭貴族、そして竜騎士団の団長として王国全土の治安維持に当たらなければなりません。そのため、姉様ねえさまが領地に出向いて賊徒の討伐に当たっています。ですが、賊徒はワイバーンに乗った姉様の姿を見つけるや、蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまうそうです。兵を展開させても捕縛できるのは一握りの賊のみ。そうやって逃げのびた者たちは、また別の場所に集まって盗賊働きを続けるのだと姉様からの報告書に記されていました」


「ふむ。その話を聞くかぎり、盗賊ではなく統率のとれた軍隊の動きですね」


「はい。姉様もそのように考えていらっしゃいます。少なくとも、流れ者の寄せ集めなどではない、と。敵の狙いが何なのかはまだわかりませんが、放っておけば領民の被害が増えるばかり。姉様は信頼できる戦力を集めて一気に片を付けてしまいたいと考えています」



 クラウディアの話を聞いた俺は、なるほど、とうなずいた。


 『血煙の剣』は竜殺し(ドラゴンスレイヤー)が立ち上げたクランとして有名である。肝心の竜殺しは不在でも、常日頃ティティスの森で魔物退治に励んでいるミロスラフやルナマリアの実力はカナリア国内でもかなりの域に達していよう。


 そのことをクラウディアの姉アストリッドは知っている。


 そこでアストリッドは依頼という形で声をかけてきたのだろう。といっても前線で働かせるためではない。たぶんクラウディアの護衛になってもらおうと考えてのことだと思われる。


 眼前のクラウディアは長い金髪を団子状にまとめ、着ている服も凛々しい騎士装束だ。外見だけを見ると年若い少年騎士のよう。


 薄紫色の瞳には強い憤りと、同じくらい強い決意がみなぎっていた。『血煙の剣』の依頼の諾否にかかわらず、話が終わればそのままクラレント(クラウディア専用のワイバーン)に乗って公爵領に駆けつけるつもりであることは火を見るより明らかであった。


 そして、そこまで察してしまえば、俺に断るという選択肢はない。


 おそらくアストリッドは今回の敵に嫌なものを感じている。公爵家の私兵だけではクラウディアを守り切れない事態が起こり得る、と危惧しているのだろう。


 だからといって妹に「来るな」と止めても、生まれ故郷である公爵領が荒らされていると知ったおてんば姫はクラレントに乗って駆けつけてしまう。それゆえアストリッドはクラウディアと親しい『血煙の剣』に声をかけたに違いない。


 俺が同行すれば、一にクラウディアを守ることができ、二にアストリッドを安心させることができるのである。繰り返すが、依頼を断るという選択肢はなかった。


 それに、国内や自領が盗賊でごたついているところに他種族の移住などという厄介な案件を持ち込んだら、さすがのドラグノート公も顔をしかめるだろう。その意味でも公爵領の問題は早々に片付けておくべきだった。


 なんならここで派手に功績をあげて、そのままティティスの森の領主に任じてもらうという手もある。


 もともとトールバルド国王は俺に爵位を授けて懐柔しようとしていたくらいだから、功績の立て方次第では一気に話を進めることも不可能ではないだろう。


 俺はそんな風にあれこれと思案を働かせつつ、ドラグノート公爵家からの依頼を受諾した。



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