167話 聖都
カナリア王国の南にレム山脈と呼ばれる東西に長くのびた山地がある。
この山脈を越えた先にカリタス聖王国があった。
名称に「王国」の二字を冠するカリタスであるが、実際の政体は法神教の教皇ノア・カーネリアスが万機をとりおこなう宗教国家である。
教皇の施政の中心となっている聖都オルドには、法神以外にも戦神や大地母神など大陸の主だった宗派の本部が置かれており、宗教的な見地で言えば聖都こそが大陸の中心と言っても過言ではない。
それだけに大陸諸国はカリタス聖王国との関係に心を砕き、友好を心掛けてきた。これはアドアステラ帝国でさえ例外ではなく、帝国と敵対関係にある国の中には、聖王国と友好を築くことで帝国を牽制しようとする国も少なくない。
ノアはアドアステラ帝国三名門の一角であるカーネリアス家の出身であり、そのことから今代の教皇に対して「帝国の意を汲んで動いているのではないか」と疑う者もいないわけではない。しかし、その声が一定以上に大きくならないのは、ノアの施政が万事に公平だからであった。
そのノアは今、私室に来客を迎えていた。相手は帝国三名門のひとつであるアズライト家の長女アヤカ・アズライト。
カーネリアス家とアズライト家、それにパラディース家はこれまで何度も婚姻を重ねてきた間柄であり、ノアにとって眼前の相手は親戚のお姉さんといったところだ。実際、ノアとアヤカは年齢も近く、幼い頃は何度もいっしょに遊んだ仲である。
ふたりの関係が途切れたのは、アヤカが御剣家嫡子の許嫁として鬼ヶ島に移り住んでからだ。その後、ノアも法神教徒として異数の出世を遂げて教皇に任じられ、カリタス聖王国に赴任した。
ここにおいて両者の関係は完全に途切れた――表向きはそうなっている。
だが、アヤカは水面下でノアの目となり、耳となって鬼ヶ島の情報を聖都に送っていた。直接手紙をやり取りするのではなく、柊都の法の神殿を経由する形で。
そして今、アヤカはノアの命により御剣家を致仕して聖都に戻ってきた。
言うまでもないが、いかにノアが聖王国の主権者であると言っても、アヤカに対して帝国やアズライト家の頭ごしに命令する権利は持っていない。にもかかわらず、アヤカは教皇の命令に応じて聖都へ戻り、深々と頭を垂れながら鬼ヶ島で起きた出来事を報告している。
余人が見れば違和感を禁じえないであろう光景だったが、当人たちは現在の関係性にいささかの疑問も持ってはいなかった。
ややあって、アヤカの報告を聞き終えたノアは静かにうなずきながら口をひらく。
「――先代の巫女と龍が消滅するに至った経緯、たしかに聞き届けました。遠路を越えての報告に感謝いたします、アヤカ姉様」
ノアの丁寧な謝辞にアヤカは無言のまま、一段と深く頭を下げた。
それはノアに対する敬意のあらわれであったが、見方をかえれば、頭を下げることでノアと視線を合わせることを避けたとも受け取れる。
ノアはわずかに目を細めながら言葉を続けた。
「神無の巫女によって龍が封じられて早三百年。彼女がほどこした空間結界は限界に達しつつありました。結界が崩壊すれば、彼の地の龍はすぐにも三百年前の再戦を挑むでしょう。そうなれば剣聖もいつまでも不動を保ってはいられません。浄世に与するか、反するか、いずれかを選ばなければならなくなる。そう予想していたのですが――」
そこまで言ってノアはくすりと笑った。
「まさか、不動のまま息子に敗れて当主の座を譲るとは想像だにしていませんでした。姉様はこのことを予期していらしたのですか?」
この問いに対してアヤカは顔を伏せたまま無言で首を横に振る。
それを見たノアの笑みが一段と深くなった。
「御剣空。先にカナリア王国におもむいた際に私も言葉を交わしています。幻想種をも屠る力と、世界を敵に回しても怯まない心を兼ね備えた類まれなる剣士であると見受けました。姉様の報告では力不足ゆえに追放されたとのことでしたが、わずか五年であそこまで己を磨き上げたのだとすれば見事という他ありません。姉様の慧眼も時には曇ってしまうのですね」
そう言った教皇は、すぐに「もっとも」と言葉をつけくわえた。
「姉様だけでなく、あの剣聖も息子を弱者と見なして追放したのです。あの者には他者にそう判断させるだけの理由があった、ということなのでしょう。皮肉なものですね。あの者が追放をまぬがれていれば、忌まわしき竜の宿主としてもっと早くに処分されていたかもしれません」
「……」
「それとも、姉様はすべてを承知の上で、あの者が私に目をつけられないうちに剣聖と示し合わせて島外に逃がしたのでしょうか? だとすれば、私は姉様にまんまと謀られたことになります」
この問い、あるいは詰問に対し、アヤカは頭を下げたまま応じる。
その声は淡々としており、いかなる感情も感じさせなかった。
「誓って、御剣家の人間と示し合わせて聖下を謀ったことはございません」
その声は『嘘看破』の神聖魔法を使っているノアの耳に一切の濁りなく響いた。アヤカが嘘偽りを口にしていないことは明らかだったが、ではアヤカの言葉が真実なのかと言えば、そう断じることもできない。
『嘘看破』には抜け道がある。
アヤカが「御剣家の人間と示し合わせてノアを謀ったことがない」というのは事実であろう。だが、アヤカが「御剣家の人間と関わりなくノアを謀っていた」場合、『嘘看破』に引っかからないことがあるのだ。
偶然そうなるときもあれば、問われた側が意図的に「嘘ではないが本当でもない」答えを口にして『嘘看破』の探知を躱すこともある。
ゆえに、犯罪者を尋問するときなどは何度も角度を変えて似た質問を繰り返すのが常だった。
このとき、ノアもそうしようと思えばできたが、法神教の教皇はあえてそれをせずに胸に両手を置く。そして、ほっとしたように息を吐き出した。
「それを聞いて安堵しました。そうですね、姉様が私を裏切るはずがありません」
にこやかなノアの声が、ここで不意にぬめるような響きを帯びる。
「――だって、本来なら教皇となって浄世を司らなければならなかったのは姉様なのですから。それなのに姉様は逃げ出して、私がすべてを背負わなければならなくなったのです。その私を姉様が裏切ることなど許されるわけがありません。そうでしょう、姉様?」
言うや、ノアはいまだに頭を下げたままのアヤカの前で膝をつくと、すっと繊手を伸ばしてアヤカの顎をつかむ。
優しげな手つきだったが、強引にアヤカに顔を上げさせた腕の力は有無を言わせないものだった。
にこやかに微笑むノアと、能面をかぶったように平坦な表情を浮かべたアヤカが至近距離で見つめ合う。
アヤカの視界に映る教皇の右目は、穏やかな表情とは裏腹に凍るように冷たい光を放っていた。宝石を思わせる翠色の瞳が射るような鋭さでアヤカを見据えている。
そして、もう片方の左目は。
隻眼の神子の異名を持つノアは、その名のとおり幼少時に左目を失っている。そのため、ノアは失った左目の代わりに右目と同色の義眼を入れて一日のほとんどを過ごしていた。
ゆえに、アヤカを見据えるノアの双眸は同じ翠色でなければならない。
だが今、ノアの左の瞳は翠色とは似ても似つかない光を放っていた。それは毒々しいほどに赤く輝く深紅の瞳。
それが人の手でつくられた義眼でないことは、蛇を思わせる縦長の瞳孔がぎょろぎょろと動く様を見れば明白だった。
余人が見れば驚きを禁じえなかっただろう。教皇の前にいることを忘れて大声で悲鳴をあげてもおかしくない。
だが、アヤカの顔には一片の驚きも浮かんでいなかった。
当然と言えば当然だろう。アヤカはノアの左目に宿るモノの正体を知っているのだから。
アヤカがそれを知ったのはずっとずっと昔、御剣家嫡子の許嫁として鬼ヶ島におもむく以前のことである。
黙ったままのアヤカに対してノアは――ノアの中にいるモノは嘲るように言った。
『それとも、また逃げ出すつもりか? どれだけ逃げたところで逃げられるはずはないというのに。事実、汝は一度は逃げ出した我の前に、こうして戻って来るしかなかった。何を企んでいるか知らぬが、無駄な真似はせぬがよい』
それはそう言った後、わずかに表情を歪めてつけくわえる。
『もっとも、我も少しは汝ら人間を知っている。自らが生きるために世界を滅ぼすことも辞さぬ死蟲ども。汝はその輩なれば、道理から目をそむけて凶逆の刃を振るうことをためらわぬであろう』
「……」
『汝の振る舞いは不遜であり、不逞である。先に我を退けた不敬も併せ、その命で罪を贖わせたいところであるが、我が巫女はそれを望んでおらぬ。ゆえに――』
そう言うと、それは右手でアヤカの顎をつかんだまま、左手の人差し指をすっと立てた。
直後、それは目にもとまらぬ速さでアヤカの左の眼窩に人差し指を突き立てる。
ぐちゃり、と何か柔らかいものが潰れる音が響き、血しぶきがはじけ飛んだ。
さすがにアヤカも無表情を保ってはいられず、激甚な苦痛に顔を歪めてぐっと奥歯を噛みしめる。
それはそんなアヤカを見て、愉快そうにころころと笑った。
『ゆえに、罰として汝の左の眼をもらいうける。罪があり、罰があって赦しがある。アヤカ・アズライト、今ここに汝の罪は赦された』
言い終えるや、それはアヤカの眼窩から指を引き抜いた。爪の先にひしゃげた眼球が刺さっている。
指を引き抜くと同時に、それはそれまで顎をつかんでいた右手を離した。そして、どくどくと血をあふれさせているアヤカの左の眼窩に右手をかざす。
次の瞬間、右手からあふれ出した濃密な魔力がアヤカの左目に注がれ、みるみるうちに傷口が塞がっていった。
『忌まわしき竜の所在はすでに知れた。神無の血を継ぐ者も残りひとりを余すのみ。先の戦いの屈辱が繰り返されることは決してない』
此度こそ我が瞋恚が世界を洗い流すであろう――揺るぎなき確信を込めて言い放ったそれは、左の赤い眼で射抜くようにアヤカを見据えた。
『アヤカよ、これよりは我が手足となって浄世のために身命を賭すがよい。再び罪を犯したとき、巫女の願いも汝の命を救うことはかなわぬ』
「……肝に銘じます」
アヤカは硬い声でうなずくと、左目から流れ出た血をぬぐうこともせずに再び頭を垂れた。
――このとき、それは畏敬の念を示すアヤカの態度を信じたわけではない。むしろ、アヤカが再び自分に叛くであろうと当然のように考えていた。
前述したとおり、それにとって人間とは自らが生きるために宿主を食い殺す死蟲に過ぎない。ノア・カーネリアスのように自ら片目を捧げるほど忠実な信徒であればともかく、アヤカのごとき者に信をあずけるつもりは微塵もない。
それでもそれがアヤカを害そうとしなかったのは、これも前述したようにノアがアヤカの死を望まなかったから。そしてもうひとつ、一度は見初めたアヤカを巫女の予備にする心づもりがあったからである。
巫女とはすなわちそれを容れる器を持った存在であり、そのような器の持ち主はそうそう生まれてこない。同時代にふたりの巫女が出現したことは奇跡に等しく、その片方を砕くのはそれにとっても惜しいことだった。
だから生かす。アヤカが何を企んでいようとも、巫女としての価値を思えば許容できる。
それにアヤカは竜の宿主とも浅からぬ縁がある。
人間は自らが生きるために宿主を食い殺す死蟲であるが、時に他者のために自らの命を投げ出す献身性を見せることがある。
三百年前、それはこの人間の性質を利用して竜の宿主を殺し、竜が現界する手段を奪うことに成功した。
である以上、今回も同じ手を使わない理由はない。この策謀によって貴重な予備が失われたとしても、竜の宿主の殺害と引き換えであれば惜しくなかった。
それは遠からず訪れる大願成就の刻を思って口元に笑みを刻む。
すでにアヤカを視界の外に追いやっていたそれは、深々と頭を下げた予備が、己と同じような表情を浮かべていることに最後まで気づくことはなかった。
第二部 終わり




