164話 決意と高揚
九門家は御剣家の中でも最古参の家柄である。
その祖は初代剣聖の側近を務めた旗士であり、以来三百年、臣下として家中で重きをなしてきた。
一方で、代々の九門家当主は四卿として政治に関わることを避けてきたという事実がある。自らの本分を旗士であることに据え、家中の権勢を求めようとはしなかったのだ。
言い方を変えれば、九門家は他家と競合することを極力避けてきたと言える。
権勢を求めて他家と争えば、たとえ勝っても相手の恨みが残る。初代の口伝を受け継いだ代々の九門家当主は、いつか「その刻」が来るまで九門家を絶やさぬよう権勢から身を引いた。それは、伝えてはならない三百年前の出来事をひそかに語り継いでいる自分たちに対する罰でもあったかもしれない。
ただ、他家から見れば九門家は主家には忠誠を捧げ、同輩とは友誼を結び、戦闘では先陣を切る青林旗士の鑑だ。
その毅然たる姿勢によって他家から敬意を払われてきた九門家は、表立った権勢とは無縁であったものの、家中で隠然たる影響力を保持してきた。
特に今代の淑夜は双璧の一角として令名が高く、温厚篤実な人となりで旗士たちの人望も厚い。淑夜がその気になれば、ベルヒ家から権勢を奪うことも不可能ではなかっただろう。
実際、ベルヒ家の台頭に危機感をつのらせる旗士の中には淑夜に期待する者も多かった。
しかし、淑夜は代々の当主にならって自らの本分を旗士であると考えており、九門家の影響力を行使して政治に関わろうとはしなかった。
一旗の副将として上官であるディアルトを補佐し、司徒であるギルモアに対しても敬意を欠かさない。かつて九門家と並ぶ名門スカイシープ家を没落させたギルモアも、そんな淑夜をあえて敵にまわそうとはしなかった。
九門家とベルヒ家は付かず離れずの距離を保ちながら、協調して御剣式部の治世を支えてきたのである。
――その淑夜が新たに当主になった空に挑もうとしている。
その事実が示す意味は大きかった。少なくとも、大きいと思った旗士は大勢いた。ギルモア・ベルヒさえ容れた九門家の当主も、滅鬼封神の掟をないがしろにする新当主を容れることはできなかったのだ、と。
御剣空が当主になったことを喜んでいる旗士はほとんどいない。ましてや始祖を咎人と断じ、鬼人族を大陸に移住させようという空の計画に賛同する旗士は皆無である。
必然的に旗士たちの期待は淑夜に集中した。
空は当代最強を謳われた御剣式部を打ち倒しており、その意味では淑夜の勝ち目は薄いと言わざるをえない。
だが、空の勝利は圧倒的劣勢を強力な空装で覆しただけとも言えるのである。言い方を変えれば、空装の相性が良かっただけだ。
したがって、空と淑夜の空装の相性次第では勝敗はどちらに転んでもおかしくない。
旗士たちは淑夜が自分たちの代弁者として、おごり高ぶった新当主に灸をすえてくれることを期待した。
……もっとも、当の淑夜は周囲の期待をそよ風のように受け流し、涼しげな表情を浮かべたままだったが。
ともあれ、淑夜が挑み、空が受けたことでふたりが戦うことは決定した。
仮にも御剣家の当主と双璧の戦いである。修練場では戦いの場として狭すぎるということで、一同は柊都郊外に移動した。
「心装励起――お越しあれ、影の女王」
昨日の空と式部の戦いの痕跡が生々しく残っている荒野に立ち、淑夜は静かに己の心装を抜き放つ。
その瞬間、ぞくりとするほど冷たい勁が一陣の風となって鬼ヶ島の大地を駆け抜けた。
見えざる手で心臓をわしづかみにされたような圧迫感。ただ立っているだけで手足が痺れてくる冷々たる闘気。
心装を抜いた淑夜からは濃厚な死神の息吹が感じられた。
その源になっているのは、言うまでもなく淑夜の手に顕現した心装である。
穂も、柄も、石突も、すべてを墨で染め上げたような黒い槍。敵を一突きするだけで身体が溶けるほどの致死毒を与える毒蛇の牙槍は、影を攻撃することで敵に傷を与えるという能力も併有している。
その凶悪な能力ゆえに、滅多なことで心装を抜かない淑夜が最初から心装を抜いた。それが意味するところは明白で、淑夜はこの戦いにいかなる手心を加えるつもりもなく、持てる力のすべてを尽くして戦うと宣言したのである。
これに対して、空は――
「心装励起――喰らい尽くせ、ソウルイーター」
淑夜の勁圧に毛ほども動じることなく心装を抜いた。剣聖を倒した自分がどうして双璧を恐れなければならないのか、と言わんばかりに悠然と。
そうして解き放たれた空の勁は昨日にも増して強大だった。鬼ヶ島そのものを押し潰してしまいそうな超然たる圧力に耐えきれず、旗将副将の中からも膝をつく者があらわれる。
昨日の時点でも空の勁は剣聖を凌駕するほど膨大だったが、今日の勁は昨日以上に大きく、重く、濃やかだった。
別人の観さえある空の勁の充溢ぶりに淑夜は驚きを禁じえない。
通常、空装を扱うレベルの青林旗士の力が一日たらずの間に急激に伸びることはまずない。高い位階は否応なしに成長を緩やかなものにしてしまうからである。
位階を極めた式部と真っ向から戦えた空の位階は、おそらく式部に匹敵しているはず。それなのに空は伸び盛りの平旗士のような成長を遂げている。
――ひょっとすると、空殿には位階の限界がないのだろうか。
怖気にも似た戦慄をおぼえながら淑夜がそう考えたとき、不意に視界の中の空の姿が霞んだ。
次の瞬間、空の姿は淑夜の目の前に移動していた。右手一本で心装を大きく振りかぶり、大上段から斬りつけてくる。
「くッ!?」
とっさに影の女王を掲げて空の一撃を受けとめた淑夜の腕に凄まじい衝撃が伝わってきた。
ともすれば心装ごと淑夜を押し潰してしまいそうな剛の一撃。
淑夜はなんとか相手を押し返そうとするが、空の身体も心装もぴくりとも動かない。右手一本で刀を握っている空に対し、淑夜は両手で槍を握っている。それなのに動かない。
――重い。
巌のような感触に淑夜は反射的にそう思った。
そして、それ以上に速いと思った。直前の空の動きを淑夜はほとんど捉えることができなかったからである。
と、ここで空が余らせていた左手で影の女王めがけて拳を振るってきた。
こちらの心装を弾き飛ばすつもりか、あるいは体勢を崩すのが狙いか――淑夜は反射的にそう考えたが、すぐに空の狙いがどちらでもないことに気づく。
「四劫の三――」
空がそう口にするのと、淑夜が後方に飛ぶのはほとんど同時だった。
空の拳は時に心装を砕くほどの破壊力を生み出す。心装を弾くだとか、体勢を崩すだとか、そんな迂遠なことを空は考えていない。空は影の女王そのものを砕きに来たのだ。
そして淑夜は、強大な勁をまとった今の空の拳をまともに受けとめた場合、自分の心装が耐えきれるという確信を得ることができなかった。
結果、淑夜は後ろに下がるという選択肢を選ばざるをえなくなる。
それは空にとって乗じるべき隙となった。
「――――ッ!」
無言で地面を蹴り、後退する淑夜を追撃する空。瞬きの間に彼我の距離を詰めた空の心装が雷光のごとく閃く。
右、右、左、右、左、左。不規則に左右から襲ってくる剣撃はあまりの速さで剣筋が歪んで見え、まるで光の鞭を叩きつけられているようだった。
のみならず、袈裟斬り、逆袈裟、刺突を交えた猛攻を浴びせられた淑夜は息つく間もない防戦を強いられる。
それでも双璧の一角はさすがというべき反応を見せ、立て続けに浴びせられる斬撃を巧みに受けとめ続けた。
ただ、そうやって空の剛刃を受けとめる都度、柄を握る淑夜の手には強い衝撃が走り、影の女王が悲鳴のような軋みをあげる。
このままでは押しきられると判断した淑夜は、連撃の最中に空が呼気を吐き出した一瞬の隙をついて反撃に打って出た。
「幻想一刀流奥伝 兌の型 八千眼」
兌の型は八卦奥伝の中で唯一の行動阻害系の技である。無数の勁の粒子で相手の身体を押し包んで動きを封じる拘束勁技。
これを食らった敵は谷地眼――底なし沼に呑まれたように動きが鈍くなる。そして、不可視の拘束から抜け出そうと藻掻けば藻掻くほど身体を締めつける力は強くなっていく。
剣聖たる式部の奥伝を何度浴びせられても戦い続けた空に対し、直接攻撃系の奥伝が通じる可能性は低いだろう。だから、淑夜は数ある選択肢の中から兌の型を選んだ。
わずかではあっても空の動きを鈍らせることができれば、影の女王の穂先で空を捉えることができると判断したのである。
だが。
「喝ッ!!」
大喝一声、空は己の周囲に大量の勁を放出してたやすく淑夜の拘束をはねのける。それはそのまま空と淑夜の勁量の差であった。
奥伝をしのいだ空が再び攻勢に転じる。
前述したように淑夜の心装は猛毒だけではなく、影を突くことで敵を傷つけるという能力を有している。しかし、淑夜は空の影を狙うことができなかった。
そんな無駄な動きをすれば、次の瞬間に首を刎ねられることが分かっていたからである。
また、槍で幻想一刀流を扱う淑夜は、刀剣使いが多い青林旗士の中では少数派に分類される。心装を振るう間合いや勁技のタイミングなども槍と刀剣では異なってくるため、淑夜と戦う相手はその点にも注意しなければならない。
それは淑夜をはじめとした槍旗士の利点なのだが、空はこの点もほとんど意に介していなかった。
足の運び方、視線の配り方、間合いの取り方、攻撃に対する見切り、武器を合わせた際の駆け引き等々、今の空はあらゆる戦闘行動に双璧を凌駕する冴えがある。
空からすれば淑夜が槍を使おうと剣を使おうと、対処可能という意味で大した違いはないのだろう。
――強い。
心装を打ち交わした回数が三十回を超えた後、飛びすさって空と距離をとった淑夜は内心でつぶやいた。
昨日の空と式部の戦いをつぶさに観ていた淑夜は、自身が劣勢に立たされることを予想もし、覚悟もしていた。だが、空は淑夜の予想の最悪を極めた上で、軽々とそれを乗り越えている。
圧倒的な実力と、それに裏打ちされた自信。巍巍たる城壁のごとき迫力は、否応なしに空の父である式部の姿を思い起こさせる。
昨日の時点でも十分すぎるほど強かった空は、父親に勝ったことでさらに殻を破ったらしい。逆に言えば、空は殻をかぶったまま式部を打ち倒してのけたのである。
歴代の剣聖の中でも始祖と並んで最強と謳われていたあの御剣式部を、だ。
――この御方なら、初代様が言い遺した『真なる敵』を討ち果たすこともかなうに違いない。
この瞬間、九門淑夜は己が採るべき道を定めた。もともと空に付くつもりではあったが、最後の一歩を踏み出すことを決意したのである。
それにともない、淑夜は空と戦わなければならない理由を失った。空の力は十分に確かめられたし、それは他の旗士たちにも伝わったはずだ。
空は空装の相性だけで式部に勝ったわけではない。空装抜きでも双璧を圧倒するほどの力量を備えた剣士なのだ、と。
ただ、淑夜が武器を引いたとしても空がそれに応じて引いてくれる保証はない。当然だろう、空は九門家の口伝も淑夜の思惑も知らないのだから。
空に付くつもりで武器を引き、それで首を刎ねられたら笑い話にもなりはしない。
かといって、ここで淑夜が両手をあげて降参してしまえば、ここまでの戦いそのものが茶番だったのではないかと疑われてしまう。
何よりも淑夜自身、一方的に押されたまま戦いを切り上げることをよしとしていなかった。それは双璧としての意地――ではなく、式部をのぞけば久しく得られなかった格上の相手との戦いに心を躍らせていたからである。
一旗の副将ともなれば、実力的にも、立場的にも、全力をふりしぼって戦う機会はそうそう訪れない。
この得難い機会を逃したくない、と淑夜は考えていた。それは九門家の当主として捨てるべき感情であることはわかっていたが、強敵との戦いの高揚が淑夜の心に火をつけていた。
「お付き合い願えますか、影の女王?」
宿主のささやくような問いかけに、同源存在は「言うにや及ぶ」とばかりに心装の柄を震わせる。
淑夜は口元に笑みを浮かべると、九門家の当主としてではなく、ひとりの青林旗士として、あらためて空と向かい合った。




