160話 思慕
ごほんごほん、とわざとらしい咳払いでクライアのくすくす笑いを断ち切ったウルスラは、視線を俺に戻して問いを向けてきた。
「御館様、今日はこれからどうなさるのですか?」
「あ、その言葉使いは続けるんだな――ええと、これからアズマたちに会って、今言ったことを説明してくる」
俺がいくら移住だ何だと騒いだところで、中山が同意してくれるとはかぎらない。そして、中山の同意がなければこの計画は進められない。
俺は四兄弟に自分の計画を話し、その後で兄弟の誰か――たぶんカガリになると思うが――を連れてティティスの森へ向かうつもりだった。
鬼人族にとって、ティティスの森への移住は一族の未来を左右する重大な決断になる。移住するにせよ、しないにせよ、実際にティティスの森を見てみなければ判断を下せないだろう。
だから中山の頭立った人物を実際に現地へ連れていく。その人物の口から同胞たちにティティスの森の状況を説明してもらった上で、移住するか否かの決断を下してもらうのだ。
先にも述べたように、ティティスの森には龍穴があるし、魔物は多いし、ヒュドラの毒も残っている。普通ならとうてい移住できるような土地ではないのだが、たぶん中山側が移住に難色を示すことはないだろう、と俺は楽観視していた。
何故といって、今あげた欠点はどれも「鬼界に比べればはるかにマシ」であるからだ。
ティティスの森には龍穴があるから幻想種が出現する恐れがある。一方、鬼界にも龍穴があり、幻想種クラスの魔物が普通に生息している。
ティティスの森には多数の魔物が生息しているが、魔物の数と強さで言えば鬼界の方がずっと上だ。
ヒュドラの毒については厄介だが、それを言うなら鬼界も龍が発する瘴気に汚染されている。森の一部が汚染されているだけのティティスと異なり、鬼界はほぼ全土が瘴気の侵食を受けているので、どちらの方が厄介かは言うまでもないだろう。
なにより、ティティスの森が鬼界に優る最大の利点は、顔を上げれば青空と太陽があることだった。
鬼界にも太陽はあるが、月よりも淡い光を投げかけるだけのあれを太陽と呼ぶのは抵抗がある。おまけに晴れていてもずっと赤錆色の空が広がっているのだ。
ずっと鬼界で暮らしてきた鬼人たちにとっては当たり前の光景なのだろうが、俺にとってはかなり閉塞感をおぼえる光景である。正直、鬼界で過ごした一ヶ月の中で一番うんざりしたのはこの点だった。
それでも滞在が一ヶ月ほどだったから「うんざり」程度で済んだが、もし鬼界の滞在が半年とか一年になっていたら、精神的かつ健康的に無視できない影響が出ていたかもしれない。
鬼界での日々は、人間には太陽が必要なのだということを俺に実感させた日々でもあった。
そして、それはたぶん人間だけでなく鬼人族も変わらないと思う。スズメを見るかぎり、鬼人族が種族的に太陽の光に弱いとかそういうことはないはずだし、ティティスの森を見た王弟はもろ手をあげて移住案に賛同してくれるに違いない。
以上のような理由で、俺は中山国が移住を受けいれることについては心配していなかった。
人間憎し、御剣家憎しで「移住など必要なし! 力ずくで鬼ヶ島を奪い取るべし!」みたいな輩も出てくるに違いないが、そのあたりを取りまとめるのは王であるアズマや王弟たちの仕事である。
――そういったことをウルスラたちに説明してから、俺はもうひとつ言葉を付け加えた。
「まあティティスに行く前に御剣家と話をつけないといけないけどな。俺を当主として受け入れるか否か、一晩で結論が出ているとは思えないが、こちらがティティスに行っている間に中山に攻め込まれでもしたら面倒だ。そのあたりの話をつけておく必要がある。それに、父上がどうなったのかも確かめないといけない」
それを聞いたウルスラとクライアはそろって真剣な表情になると、ずずいっと顔を近づけてきた。
「それには当然僕たちも――」
「お供してかまわないのですよね?」
駄目とは言わせないとばかりに顔と声に圧を込めるふたりを見て、俺は苦笑しつつうなずいた。
「ああ、もちろんだ。だが、俺と一緒に行動すれば旗幟を鮮明にすることになる。もう後戻りはできなくなるぞ?」
俺が鬼人族に与したことは俺自身の口で御剣家に伝えている。だが、ウルスラとクライア、それにクリムトは自身の立ち位置を明らかにしていない。御剣家に帰参しようと思えばできないことはないのである。
もっとも、目の前のふたりにしてみれば「何を今さら」という話だったようだ。呆れたようにジト目を向けてきた。
まあ確かに、帰参するつもりならとうの昔に俺から離れて御剣家に戻っているだろう。今こうしてこの場にいることがふたりの答えであった。
俺は両手をあげて降参の仕草をする。
「悪い。余計なことを言った」
「わかっていただければよろしいのです。もちろん僕はお供させていただきます、御館様」
「もちろん私もですよ、空様」
「わかった。ところでクリムトはどうするつもりか知ってるか?」
この場にいない旗士のことを尋ねると、ウルスラとクライアはちらと目を見かわして可笑しそうに微笑んだ。
クライアが笑顔のまま口を動かす。
「自分の修行のかたわら、ヤマト殿に剣の稽古をつけていますよ。どうして俺がこんなことを、とぶつぶつ呟きながら。空様に従うつもりはないでしょうが、あえて敵にまわるつもりもないと思います」
「それは助かるな。クリムトに『空様』だの『御館様』だのと呼ばれたら、間違いなく全身に鳥肌が立つ」
冗談めかして言ったが、実際クリムトが敵にまわらないのは助かる。
クライアのことを考えれば、敵だからといって斬るわけにはいかず、さりとて放置しておくのは厄介だからだ。
鬼界での修行で強くなったのは俺だけではない。くわえて、クリムトは中山の内情や四兄弟の心装について知っている。そんな相手が御剣家に味方して移住の最中を狙ってきたりしたら面倒きわまりない。
その可能性が未然に潰えたのは間違いなく朗報だった――まあ、クライアがこちら側にいる以上、あいつが敵に回ることはないとわかってはいたけれども。
俺がそう言うと、クライアは困ったように頬に手をあてた。
「空様。クリムトは空様が私を助けてくださったこと、そして自分の腕を治すために尽力してくださったことに感謝していました。仮に私がおそばにいなかったとしても、クリムトが空様に刃を向けることはなかったと思います」
「ふむ。そうなのか?」
「はい、そうなのです」
にっこりと微笑むクライアを見て、俺はぽりぽりと頬をかきながらうなずいた。
あのクリムトに感謝されていると思うと、それはそれでなんか背中がぞわぞわするのだが、憎しみや蔑みを向けられるよりはマシだと思っておくことにしよう、うん。
俺はウルスラにならうようにこほんと咳払いしてから話題を変えた。
「父上が生きていたらウトガルザ家のことを聞くつもりなんだが、ウルスラはそれでいいか?」
「もちろんです。むしろ、僕の方からお願いしたいくらいです」
ウルスラが緩んでいた表情を引き締めてうなずく。
十年前、ウルスラの父であるウルリヒ・ウトガルザが方相氏の長である蔚塁に殺されたのは、おそらくウルリヒが御剣家と鬼界勢力との結びつきに気づいたからだ。
その結果、ウルリヒは鬼界勢力によって口を封じられ、御剣家はそれを黙認したと思われる。ウルスラが御剣家に帰参することなく俺についたのも同じことを考えたからだろう。
だが、それはあくまで推測であり、実際のところは当事者に聞かなければわからない。これまでウルスラは一度も俺にそういったことを求めてこなかったが、内心では俺の父に真相を問いただしたい気持ちがあったに違いない。こちらを見るウルスラの表情からもそれは明らかだった。
場合によってはウルスラが父に斬りかかるようなことになりかねないが――まあそうなったらそうなったで仕方ない。父親を殺されたウルスラに報復するなとは言えないからな。俺の父は直接ウルリヒを手にかけたわけではないとはいえ、主君の身で臣下の暗殺を黙認したのだから恨まれても文句は言えない。
結局のところ、その場で臨機応変に対処するしかないだろう。俺はそう考えつつ、ふたりを残してアズマ王の天幕に向かった。
あ、言い忘れていたが、俺たちは今南天砦を遠くに望む小高い丘の上にいる。
四兄弟は西都をソザイに任せ、中山軍の主力を率いてこの地まで出張ってきているのだ。
ウルスラとクライアのふたりを俺の天幕に残したのは、不寝番を務めてくれたクライアを少しでも休ませるためである。四兄弟との話し合いがすぐに終わるはずもないし、終わったらすぐ出発しなければならないわけでもない。
鬼門をくぐるのはクライアがひと眠りした後でかまわないのだ。
とはいえ、クライアひとりを残していくと、絶対に睡眠そっちのけでティティスに行く準備を始めるに違いない。ウルスラはクライアの睡眠を見届けるお目付け役である。当人にもそのことは伝えておいたので、問題なく役目を果たしてくれるに違いない。
俺はそんなことを考えながら、アズマの天幕がある方向に歩を進めた。
◆◆◆
空が天幕から出て行った途端、ウルスラは思わずという感じで大きく息を吐き出す。
それを見たクライアがまたくすくす笑い出すと、ウルスラはうらめしげな目で友人を見た。
「クライア、笑いすぎだよ」
「ごめんなさい。いつも泰然としているウルスラがころころと表情を変えるものだから、なんだか可笑しくて」
「それは……まあ僕も自覚してるけどさ」
そう言ってウルスラは、はふ、と気の抜けた息を吐く。
自分が常になく動揺していることはわかっていた。その原因が誰であるかもだ。
しかし、わかっているからといって抑えられるものでもない。
結果、空を主君のように扱うという我ながら珍妙な態度をとってしまった。しかし、それも仕方ないことだとウルスラは思う。そうやって無理やりにでも畏まらないと、きちんと空の目を見て話すことができなかったのだから。
父親を倒した後の空は明らかに以前と異なっていた。
もちろん顔かたちが変わったわけではない。ただ、言動の端々に自信を滲ませるようになった。先ほど、空は父親のことを「父上」とごく自然に呼んでいたが、これも今までの空にはなかったことである。父親に勝利したことで、空の中にあった父へのわだかまりが解けたのだろう。
それと、当人は気づいていないようだが、よく笑顔を見せるようになった。ふとした拍子に見せる陰りのない空の笑みを見ると、ウルスラの胸は自然と高鳴ってしまう。
ウルスラは頬の火照りをごまかすように、こほんと咳払いしてクライアに問いを向けた。
「クライアはよく空と普通に話せたね? 空の男前が上がったことに何も感じなかったわけじゃないだろう?」
「私はウルスラをダシにしてごまかしましたから」
「ちょっと」
ウルスラが半眼で友人を睨むと、クライアは口元に手をあてて微笑んだ。
「ふふ、冗談です。たしかに私もウルスラのように空様に見惚れていましたよ。けれど――」
「けれど?」
「ウルスラと違って、私は空様が御館様と戦う以前から――弟を助けてほしいという私の頼みを容れてくださったあのときから、ずっと空様に見惚れています。それが私とあなたの違い、ですね」
少し恥ずかしそうに、けれど何のためらいもなく言いきるクライアを見て、ウルスラはぱちぱちと目を瞬かせる。
そして、照れたように顔を赤らめながら言った。
「なんだか、聞いてる僕の方が照れてしまうね」
「恋は女の子を大胆にするものよ――とアヤカなら言うでしょうね」
そう言ったクライアは、ここで口元をおさえて小さくあくびをした。遅まきながら不寝番の影響が出てきたのだろう。
それを見たウルスラは空に言われたことを思い出し、慌ててクライアを寝具に寝かせた。ここは空の天幕だが、こちらの方がクライアも寝やすいだろうと思い、自分たちにあてがわれた天幕に戻ろうとは言い出さなかった。
その判断が奏功したのか、クライアはほどなく空の寝具ですぅすぅと寝息をたてはじめる。
ウルスラは同期生の寝顔を眺めながら、自分でもよくわからない理由で小さくため息を吐いた。




