156話 選択肢
自分を倒した者に御剣家当主の座を譲る。
父が残したこの言葉によって俺は一躍御剣家の当主候補に躍り出た。まったくもってありがた迷惑な話である――いや、当主の座なんて微塵も興味がない俺にとっては「ありがた迷惑」ではなく、ただただ「迷惑」なだけの話でしかない。
当然、鼻で笑って無視をした――と言いたいところなのだが、個人の感情を取っ払って考えると、御剣家の当主という地位は現在の問題を解決するために役に立つ。
簡単な話、俺が当主になって鬼門を解放すれば、それだけで鬼人族を鬼界から脱出させることができるのだ。そう考えると、俺の当主就任という選択肢を一考もせずに却下してしまうわけにはいかなかった。
父との戦いの最中に自覚したように、今回の一件は「父と戦いたい」という俺の私欲に端を発した私戦だった。鬼人がどうの、鬼界がどうのといった問題は、俺にとって実の父と戦う理由付けにすぎなかった。
しかし――いや、だからこそと言うべきか、目的を果たした今、後のことは知らないと無関心を決め込むことはできない。それはあまりに無責任というものだ。俺が当主になることで事態を鎮静化させることができるのなら、好き勝手した尻ぬぐいのために最大限の努力をするべきだろう。
まあ、いくら父の言葉とはいえ、旗士たちが俺の当主就任や鬼門解放を黙って受け入れるはずがないので、事態を鎮静化させるどころか激化させてしまう可能性も無きにしも非ずなのだが、それならそれで、当初の予定どおり全員叩きのめして鬼門を解放してしまえばよい。
俺がそこまで考えたときだった。
「ふ、ふ、ふざけるでないわぁッ!!」
ギルモア・ベルヒが老いた相貌を深紅に染め、天にも届けとばかりに絶叫する。
キッと俺を睨みつける目は針のように鋭くとがり、視線で人が殺せるものなら殺してしまいたいと言外に物語っていた。
「このような痴れ者を御剣家の当主に据えるなどありえぬ! 始祖様より連綿と受け継がれてきた御剣家三百年の歴史を溝に捨てるようなものぞッ!」
さかんに吠えたてるギルモアを見て、俺は軽く肩をすくめて応じる。
「異論があるなら、こんなところで吠えていないで当主を捜しに行ったらどうだ? ま、俺としてはありがたい話だがね。当主になれば鬼門を解放する権限を得たも同然だ」
「だから、そのようなことはありえぬと言っておるッ! 四卿八旗の誰ひとり、鬼人に屈した惰弱者を当主として仰ごうとは思わぬわッ!」
「それならそれで結構。お前たち全員を叩き潰して鬼門を奪い取るまでだ。三百年の歴史と一緒に溝に沈め、御剣家」
口をひん曲げて嘲笑してやると、ぶちり、と何かが千切れるような音がした気がした。
白く染まった眉を急角度で吊りあげたギルモアが張り裂けんばかりに両眼を見開く。その目が血のように赤く染まっているのは、激情の極み、眼球の血管が破裂したせいだろう。
「もはや……もはや我慢ならぬッ! その薄汚い舌、この場で切り取って家畜の餌にしてくれるわッ! ディアルト、援護せい! 心装励起――食い裂け、神虫!」
怒号と共にギルモアが心装を抜き放つと、鼓膜をかきむしるような軋りをあげて灰褐色の靄が殺到してきた。
よくよく目を凝らせば、靄を形成する粒の一つ一つが八本脚の甲殻虫であることがわかる。
ギルモアの心装についてはクライアやクリムトから聞いている。あの粒のような神虫は伸縮自在であり、ギルモアは神虫を小型化して敵の体内に潜り込ませることを好むという。
神虫に体内に潜り込まれた者はギルモアに生殺与奪の権を握られたも同然で、臓腑を食い荒らすも、腹を断ち割るもギルモアの思いのままなのだ。
ギルモアは養子たちに神虫を仕込んで忠誠を強要していたというから趣味の悪い話である。当然クライア、クリムト姉弟も例外ではなかったが、クライアは俺の血入りの回復薬を飲んだら神虫が消滅し、クリムトは振斗に自分の身体を貫かせて神虫を取り除いたという。
――さて、俺の血がちょこっと入った回復薬で消滅した神虫は、はたして俺の身体に入り込めるのだろうか?
まあ、あえて虫に集られる趣味はないので試してみる気はまったくないけれども。
俺はぱくりと口をあけ、押し寄せてくる靄に狙いを定めた。
「喝ッ!!」
初歩の勁技である勁砲を叩き込むと、宙を軋ませていた虫の群れは轟音と共に四散した。
それを見たギルモアが愕然としたように立ちすくんでいる。いくら剣聖が敗れて動転しているとはいえ、今の俺に一線を退いた人間の心装が通じないことくらい理解してほしいものだ。
俺はふんと鼻で笑って言った。
「気が済んだか、司徒殿?」
「貴様ぁ……ッ」
「今日のところは一度鬼界に戻る。日を改めて来るから、それまでに家中の意見をまとめておくことだ。さっきも言ったが、俺はどちらでも構わないぞ」
そう言って地面を蹴り、高速歩法で柊都へと向かう。
双璧あたりが追ってくるかと思ったが、その気配はなかった。動転していたのはギルモアばかりではなかったということだろう、たぶん。
空から見下ろす柊都は大混乱の真っ只中だった。まあついさっきまで俺と父が奥伝やら空装やらを撃ちまくっていたからな。事情を知らない人たちにとっては天変地異と変わらなかったろう。
私戦に巻き込んでしまって申し訳ない、と内心で頭を下げつつ、俺は速度を落とさずに鬼門を潜り抜けた。
脳みそを無理やり揺さぶられるような不快な感覚に耐えて目をあければ、そこには見慣れた赤錆色の空が広がっていた。
どうやら南天砦にも剣聖が敗れた情報は伝わっているようで、一旗の旗士たちが血相を変えて走り回っている。この機に乗じて鬼人が総攻撃をかけてくるかもしれない、と考えているのだろう。
そんなところに俺が姿を見せれば、ますます混乱に拍車がかかってしまう。へたをすれば、南天砦の旗士たちが主君の仇とばかりに襲いかかってくるかもしれない。
俺はそう考えて、カガリが待っているはずの部屋まで目立たないようにこそこそ移動した。そして、渋面で部屋の前に立っていた二人の旗士を横目に室内に入る。
カガリのことだから、姿隠しの神器を使って見張りの目をあざむき、俺と父の戦いを見物していたかもしれない。俺はそう思っていたのだが、予想に反してカガリは中にいた。
戻ってきた俺を見たカガリは、椅子に座りながらニヤリと笑って口をひらく。
「どうやら親父殿に勝てたみたいだな、空」
「ああ、おかげさまでな。カガリはずっとここにいたのか? てっきり砦を抜け出してこっちに来てるとばかり思ってたんだが」
「抜け出そうと思わなかったと言えば嘘になるな。けど、近くで見ていたら絶対に手を出してしまうってわかってたからなあ」
カガリはそう言うと、両手を頭の後ろにまわして苦笑した。
「ドーガ兄が言ってたんだ。『男児たる者、己ひとりの力で勝たなければならない戦いが必ずあるものだ。空にとってはそれが父との戦いなのだろう』ってな。それを思い出して、なんとか我慢したんだぜ。ま、今の空を見るかぎり我慢した甲斐はあったみたいだ」
「ん? どういう意味だ?」
首をかしげて尋ねると、カガリは軽やかな動きでひょいっと椅子から跳ね起きると、ゆっくり俺に近づいてきた。
そして、しげしげと俺の顔をのぞき込み、こつんと右の拳で俺の胸を叩く。
「今の空、すごく良い顔をしてるぞ。憑き物が落ちるっていうのはこういうことを言うんだろうな」
「んん? 前はそんなひどい顔をしてたか?」
「昨日までは気づかなかったけど、今の空を見たら差は明らかだな。たぶん他の連中も同じことを言うと思うぞ。そうだな、わかりやすく言うと……」
カガリはそう言って腕を組み、ううむと何やら唸ってからぽんと手を叩いた。
「昨日までの空と戦うとき、俺はわくわくしてたんだ」
「ふむ」
「今の空と戦うことを考えるとぞくぞくする。それくらい違う」
「なるほど、わからん」
カガリの言うニュアンスの違いはよくわからなかったが、良い意味で変わったのは間違いないようなので深く考えないことにする。
それよりも今は向こうで起こったことをカガリに説明しなければならない。そして、すぐに南天砦を出てアズマたちと合流する。
俺はそう思い定めると、父との戦いやその後の顛末を手短にカガリに説明していった。