幕間 『その日』のスズメ
カナリア王国の北には国ひとつを飲み込むほどの広大な森林地帯が広がっている。
ティティスの森と呼ばれるこの森林には一つの噂があった。森の奥に鬼人が住んでいる、というものだ。
鬼人とは、三百年前に大陸の覇権をかけて人間と争った有角種族のことを指す。その鬼人がティティスの森に隠れ住んでいるのだと噂は語る。
実際、かつてティティスの森に鬼人の集落が存在したことは事実だった。ただ、その集落は四十年ほど前に東方からやってきた剣士たちによって滅ぼされている。それゆえ、森に鬼人が隠れ住んでいるという話も噂の域を出ていなかった。
しかし。
結論から言えば、鬼人は確かにティティスの森に住んでいた。深域と呼ばれる森の奥深く、外周部とは比較にならないほど多くの魔獣が徘徊する危険地帯で、その鬼人はひっそりと生き延びていたのである。
鬼人の名をスズメという。
かつてカムナの里と呼ばれた鬼人の集落における、たったひとりの生き残りの少女だった。
「おはようございます、母様、父様」
朝、まだ日ものぼらない時刻、干した藁の寝床から目をこすりつつ這い出たスズメは、家の近くを流れる小川で顔を洗ってから、両親が眠る墓に詣でた。
亡き両親に挨拶をし、寄り添うように並んだ二つの小さな墓を掃除するところからスズメの一日は始まる。
掃除が終われば、次は水汲み、枯れ枝拾い、山菜集め、キノコ狩り、果実採取。やることはいくらでもある。
特に食糧の確保はスズメにとって最優先事項だった。
これはスズメが生きのびるためであると同時に、里の儀式に必要な供え物を集めるためでもある。
その儀式の名を蛇鎮めの儀という。
今もこの地に眠る大いなる蛇の御霊を鎮めるため、村の北にそびえ立つ神木に供え物を捧げ、舞を奉納するのである。
これはカムナの里人が代々受け継いできた儀式で、スズメの両親は自分たちの食い扶持を減らしてでも供え物を優先させた。
病に倒れた母親もこれだけは決して欠かさず、自らが踊れなくなった後は幼いスズメに舞を教え込んで続けさせたほどである。
前述したようにスズメは里の唯一の生き残り。三歳のときに父を失い、六歳のときに母を失ってから七年、たったひとりで蛇鎮めの儀をとりおこなってきた。
その日も儀式の日だった。
朝から里中を駆けまわって食糧をかき集めたスズメは、昨日までに貯めた分も含め、昼過ぎに供え物として十分な量を確保することに成功し、ほっと安堵の息を吐く。
儀式をおこなうのは夜、日が沈んでからだ。それまでスズメは舞の練習をしておくことにした。
――掛けまくも畏き天地の大神
――神木の御前で神楽を奉りて
――諸々の禍事、罪穢れ有らじをば
――祓へ給ひ清め給へと、恐み恐みも白す
母から教わった祝詞を声高らかに唱えつつ、スズメは神木の前で舞い踊る。
時に汗をまき散らすほど激しく、時に蝶が舞うように緩やかに、二間四方の神楽舞台を駆けまわりながら、スズメは細い手足を精一杯に伸ばして踊り続ける。
神楽と聞いて想像するような静かさ、しめやかさはどこにもない。母から教わった舞は舞踏ではなく武闘のそれであり、スズメはこの舞を踊るたびに自分が何かと戦っているような錯覚にとらわれる。それほどに激しい舞だった。
踊り終わった後、スズメの全身からは汗が吹き出し、しばらくは呼吸するだけで精一杯になってしまう。ただ、踊りきった後の疲労感は心地よいものであり、スズメはこの舞が決して嫌いではなかった。
舞の練習を終えたスズメは、小川で汗を洗い落とした後、神楽舞台を掃除して夜の儀式に備えた。念のため、供え物の確認もする。
この時、スズメは食糧の一部が腐っていることに気づいた。最近は暖かい日が増え、昨日今日は特に暑かったからそのせいだろう。滅びに瀕したこの里に、食料を保管する氷室などあるはずもなかった。
スズメは顔を蒼白にして立ち尽くす。腐敗した食べ物を供え物にすることはできない。それはスズメに儀式を託してくれた亡き母への裏切りだ。
かといって、今から里の中を探し回っても不足分をおぎなうことはできないだろう。見つけられる分は朝のうちから収穫してしまっている。それでようやく必要量を満たせたのだ。この上、里の中を探し回っても徒労に終わることは目に見えていた。
――であれば里の外に出るしかない。
スズメがその結論に至るまで長い時間はかからなかった。
そうしておそるおそる里の外に踏み出したスズメだったが、里の周囲に魔獣の気配はなく、山菜やキノコ、果実などが至るところで見つかった。
スズメは思わぬ幸運に喜びつつ、持ってきたカゴでそれらを集めていく。
普段、里の周辺を徘徊している魔獣たちが今日に限って姿を見せないのは、魔獣たち以上に危険なナニカが近くにいるからだ――スズメがその事実に気づいたのは、すべてが手遅れになってからだった。
やがて、スズメの頭上で日が陰る。
怪訝に思って顔をあげたスズメの目に映ったのは、頭上から猛然と襲いかかってくる巨大な蝿の怪物の姿だった……