148話 明かされた力
光神バルドル。
その名を口にした瞬間、式部の勁は爆発的に増大した。とてつもなく巨きく、重く、身体の芯まで凍りつくような森厳たる勁。
それでいて外に顕れる力はほとんど感じられない。先刻の空の勁が薫風だとすれば、式部のそれは夜雪だった。暗い空から音もなく深々と降ってくる雪のように、冷たくも静かな勁の発露。
互いに顕れ方は異なれど、勁量の絶大さは異ならない。その両者が対峙して勁を猛らせているのだから、その圧力は筆舌に尽くしがたいものがあった。
青林第六旗の五位に座るシドニー・スカイシープは、その席次からもわかるように「十位以上の旗士は参集せよ」という当主の命令によって大広間に集められた旗士のひとりだった。
当然のように仕合場にも参じている。先ほどの空の勁はかろうじて耐えられたシドニーだったが、式部のそれが合わさった父子の勁に耐えることはできなかった。
「く……ッ!」
見えざる巨人に両肩をつかまれ、そのまま地面に引き据えられたかのように、シドニーはがくりと体勢を崩して地面に両膝をついた。のみならず、そのまま地に両手をついてかろうじて倒れ伏すことを避ける。
額には玉のような汗が浮かび上がり、身体はかすかに震えている。あたかも蛇に睨まれた蛙のようにシドニーは一切の動きを封じられていた。
――いや、封じられた、という言い方は正しくないかもしれない。空にも式部にもシドニーを封じる意思などないからだ。シドニーが勝手に怯え、勝手に竦んでいるだけなのである。
だが、そのことを恥ずかしいとは思わなかった。眼前で二体の幻想種が戦い始めたら、あるいは二柱の神が争いはじめたら、人間にできることなど怯え竦んでいることくらいしかない。
人の身で幻想種を屠ることを目指す青林旗士としてはあるまじき思考だったが、それがシドニー・スカイシープの嘘いつわりない本心だった。
「……シド、大丈夫か?」
隣から同じ六旗に属する九門祭の声が聞こえてくる。
祭はシドニーのように地面に両手両膝をつけてこそいなかったが、それでも片膝をつくのは避けられなかったようだ。忌々しそうに唇を「へ」の字に曲げている。
そんな祭にシドニーは声が震えないよう努力しながら応じた。
「……なんとかね。祭の方こそ大丈夫?」
「……見りゃわかるだろ。御館様はともかく、あの裏切り者の勁圧で膝を折っておいて大丈夫なわけがあるかッ」
空っぽ野郎の分際で、と祭が吐き捨てる。
日頃、軽薄な言動の中にも余裕を失わない祭が声を荒らげていた。その頬につつっと汗のしずくがしたたり落ちるのを見たシドニーは、祭の表情に苛立ちと焦りを感じとる。
皮肉な物言いが目立つ祭だが、その実、青林旗士としての誇りは人一倍高い。その分、旗士にふさわしくない(と祭が思う)相手への言動には棘が混ざることがあり、空に対する当たりの強さはその典型的な例と言えた。
反面、相手を認めれば柔軟に態度を改めるのも祭である。先の鬼神との戦い以降、祭が表立って空を罵ったことは、少なくともシドニーが知るかぎりでは一度もなかった。
その祭が再び空を「空っぽ野郎」と罵ったのは、鬼人族に与した今回の空の行動がそれだけ許せなかったからだろう。
それだけに空の圧力で膝をついてしまったことは祭にとって屈辱だったに違いない。
シドニーは苛立ちを隠せない祭に何も言うことができなかった。
今回の空の行動はシドニーにとっても理解しがたいものだったが、祭の言うがごとく空が御剣家を裏切って鬼人族に降ったとは思っていない。そんな人間がクライア、クリムトを助けるために危険を覚悟で鬼界におもむくわけがないからだ。
空は何か理由があって鬼人の側に立っている。そして、その理由とは何かと考えたとき、シドニーの脳裏に浮かぶのは先刻空が大広間で発した言葉しかなかった。
『三百年前、鬼人族が龍を討った功績をかすめとり、救世の英雄を僭称した御剣一真の末裔よ。始祖の非を認め、鬼門を明け渡す意思はおありか?』
御剣家の始祖たる初代剣聖 御剣一真。むろん、シドニーもその名は知っている。スカイシープ家の初代は始祖に仕えた青林旗士のひとりであり、始祖や初代がいかに平和のために奔走したのかは、子供のころから耳にタコができるくらい聞かされている。
空はその始祖が鬼人族の功績をかすめとり、救世の英雄を僭称したと言っていた。それは御剣家の歴史を、引いてはスカイシープ家の歴史を覆す言葉である。
周囲から温厚で思慮深いと評されるシドニーであるが、そのシドニーであっても空の発言は論ずるに値しない妄言としか思えなかった。祭も空の言葉を気にしている様子はない。裏切り者の戯言だと考えているのは明白だった。
空の言葉はおそらく鬼人族の間で信じられている歴史であり、鬼界でそのことを知った空は、その偽りの歴史を信じて実家に反旗をひるがえした、ということになる。
あまりに浅はかで愚かな行為――シドニーにはそう思えてならなかった。
だが。
『今この場でそなたの勘当を解き、御剣の姓を名乗ることを許そう。剣聖たるこの身に傷を負わせたそなたには、その資格があろう』
先ほど式部が口にしたその言葉が、シドニーの脳裏に引っかかっている。
いかに空が剣の腕を上げたとはいえ、始祖の功績を否定する人間に御剣の姓を名乗らせることなどあってはならないはず。
式部にしてみれば、どのみちこの場で空を討ち果たすのだから、ごく一時的に空に姓を許したところで構わないと考えたのかもしれない。
しかし、司馬との会話を聞くかぎり、式部は己の敗北もあり得ると判断しているようだった。
もし空が勝てば「始祖を否定する御剣宗家の人間」が誕生することになる。しかも、それは剣聖を打ち破った世界最強の剣士なのである。
この危惧が現実になれば、御剣家は間違いなく分裂を余儀なくされるだろう。へたをしたら帝国の介入を受けて解体、消滅ということもありえる。青林八旗という巨大な武力を抱える御剣家を危険視する勢力は、帝国の内外にいくらでも存在する。空がそういった勢力に与し、さらにそこに鬼人族が加わればどうなるのか。
――そこまで考えたシドニーは、不意に強い悪寒に襲われて全身を震わせた。
その悪寒を強いて言葉にすれば、これまで信じていたものが崩れ去る恐怖、であったろう。シドニーはこの時たしかに御剣家が――これまでの御剣家が崩壊する予兆を感じ取ったのである。
ただ、その予兆を心の中から精確に掬い上げ、言語化することはできなかった。ゆえに悪寒は悪寒以上の意味を持たず、シドニー・スカイシープはただ身体を震わせながら苦しげにあえぐことしかできない。
そのときだった。
「大丈夫、シドニー?」
そんな言葉と共に、地面に手をついているシドニーの肩に誰かが手を置いた。
直後、シドニーの身体がびくんと震えたのは、肩から伝わってきた勁がシドニーを軽く打ったからである。それは勁を用いた気付けのようなもので、御剣父子の勁に当てられていたシドニーは、悪夢から覚めたように目を瞬かせた。
シドニーが我に返ったことで悪寒も振り払われる。軽くかぶりを振りながら立ち上がったシドニーは、自らを助けてくれた人物に感謝を込めて声をかけた。
「ありがとう、アヤカ。楽になったよ」
「どういたしまして――祭も苦しそうね。手助けはいる?」
シドニーに軽くうなずいてみせたアヤカ・アズライトが、シドニーの隣で片膝をついている祭に声をかける。
それを聞いた祭はしかめっ面で立ち上がると、唇の端を吊りあげるようにして言った。
「いいや、結構だよ」
「そう。でも、無理はしないでね」
「お気遣いどーも。だが、俺なんかよりラグナのことを気にした方がいいんじゃねえのか?」
祭の同期生であり、アヤカの許嫁である御剣ラグナはいまだ姿を見せていない。仕合場にいないで様子を見に行ってやるべきではないのか、と皮肉っぽく指摘する祭に対し、アヤカはくすりと微笑んでから言った。
「ラグナがこの場にいないからこそ、私がきちんと御館様と空の戦いを見ておいてあげないとね。後でラグナにきちんと伝えてあげるために」
そう言うと、アヤカは仕合場で向かい合う父子に視線を移す。つられるように祭とシドニーもそちらに視線を移した。
式部が心装を抜いてから両者は一歩も動いていない。上位旗士に膝をつかせるほどの圧力を放ちながら無言で互いを見据えている。
ここでシドニーは遅まきながら式部の心装が顕現していないことに気が付いた――いや、勁の圧力がここまで増大している以上、顕現はしている。ただ、式部の場合、顕現の仕方が他の旗士と異なるのである。
通常、青林旗士の心装はシドニーの村雨、祭の聖人殺し、アヤカのカルラのように武器として顕現する。
これを武装型というが、今、式部が手にしている刀は御剣家当主の佩刀である笹雪だけだ。それ以外に武器らしいものは見えない。すなわち、式部の心装は武装型ではない。
武装型以外には、肉体で心装を顕現させる変異型と呼ばれるものもあるが、式部の姿形は先刻からどこも変わっていない。すなわち、変異型でもない。
ただ一つ、後光を思わせる光輝が式部の全身を覆っており、それが唯一目に見える変化だった。
「あの光が御館様の心装……?」
シドニーが誰にともなく呟く。
すると、アヤカが歌うような口調でそれに応じた。
「光神バルドル。その名のとおり光をつかさどる神であり、その頭脳は賢明、その性格は穏健、その裁きは公正と言われているわ。母神の寵愛を受けたバルドルは『世界中のありとあらゆるものから傷つけられない』という加護を得ていたそうよ。あの光はその権能が具現化したもの、いわばバルドルそのものね」
「バルドル……同源存在そのもの? そんな心装が……」
「武装型、変異型に並んで具現型と呼ぶ人もいるみたいね。もっとも、例が少ないから定着はしていないけれど」
知っていて当然とばかりにシドニーの疑問に答えるアヤカ。
そんなアヤカを、シドニーは驚きと当惑、そしてわずかな不審を込めて見つめる。
「……詳しいんだね、アヤカ?」
「帝国三名門の一族ともなると、やりたくもないことをやらされたり、知りたくもないことを知らされたりするものよ」
故意にか否か、アヤカはシドニーの疑問にぼやけた答えを返してくる。
たしかに三名門の一族、それもアヤカのように直系の人間ともなれば、シドニーには想像もつかないような責務や情報を山のように抱えているに違いない。アヤカは日頃そういったものをほとんど表に出さないが、表に出さないからといって抱えていないわけではない。そのことはシドニーにも理解できた。
しかし、だからといってアズライト家が式部の心装の正体や、それにまつわる神話、さらには具現型なる名称まで知っているものだろうか。つけくわえれば、アヤカはそれらの情報をアズライト家から教えられた、とは明言していない。
アヤカの言動はどこか不明瞭なものをシドニーに感じさせた。
とはいえ、シドニーにはアヤカを問いただす権利もなければ資格もない。アヤカはうずくまっていたシドニーを助けた上で、できる範囲で疑問に答えてくれただけなのである。
そんなアヤカに対し、その情報はどこから手に入れたのかと詰問するのは恩知らずも甚だしい。シドニーはそう思って胸中にうずまく疑念や不審に蓋をした。
と、ここでそれまで黙っていた祭が口をひらく。
「今の話もそうだが、お前もたいがい謎な奴だよな、アズライト。御館様たちの勁圧には俺やシドも膝をつかされたのに、お前は涼しい顔で歩き回って同期生の心配か。どれだけ頑丈なんだよ」
「私のカルラは竜種の天敵であると同時に神族の天敵でもあるの。卵のときから神族の百倍強くなるように、という願いがかけられていたからね。だから空の力にも、御館様の力にも耐性があるのよ」
さらりと自身の秘密の一端を明かすアヤカを見て、祭が目を剥く。
「聞いてねえぞ!?」
「それはそうよ、言ってないもの。ちなみに空にもラグナにも、なんなら実家の人間にだって言ったことはないわよ。祭だって他人に言っていないこと、言えないことなんていくらでもあるでしょう、聖人殺しの使い手さん?」
アヤカがくすりと笑って問い返すと、祭は苦虫を嚙みつぶしたような顔をした。
ただ、それ以上何も言おうとしなかったのは、多かれ少なかれ、アヤカの言葉にうなずけるところがあったからだろう。
かたわらのシドニーは何も言えず、ふたりの同期生を見守ることしかできなかった。
束の間、沈黙が三人を包み込む。
と、周囲の旗士たちがどよめき、三人の間にたゆたっていた沈黙を打ち破った。見れば、旗士たちの視線は一様に仕合場に向けられている。
そこでは式部の身体から光り輝く人型が分離したところだった。
分離。そう、分離したのである。
式部の身体から分かたれた人型は、背格好はほぼ式部と同じだった。顔や服装は光に包まれてわからない。わかるのは、手に刀か剣、あるいはそれに似た武器を持っていることだけだ。
――分け身。
そんな言葉が脳裏をよぎった旗士は少なくない。分け身とは自身と同じ力量を持つ分身体を生み出す能力である。
これまでにも似たような術や心装能力はあった。だが、それらは多くの場合、高速移動や幻惑魔法にともなう幻を分身と称しただけで、実際に分身体をつくったわけではなかった。
その意味で式部のそれは正しい意味での分け身と言える。何故それがわかるのかと言えば、式部と人型、双方からまったく同じ勁を感じるからである。
それはつまり、御剣式部が二人に増えたことと同義であった。
式部の心装を知らなかった旗士たちは絶句した。
式部の心装を知っていた古参の旗士たちもやはり絶句した。剣聖の心装はそれだけありえざるものだったのである。
しかも、この能力には続きがあった。
「幻想一刀流 奥伝――」
式部が奥伝のひとつ、乾の型の構えをとる。
すると、光の人型も同時に奥伝の構えをとった。だが、それは式部の構えとは明らかに異なるものであり、もっと言えば、別の奥伝である離の型の構えだった。
人型は式部に追従するだけでなく、独自の動きをとることもできるのである。
次の瞬間、二人になった剣聖が空めがけて襲いかかる。
死闘が始まった。